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【33】はじまり



 コーヒーは、正直まずかった。今まで飲んだどんなコーヒーよりもまずかった。



 でも、俺の心にガツンと何かが落ちたのも確かだった。

 においも味も人には……いや、俺には必要なものだ。

 自室でベッドに横になっても、一向に眠れる気がしない。それがカフェインのせいなのか、それとも妙な興奮がそうさせているのかは分からないが、俺の目は一向に閉じる様子がない。


 灰色の天井を見つめているのに、俺の心は故郷の田んぼの辺りをさまよっていた。

 日差しが強く、稲穂の色が目に刺さるほどに生命力にあふれた島。

 便利さは他の地域に劣るかもしれないが、細い道の両端に並んだ古い商店にも、海側の強い波を背に毎日毎日大量の貝を剥いては殻をバケツに詰めているおばちゃんの姿にも、小さな商店で菓子を買うかつての俺も、どれもみなはちきれんばかりの生命力を含んでいる気がする。


 リオンやアイリス、ムクにダリア、皆晴れやかな笑顔を持つ若い人間。彼らにだって生命力を感じてはいる。だが、その根幹が違う気がするのだ。


 食事が違う、空気が違う、そして何より価値観も違う。


 浮かんだ景色は、どことなく湿った空に変わった。

 広大さをビルの直線で制限されたものの、その分高く高く広がっているような気がした空。

 曇りでも雨でも活動のエネルギーに満ちあふれ、汚れた空気ですら活力に変えた街。俺の夢を抱えても笑顔で受け入れてくれた、包容力のある街。

 故郷でも、東京でも、俺の心はいつだってあちこちに移ろいながらも広がっていた。

 それがどうだ。

 ことさらゆっくりと息を吐く。







「全部、自分の思う通りになるとは思うな」







 今になって父親の言葉が胸に刺さる。

 息子の夢を渋い顔をしながらも反対はしなかった父。でも、その息子がこんなことになっているとは思ってないだろうな。

 俺だってこんな状況想定外なんだ。






「思ったように行かないのが当然なんだ」






 いかつい顔の父親の顔が、浮かんでは消えていく。

 夢を語る息子に対して、がんばれと言ってほしかったにもかかわらずこの言葉。子供っぽい反発心であれ以来ろくに口も効いていなかったが、今になってなぜかこの言葉が浮かんできていた。


 思うようになど行ってない。こんなことのために東京に残ったんじゃない。大学を辞めたんじゃない。

俺は、こんなことに巻き込まれたかったわけじゃない。



「俺は……」



 一瞬の心の隙に、何度も繰り返した言葉が落ちた。



「思ったように、いかないのが、当然。……ああ、そういうことか」



 上体を起こしてみると少しだけ頭がすっきりする。

 思ったように行かない。それが当たり前なんだ。そんなことに文句を言っても仕方がない。俺は、俺のしたいようにするしかないんだ。

 あの広い背中はそうやって進んできていたのだろう。

 父親の背は、いつだって白くて広い。



「……何をするって、よくわからないけど。とりあえず俺は……ちゃんと俺で居よう。食事を求めて、香りを求めて、好きな色を好きって言って……そのくらいしか、出来ないけどな」



 自嘲気味にそう言った時だった。

 壁についているモニターに赤いランプが点灯する。



「な、何? 通信?」



 見たことのあるシグナルに、俺は赤いランプに手を伸ばした。

 とたん、数時間前にわかれたばかりのリオンの顔が映し出される。



「ヒイラギ! 博士が捕まった。今すぐ、私物を隠せ!」


「は?」


「コーヒーとやらは飲みきったか。もし残っているなら廃棄しろ。そしてコップをゆすいで直ぐに返却ボックスへ入れるんだ。出来れば洗浄機に入って着換えろ。多分1時間もしないうちに調査班がお前の部屋にも行くだろう。俺も準備をするから」


「ちょっと、ちょっと何なの? どういうことだ?」


「巻き込んだ形になってすまん。とりあえず、今は俺の言うとおりにしてくれ。良いな」



 リオンはそう言ってちらりと横を見た。



「俺も準備をする。……10分後にまた連絡するから、それまでに準備を済ませてくれ」



 俺の返答を待たずに通信は切れた。

 何なんだ一体。

 アイリスが捕まった? 俺のところにも調査班とやらが来る?



「……巻き込んだって……」



 デスクの上にはコップがのっていた。アイリスの部屋から持ち帰ったコーヒーの残りだ。

 においが漏れないようにふたをして持って帰って来たのだが、まずいまずいと言いながら、あらかた飲みきっている。

 俺は首をかしげながらも洗浄機と呼ばれるバスルームに僅かに残った液体を流し、簡単にゆすいで、部屋に備え付けの返却ボックスに放り込む。

 シャワーは既に浴びていて、教えてもらった通りに新しいスーツを取り出して着ていたので、床に放り投げてあった方のスーツだけを同じように返却ボックスに放り込んだ。



「そう言えば……リオンは変人扱いを受ける趣味を持ってるんだっけ。ええと、歴史好き?」



 確かにリオンはこの時代では異質なのだ。そう俺も考えていた。そんなリオンの異質さも、アイリスに会ってからはなんとなく地味に思えていたのだが。



「博士はもっと変人ってことか? でも……捕まるって? あれか、コーヒー作ったりしたからかな。でも、それって俺が原因ってことだろ。なのにリオンは巻き込んですまんとか言ってたし」



 巻き込むってことは、リオンや博士に何か捕まる原因があったと言うことだろうか。

 これはもう、リオンからの再連絡を待つしかない。

 そう思って天井を仰いでいると、ポンと音がした。



「リオンか?」



 思わず立ち上がったが、そこには黄色のランプと「ムク」という表記があった。



「ムクさん?」



 それはどうやら来訪者を知らせるサインのようだった。

 俺は、首をかしげながらも鍵が開くようなイラストのアイコンにタッチした。


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