五章・ゆうしゃモモハル(2)
『なん……じゃと!?』
ゲッケイは珍しく動揺した。ありえないことが起きたから。
『あの小僧、気付きおった……しかも入って来る!』
真っ黒な空に亀裂が走る。そこから流星のように一つの光が飛び込んで来て、瞬く間にこの世界の最も深いところまで落ちて行った。
ヒメツルの“精神世界”だ。その深層に、まさか自分以外が入り込めるとは。
『流石は神子か。アタシの想像すら超えた行動に出よる』
このままでは計画が瓦解してしまう。ゲッケイはすぐに光を追いかけ、自らもまたより深い領域へ潜って行った。
彼女の計画とはヒメツルに、否、スズランに成り代わること。
ゲッケイには長年の悲願がある。しかし、それを叶えるには聖実の魔女の体と彼女自身の英知を以てしてもまだ足りない。大幅に不足している。
その不足を埋めるどころか一足飛びに野望を達成できる力が目の前に現れた。モモハルの持つ願望実現能力だ。
かつてヒメツルの記憶を読んだ時点では、まだ神子の能力について詳しくわかっていなかった。だからクルクマにヒメツルをさらって来させて再び記憶を読んでみた。
そして彼の能力について詳しく知った瞬間、感動で打ち震えた。
あの子の力があれば間違い無く自分の夢は叶う。しかし、そのためにはモモハル自身を守護している“神の加護”が邪魔だ。あらゆる魔法や害となるものを排除する見えない壁。聖騎士の持つ同種の力よりさらに強固なモモハルのそれは、もはや堅牢な砦とたとえても過言ではない。
ところが、その砦になんの障害も無く自由に出入りできる者がいた。神子の少年の信頼を得た幼馴染。両親より妹より、さらに深く愛されている特別な存在。それがスズラン。
だからゲッケイはスズランになることにした。彼女を殺さず、利用するのが最善手だと判断した。
元々そういう計画ではあった。スズランの持つ強大な魔力は惜しい。それに神子に信頼されているなら、その能力がなんであれ彼女を通じ利用することを考えていた。
実験は既に済んでいる。操糸魔法を応用し自分の記憶と人格を他人の意識の深層へ転写する。深層だけだ。表層にはあえて手をつけない。
人間の思考の大半は表層意識によってのみ行われている。そこさえ無事なら誰もが自分を自分だと思い込んだまま行動する。他者だってそうだ。相手の表面以外にはろくに関心を持たない。だから気付けない。深層にゲッケイがいても。
彼女は必要な時にだけ深層から表層に干渉する。それもほんの少しだ。目の前で起きていることに気が付けないようにしたり、いつもと若干違う方向へ思考を傾けたり。
最低限。それだけでいい。
それだけがいい。
どこを突くかが肝心。ダイヤには必ず、そこに力を加えれば割れる一点がある。職人は的確にそこを見抜いてあの硬い宝石を加工する。川に岩を一つ置けば僅かながらも流れが変わり、その影響は下流の全てに波及する。小さな波紋も重ねて行けばやがて大きな波へ変わる。
だというのに、まさかこんなに早く見破られてしまうとは。想定外の事態。
とはいえ、まだ大きな問題ではない。むしろ好機だとすら言える。
(まさか、そちらから来てくれるとはね!)
実に好都合。いかな神子と言えど、力の使い方を知らない段階なら十分に付け入る隙はある。ましてやここは精神世界。侵入するには自身の心も剥き出しにしなければならない場所。今のモモハルは普段より精神に干渉しやすい状態となっている。
眼神よ覚悟するがいい。お前が祝福を授けた子供から“神の加護”という名の鎧を引き剥がし、無防備になった魂へ侵入してやる。そしてヒメツルと同じように深層へ巣食ってしまえばこちらの勝ちだ。より確実に貴様の力が手に入る。夢を実現する力が。
「ヒヒッ、見つけた!」
精神世界の最下層、ヒメツルの深層意識を閉じ込めた場所にやはり子供はいた。
もう逃がさないし逃げられない。お前の自我もこの手の内だ。
「さあ坊や、鬼ごっこの時間は終わりだよ!」
「あっ!?」
見つかって驚くモモハル。ゲッケイはつかつかと近付き、その腕を掴んだ。
「やだっ!」
「大人しくおし、今すぐアンタもアタシのものに──」
「はなして、おばあちゃん!!」
モモハルがそう叫んだ瞬間、ゲッケイは見た。彼の精神体を薄く覆っていた淡い輝きが右手に収束する様を。そして振り回した腕が軽く当たった途端、衝撃が走り彼女の全身が弾けた。
「な、なあっ!?」
ロウバイを象っていた精神体が、強制的に本来の老婆の姿へ戻される。
「なんっ……な、ぜ……」
まさか、この子の加護は自身を守るだけでなく他者にかかっている術まで無効化できるのか? 本物の体でないとはいえ急激な変化に意識の同調が追い付かず膝をつく。同時にゲッケイは彼に対する脅威度評価を引き上げた。
極めて危険。下手に触れれば転生すら無効にされかねない。
「い、いまのうちに」
こちらが動きを止めた隙にモモハルは背を向けて走り出した。まだだ、まだ手ならある。ゲッケイは魔力の糸を繰り出す。矢のように放たれた無数のそれがモモハルの左腕を絡め取った。さっきと同じように糸の絡まった部分に輝きが収束して打ち消すも、彼女は次々に新たな糸を放出して対抗する。
「ひ、ひひっ、逃がさんぞ。このまま魂に潜り込んでやる」
「う、あうっ……!!」
モモハルが苦しむ。やはり、あの輝きに覆われていない部分からなら精神に干渉できる。神でも容易に干渉できない深層に巣食ってしまえばこちらの勝ち。
だが、そう思った直後、糸がまとめて切り払われた。
「なっ……!?」
木剣──突如モモハルの右手に出現したそれは輝きを纏わずとも魔力の糸をことごとく切断した。加護に頼らず、想像力次第であらゆるものを生み出せる精神世界の特性を利用して新たな手札を生み出したようだ。ただの木剣にしか見えないが彼にとってはそれだけ頼りになる武器なのだろう。
「子供が小賢しい真似を!」
さらに大量の糸を放ったものの、光輝を収束させる必要の無くなった少年はそれで再び全身を包み防御していた。これではもう侵入しようがない。
「ばいばい!!」
またしても走って逃げ出すモモハル。ゲッケイはそれを追おうとしてつまずき、倒れる。足が思うように動かない。
全身が屈辱と怒りで小刻みに震えた。
「おのれ、おのれ、おのれえっ……!!」
いつもこの老いた体が邪魔になる。年齢固定化技術を見つけるまで時間がかかりすぎた。そのせいで彼女は二百年以上前から老人として生きている。だから脱ぎ捨てたのに。自ら死を選び、他人の肉体を奪うことで若い自分に戻れたはずだったのに。
「コケにしおって! 逃がさん、絶対に逃がさんぞガキ共! お前らは二人ともアタシのものじゃ! アタシの夢、願いを叶えるための道具じゃ! 手に入れてみせる、他の何を失ったとしてもな!」
彼女のその声は反響することなく、昏い闇の彼方へ吸い込まれていった。
「また……」
母に叩かれている。もう何度繰り返したかわからない。
疲れた、疲れた、疲れた、疲れた。
おかあさんはどうして私を叩くの? おかあさんは、どうしてこんなゴミ溜めで子供を育てたの? おかあさんは、どうして私を捨て、売ってしまったの?
もういい、もう終わらせたい。
延々と繰り返される悪夢の中、私は一つの結論に到った。
全て、この母が悪いのだ。
私をこんな世界に産み落とした人。
私を虐げ続けた人。
わずかな金銭を得るため我が子を他人に売り飛ばす女。
お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。
全部、お前のせいだ。
いつもなら、私はここで身を丸めて耐えるだけ。
母には何もしてこなかった。そう、母にだけは。
今ならわかる。あの貴族と屋敷の者達だけではない。施設の大人達も私が殺した。この“力”が無意識のうちに建物を半壊させた。
だったらできる。私に向かって何度も両腕を振り下ろす、この痩せ細った女一人くらい簡単に殺せる。私の人生から消し去ってしまえる。
自由が欲しい。
何者にも虐げられず、
何事にも囚われない、本物の自由が。
そのためにはまず、お前が消えろ。
私を縛り付けていた最初の枷。
おかあさん。
「もう、消えて」
「スズッ!!」
「えっ……?」
──それは落雷のように突然だった。出口も入口も無いはずのこの場所で聴こえた誰かの声。母に向けて腕を突き出し、殺意の塊を吐き出そうとしていた私の横にいつの間にか少年が立っている。
誰だ? 知らない。
私の記憶に、こんな子供はいない。
いなかった、はず──
「大丈夫?」
少年は傷付いている私ではなく、何故か母の方へ駆け寄り、そう訊ねた。精一杯背伸びして彼女の頬に優しく触れる。
「あっ……」
私は気付いた。彼の顔が正面にあることに。少年の、モモハルの姿が潤んだ視界の中心にある。空色の瞳がこちらを真っ直ぐ見つめている。
どうして? これではまるで私の方がおかあさんみたいだ。
いや、そうだ。施設での記憶と屋敷での記憶では、私は私のままだった。けれどもここでは……このゴミ溜めではいつも、私は母の目線から自分を見ていた。
私は母になりきることで、都合の良い記憶を捏造していた。
「あ、ああ、あ……」
思い出す。認めたくないから忘れていた事実。この繰り返す悪夢の中で一度も辿り着くことが無かった真実。
──屋敷の人間を皆殺しにして、屋敷そのものも消し去って、街を彷徨った私は、またあのゴミ溜めに戻った。
母も殺してやろうと思った。あんな豚共に私を売り飛ばしたクズ。さっきと同じように強い憎しみと殺意を抱いていた。
でも必要無かった。
母はその時、死にかけていたから。
あの粗末なテントの中で、痩せ細ったまま、私を売った代償として受け取ったはずの金を抱き締め、泣いていた。
ごめんなさいごめんなさいと掠れた声で繰り返し、やがてその声が聴こえなくなったと思ったら、手を下すまでもなく死んでしまった。
子供の時の感覚だから正確な期間は曖昧。でも半月は経っていたはず。痩せていた私が、あのお屋敷でご馳走を食べ、普通の子供に見えるくらいに肉を付けていたのに、母は受け取った金を使わず、ここでひたすら蹲って泣いていた。
本当はわかっていた。あんなに叩かれたのに怪我をしなかったから。他の大人達の暴力とは違う。母はずっと加減してくれていたのだと。地獄のような環境に堕ち、悲憤に我を失いそうになっても、けっして子供を傷付けなかった。
飢えて力が入らなかっただけかもしれない。でも、どんなにひもじくても結局この人は必死の思いで手に入れた食べ物を必ず私に分け与えた。
もう無理だと言って施設に引き渡したのは、もちろん自分が生き延びるためでもあったろう。けれど私にとって、毎日必ず食事を貰えるあの施設の方がゴミ溜めより少しはマシだと考えたからだ。
貴族に売り飛ばしたのも、その結果私がどんな酷い目に遭うとしても、お腹一杯食べられて、清潔な服を着て、束の間の幸せを味わえたならと願ったから。
不器用だし、馬鹿だし、心底どうしようもない駄目な母親だった。
それでも多分、この人は私を愛していたのだ。
気付いていたから、母と一緒の記憶でだけは、私は彼女の目線から幼い自分を見つめていた。何もかも母が悪かったことにして悲しみを塗り潰した。でも、モモハルにはそれを一目で見抜かれた。
「スズ、泣かないで」
「……うん」
頷いた時、私はすでにスズランの姿に戻っていた。母の姿でも、幼い頃のヒメツルでもなく今の自分に。
「帰ろう」
私がそう口にすると出口なんて無いと思っていた空間に扉が現れる。モモハルと二人でそれを開け、外に出たところで一度だけ振り返った。
母がまた姿を現し、私を叩いている。
幼い私は身を丸め、ただひたすら儚い暴力に耐えるだけ。
この哀しい記憶が消えることは無い。だって、これもやはり私という人間の一部だから。死ぬまでずっと、この哀しみを抱えて生きる。
でも、以前より少しだけ心は軽い。ようやく認めることができたおかげ。
こちらの母も、私を愛してくれていたのだと。
「ありがとう……さようなら、おかあさん……」
感謝と別れを告げ、私は静かに扉を閉じた。




