【41】小さな友人、大きな恩人
ホースは思った以上に細かった。
洗浄液が勢いよく噴射されるところまでは良いのだが、いかんせん効力範囲が狭い。試しに近くのガムに洗浄液を吹きかけてみたところ、多少の抵抗はあるが、側面をぐるりとなぞるように何度か洗浄液を外装との隙間に差し込むように吹きかけていると、ガムが浮いてくるのがよくわかる。
そいつをトングのようなもので掴んででかい掃除機のホースに向かってぽいっと捨てる。
一つ一つそんな作業を繰り返す。実に気の遠くなるような作業だ。どれほどの時間が経ったのだろう。スーツの重みが感じられるほどには、腕も足も重たくなっていた。
「ヒイラギ、少し休憩しよう」
俺のそんな様子を見かねてか、ムクさんが近寄ってきてそう言った。
「でも……時間が」
「あと7時間はある」
「でも、終わったのはここだけなんだ。何分の一だろう。休憩なんかしていたら間に合わない」
俺はムクさんを見ずにそう言った。
だって、寸暇を惜しんでこいつをはがさないと。
俺のガムとりに二人の命が、正確にはリオンの命がかかっているのだ。
「後で俺もセレナ機を手伝う。とりあえずリオンの方がタイムリミットが迫っているんだろ」
「でも」
ムクさんの無言の圧力に負けて、しぶしぶ俺は機体の傍らに座りこんだ。それだけで息が漏れそうなくらい疲れているのを感じる。
「……順調に洗浄は進んでいるんだ。焦っても効率は上がらない」
ムクさんは俺の隣にすわりながら、まるでひとり言のようにそう言う。
「わかってる。わかってるよ。でもさ、もう少し人手があればなあ」
猫の手も借りたい。いや、猫だと困るか、宇宙じゃ猫さんもがんばれないよね。俺の頭はやけにメルヘンな想像で埋め尽くされていた。小さな猫がデッキブラシ片手に戦闘機をごしごしやっているのだ。なぜか小さなセレナが白いワンピースに麦わら帽子で参加している。
「疲れてんのかな」
俺は苦笑を洩らしていた。
想像するって言っても、これは無いだろう。
その間も、俺の頭の中でセレナは楽しげに猫たちと戦闘機をごしごしやっている。お父さんの洗車を手伝う子供にしか見えない。
「……うん? セレナ?」
どうしてセレナを思い浮かべたのだろう。セレナを洗っているからだろうか。いや、人手と猫がいけなかったのか。
だってどんな手だって借りたいと思う状況なのだ、仕方ない。
そうだ、仕方ない。
「ムクさん。俺に一つ考えがあるんだけど」
ムクさんはゆっくりと体勢を変えて、俺に向きあうように姿勢を固定した。
「ヒイラギの提案はあまり聞きたくないが、聞かないで行動されるよりはずっと気が楽なんで聞いてみる」
そうですね。
俺は今までの行動を真剣に反省した。
ムクさんの頭が地肌色になったら俺のせいかもしれない。
「あのですね……、実はおれ、コハク以外にも機械の友人がおりまして」
「……聞くだけ、聞いてみる」
ムクさんは小さな声でそう言いながらも、明らかに頭を抱えた。
「ええと……実は、見た目年齢7歳、いや8歳くらいの……少女で、名を」
「名を?」
俺はおずおずと白い機体を指差した。
「セレナと申します」
ムクさんはしばらく頭を抱えていた。
「……で?」
タップリためた一言には、どれだけの感情が込められていたのだろう。俺は思わず姿勢を正してしまった。
「彼女にも、洗うのを手伝ってもらえたらなーなんて……荒唐無稽?」
「ヒイラギの発現が荒唐無稽でなかったことを数える方が早い」
なんとなくムクさんの俺に対する言葉がきつい気がするのは気のせいでしょうか。いや、きっと気のせいじゃない。原因が思い当たりすぎで俺は肩をすぼませるしかなかった。
「……で?」
「え? あ、ああ。セレナは人型モジュールとやらを持っていて、自由に動かせるらしいんだ。もし動けるなら、それに、そんな動力が残っているのなら手伝ってもらえないかと……思ったんだけど」
「出来るのか」
それは、本人かコハク辺りに聞いてみないとわからない。立ち上がって口を開いた。
「セレナ? 聞こえる?」
「……はい」
セレナは応えてくれたが、どうにも声が小さい。エネルギーの問題だろうか。
「大丈夫?」
「……はい。リオンの生命維持は問題なく」
「それもそうだけど、セレナは?」
セレナは無言だった。何か問題でもあるのだろうか。
しばらく待ってみたが、セレナはそれ以上何も言わない。応えを待ってあげたい気もするが、今は時間も無い。ちょっと気は引けたが、俺はセレナに一緒に戦闘機を洗ってくれないかと提案してみた。
しばらくすると、機体の一部、丁度コックピットの後方に当たる部分が少しだけ持ち上がった。円形の模様が出たと思ったら、筒型の何かが滑るように出てくる。
筒の部分に人が起き上がり、次いでその小さな人影は音も無く俺の前に降り立った。
筒の部分は床から3メートルは上方にある。そんなところから飛び降りた少女に、俺は小さく息をのんでいた。
「私たちは、全104個所の穴から気体を噴出させることで、どのような重力条件でも着地、接地ができます。もちろん浮遊もできますけど」
と笑った。よっぽど俺の顔に「あぶねえじゃねえか!」と書いてあったのかもしれない。俺は何度目かになる驚きの表情を浮かべることになった。
「無事ってわけではないけど、とりあえず帰ってきてくれて良かったよ」
「……はい」
セレナはちろっとこちらを上目遣いで見てくる。
「リオンが乗り込むことになった時には、ちょっと絶望しかけましたけど」
「ぜ、絶望?」
なかなかにすごい単語を挟んでくる。リオンはたたき上げのパイロットだと言うじゃないか。俺よりも多分指示は上手いし、俺だったらもっとガムまみれになっていたはずだ。それに、客観的に見ても、俺よりもずっとイケメン。それなのに、リオンの評価が残念すぎる。
「私は、ヒイラギの戦闘機です。ヒイラギ以外を乗せることはストレスです」
「そ、れは……俺がセレナに登録だか何だかしたからだろ」
「そうですが……それに、ヒイラギは他の人と違いますから。ちゃんと名前を呼んでくれますし」
俺は、はたと口を噤んだ。
そうだ、俺だけがセレナ達と会話をする。それはこの世界ではタブーだと知らなかったからだが、もしも機械側に意思疎通の欲求があるとすれば、俺はきっと「やっとお話してくれた人」として株が上がっていてもおかしくない。
俺は曖昧に笑みを浮かべ、セレナの頭を撫でた。懐かれれば情もわく。でも、俺はこの後どういったおとがめを受けるのかわからないし、その結果セレナとの交流を禁止しろと言われればそうするかもしれない。
曖昧な笑みと、この瞬間小さなセレナが喜びそうなことをすることで、それ以上の会話を避けたのだ。
セレナはもちろんと言うか、宇宙空間用スーツなどは着用していない。それでも当たり前のように動きまわっている。
本当に機械なのだ。俺は手袋越しに伝わるセレナの頭の感触に、なんだか切ないものを感じていた。
「そうだ。手が足りないのなら、あっちも起こしたらどうですか?」
俺の心中など知らないセレナは、目を細めた後で赤い機体を指差した。
「ルビーを?」
「まあ、ルビーと言う名前は置いておいて」
そう言えば、名前については戦闘機側からも言いたいことがあるだろう。もしかしたらダリアも戦闘機から名前を聞きだしているかもしれない。そして、あちらにも人型モジュールがあるのだとしたら。
「聞いてみる」
俺は赤い機体に近づき。
「ええと、赤い戦闘機さん。申し訳ないんだが作業を手伝ってくれないかな。その……人型モジュールとかで」
俺がそう言うのとほぼ同時に、ムクさんも移動してきた。赤い戦闘機の一部から円柱状の何かがスライドして出てくるのをマジマジと見ている。
すぐにケースの蓋が開き、人が滑らかに身体を起こして、次の瞬間には俺たちの前に降り立った。
「……はじめまして。赤い戦闘機です」
それはプラチナブロンドの髪を持ち、魅惑的なブルーの瞳の美しい人だった。肌はまるで陶器のように滑らかで。柔らかく垂れた目じり、その右目の下に小さな黒子のある。すらりとした長身の。
「ええと、何と呼べばいいのかな」
「あら、名前を聞いてくれるの? 嬉しいわ」
ん? 何か聞き間違えているだろうか。
「私はジャスパー。まあ、ルビーってのも悪くは無いけどね」
そう言ってぱちりと片目を閉じる。
ジャスパーは長い手を組んで、ぐっと伸びをした。
すらりと伸びた手足は、まるでモデルのように無駄がなく、赤い着用している赤いスーツ越しの身体にもほどよい筋肉がついているのがわかる。
そう、ジャスパーは目を引くような美貌の持ち主の男だった。




