六章・最悪の魔女(6)
膨大な魔力が渦を巻く。
あの娘の中に大海が広がって見える。
広大な海の無尽蔵の水が一点に収束する。
危険だ。
あれは危険すぎる。
『ナンだ……なんナンダ、その呪文ハ?』
スズランは歌っている。この世界に存在しない言語。ゲッケイですらも知らない未知の言葉で。その一音一音ごとに魔力が段違いで膨れ上がっていく。あんなものを放たれたら今の自分でもどうなるかわからない。
『邪魔ダ、どけ……ドケ……!!』
行く手を阻む小さな虫の如き者共を八本の腕で薙ぎ払う。だが何度吹き飛ばしても殴り倒しても、衛兵達はしつこく起き上がって再び立ち向かって来る。
「退かん! それが我々の役目だ!」
「お前がなんなのか知らないが、この村を守るのがオレ達の仕事なんだよ!」
「クッソうめえカウレパンが食えるのはここだけなんだぞ、テメエ!」
「よく言ったお前ら! 衛兵魂、今こそ見せつけてやれ!」
「はい隊長!!」
ならば! そう思って数千本の魔力糸を伸ばしても、スズランに覆い被さり盾になっている老人達の守りがどうしても突破できない。護符と魅了の魔法が二重の防壁を築き彼等への精神干渉を阻む。
「みんな、絶対にここから逃げるんじゃないよ!」
「当たり前じゃ! ワシら老いぼれにできることなんざ、若いもんの盾になってやることくらいじゃもの! ぬ、ぐうっ……!?」
防壁があっても全く影響が無いわけではない。彼等の精神には今相当な負荷がかかっているはず。それでも誰一人逃げようとしない。操られもしない。
そして、そんな老人達の周囲を小柄な影が一つ、素早く走り回っていた。
「だいじょーぶ! ぼくが、みんなを、まもるっ!」
老人達の四肢に絡みつき強引にスズランから引き剥がそうとした糸をモモハルの木剣が切り払った。
忌々しい、忌々しいもう一人の神子め。
それなら──今度は腕を高く持ち上げ彼等の手が届かない位置から魔法を放とうとした。ところが射出直後にことごとく暴発する。
『なッ!?』
≪させん≫
発射直前を狙い澄まして虫達が特攻してくる。こちらが術を発動するタイミングを完全に見切り、残り僅かな手駒を的確にぶつけてくる。こんなことができるのはあの馬鹿弟子以外にいない。
『クル……ク、マァァァァ……!!』
自分に向けられた怨嗟の声に対し、彼女は苦笑いで返した。
(あれだけ戦いましたからね。愚鈍な弟子でも覚えます)
『クソッ、くそっ、くソォッ!?』
あぁ、駄目だ。終わってしまう、負けてしまう。目の前にようやくそれが現れたというのに。ゲッケイは攻撃の手を止め、八本の腕全てをスズランに向かって伸ばした。まるで救いを求めるように。妄執に取り憑かれた無数の瞳でその一点に視線を注ぐ。
『ヨコセ、ソレハ、アタシのダ……そのムスめは、アタシノものだ……ッ!!』
だが衛兵隊と数人の村人達は、その妄念をこそ切り払うように武器を振り続けた。スズランに近付こうとする歪な腕を受け止め、切り払い、弾き返す。
「させねえよ!! スズちゃんに手ぇ出すってんなら三枚におろしてやる!!」
「うちの娘はお前の物なんかじゃない!! 僕とカタバミの大切な家族だ!」
「いける! 残った力を絞り出せ!!」
「ふんぬうううううううううううううううううううううっ!!」
「ツゲさんすんごいのう!!」
ただの村人達が、
魔力も持たない兵士が、
巨大な自分を食い止める、
たった一人の少女のために。
(ああ……)
認めざるを得ない。人間の心。感情が発揮する力。その強さを。
(なるほど、魅了の魔法か……やるもんだ)
だが、それでも──
『ソれでも、アタシが勝つッ!!』
「んなっ!?」
術の発動を先読みで阻止していたクルクマが目を見開く。腕の一本が彼女の視界の中で唐突に消えた。
幻術。本物の腕は彼女の意識の死角になる位置からすでにスズランに狙いを定めている。止める間も無く投げ放たれた岩塊は詠唱中の少女と彼女を守る老人達に迫った。魔力など帯びないただの物質相手では護符の効力も発揮されない。神の加護さえすり抜ける。そのはずだった。
だが、モモハルが吼える。迫り来る大岩に自ら向かって行く。
「スズは、ぜったいにまもる!!」
叫んだ瞬間、彼の手の中の木剣から白い光が噴出して長く伸び、岩塊を真っ二つに切り裂いた。破片はスズラン達の前後でバウンドして近くにあった家と畑を押し潰す。
「あぷっ!?」
「よくやった!!」
勢いを付けすぎて止まれなかったモモハルは顔から地面に突っ伏す。何が起きたかよくわからないものの、とりあえず愛弟子の活躍を称えるノコン。光の刃はきっとスズランの魔法だろうと彼も周囲も勝手に納得する。
直後、ついにスズランの長い詠唱がクライマックスを迎えた。ゲッケイの頭上に巨大な魔方陣が現れる。やはり彼女にとっても解析不能な未知の術式。
ここにいてはいけない──魔方陣の下が術の効果範囲、そう推測したゲッケイは攻撃の手を止め後方に逃れようとした。
だが、腕が滑ってしまう。尻餅をつくような恰好で移動を阻まれ、自分の手の下を見た彼女は大量のヤスデが潰れていることに気付いた。体液が油のように良く滑る虫。
結界の中へ視線を戻すとクルクマが笑っていた。少し歪んだ薄笑い。
「おさらばです」
『ああ、チクショウ……』
完全にしてやられた。あの小娘と小僧と馬鹿弟子──そして、この村の連中に。
「ソルク・ラサ」
歌のような呪文が終わる。スズランの体内から噴出した魔力が彼女に覆い被さっていた老人達を弾き飛ばす。驚く彼等の前で、それでも必死にしがみついている母の手に左手を添え、右腕を前に突き出す少女。
魔方陣の上下から青い光が噴出し、天を貫く柱になった。変質し異形化したゲッケイの巨体が全て飲み込まれる。光は頭上の雲を消し去り、さらに範囲を拡げていく。ついには村の一部と住民達まで飲み込まれてしまう。
「な、なんだこれは!?」
光に巻き込まれたノコンは轟音鳴り響くその光柱の中で見た。斬り落とした怪物の腕や肉片、血の一滴までもが塵となり、渦を巻きながら天へと吸い込まれて行く様を。まるで竜巻。なのに彼等にはそよ風すら届かない。あの怪物だけが術の効果を受けている。
スズランは分解されていく宿敵を真っ直ぐに見据えて思った。やっぱりこうなるのかと。あの夜の記憶をもう一度思い返す。
──魔女として覚醒した夜、なんとなく頭に浮かんできた歌。それを歌ったら屋敷全体が光に飲み込まれ、何もかもが塵となって消滅した。
嫌な記憶。ずっと脳裏にこびりついていて、それでもあの不思議な歌だけはどうしても思い出せなかった。けれど──
「貴女のおかげで覚えましたわ、ゲッケイ。何度もしつこく見せられましたもの」
塵となって舞い上がる怪物。自分の生み出した光柱を見上げ、彼女は奇妙な印象を抱く。とても綺麗な輝き。けれど無性に物悲しくなる。溢れた涙が頬を伝った。
光は果てしなく広がり続け、結局どこまで到達したのかわからない。ただ、村の周辺で燃えていた火も全て消失した。スズランが脅威と認識したものだけを消し去る魔法だったのかもしれない。
そして唐突に青い光が消えた後、残ったのは激戦の爪痕と疲れ果てた自分達だけだった。荒らされた森とあちこち壊れた皆の家。気が抜けて次々その場に座り込む村民。
大人がみんなへたり込んだのを見て、ノイチゴは兄に問いかける。
「おにいちゃん、かったの?」
「うん」
その言葉を聞いて、ノイチゴも大人達もようやく実感する。
自分達は勝ったのだと。あの巨大な怪物に。
「う……ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
少し遅れた勝ち鬨の声。互いの健闘を讃え合い、無事を喜ぶ人々。
やがて彼等は立役者こそ賞賛しようとスズランに顔を向けた。
だが、その英雄は母に抱かれたまま瞼を閉ざしている。
まさか──
「大丈夫、寝てるだけ」
「なんだよ」
「心臓に悪いなあ……」
ホッとする人々。カタバミは愛おしい我が子の体温を感じながら、もう一度優しく抱き締め、息遣いを確かめるように少し汚れた柔らかい頬に自分の頬を重ねた。涙がそこから伝い落ちる。
「がんばったね……スズ」
「ほんと、おつかれさま、スズちゃん」
クルクマもやっと虫達の制御を解除できた。意識をスパッと手放して気絶する。彼女の魔法は集中力が必要なのだ。なのに今日は使い過ぎたから当分目を覚ませないだろう。
頭が痛いし身体も痛い。人によっては財布も痛い。
皆、本当に疲れ果てていた。




