《下》
しばらく経って目が覚めたとき、そこは訪れたことのない場所だった。
どろどろとした群青色の沼が地平線まで続き、厚く黒い雲が空一面を覆っている。所々に開いた雲の切れ目からは、鮮やかな赤い光がチラチラと見え隠れしていた。
私はこの風景に見覚えがある。
「私、絵の中にいる…」。直感的にそう思い、つぶやいた。
湿った風が髪を揺らし、辺りには嵐の前兆のような気配が立ちこめていた。
これが現実なのか、あるいは意識の中の出来事なのか、確かめる術はない。
私は沼をかき分け歩き出した。
群青の沼はまるで無限に広がっているように見えた。実際そうなのかもしれない。地平線の距離は目の高さから換算して約14km――、以前何かの本でそう読んだ。歩けば3時間ほど。この沼が無限に続くかどうか、まずは14km先まで歩いて確かめよう。そう思った。
音の無い世界を私は歩いていく。
時間は止まり、あらゆる命が息を潜めた無機質な世界。どこまで進んでも、空は動かず、風は湿ったままだ。
変わらない景色を見つめるうち、私の頭には自然とロミのことが浮かぶ。こんな時でさえ、私の中のロミはいなくなることがないのだ。
私が絵の中にいると知ったらロミはどう思うだろう。うらやましいと言ってくれるだろうか。――いいえ、ダメ。これ以上ロミのことを考えたら、苦しみでおかしくなってしまう。
――あるいはもうとっくにおかしくなっているのかもしれないが……。
ふいに風が強く吹いた。
首筋のあたりがざわざわとして私は立ち止まった。
誰かの気配がする。すぐ近くで。
背後から水のはねる音がして、ゆっくりと振り向いた。
群青色の沼が波打ち、人の形になったものが水面から浮かび上がる。
顔のないそれは、ゆらゆらとしながら虚ろにその形をとどめていた。目はないが私を見ていることが分かる。私が何ものなのかをじっと吟味し、私はそれを何も言わずにじっと見ている。この世界のことを何も知らない私は、受け身でいるしかない。事が起こるのをただ待つことしか出来ることはない。
『私を知っている?』
人型のそれが話しかけてきた。声ではなく、頭に響く思念のようなもので。
「知らない」 私は声に出して答えた。
『それは嘘。あなたは私を知っている』 それが言った。
「嘘なんてついてない。私はあなたに会ったこともない」
『会ってるわ。何度も。あなたは私を求めてる。のどから手が出る程私を欲してる。そうよね……?』
否定しようとした。あなたのような気味悪いものを欲しいはずがないと。だが出来なかった。どろどろしたそれは、少しずつ、やがてはっきりとした姿を帯びたからだ。
何もなかった顔には目と鼻と口が浮かびあがり、群青色の皮膚は人間の肌色に近付いていく。髪の毛が生え、やわらかく乳房が盛り上がり、うす紅色に染まっていく。まるで……そう、ロミそのものの姿に。私があれほど求め、欲したロミが、目の前に現れたのだ。
『あなたは私に会っている。そして私を求めている。そうよね?』
私は小さくうなづいた。
『ここがどこか知っている?』 ロミが尋ねた。
「……あの絵の中でしょ。私達がいつも見てた」
『その通り。あなたが開けたのよ。この世界の扉を』
ロミはまっすぐに私を見て言った。
ロミは裸だった。
感情の揺らぐ様子を楽しむように、一糸もまとわぬ姿のままで私の手をそっと握る。
湿った風が彼女の淡い陰毛をなびかせた。私の胸がことりと音を立て、同時に目眩が起こる。
ロミは私の手を握ったままで話を続けた。
『この絵が生まれたのは19世紀の初め頃……。フィンランドの画家によって描かれたの。題名は知ってる?』
私は首をふった。美術館の展示カードには作者もタイトルも書かれていない。
『――喪失。それがこの絵の題名』
少しずつ風が強くなってきた。
『作者はもともと腕の良い画家だったの。天才ともてはやされたけど、やがて才能に溺れた。ごう慢になって人の恨みを買い、事件に巻き込まれ……家族をみんな失った』
私は何と答えて良いのか分からず、黙って話の続きを待った。
ロミは続ける。
『彼の心は大きく波打ち、狂気を帯びた。
誰も信じず、口もきかず、窓のない真っ暗な部屋で、昼も夜もなく絵を描くようになった。
苦しみを絵に映して、何とか命をつなぎとめていた。
でもやがて、この絵が生まれ落ちたときに彼はようやく眠りについたの。安らかに、まるで憎しみも悲しみも全部消えてしまったみたいに、ひっそりとね……』
ロミはなぜ、今その話を私にしなければならないのだろう。漠然と私はそう考えていた。そしてロミがそれを見透かしたように言う。
『知っていて欲しいの。この世界の成り立ちを。一人の人間を狂気に堕とした深い喪失を。あなたが——』
「――私が、……その人と同じだったから?」
ロミが首を縦にふる。
「近しい想いを持っている。彼ほどではないけど、執着に狂い、死を望んでいる』
「ロミ……あなたは一体なに? 本当は誰なの?」
私は苦しくなって問いかけた。
ロミが妖しく微笑んだ。
『私はロミ。あなたが一番良く知っているじゃない。ものすごく会いたかったんでしょ? 私を一人占めにしたかったのよね』
ロミが握った手に力を込める。
『ここなら二人きりだよ……。私たちだけで、誰の邪魔もなく永遠に一緒にいられる。それがあなたの望みでしょう?』
ロミは私をたぐり寄せ、柔らかな乳房をそっと押しつけた。
私は動くことができない。あんなに求めていたロミが目の前にいる。裸体をさらし、私を抱き寄せている。でもこれなんだろうか、私が求めていたものは。私が望む幸せは叶ったといえるのだろうか。
「ううん……違う……」 そう呟くと同時に、ふいに涙が頬を伝った。
『何が違うの? 私はもうどこにもいかないんだよ?』
どう言葉にしていいのか分からない。でも何かが決定的に違っていた。
『……本当は知っていたんだ。あなたがそういう目で私を見ていたってこと。気付いてた。もっと早くこうしてあげれば良かったよね。ごめんね?』
ロミは私にくちづけした。やわらかな唇が私の唇を覆い、舌が違う生き物のよう にからみつく。
『愛してるわ。本当よ。あなたが私を想うのと同じくらい愛してる。だから……早く抱きしめて……。ねぇ、一緒に沈んで……』
「やめて!」
私はロミを強く突き放した。
「あなたはロミなんかじゃない!」
強く叫んだ。
そう。私の知っているロミならこんなことはしない。
心の中の、一番弱くて脆い場所に入り込むような真似を、ロミは絶対にしない。
ロミは不思議そうに顔を覗き込む。
『どうしてそんなことを言うの? 私はロミだよ?』
「違う! 違う、違う、違う!」
私は強く何度も首を振る。
それを見た目の前のロミが、くすりと笑いながら言った。
『じゃあ、あなたの知っているロミはどんな子なの?』
私は答える。
「ロミはいつも……
まるで空を歩くように自由で、明るい子。そして素直な子。
私が間違ったときは違うと言ってくれて、傷ついているときは、何も言わずに優しくしてくれる。
自分の感情に真っ直ぐで……いつも私を楽しい気持ちにさせてくれる……」
つまづきながら、少しずつロミを思い出しながら、私は続けた。
「……あの子はいつも私を満たしてくれた。他の誰よりも、私を受け入れてくれた。私の目を見て、話を聞いてくれた。
だから欲しかった……あの子を手放したくなかった。私がロミを特別だと思うように、ロミの中でも私が特別な存在であって欲しかった」
『そうではなかったの? あなたは特別な存在じゃなかった?』
「……分からない。でも、あの子には私だけじゃない。他にも愛してくれる人がいる」
『愛にも種類があるの。親友と恋人では、役割が違う』
「私は……怖いの! あの子が自由であるほど、私をどんどん置いてきぼりにしていくのがすごく怖い! 不安で仕方ない!」
『だからロミを傷つけた……』
「傷つけてない! 傷つけられたのは私の方でしょ!?」
ロミは薄く微笑みながら言う。
『あなたは不安をごまかすために、あの子を憎んだの。
憎まれたロミが、傷ついていないとでも?』
私は思わず顔を覆った。
どうして?
このロミはどうして私を責めるの?
『思い出して。——あなたはどうして私を好きになったの? 私の何が良かったの?』
私は黙って顔を覆ったままだ。
それでも頭の中はぐるぐると答えを探す。
どうして? そんなの決まっているじゃない。
あの子は……
「——あの子は、いつも変わらず私のそばにいてくれたから……」
目の前のロミが、じっと私の目を見つめていた。
「ロミはいつも変わらずそばにいて、どんな時だって、明るく、楽しそうに笑ってくれた。だから……好きだったの」
ロミはいつだってロミのまま。
自分の言葉なのに、それは私の頭にはっきりと響き渡り、くぐもった霧が鮮やかに晴れる感覚を覚えた。
そうなんだ。
変わってしまったのは私自身なんだ……。
嫉妬と後悔で自分を見失い、思い通りにならないロミを、まるで子供のようにして困らせてしまったのだ。
電話越しの冷たかった声。
……ううん。あれは、初めて聞いたロミの悲しい声だった。
傷ついたのは私じゃない。友達を失ったのも私じゃない。
本当に辛かったのはロミなんだ。
「ごめんね、ロミ」
気がつくと涙が止まらなかった。
私は目の前のロミに、問いかける。
「ねえ、あなたは誰?」
『ロミよ。あなたの大好きなロミ』
私は首を振る。
「違うわ。本当のあなたは
……私自身。
そうでしょ? ロミ……」
ロミは驚いた顔で目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。
「……もう分かった。ここは私の中。
あなたは私が望んだロミで、ここは私が望んだ世界……。
自ら堕ちた悲しみの世界」
群青の沼がうねり、ロミの体にまとわりついた。
「でもね、私はもう……ここに居たくない。あなたにも触れられたくない。私はもう……ここを出て行く」
そう言った瞬間、ロミは群青色のどろどろした絵の具に戻り、広大な沼のひと雫となって消えた。
やがて黒い空がゆっくりと落ちて、大きく波打った群青の沼が、私を一息に飲み込む。
真っ暗な闇の底で私は思い出していた。始めてロミと出会ったあの日、ロミがこの絵を見ながら最後に言ったことを。
「作者は狂気の中でこの絵を完成させたと思うんです……。でもきっと、絵が完成に近づいたとき、作者からは怒りとか悲しみとか、全部消えてしまったんじゃないかな」
「消えてしまった? どうして」 記憶の中の私が尋ねる。
「この絵が全部吸い取ってくれたのかも……たぶん。
中心にあるコバルトブルーの部分。きっと最後に塗られたんだと思うけど、なんだか異質で。そこだけ感情が透明なの。全部なくなって、純粋な気持ちだけがそこにあるって感じ。だから……この絵は怖いだけじゃない。本当は、優しさも持っているんだと思うな」
絵の世界のロミは最後に微笑んでいた。あれはもしかしたら、絵そのものが私に微笑んだのかもしれない。
暗闇にまどろむうちに、闇の底はいつしか光に照らされる水面へと姿を変えていた。
私の体はゆっくりと浮かびあがり、鮮やかなコバルトブルーの波間から顔を出す。まぶたの向こうから差し込む強い日射しを受けて、私は目覚めた。
「ねぇ! 目が覚めたよ! 目が覚めた!」
聞き慣れた声がした。
辺りは白い壁に囲まれ、開け放たれた窓辺ではレースのカーテンがゆらゆらと風になびく。そこが病室だと分かるのに時間はかからない。
心配そうに私の顔を覗き込んだのはロミだった。
今度こそ、本物のロミだった。
私の家族もいる。みんな心配そうな顔で私を見ていた。
「美術館で急に倒れたって連絡きたから、驚いたよ。一体何があったの?」
ロミが言った。
「……何がって……、あれからどれくらい経ったのかな……」
「丸一日。私もあんたのお母さんもすっごく心配したんだから。お医者さんは眠ってるだけだっていうけど、もしこのまま目が覚めなかったらって思ったら…」
そう言ってロミが涙ぐんだ。
ああ、いつものロミだ。マイペースで、無頓着で、でも時にすっごく優しい。
「ごめんね。ごめんねロミ。私、友達なのに、ロミに……!」
「え? 何が? 大丈夫だよ、こうして目が覚めたんだから」
「ううん、違うの……私……」
「他のことで謝ってるなら、気にしないで大丈夫だよ。何のことだか覚えてないし。むしろ心配しすぎてお腹空いたし」
「お腹って……」
私とロミは顔を見合わせて、同時にぷっと笑った。
不思議な気持ちだった。土砂降りの後の晴れた朝のように、すべてが瑞々しく洗い流されたような気がした。
私もロミも、そして周りの全てがキラキラしていた。
簡単な診察が終わり、すぐ退院することになった。
ストレスと疲れから来る軽い脳しんとうとのことだった。
母が病院の支払いを済ませている間、私はロミに尋ねた。
「ねえ、そういえば……あの絵って……どうなっちゃったかな……」
気持ちが一気に憂鬱になっていた。美術品をハサミで引き裂いたのだ。立派な犯罪だし、私は逮捕されてしまうのだろうか。それに一体いくら弁償すればいいのか……。
「絵? ……ああ、私たちがいつも見ていた絵ね。すごいことになったよね」
「……やっぱり」 私はため息をついた。
「フィンランドの有名な画家が描いたんだって。すごいよ。今マスコミが美術館に殺到してとても入れやしない。たっぷり鑑賞しといて良かったね。私たちって見る目あるわ」
「フィンランドの……?」
「そっ。昨日、専門家がたまたま発見したんだって。絵のすみに、何とかって有名画家のサインが隠れているのを。劣化した絵の具がはがれ落ちてたらしくて、その下にあったそうよ。たぶんあんたが倒れたすぐ後かな。それで急きょ調べたら、間違いなく本物だって。夜のニュースでやってた。
……でも何で知ってるの? ずっと眠ってたのに」
「ううん、それは知らなかった。……私、倒れる前にあの絵を傷つけなかった?」
「それはないと思うけど。学芸員さんの話だと、ふらふらっと立ち上がった後、あの絵の前で急に倒れたんだって」
そっか、と私は言った。あれは全部夢だったのだろうか。でもあの絵はフィンランドの画家が描いたものだと絵の中のロミは言っていた。
やはり、あれは実際に起こったことなのだ。現実ではないどこかで。
……あるいはあの絵が見せた幻だったのか。
「来週にはフィンランドに凱旋帰国するらしいよ。もう見れなくなっちゃうね」
ロミが残念そうに言った。
「たくさん見たから、もういいよ。それに、見たくなったら一緒に行こう? フィンランド」
私が言うと、ロミが笑って答えた。
「いいね、それ。私ムーミンに会う」
外に出ると瑞々しい緑の匂いがした。
病院の後だからか、太陽がいっそう眩しい。
小高い丘の並木通りを歩きながら空を見上げると、混ざりけのない青がどこまでも深く広がっていた。
空はこんなにも青かったのだ。
私は隣を歩くロミに声をかけた。
「ねえロミ」
「なに?」 ロミは微笑みながら私を見る。
「今度さ、彼氏紹介してよ。私一度も会ってないじゃん」
ロミは一瞬驚いたように見えたが、もう一度、今度はしっかりと笑顔になって言った。
「いいよ」
見下ろした街に日射しがきらきらと反射していた。
また新しい今日が、素晴らしい今日が、これから始まるのだ。