烏天狗
仕事を終えた母さんと駅前で落ち合い、新しい携帯を買ってもらった俺は、次に壊したら自分の稼ぎで購入することを約束させられた。
自宅に帰り、テレビを見たり漫画を読んだりしながら、束の間の休息を満喫する。
久々に寛いだ気分で布団に入り、その日はぐっすりと眠った。
「ハルト君」
耳元で囁くような声が聞こえて目を開けると、すぐ近くにヒカリの顔がある。
これ夢か?
心臓がバクバク音を立てる。
俺が布団の中で固まっていると、ヒカリは立ち上がり、杖で空間を切り裂いた。
「封印の解けそうな妖怪がいるの。一緒に来てくれる?」
ヒカリに頼まれて、俺はすぐに起き上がる。
「もちろん行くよ! レンも連れて行くんでしょ?」
ヒカリは首を振り
「今回は二人きりで行きたいの」
と潤んだ瞳で見つめてきた。
これは妖怪退治を装った、デートのお誘いに違いない。
そう思った俺は
「すぐに着替えるから待ってて」
と告げて、タンスの方へ向かおうとした。
しかし、ヒカリは
「時間がないの」
と言って俺の腕を凄い力でつかみ、空間の裂け目へと引きずりこんだ。
次の瞬間、俺とヒカリは真っ暗な場所に立っていた。
「出でよ鬼火」
ヒカリが声を発し、辺りはぼんやりとした薄明かりに包まれる。
宙に浮いた火の玉みたいなものが、俺たちの周りを漂っていた。
見上げるとつららのような石が天井から伸びていて、湿っぽい空気が充満している。
どうやらここは、鍾乳洞の中のようだ。
ずいぶん変わった場所でデートするんだなぁ、などと考えていたら、いつの間にかヒカリはだいぶ先を歩いていた。
急ぎ足で奥の方へと進んで行くヒカリを、俺は慌てて追いかける。
「ヒカリちゃん、せっかくだからゆっくり中を見て歩こうよ」
俺の声かけにも、彼女は足を止めようとしない。
奥へ進むにしたがって、何だかほんのりと臭い匂いが漂ってきた。
最初はヒカリがオナラでもしたのかと思い、気付かないふりをしていたのだが、匂いはだんだん強くなっていく。
何の匂いだろうと考えているうちに、少し開けた場所に辿り着いた。
突き当たりの壁には大きな岩が鎮座していて、その先へは進めそうもない。
岩には破れかけた大きな御札が貼られている。
俺達が近付くと、岩が小刻みに振動し始めた。
あ、これデートじゃなくて、本当に妖怪退治なんだ。
俺がようやくそのことに気が付いた時には、岩に大きな亀裂が入り始めていた。
バキバキと大きな音を立てて岩が割れ、中からドロリとした物が流れ出てくる。
液体でもなく固体でもないヘドロ状のその物体は、凄まじい悪臭を放ちながら、巨大な泥人形のような姿を形作った。
臭い。臭すぎる。
俺は吐きそうになって息を止める。
そして、ふと疑問に思った。
この妖怪を連れて行くだけだなら、ヒカリだけでも良かったはずだ。
俺の役割は、近隣の住民に封印が解けそうなことを事前に知らせて依頼を受け、妖怪を退治したふりをして謝礼をもらうことだ。
まだ誰にも依頼をしていないから、このままでは謝礼がもらえない。
そのことをヒカリに告げようとした時
「来る」
とヒカリが呟いた。
彼女が見つめている辺りに目をやると、地面から湧き上がるようにして別の妖怪が姿を現した。
そいつは、大きなクチバシを持った鳥の頭部に人間の体がくっついているような姿で、背中には翼を生やし、手には刀を握っている。
「烏天狗よ。妖力の強い妖怪が封印から解放されると、必ずやってくる。あいつにこの妖怪を奪われるわけにはいかないわ」
ヒカリはそこまで話してから急に声音を変えて
「お願いハルト君。烏天狗は酷い目に遭わせてもしばらくすれば回復するから、風の術で切り裂いてくれない?」
と上目遣いで頼んできた。
「可愛い顔で怖いこと言うね……。治るとしても、切り裂いたら痛いんじゃないかな」
と俺が躊躇しているうちに、烏天狗が襲いかかってくる。
ヒカリの頭に刀が振り下ろされると、彼女は素早く杖で刀を受け止めた。
太い杖に刀が食い込んで外れなくなったが、烏天狗はそのまま力任せに杖をへし折ろうとする。
「早く!」
ヒカリが俺に向かって叫ぶ。
杖がメキメキと音を立てて折れそうになるのを見て、俺はやるしかないと覚悟を決めた。
だが、印を結ぼうとして手が止まる。
やべえ。風の術ってどうやるんだっけ。
携帯で確認しようとしたが、持ってきていないことに気付いて絶望的な気持ちになる。
やばい。やばいぞ。
必死に記憶を探り、たぶんこれだろうという印を結び
「唵 阿毘羅吽欠 娑婆呵」
と唱えた。
途端に大地が大きく揺れて、烏天狗の足元にある地面が裂けていく。
ヒカリが刀の食い込んだ杖を手放して後ろに飛び退くと、烏天狗はあっという間に地面の割れ目に飲み込まれていった。
だが大地の揺れはおさまらずに、鍾乳洞が崩れ始める。
これ、地の術だ。
地下にある鍾乳洞みたいなところでは、一番やっちゃいけないやつ。
どうしよう。
杖が無くなっちゃったから、きっと空間を裂いて移動することができない。
このままじゃ、ヒカリも俺も生き埋めになっちゃう。
狼狽える俺を、ヒカリが横抱きにして持ち上げる。
「しっかり捕まって」
彼女はそう言うと風のように走り出した。
俺は「これ、逆お姫様抱っこじゃん」と思いながら、振り落とされないように必死でヒカリにしがみつく。
鍾乳洞から飛び出して間もなく、中の方で轟音が響き、ようやく揺れはおさまった。
「ごめん……また失敗しちゃったよ」
俺が謝ると、ヒカリは少し困ったような顔をしつつ
「烏天狗は撃退できたし、杖は代用できそうなものを探すから大丈夫。ただ、それまで少しこの匂いを我慢してね」
と言った。
確かに臭い匂いがする。
鍾乳洞の入口から漂ってくるようだ。
「もしかして、あの妖怪?」
「そう。細い隙間でも通り抜けられるから、もうじき入口まで来ると思う」
あんな妖怪を野放しにしたら、異臭騒ぎで大変なことになる。
俺は想像しただけで気分が悪くなった。
「すぐ戻ってくるから待っていて」
そう言って、ヒカリは近くの雑木林の中へと入って行く。
ヘドロ妖怪が近付いてくる恐怖と闘いながら、徐々に強くなる匂いに耐えていると、ヒカリが棍棒のような枝を持って戻ってきた。
「その辺に落ちている枝なんかで大丈夫なの?」
俺は驚いて尋ねる。
「私が使っていた杖みたいに、特別な樹木で作った方が妖力を増強できるけれど、とりあえずはこれでも大丈夫。強力な術を使う時には、杖が無いと妖力を一点に集めにくいから、移動の術を使う時には杖の代わりになるものが必要なの」
ヒカリの言葉を聞いて、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「そんなに大切な杖だったのに、俺のせいでーー」
ごめん、と言いかけたところで周囲に悪臭が立ちこめる。
鍾乳洞の入口に目をやると、ヘドロ妖怪が外へ流れ出てくるところだった。
ヒカリは素早く駆け寄り、妖怪が地面へ流れ落ちる寸前で空間を切り裂き、ヘドロ妖怪をどこかへ移動させた。
その後に杖で切り裂いたところをなぞると、何事もなかったかのように元の景色に戻る。
「それじゃ、依頼人のところへ報酬をもらいに行きましょう」
と言ってヒカリが歩き出す。
「依頼人がいるの?!」
俺が聞くと、ヒカリはにっこり笑った。
「ハルト君達が自宅に帰っている間に、依頼を受けておいたの。御札が破れかけて匂いが漏れ出していたから、話を進めやすかったわ。土地の所有者に封印が解けそうだって話をして、さっきの岩の前まで連れて行って匂いを嗅がせたら、謝礼を払うから何とかしてくれってすぐに頼んできたもの」
「鍾乳洞が埋もれちゃったけど怒られないかなぁ」
俺が心配そうに言うと、ヒカリは落ち着いた声で答える。
「持ち主は妖怪の封印された鍾乳洞を相続して困っているみたいだったし、悪臭が外に漏れるよりはマシだろうから、たぶん大丈夫よ」
ヒカリは時々、とても大人びて見える。
彼女のいろんな面を知るうちに、どれが本当の姿なのかが分からなくなってきた。
だけどきっと、どれも彼女の一部なんだろうなと思い直す。
知らなかった一面を見せてもらうのは、万華鏡を覗きこむみたいで楽しい。
朝日を浴びて俺の前を歩くヒカリの後ろ姿は、いつもに増して美しく見えた。




