二章・幼き君と(3)
そして一年の時が流れました。
神子はモモハルと名付けられ、すくすく成長中。私もスズランという新しい名前を貰い、仮の両親との関係は今のところ良好。日々を平穏に過ごしております。
ただ一点を除いては、ですが。
「は~な~し~て~」
「いやっ」
モモハルのご両親が経営する宿屋。その一階の酒場兼食堂で、白金色の髪も伸び、最近ようやく言葉を話すようになってきたモモハルは、いやいやと首を振りながら私の要請を却下します。
この子ったら、まだ私にくっついてくるんですよ。
勘弁してほしいですわ。
「本当にモモハルはスズちゃんが大好きねえ」
「だね、ちょっと度が過ぎてる気もするけど」
「おかあさん、たすけて」
「そうしたいのはやまやまなんだけど、無理に引き剥がすと泣いちゃうからなあ。スズの方が少しだけお姉さんなんだし、もう少しだけくっつかせてあげて」
「そんな……」
養母はいつもこの調子で私を人身御供にします。お姉さんって言っても戸籍上では同じ誕生日ですのに。
「スズ、だっこ、だっこ」
「あ、ほら、だっこのおねだり始まったよ。今だっ」
「ああもう、わかりまし……わかった」
一方的に組み付いてくるモモハルに対し、今度はこちらからきつく抱きしめてやります。すると彼はコテンと仰向けに床に転がりました。
「あはははは、セミみたい」
「ほんとに変な子ねえ」
お母さまとおばさまが笑います。モモハルは床に転がったままほっこり笑顔。意味不明ですけれど、満足するとこうなるようです。
「よかったね~、モモハル。スズちゃんにギュッしてもらえて」
「うん。ギュッ、たのしい」
「なにが……?」
生まれた時からそうですけど、この子、わけがわかりませんわ。それとも赤ちゃんって普通こういうものでして? だとしたら私は母親になんか絶対なりませんから。
「はい、ごくろうさまスズちゃん。うちの子の相手をしてくれてありがとう」
おばさまが労いとして温かい牛乳をくれました。ちゃんと姿勢を正してそれを受け取ります。
「ありがとうございます」
「まあっ、本当にスズちゃんはしっかりしてるわね。まだ一歳なのに言葉もたくさん喋れるし、すごく賢いわ」
「ふふん、この子は天才なのよ」
驚くおばさまと得意気なお母さま。こっそり冷や汗をかく私。まだちょっと幼さが足りませんでしたか。十八歳なので普通の一歳のフリは難しいです。
ちなみに、もうおわかりかもしれませんが正体がバレないよう喋り方も一工夫してあります。普段のこれは男を誑かすため身に着けた口調で、長年使ってきたものですからほらこの通り、今では思考も自然とこうなってしまいます。
けれど、そのままの口調では万が一にも“最悪の魔女”を知る人間に会った場合、正体に繋がるヒントを与えてしまいます。だから言葉を覚えたての赤ん坊のたどたどしい喋り方を装いつつ、少しずつ修正を加えているところなのです。
あ、そうそう、喜ばしいことに私の容姿は九割昔のままでした。長いこと時間がかかりましたが、先日ついに鏡を見る機会に恵まれたのです。
この村には一歳になった子供を教会に集め、無事の成長を祈る習わしがあります。その時に私をおめかしさせた母が、だっこしていつもなら到底届かない高さにかかってる鏡に姿を映してくれました。
その瞬間、感動で泣きそうになりました。母が着せてくれた綺麗な服にではなく自分の容姿がおおむね以前のままだったからです。もちろんまだ赤ちゃんのそれではあるのですけれど、少なくとも顔立ちには面影があります。肌の色も変わっていません。
ただ、どういうわけか髪、眉、睫毛といった毛髪は元の薄い桃色から白に変化していました。原因は不明。周囲の話だと今の私は最初からこうだったようです。当初こそ老人のようだと不満に思っていましたが、光が当たると虹色に輝いて見えることに気付いて以来、むしろお気に入りです。
視力も最初の頃に比べれば発達しています。どうやら赤ん坊のうちは良く見えないのが常識だったようです。モモハルも最近色々なものを見ては飽きずにはしゃぐ日々。この子にしたら初めての人生ですし、見るもの全て新鮮で楽しいでしょう。
今も──
「スズ、スズ、あれ、なぁに?」
「ちょっ」
ミルクを飲む私の服を引っ張る彼。貴方ね、タイミングくらい考えて。こぼれてしまいますわ。
モモハルが指差したのは蝶でした。窓から入ってきたのでしょう。天井付近をヒラヒラ飛び回っています。
青い翅。こころなしか薄ぼんやり光っているような気も。光の反射でしょうか?
しばらくの間、私とモモハルは二人揃って天井を見上げ、その昆虫を視線で追いかけておりました。
すると突然、肩をガシッと掴まれます。お母様にです。
「ス、スズ……? 何か見えるの?」
「おかあさん?」
「て、ててて、天井に何かいる?」
あっ──お母さまのその怯えた表情を見て、やっと気付きました。あれは普通の方には見えない類のものなのだと。
「む、虫ですわ。おっきな虫がいたけど、もう出て行きました」
咄嗟のことで思わずですます口調に戻ったものの、母は母で余裕を無くしているため気が付きません。
「そ、そう……虫か、虫ならいいや」
そうです、嘘はついていません。少なくとも外見上は虫です。正体は低位の精霊か何かだと思いますが。
(モモハルの影響でしょうか……時々私にも見えますのよね)
モモハルは生まれたばかりの頃から私にも見えない何かを頻繁に目線で追いかけ回していました。その正体はおそらくあれら“光るもの”だったのでしょう。よく見れば普通の生き物と違うので、これからは気を付けないといけません。
私のお母さまは気丈というか若干男勝りなところがある方なのですけれど、幽霊の類は滅法苦手です。私も以前、母に抱かれて薄暗い夕暮れ道を散歩していた時、浮遊霊を目で追いかけ、あまつさえ相手が霊だと気付かぬまま挨拶してしまい、ひどく怖がらせてしまいました。
ちなみにその霊は襲いかかってきたので、その場でぶっ飛ばして強制浄化いたしました。ケンカを売るなら相手を良く見るべきでしたわね。
ところが悪霊を消し飛ばした瞬間、母にも一瞬その姿が見えたらしく、私を抱えたまま気絶。あの時は本当に大騒ぎになりましたわ。
……って、ううっ、これは……。
「お、おかあさん、おといれ……」
急に催して来た私は母に尿意を訴えます。さっきのミルクのせいでしょう。
「あら、それじゃあ行きましょ」
母は先に立ち上がり、手を差し伸べてくれました。その手を掴むと、こちらもゆっくり立ち上がります。こう見えて私、支えさえあればもう歩けるのです。それにオムツだって卒業してましてよ?
「ええっ、スズちゃん、もうおトイレの練習してるの?」
「最近ね。練習どころか一人で行こうとするのよ。危ないからダメって言ってるのに」
「本当に成長が早いのね。うちのモモハルなんかまだオムツなのに。スズちゃんみたいに上手に歩くどころか立っちだってできないし」
「いや、それが普通じゃないかな?」
「おかあさん……」
「あっ、ごめんごめん、行かなくちゃね」
危うくおばさまと話し込みそうだった母の袖を引き、トイレ行きを促します。あんよが上手な私とはいえ、さすがにまだ一歳。補助は必要なのです。
「あー、スズ、スズ~!!」
「こらこら、スズちゃんはおトイレに行くの」
さっきのギュッの効果が切れたのでしょう。またモモハルが私を呼び始めました。ふふ、でも今回はこちらの勝ちですわね。あなたはまだハイハイしかできない上、今はおばさまに囚われている状態。到底ここまでは来られないでしょう。
まあ、おばさまが止めて下さらなくとも? 所詮ハイハイすら満足にできない貴方ではこのあんよが上手な私に追い付くことなど不可能ですわ。オホホホホホホホッ!!
ガシッ
「あれ?」
「だめ、スズ、ギュッ」
いつの間にか、いつものように私はモモハルに捕まっておりました。え? いったい何が起こりましたの?
「あ、あれ、あれれ? あれえ?」
「モモくん、いつのまに?」
おばさまとお母さまにもわからなかったようです。どういう手品ですか?
「モモ、離れなさい。スズちゃんおトイレ行けないでしょ」
慌てておばさまが駆け寄って来て引き剥がしにかかりますが、モモハルは赤子とは思えない腕力で抵抗します。
いでっ、いでででででで、待って、私にダメージがきてますわ!?
「は、はなして、はなしてっ」
「やあっ」
私が抵抗すればするほど、ますます強まるモモハルの力。ほんとどうなってますのこの乳児。規格外すぎるでしょう。
「あ、モモくんごとトイレに行けばいいんじゃ?」
「ええっ!?」
殿方に見られながら用を足せと? それは流石にあんまりですわ。あ、でも、そろそろ本当に限界、に……あっ──
瞳から輝きを喪失し、私は抵抗をやめました。
その表情から、お母さまも察してくれます。
「着替え、持ってくるわね」
「はい……」
「ごめんねスズちゃん」
「いえ……」
「スズ、あったか~い」
「それ、おしっこですわ……」
私は涙目で水たまりに座り込み、甘んじてモモハルの抱擁を受け入れました。この子が関わると、いつも散々に目に。いったいどうしてこうなりましたの?