願望
死にたいのかと問われて、思わず頷いてしまいそうな程に危うい人生は、果たして人生と呼べるのだろうか。そんなことばかりを考えている。
数字の中に確実な差はなくて、あるとするならそれは、0と1以外にない。0はなく、1は僅かながらにも存在する。存在しないことを表すのは0だけで、1以上のものなら確かにある。大小なんて関係ない。だから、少しでも愛されているならそれは0ではなくて、1以上の愛なのだ。
殺人願望と自殺欲求は似ている。ほぼ同じだと言ってもいい。殺人を犯した者はもう本当に死にたくはならなくて、自殺をした者は考える頭も命も権利でさえ与えられずに、剥奪されたことを喚きたくて現世に留まる。死人に口なんてものがあると信じて疑わないそれらの元人間は、何を糧にこの世に留まっていられるのか。知りたいとも思わない。
例えば計量カップにお米を入れて、ぴったりになるように摩り切るとする。その摩り切られてあぶれた余りものの中に、きっと私がいるのだと思う。そんなことを考えながら米を洗って、いつまで洗えばいいのか加減がわからず立ち尽くす。一日おきの日課。
認められたくて人を殺したのです。愛されたくて泣くのです。理屈は同じで同じくらいに愚かだ。人を殺すことが悪いことだと誰が決めた? それ以前に何故人が死ぬのか知っているのか? 最高裁判長様にお手紙を書いて送っても、きっと返事はいつまでもこないこと。それだけは知っている。
命の尊さを知るために人は死ぬ。他人に生きることの素晴らしさを示唆させるために人が死ぬのだ。自分の死さえも利用されて骨になる。一生涯をかけて尊さを説く。人間とはひとつの宗教団体かもしれない。それなら少しは面白いのにね。
私はきっと平然とした顔でそれを言える。望まれるなら世界中へ発信してもいい。SNSが無駄に成長してしまった現代社会において、それは大した面倒ではない。青い鳥の掲示板に投稿して、固定してしまえばいいのだ。なんの苦にも暇つぶしにもならない。
だから私は何もしない。暇を持て余したままに、自由というものに縛られながら生きる。