3.新人侍女と女官長
オリビアがこの国を逃げ出したときは困惑とそれ以上に絶望的な気持ちだった。なぜ? どうして? と憤った。
思い出の品も研究の結果をまとめたものも持ち出すことも出来ず命を優先して国を捨てた。そうするしかオリビアの生き延びる方法がなかった。
幼い頃から国の為に民の為にと研究に打ち込んできた。若い娘らしいお洒落も遊ぶこともせずに。だが民はオリビアを悪役令嬢と蔑み嫌った。作られたありもしない罪を信じて。
留学から戻ってからはアイザックの妃になる者として恥ずかしくないように学び、彼と少しでも気持ちを通わせようと心を砕いてきた。
親友だと頼みにしていたローラはただオリビアを利用するために近づいて来ただけだった。あらゆる努力の全てがあっという間に跡形もなく消えた。まるで砂の城が波に攫われてしまうように。
無事に逃げ切ってから湧き起こった気持ちは激しい怒りだった。オリビアの真心を踏みにじった人たちへの強い憎しみ……。それを溶かしてくれる人が側にいた。傷ついた心を真綿で包み癒してくれた人が。自分は本当に運がよかった。憎しみを溶かし幸せにしてくれる人と出会えたのだから。
もう、この国のことは忘れるべきだと分かっていた。それでも、自分を踏みにじった人たちがどうしているのか気になった。たとえ幸せになることが出来てもあの苦しみを簡単に忘れることなど出来ない。今回それを知ることが出来たが…………。結局のところ自分は二人の愛の破綻を見て留飲を下げたことになる。我ながら性格が悪いと肩を竦めた。
「オリビア様。お疲れ様です。……後悔されていますか?」
ライラが片付けたお茶の載ったワゴンを控え室に運び込むとそこには女官長が待っていた。ライラの顔色を見て心配してくれているようだ。きっと今の自分はひどい顔色をしているはずだ。先程の出来事を目の当たりにして疲れてもいた。想像もしていなかったやりとりに衝撃を受けていた。
そういえばアイザックの最後の呟きが気になった。それにあんな彼の表情も見たことがない。全てを侮蔑するような顔……あの言葉は一体どういう意味だろう……。いや、もうオリビアが考える必要のないことだ。
「そうね……。でも、これでよかったと思う。始めからここは私の居場所ではなかったのよ。今回それを確かめることが出来た。もう、この場所にもこの国にも未練はないわ。協力してくれてありがとう」
女官長はホッと表情を緩める。
「いいえ。私は何もしていません。あの時も何も出来ずにオリビア様をお助けすることが出来ずに申し訳ございませんでした」
「違うわ。あなただけがあの時助けてくれたの。騎士団が屋敷に来るより先に私たち家族の捕縛情報を知らせてくれたおかげでみんな無事に国外へ出ることが出来た。本当に感謝しているわ。ありがとう。今回あなたに会えてお礼を伝えられて嬉しかったのよ。でもあなたが私をオリビアだと信じてくれたことには正直、驚いたわ。絶対に信じてもらえないと思っていたのに素顔の私に気づいてくれたのはあなたで二人目よ」
一人目は愛しい旦那様だ。彼はオリビアにとって命の恩人だ。
今回オリビアは女官長の手配で新人侍女として彼らを知ることが出来た。彼女が助けてくれたのはこれで二度目となる。自分にとって女官長も大切な命の恩人だ。
女官長はそっとライラの手を握りしめた。
「恐れながら、私にとってオリビア様は恩人でございます。以前私は王太子殿下の前で失態を犯し処罰を受ける所でした。その時にオリビア様は必死に庇って下さいました。おかげさまでお咎めを受けることなく許されました。本当に心から感謝しております。オリビア様は皆に平等に優しく勤勉でいずれ王妃になれば国を守り発展させてくださると……あのようなことになり本当に残念です」
「恩人だから私がオリビアだと分かったの? 信じられないわ。オリビアとライラでは顔が全然違うでしょう? 我が家の女性は薄い顔の女性が多くて化粧を落としたら絶対に同一人物だと見破れないはずなのに」
ライラはくすくすといたずらっ子のように笑う。
オリビアの素顔の目は切れ長で鼻も低めでちょっと丸い。唇の形はいいが薄く、全体の彫りも浅いのでかなりの地味顔だ。困ったことに高位貴族である公爵令嬢なのに着飾るほど薄幸に見えてしまうのだ。
この国では珍しい顔の作りだが何代か前に公爵家に異国から嫁いできた女性の遺伝子が強いようでオリビアの母の顔も同じ雰囲気だ。見る人によっては可愛らしいと思うらしいがこの国の美醜で言えば地味で美しいとは思われないだろう。
女性同士の社交の場ではまず見た目からマウントを取られる。公爵令嬢として侮られないために幼いころから特別な化粧をしていた。この国で美しい淑女に見えるための化粧を。
公爵家に代々伝えられる『美しい淑女になる化粧』だ。特別に作らせた専用の化粧道具と化粧品を使うことで、目はぱっちり二重に鼻も高く見せ、唇はぽってりと魅力的に。それなのに素顔のように見え化粧をしていると感じさせないほど自然な仕上がりになる。オリビアは両親以外の前では必ずその化粧をしていた。屋敷の使用人にすら素顔を見せたことがない。元婚約者であったアイザックはもちろん親友だと思っていたローラや今目の前にいる女官長すら例外ではない。
「ええ。失礼ながら見ただけでは分かりませんでした。ですが声がオリビア様です。話し方も、あとは細かい所作が丁寧で美しくオリビア様だと感じられました。これでも多くの女官を管理しています。多少は人を見る目があると自負しています。ですが私以外に気付く者はいないと思います。そこはご安心を」
ライラは破顔した。
「女官長がそう言ってくれるなら安心だわ。今回はあなたの助力で気持ちを整理することができました。心から感謝しています。もうこの国に思い残すことは無くなったわ。私は明日、夫とともにここを発ちます。本当にありがとう。どうかあなたもお元気で」
「オリビア様も。いえ、今はライラ様ですね。どうかお元気で。そしてお幸せに」
ライラは女官長の優しさに救われた。