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ロミ   作者: 雀村一矢
1/2

《上》


 あの日私の心は壊れた。

 夏の夕立ちが空を濁す、愛などひとかけらも感じない悲しい日に。


 私は、ロミという名の人に恋をしていた。


 ロミは女性だ。私と同じ――。


 ロミの口元が好きだった。やわらかく肉厚な唇や、いびつに並ぶ白い歯が。

 そこから生み出される声を聴くだけで、私の胸は強く締め付けられ、鋼のように鋭い鼓動が体の内側を叩いた。


 ロミと出会ったのは一年前。

 彼女は私より三つ年下だった。

 私は大学生で彼女は高校生。場所は、美術館だ。


 大作展が開催されていたが、そこに一つだけ作者不詳の絵があった。

 群青色を背景にまんべんなく塗りたくり、中央にどす黒い赤が弧を描くようにすり込まれた絵。一見して禍々しく、それでいて目を離せない不思議な絵だった。他の絵画と並ぶと明らかに異質なその絵を、一体誰がどんな気持ちで描いたのか、私は気になって仕方なかった。


 誰もが有名な絵の前に立ち止まり、その不思議な絵画の前には私ともう一人。若いショートヘアの女の子しかいない。


 それがロミだった。


 ロミはじっと目を見開き、微動だにせず真っ直ぐ絵を見つめていた。彼女の独特な佇まいが不思議な存在感を放つ。まるでこの少女まで作品の一部ではないかと錯覚するほどに。

 いつしか私は、絵ではなくロミを見ていた。青く染めた髪と、その隙間から覗く数種類のピアス。およそ私とかけ離れた外観を持つ彼女に、興味を抱かないわけにはいかなかった。


 三十分は経っただろうか。その場に立ち続けたロミは、ふいに私の視線に気づいたらしい。顔をそらし足早にそこを立ち去ろうとした。 


 私は思わず「待って」と口走った。


 「え?」ロミはそう言って立ち止まった。

 あたりを見渡し、自分が声をかけられてるのだと気づくと、こちらを怪しみながら目を泳がせた。私は続く言葉が見つからず、気まずい沈黙があたりを満たす。


「あの……ごめんなさい」 先に口を開いたのはロミだった。


「あの絵、気になっちゃって……。じゃまでしたよね、ずっと前に立っていたから」。申し訳なさそうにそう言った。


 私は慌てて否定する。「ちがうんです……! ……そうじゃないの。こちらこそごめんなさい……急に声をかけちゃって……」


 そうでないならば一体何だろう? ロミがそんな目で困っているのが分かった。


「……あの絵、私も気になって。作者も分からないのに、なんだかすごく存在感がありますよね」


 私がそう言うと、ロミも小さくうなづいた。


「でも他の人たちはそう思ってないみたいだから、……みんなこの絵を見て通り過ぎるだけだし。あなたがずっと絵を見つめているのを見て、嬉しくなったんです。その……私だけじゃなかったから」


 それを聞いたロミは急に嬉しそうな笑顔を見せた。子供っぽい無邪気さと冷めた大人っぽさが混在する不思議な笑顔だ。


「……ですよね? 私も不思議でした。どうしてみんなこの絵をちゃんと見ないんだろうって。この絵に比べたら他の絵なんてすごくつまらないのに」 そうロミは言った。

「もちろん他の絵だってすごく上手だし、作者もこんな小娘につまらないなんて言われたくないだろうけど……。でも、どうしても小手先の上手さばかりが目立っちゃうんだよなぁ……。この絵と違って、所詮人間が描いたものだし」


「……この絵を描いたのは人間じゃないってこと?」 私が言った。


「いえ、何て言うか……例えみたいなものです。きっと人間を越えたような人が描いたんだろうなって。すごく狂気じみた、でも深い悲しみを抱えたような」


 なるほど、と思った。たしかにこの絵を描く人を想像すると、そんな人である気がする。


 「ほら、中心のところなんかは、筆じゃなくて手で直接描いてるんです」

 そう言って画面の中央を指さした。

 「手に絵の具を塗って、5本の指でキャンバスを引き裂くように描いてる」


 その言葉通り筆よりは荒々しく、何かを削り取ったように絵の具が盛られている。


 ロミは言った。「きっとこの絵には、魂みたいなものが封じ込められているんじゃないかな。これを描いた人と、その人が大切にしている何かの……」


「大切にしている何か……?」


「そう。この作者はたぶん、それを失くしてると思うんです。家族なのか、恋人なのか、それが何で、どんな理由でそうなったのかは分からないけど……。でもそれはものすごく深い絶望と、悲しみと、怒りで、――作者はそれを表現しないわけにはいかなかった。辛くてどうしょうもないのに、絵を描かないでいられなかった。葛藤とか自責の中で、作者は狂気に溺れながらこの絵を完成させたんだと思います。でも…………」


 ――最後はなんて言ったのか思い出せない。

 気付くとロミは、真っ直ぐに私の目を見つめていた。


 ロミの細く白い指が私の心臓に触れた気がした。

 私のすべて見透かすようなその瞳に、私は視線の行き場を失った。


「……ごめんなさい。会ったばかりで急に変なこと言って……。引いちゃいました?」


 ロミが私の固まった表情を見てそう言った。


「ううん、大丈夫。あなたがあまりにも……その、納得のできる話しをするから、驚いちゃっただけ」


 私は笑ってそう答えた。もしかしたら笑顔は引きつっていたかもしれない。


「当たっているかどうか分かりませんよ? もしかしたら、天才的な才能を持つ3歳児が、たまたまお父さんの絵の具と大作用のキャンバスを使って、壮大な落書きをしただけかもしれないし」


「天才的な3歳児?」 


 私はおかしくなって、今度こそ本当に笑った。


「可能性はゼロじゃないですよ?」 そう言ってロミも笑った。



 それが出会いだ。


 そのあと私たちは流れのままに美術館のカフェに行った。

 二人で色んなことを話し、少なからず共通点があることに驚きながらも、不思議なくらい会話がはずんだ。ロミという名前もそのとき初めて教えてもらった。

 芸術系の大学に通う私はよくこの美術館に来ていたが、ロミは初めてだといった。友達との約束が急遽なくなり、目についたこの美術館にふらりと立ち寄ったらしい。

 絵が好きだと言っていたが、体系立てて芸術を学んだわけじゃないそうだ。

 それにも関わらずだ。先程の絵を見る目に、私はロミの才能を深く感じ、そして感銘を覚えた。

 ロミは自分の興味があることしか知らず、知識量は私より圧倒的に少なかったが、ユーモアのセンスと物事への独特の感じ方に、私はすっかりのめり込んでしまった。

 他の誰といるよりも、その日初めて会ったロミといる方がはるかに楽しかったのだ。

 別れる前にロミと連絡先を交換し、次に会う約束もした。

 私は大学生で彼女は高校生。共有できる時間は少なかったが、私は無理してでもロミと会う時間を作りたかった。強く興味を惹かれていたのだ。ロミという存在に。



 それから私たちは何度も顔を合わせた。

 ロミは会う度に自分に起こった様々な出来事を語ってくれた。その口調はときに楽しく、ときに重く、私をいつも夢中にさせてくれた。どうしてロミの周りにはこんなたくさんの出来事が起こるのだろうと私は思った。私には語るような日常は何もないのに。けれど、ロミは自分の話をし終わった後に、必ず私にも話をせがんだ。何でもいいから教えて欲しいと、昔であれ今であれ、知りたいと言った。

 要望に応えたくて私はいつも必死に話を思い出した。作り話の通じる相手ではなかったから、幼稚園の頃にさかのぼって友達の失敗談を話したり、何気ないと思っていた日常を話したり。

 ロミは私の目をじっと見ながら、いつも楽しそうに話を聞いていた。

 自分がこんなにも様々な体験をしていることに、ロミを通して私は気づくようになった。


 私たちはいつも駅前のカフェで待ち合わせをした。そしてしばらく街をぶらついたあとに、どちらかの家に行くのだった。

 お互いに実家住まいだったから、自然と私はロミの家族と、ロミは私の家族と仲良くなっていった。私は嬉しかった。ロミの人生に私が深く関わっていることが誇らしく思えた。ロミとの時間があれば、他の何もいらないとさえ思っていた。


 私たちは時々、美術館で絵を眺めた。長い企画展だったから、あの大作はいつも静かに美術館の隅で私たちを待っていてくれた。

 誰かが絵の前にいることはなく、まるで私たち二人のためだけに存在しているように思えた。

 二人は絵の前に置かれた椅子に腰掛け、長い間黙って絵を眺めた。群青色の絵の具はいつも新鮮な闇を湛え、深い赤は見る度に形を変えているように思えた。

 ロミと過ごすその空間は、私にとって世界で一番幸せな場所だった。



 私たちの関係に亀裂が生まれたのは、出会って一年が経った頃だった。

 ロミに恋人ができたのだ。


 「私ね、好きな人と両想いになれたんだ」

 そう打ち明けられたとき、私の中で何かがくずれた。

 崖下をのぞき込んだように胸がすくみ、足から力が抜けた。ロミは不思議そうな顔で私を見ていた。自分の言葉のどこに私が衝撃を受けているのか分からずに困惑していた。


「ごめんね。……おめでとう、良かった……」言い終わらないうちに涙がこぼれた。私は力なくしゃがみ、その場で泣きじゃくった。自分ではどうしようもなかったのだ。どうしてこんなにも自分がショックを受けるのか私自身、分からなかった。


 “好きな人”という言葉を私は受け入れられずにいた。女同士、友達でしかないことは分かりきっていた。それ以上なんてあるはずもない。けれど、ロミに好きな人がいたこと、それが私ではなかったことが明白になり、私は立ち直れないほどの傷を負った。失恋そのものだ。その事実は、私自身を驚かせた。


 その日から、ロミの私を見る目が変わった。

 どこかきごちなく、私からの連絡を避けるようになった。

 世界がいっぺんに色を失う。

 私の心は執拗にロミを求めていた。避けられ、会えないことが、一層強い執着を生み出していた。どうしてこんなことになったのだろう、と何度も考えた。自分の気持ちを隠し通してさえいれば、こうはならなかったのに。私は後悔で泣いた。


 ロミのことを考えない時間は1秒たりともなかった。否が応でもロミが恋人と愛を育む姿を想像し、その度に嫉妬と悲しみで気が狂いそうになっていた。私は居場所を見つけられずバラバラになって宙をさまよっている。死にたい。そう思った。


 「しばらく、会うのやめよう?」


 久しぶりに電話に出たロミが、一言めに言った。


 「どうして? 友達でしょ? 彼氏の方が大事なの? ねえ!」


 愛情は憎しみに変わる。私はロミを責め立てた。


「友達なのは分かるんだけど……、でもごめん、私、今は会えない」ロミは静かな声で言った。


「分かってない! ロミは何も分かってないよ!」


 私がどんなに電話口で叫んでも、ロミは静かな相づちを打つだけだった。

 関係は決定的に崩れてしまった。ロミがかつてのように私を友達だと思ってくれることはないし、一緒に美術館に行くこともない。すべてはもう戻らない。ロミが私を見つめてくれることは二度と無いのだ。


 私はそれから毎日美術館に通った。

 大学の講義も休み、美術館の、あの絵の前に座り続けた。


 いつか訪れるかもしれないロミを待って。


 馬鹿げていると思った。こんなこと終わりにしようと。あの子を追うのはやめようと、何度も思った。けれど、押し寄せる波に抗う小舟のように、私の心は頼りなく感情に流され続けた。



 そしてある夕立の日。

 それは薄暗い空の向こうで、くぐもった遠雷が聞こえる日だった。


 人々は足早に美術館を後にし、がらんとした館内にいるのは私一人だった。


 相変わらずあの絵を見ながらロミの言葉を思い出す。


 『深い絶望と、悲しみと、怒りで、――作者はそれを表現しないわけにはいかなかった――』



 今の私じゃないか。


 ロミという大切なものを喪失した、今の私そのものだ。


 そう思ったとき、言いしれない強い衝動が私を動かした。


 おもむろにバッグにしまっていた携帯用のハサミを持つと、立ち上がり、勢いよく絵に近づいた。


 離れた展示室にいた学芸員の女性が、緊張した顔で立ち上がった。


 私は構わず柵をまたぎ、群青に染められたキャンバスの前に立つ。


 学芸員が何かを言っている。でもそれが何なのか聞き取ることが出来ない。


 かまわない。もう何も関係ない。


 私は右手をふりあげると、

 ――力いっぱいにキャンバスを引き裂いた。


 誰かの叫ぶ声が聞こえる。

 けれど私はやめない。何度も、何度も、絵に向かってハサミを突き刺す。


 ロミの居場所を失くしてやるんだ。それだけ……。


 気がつくと、ぐしゃぐしゃに切り裂かれた絵がそこにあった。

 元あった形は消え去り、まるで戦争の後のように、空虚な瓦礫となっていた。


 ロミはもうこの絵を見ることはできない。永遠に。


 ざまみろ。私に喪失を与えたロミに、この絵を見る資格なんてないんだ!


 私は背中で息をしながらひざまづいた。

 床には、乾いた絵の具の破片がいっぱいに散らばっている。


 ふいに冷静になると、たちまち後悔が押し寄せる。

 私はとんでもないことをしてしまった、と。


 けど、それ以上はもう何も考えられない。


 きっとどこにも行けないのだ。この先へ進むことなんて出来ない。


 このまま死んでしまおうと思った。手にしたハサミを首筋に突き立てて。


 うまくいけば一瞬で死ねる。うまくいかなくても、たとえ苦しみでのたうちまわっても、いつか死ねる。

 肉体の痛みなんて、この胸の苦しみに比べればいくらでも我慢できるはずだ……。


 そう思った時だった。


 床に散った絵の具がドロドロと溶け始めた。


 一瞬のことに頭が混乱する。

 どこにこれだけの熱量が存在しているのか分からなかった。

 床の温度は決して高くない。むしろひんやりとした冷気を感じるくらいだ。

 なのに絵の具はどんどん溶け続け、やがてぐつぐつと沸騰し始めた。


 あちこちで蒸気が立ちこもり、群青色の中から透明な水色が流れ出す。

 それらはまるで得体の知れない生き物のように、床を這い私のひざにからみついた。

 私はそれをただ眺め続ける。絵の具が体をよじのぼり、手を覆い、顔を覆っても、私はじっと動かなかった。

 ロミを失った時点で、私の世界はとっくに壊れているのだ。海が蒸発し、月が降ってきたって私にはどうでもいい。絵の具が体をよじのぼるなど、裁縫の針で指を刺すくらい、ささやかな出来事だった。


 全身が覆われ何も見えないが、決して怖くはない。私をこの世界から隠してくれるのだから、むしろ心地良いくらいだ。


 ほどなく意識が遠のくと、私は深い闇の底へゆっくりと沈み込んだ。





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