都合が良過ぎる話
あれは日曜日の朝の事だった。
日曜日の朝となると、月曜日への折り返し地点に入ったわけでチョットは憂鬱だったけど、でもまあ、まだ猶予があるにはあるので、僕は可も無く不可もない心情を抱えたまま、何をするでもなくダラダラとベッドに寝っ転がったりしていたんだ。
まあ悪くはなかったね。
テレビの横に置いたオイルヒーターが生暖かったし、窓の外からは雨音がポツポツと響いていたし、やっぱり月曜日まではそれなりの猶予がある。
僕にとっての切実な問題は、左手の親指にちょっとササクレが出来ているくらいの事だった。まあ、それも大したことじゃないが。
で、僕は指のササクレに気を付けながら頭を掻いたり目をこすったりしつつ、「そういや今日は、アマゾンに頼んでいた『生誕の災厄』とかいう本が届く筈だけど、何時ごろ届くかなあ」とか頭の隅に浮かんできて、現時刻が気になったので壁時計を見上げてみたんだけど……時刻は7時23分を示したまま、秒針が全く動いていなかった。
壊れたのかなと思ったら、今度は揺れがあった。
地震とは全然違う揺れだった。
体重が軽くなるような、無重力の中をフワフワと浮かんで行くような心地よい揺れだった。
揺れが収まったのを見計らって、僕は慌てるでもなくカーテンを捲ってみた。
すると窓の向こうには鼠色の空間がどこまでも広がっていたから、「ああ、やっぱり僕は部屋ごと異空間に飛ばされてしまったんだな」ってすぐに腑に落ちたよ。
もう一度壁時計を確認してみても7時23分のまま止まっているし、そんなに慌てはしなかった。何とかなる気がしたんだ。
とはいえあまり頭は冴えていなかったので、僕は布団の中にくるまってボーっとまどろんだりしていた。
それから5分だか30分だかが過ぎた頃だった。
「すみません」
扉の向こうから声がしたんだ。アニメキャラみたいな甘々しい女の声だった。
「入ってもいいですか?」
女はどうやら、僕の部屋に入りたがっているようだった。
まあ僕も男だし、そういう欲求もある。こういう時は「どうぞ」って言うよね、普通。
で、実際言った訳よ。ベッドから起き上がって、ジャージのシワを正して、「どうぞ」ってね。そしたら……
「失礼します」
扉を開けて部屋に入って来たのは目が飛び出るくらい可愛い女だった。
ヒラヒラレースがついた清楚な趣のシャツが、大きく胸の形に膨らんでいて、長めの紺のプリーツスカートもフワッと広がっている。
背は少し低めで全体的にちょっとふくよかな感じだけど、腰のクビレもチャアントある。
そんな完璧なまでに僕好みの女が愛嬌のある童顔に佇んだ大きな瞳をこれでもかと潤ませて、艶やかな黒髪を小さな肩にたっぷりと流して、困った様に僕を見上げていたんだ。
このままじゃ恋をしてしまいそうだった。……それは困る。
僕にとって片思い程煩わしい事は無いからね。
だから僕は自然と机の方に目を向けて、女が視界の隅に来るようにした。女の立ち姿をぼやけさせてやろうとしたんだ。
僕の目論見通り女の立ち姿は適度に滲んでいたけど、それでも彼女の女としての存在感は相変わらずそこに佇んでいて、そのせいで苛立ちだか恋心だか愛欲だかは昂るばかりだったので僕は困ってしまった。
そのまま沈黙が続いて気まずかったので何か話そうかと思ったけど、何も口から出てこなかった。
どこから来たのって尋ねるのも野暮だし、外はどうなってるって聞くのも的外れな気がする。ちょっとした事で地雷を踏んでしまいそうで、女が消えてしまいそうで怖かった。
女の方も言葉を発する事は無く、ただじっと突っ立っているだけみたいだった。
そんな夢のような沈黙の中で、僕は気付いた。
女が僕の方に時折、チラチラと眩しい視線を向けているのだ。
目が合うと、女は照れ臭そうに顔を赤らめて俯いてしまった。
かと思ったらまたチラチラとこちらに視線を向けて来るんだ。顔を仄かに赤らめながらね。
そうやって三回目くらいに目が合って彼女がいじらしくも微笑んだ時……ブワッと胸が広がるような感覚があって、自分が大きくなるような錯覚があって、それでようやく僕は女を本格的に視界の中心に入れてみる気になった。
そうしてみると女は相変わらず美しくて可愛らしくて、僕はドキドキしてしまった。今は恋をしてしまってもいいような気がして来た。
そしてまた目が合った。
女は柔らかく微笑んでいたので、僕も何とか微笑み返した。
「まあ、折角だから座りなよ」
僕は勝手にそう言っていた。
女は頷いて促されるままに、僕の右側に腰かけた。
僕は机の上で黒く濁ったパソコンのモニターを無意味に見つめながら、ただただ女の気配を感じていた。
少しだけいい匂いがする気がして、僕はまたドキドキした。
それからの事は……まあ在り来たりな話だ。
当たり障りのない世間話をしていると、女が僕の事を「好きだ」って言うから、僕も「好きだ」って言い返した。
どうして僕の事が好きなんだって聞いたら、彼女は「何となく」とだけ呟いた。
つまらない事を褒められるより、僕にはそっちの方が有難かった。
そんで、まあ流れでね。うん。僕と彼女は大人の男女だからね。まあ……なろうのガイドラインに反してしまうので克明な描写は出来ないんだが……とにかく「そういう行為」を二人で行う事になったんだ。
で、僕は「そういった行為」に必要となるコンドームを探す事にした。勘違いして欲しくないが、コンドームを自室に所持しているからといって、僕はプレイボーイという訳じゃないんだ。生々しい話で申し訳ないが、オナホールを利用する時、臭くならないようにする為とか、リアル感を出す為とか、皮膚を気遣ってとか諸々の理由でコンドームが入用になるので、僕はコンドームを常備しているのだ。……そういう訳で僕は、引き出しの一番下に入ってる筈のコンドームを取り出そうとしたんだが……
しかし、どういう訳か……一番下の引き出しを開いてみてもコンドームは影も形も無かった。
入っているのは大昔に100円で買ったレンタル落ち中古エロビデオとか中古エロDVDとか、中古の水着女のフィギアとか、そんな捨てるまでもないどうでもいい物ばかりだった。
「何を探しているの?」
女が尋ねて来た。
「コンドームを探しているんだ」
「そんなのいらないじゃない」
女は呆れたように笑っていた。そしてあろうことか「ナマでしていいのに」とも付け加えた。
延髄反射的に脳内麻薬が溢れ出てきて、僕は途方もない愉悦に包まれていた。一方で、ちょっと困ってしまってもいた。
というのも、僕は反出生主義者という程ではないんだが、子供を作るというのが本当に良い行いなのかは常々疑念に感じているような人間だ。
そもそも、僕のクソみたいな収入では子供を養っていくなんてとてもじゃないが難しい。
だからありったけの理性を振り絞って、何とか声を上げた。
「ダメだよ。コンドームはちゃんとつけないと」
そう声を上げたのはいいんだが……
僕は自分の声を聞いてビックリしてしまった。
まさに傑作だったね。
中途半端に芝居がかっただけの、どこまでも白々しい大根役者の台詞を聞かされているような気分だったよ。
理性という物の弱さとバカバカしさをここまで突き付けられたのは初めての事だった。
そんな僕の内心を見透かしていたんだろう。女は何も言わなかった。何も言わず僕を抱擁してしまった。
それだけでもう僕は駄目になってしまった。僕の脳みそには生暖かいスープが溢れてきて、頭がボーっとして何も考えられなくなった。発狂しそうだった。
それでも僕の理性はまだ、一欠片だけ生き残っていたようで、健気にも抵抗を試みようとしているらしかった。
「……待ってくれ。コンドームを探さないと。見つからないけど、探せばきっとどこかにある筈なんだ」
「――認知しなくていいから」
「えっ?」
「もし子供が出来ても、あなたには認知させない。責任も取らなくていいから」
「…………」
「だから、ね、お願い」
「本当に……? 本当に認知しなくていいの? 本当に責任取らなくていいの?」
「本当よ」
その言葉がトドメとなり、僕の頭の中で何かのタガが外れた。
本能の濁流がすべてを飲み込んで行った。
そして僕は他人事のように目撃していた。僕は自分が人間じゃなく、一匹の獣になっていく様を。
といっても彼女とのセックスは緩やかだった。実に人間的だったさ。優しさと慈愛に満ちていて、そして暖かかだった。
彼女と触れ合う度に、何もかもが赦されていく気がした。
◇
事が終わったら、ハンドクリームの手土産と温かな余韻を残して、女はいつの間にか消えていた。
特に名残惜しくは無かった。何となく、女はまた来るような気がした。
それから一人になった僕は、彼女が残して行ったハンドクリームを親指のササクレに塗ってみた。
これがまた良いクリームで、ササクレはあっという間に消えてなくなってしまった。
いやはや、素晴らしいクリームだ。
それから時計を見上げて、時刻が7時23分のまま動いていない事を確認して、僕は途轍もない安心の中で布団にくるまった。
窓の外の雨音も、秒針の音も何も聞こえなかった。
ただ静寂だけがあった。
止まった時の中で、僕はほくそ笑んでいた。
今日は何ていい日なんだ。
ササクレも消え失せた、女も出来た、それに時計も止まったままだ。
何もかもが都合がいい。
この世の全てを肯定してやりたい気分だ。……いい女とセックスしたお陰かな。
とにかく今、僕の胸の中は無邪気な希望で溢れかえっている。
これからの僕の人生も、何もかもすべてが上手くいきそうだ。