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夢幻の花嫁

作者: 岡林リョウ

気軽なものでとくに何も起きませんが、気軽で何も起きないものを読みたいことがあるのでこういうものを遠い昔にいくつか、書いていましたよ。

風の雨戸を打つ音に目が覚めて、そのまま障子を見詰めていた。由緒の旅荘でのことだ。うすぼんやりと明るみが差した白紙のうちに灰を撒いた様な霧がぼんやりとひろがって、あれとおもうとモウそれは女の姿をしている。凄みのある蒼白い顔を真っ直ぐこちらへ向けて、結髪と衣装からあきらかにそれは花嫁の姿であった。


片手に杯を持っている。私は丁度寝酒を一杯やっていたからその杯かと思うが頭の上に置いて或る筈だからあれは三三九度の杯に相違無い、と思った。


「・・・」


そういって女はこちらへにじり寄って来る。こういうものには慣れてはいるが婚礼の儀を行うには聊か時が遅すぎる。手を窓に伸ばし思い切り戸を開くと、月光の鋭い刃が女を打った。


杯は消えていた。しかし女はもっと側に寄っている。


綿布団の足元よりすこしづついざり寄って来るが重みは感じない。さしずめふわりと浮いた雲のように中身の無い抜け殻なのだろう。女はいつのまに衣装を変えて、モダンな洋装に着替えていた。蒼白い顔色に変わりはないが月明かりのせいかとも思う。何故かといえばそれは震え上がるほどに美しい御婦人だったからだ。


顔が迫って来ると、益々その美しさに見ほれて、これが幽霊であるということを忘れてしまう。距離もこれだけ迫ってしまうと痘痕や皺に多少の気分を損なうことが往々にして有る。しかし蝋燭のように白くつるりとした肌にしっとりと吸い付くようなさざめきの感じられる頬、分水嶺のようにすっと流れる細い鼻筋などじつに現実味が無く、詰まる所私ごのみなのである。


最初は睨んでいた私も顔が一寸にも迫ると錯覚を起こしはじめていた。だが、再びごつ、と雨戸が鳴る音に少し頭がはっきりとして、唇が僅かに開いた其の中に恐怖を感じ出した。


この寸でのところで思いとどまれば何も起こらずに明日は東京へ戻ることができる。もし唇を重ねてしまったならば、其の先までいってしまえば尚更だが、幽冥の界に連れ去られようものじゃないか。


この真珠のような歯ならびの奥にはどんな匂いがするのか。蛞蝓の様な匂いが、味がするのではあるまいか。死んだものの口の匂いが決して香しい訳がなかろう。


ぺし


たしかに音がした。頬を張られた幽霊は、消えた。


睡眠薬を一粒含み、余った杯を取って流し込んだ。清めの酒だ。


・・・だがまた出たのである。


ぎらり、と銀色に輝く包丁の刃にぎくりとした。胸元に突きつけられた金物、切っ先が僅かに綿を貫いている。私は狼狽した。薬は効かなかったのだ。


女は髪を振り乱し私を刺してしまおうと構えている。構えているのではない、モウ刺そうとしている。


何も語らず息すらしないから、当たり前だがこれはやはりお化けなのだろう。包丁だって煙霧の塊なんじゃないか。


「・・・」


女は左手を引き、ぐっと突き出すと見せかけて、肢体のほうを引き寄せた。


ほんのすこしだが身体の重みが胸に感じられる。暖かい。


「・・・」


顔を摺り寄せる。哀願するような痛切さを演じている。いや死人だから演じるなんてあるまい。ほんとうにそう思っているのかもしれない。


この女は成仏したいのだ。そのための妄執を取り去ろうとしているのだ。胸と胸が重なり合う瞬間に、鼓動の高まりが伝わってきて、指先の細かな震えやしなやかな腕の力のない様が刺すつもりなどないことを示している。


気持ちが伝わって来るなんてことは人間でさえ滅多に無い。


可哀相、だと。


真珠の並びがヤニに汚れた我が歯とかちりと合ってそのあと流れ込み流れ入る互いの密かな流れは自然だった。以外だった。殆ど何も感じず、何も気にすることはない。相手は実体がないから、所詮は匂いだとか味だとかいうものを描くことまでは無理なのだろう。


相手もそう思ったとおもう。


哀しげな顔をすっと離すと目の下に黒子が見えた。いつのまにか花嫁衣裳に戻っていた。


消えた。


親父は一切を否定したが私はあの美貌の幽霊について調べてみることにした。


しかし役所に行っても近隣に聞いても無しの礫という訳だ。ほんとうになにも起こらなかったらしい。ふーん。そんなものか、と茶を手に駅弁を買い込んで、汽車に乗り込んだ。堅い木の椅子にスーツを敷き腰を下ろして、ふと、あることを思い出した。


浜松も近いある女郎屋でのことだ。私はある芸妓と懇意に成った。とはいえ出張の身であったから半年も通えば終わりは目に見えている筈で、懇意といっても何も起こりゃせぬ。


でも向こうはこちらを好いてくれていたと思う。いつもふらりと顕れる私に気付いた子が知らせに走ると、ばたばたとはしたないくらいに走り来て二階から覗き込むのだ。


私は?私も好いていたかもしれない。だが会社の仕事の最中であるから一線は守るきでいた。二人の月明かりの酒宴が静かに頂きに至る中、肩に載せた顎の上からあでやかな響きの静かな思いが告げられた。


「・・・今晩は、いえ、今晩こそお帰りにならないんで御座いましょう」


「いや、帰る」


「嫌。帰らない。帰らせないわ」


そうだあのとき確かに女は包丁を当ててきたのだ、我が胸に。戯れに思いそのままいつもの笑い話に落ち着いたのだが、確かに金物を持っていた。


私はしがないサラリーマンだ。女を囲うことなどどうしてできようか。だが狂う女にそんなことなどわかるわけもなく、いくら美しいとはいえそれはもうその段階を超えていて、私の足は洒落館より離れていった。女も美貌であったから自由になる隙など無かったのであろう、尋ねて来ることもついぞなかった。出張は支店長の解雇で幕を閉じた。


それきりであった。


・・・


東京へ帰って手紙をしたためると、丁度浜松に出張の仲間がいたため例の館に届けさせた。その返事というのがコウであった。


前略、XXX様お変わり無く穏やかにお過ごしのことと思います。お手紙を手に取ったときどんなにか嬉しかった事で御座いましょう。唐突では御座いますが先日私はOOOの女房となりました。髪は島田に、身は白無垢に・・・ああ、でも、一時たりとも貴方様のことを思わないことはなかったので御座います。杯を手にしたとき、私は貴方様のことを思いました。貴方様が戻らぬ足で敷居を越えた晩、何故私はあのような狂言を戯れて仕舞ったのでしょうか。全く馬鹿な女だとお思いでしたことでしょう。


中略


その夜夢を見ました。貴方様は見知らぬ宅に杯を傾けていらっしゃいました。風のように雨戸を叩いたのですがふと灯りがついえるととっぷりと寝入って仕舞われました。私は願ったのです。私は身請けされ明日婚礼の儀を受けるのです。貴方様と結ばれる筈のこの身を、材木商いの若物に買われて行くのです。


貴方様は拒みませんでした。いいえ貴方様は寝入られていたのですからお気付きの筈もありませんね。でも、何ということでしょう、貴方様と私の身体は触れても触れた気がしないのです。私は霧芥のようにただ舞うだけの哀しい身、、、どうせならと貴方様と杯を交わそうといたしましたが叶わず、もっと近付いて顔を良く見ておきたい。するとどうでしょう、貴方様は目をお開きになり、私の眼を見詰めているではありませんか。


ぱしり、と頬を打ったのですよ。夢のことなのに、朝手鏡を見て、ハッキリ手のひらの形が映っているのが見えました。婚礼でございます。厚化粧で隠しながらも、何か後ろめたい気がしたものです。これも手のひらではなかったのでございましょう。あれは夢だったのですから、意識をしないうちに自分で自分の頬を打ったに相違有りません。


でも万が一を思っていたのです。


貴方様の手のひらがふたりの間を繋ぐ絆であったとしたら、あの幽冥の世と現実の世を隔てる壁を抜けるほどの想いの深さを証明するものであったとしたら・・・


所詮あさましきおんなの妄執とお思いのことでしょう。いえ、これでスッキリいたしました。


貴方様どうぞお身を大切に。失礼のほどご容赦を願います。敬具


・・・包丁については触れられていなかったが、多分あれも本当だったのだろう。


でも肉体的な関係に至って絆は崩れたのだ。所詮旅先の絆にすぎないから、空気とふれあうくらいの絆に戻ってしまった。


私は女房の待つ家に急ぎながら、手紙を破り、両国の大橋より投げ捨てた。


それきりであった。


2000/11/19(sun)

なんということもないものでしたね。

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