【29】女神
「改めまして。私はアイリス。君のことはこの朴念仁から聞いてるよ」
アイリスは長身の美女だった。褐色の肌はきらきらと光っているようにすら思えるほどに、健康的で美しい張りをもっている。ベリーショートというのだろう、女性にしては珍しいほどに短い髪をしており、何より裸体にリオンが渡した白衣一枚を纏っている。
俺は彼女を直視できず、思わず遠い目をしながら差し出された手を取った。
「ヒイラギです。ええと、どうして連れてこられたのかは、まったくわかっていないんですが」
博士、と呼ばれるからには何がしかのエキスパートなのだろう。そしてそれは俺の食生活を豊かにする可能性を秘めているはず。
それよりも、目の前の光景をガン見したくてもミリ単位の良心というか、度胸のなさが俺の視線をさまよわせている。
「まあ、それはゆっくり話そう。今日はもう勤務を終えているんだろう」
アイリスがそう言うと、リオンは頷いた。俺も勤務は終了している。
勧められるがままにテーブルらしき所に向かい、リオンが乱暴にテーブルを持ち上げることで荷物だかゴミだかを一掃させる。床は大惨事だが、そもそも大惨事なので……まあ、変わらないってことなのだろう。
セレナもちょこちょこと動いて近くの椅子を確保し、その上に避難した。
アイリスは壁に手をついて何かを操作すると、画面から新しいコップを取り出す。
何度見ても不思議で便利な機能だ。見たものを画面から取り出すなんて。
実はまだ、画面からものを取り出したことのない俺は、ちょっとだけその行為がうらやましくなる。俺の部屋でも出来るはずだが、この品物の取り出しシステムと料金がわからなくて利用をためらったのだ。
後でちゃんと確認しようと心に決め、俺は発掘した椅子に腰かけた。
アイリスは一度部屋の奥へと姿を消した。俺の部屋はベッドとモニタと細長い机のようなものがある小さな部屋だが、アイリスの部屋やリオンの部屋は俺の部屋にはないテーブルとイスが設置されている。さらにその奥には小さなスペースがあるようだった。
アイリスはそこから何かを持ってきて、そっとテーブルに置く。
「どうぞ」
そう言ってフラスコのような形状の器から、うっすらと茶色くなった液体を俺のコップに注ぐ。次いでリオンのコップに注ごうとしたが、リオンはパッとグラスの口を手で押さえた。
「俺は結構。水にしてくれ」
「なんだ。せっかく人が準備しておいたのに!」
「それで腹を壊したんだ。俺はいらない」
「腹が弱っちいだけだろう。筋肉だけじゃなくて内臓も鍛えたらどうだ!?」
茶色の液体はゆらゆらと湯気を立てている。どうやらそこそこ熱いらしい。
コップに熱い飲み物を注ぐと言うのも恐ろしいが、これを飲んだら腹を壊すというインフォメーションも恐ろしい。泥水なのか。泥水なのか。
「ちゃんと資料通りに作ったさ!」
「資料って言っても不確定要素が満載の資料だろ。カッフとやらが何かも知らないくせに!」
「だから作ってるんじゃないか。何事もトライしないと進まない」
どうやらこれは「カッフ」と言うものらしい。薄い茶色の液体。知っているものに例えるなら、薄めのほうじ茶をガラスコップに入れた感じが一番近いだろう。湯気でグラスの淵が曇っている。
そっと鼻を近づけると、どことなく香ばしいような香りがした。
泥、ではないかもしれないが……腹を壊すなら、俺だってお断りだ。
「トライも何も、博士が作った、その……もととやらはどう見たって何かのペレットだったぞ。あんなもの地面を作る以外に見たことがない」
俺は近づけていた鼻をぱっと離した。
地面。
俺は地面を構成する物質を飲まされようとしているのか。
「ちゃんと作った。粒のサイズだって資料通り。原材料だってC1009をわざわざ環境測定科から秘密裏に横流ししてもらったんだ。ヒイラギはコメデンティだって聞いたから、貴重なカッフを用意」
「コメデンティ? どういう意味?」
どうやら俺のことらしいが、どういう意味だろう。
「……博士!」
リオンが語気強くそう言った。
一瞬部屋には沈黙が落ち、すぐにアイリスが「悪かった」と口にする。
「ええと……」
俺が意味のない言葉を紡ごうとした時だった。セレナがふと口を開く。
「コメデンティ。かつての主要言語であったとされる、言語18で言うところの食べる人という意味ですね。現在は、命を食らうと言う意味で、処刑人と言うスラングもついているくらいです。誰かの物を奪う人という意味で、人に対して使われる場合には蔑称です」
「命を食らう人?」
「ええ。太古、人は他の命をエネルギー源としていたとされており、現在の人からすれば大変野蛮とされています。ですが、現存する資料では他の生命体を食糧にしたという記載は見当たりません」
「唯一残っているのは、これ」
セレナの言葉を継いだのはアイリスだ。
彼女の指が動き、画面を見るように促される。
「この写真だけなんだ」
画面にはかろうじて人とわかる写真のようなものが映し出されている。
男性だろうか。カラ―なのだが、いかんせん画質が悪い。手には何かを持っているようだ。
「現存するほんの中の一部だ。その近くにはカッフが好きだと書いてあった」
男性らしき人影が何かを手に持っている。大きさといい、雰囲気といい……
「マグカップかなあ」
そう、マグカップを持っている姿に近い。だとすると、カッフとは。
俺はカッフ、カッフと何度も口に出してみた。
「カッフ、カッフ……カップ? 違うか。かっふ、かっふ。かっふぃ、かっふぇ……あ!」
もう一度画面を見る。今度はどういう状況かわかる気がした。
「これ、爺さんが机に座ってコーヒー飲んでる姿じゃ?」
そう思ってみれば、もうそうとしか思えない。
「ってことは、これ。コーヒーのつもりか!」
俺は思わず目の前のグラスを両手で包みこんだ。
確かに不思議な代物だ。だが、これを再現しようとしていると言うことは、俺はアイリスを見つめた。
きっと彼女は女神に違いない。




