ミヤツキミヤ
7
宮月美弥はトイレの個室で用を足しながら、ぼんやりと考えていた。
……はぁ、と小さく溜め息を吐く。
どうして、こんな妙な事になってしまったのだろう……?
宮月美弥は自覚していた。
自分は他人に流されやすく、自意識も曖昧で、気弱……誰かに強く頼まれたら、断れない性格である事を。
そして、そんな自分がずっと嫌いだった。
何もできない、自分の意見すら言えない、空っぽな自分が大嫌いだった。
だからこそ、我が強く、嫌な事を嫌とはっきり言い切り、自分の意志を貫ける……そんな強さに憧れた。
……そう。
七瀬愛梨や凍川葵のような、ちゃんと「自分」を持っている人に憧れたのだ。
周囲に合わせる事なく、我が道を真っ直ぐに突き進む凍川葵。
周囲を自分の流れに上手く誘導してしまう七瀬愛梨。
種類は違えど、自分を貫ける強さを持つ二人に憧れた。
だからこそ七瀬愛理が、凍川葵を呪いの儀式の対象にしようと誘ってきた時は心底驚いた。
自分のイメージしていた「強くてなんでもこなしてしまう七瀬愛梨」という人物像から、かけ離れていたからだ。
七瀬愛梨ほどの強さを持つ人間でも、劣等感を持つ事があるのだと悟り、酷く驚愕した。
酷く驚愕して――それ以上に、ショックだった。
落胆した、と言ってもいい。
七瀬愛梨だって、自分と同じ人間なのだ。
悩みもするし、自分と同じように劣等感だって持つ。
誰かを激しく憎悪する事だってあるだろう。
考えてみれば、当たり前の事。
だというのに、七瀬愛理に勝手に期待して身勝手に失望している自分自身の小ささに幻滅し、更に落胆した。
はぁ、ともう一度、小さな溜め息を吐く。
……宮月美弥が呪いの儀式に参加したのは、勿論、凍川葵が憎いからではなく、生来の断れない性格から流されただけだ。
そもそも何かが起こる、なんて間違っても思ってはいなかった。
なのに、あんな――……
ほんの十数分前に起きたばかりの奇妙な怪現象が脳裏を過ぎって、ぶるるっと身震いした。
宮月美弥は忘れよう、と努力する。
忘れる為に、様々な事柄を無節操に考えて脳内を埋めていく。
そして。
……ふと、思った。
七瀬愛梨が凍川葵に劣等感を持ったように。
凍川葵も、誰かに劣等感を持っているのだろうか? と。
そこまで考えた時、トイレの外から「カタンッ」と何か小さな物を蹴倒すような、そんな密やかな音が聞こえた。
「……七瀬さん?」
静寂を乱したその音がどうしてか気になり、宮月美弥は小さく呼びかける。
「………………………………」
返事はなかった。
――静寂。
ただ耳に痛いような、圧倒的な静寂が扉越しの世界には満ちていた。
黒く湧き上がる不安。
気が付けば、トイレの外から聞こえていた、江藤敬吾と高槻晶の会話も止んでいた。
ゾワゾワと嫌な予感が、無数の虫のように背筋を這い上がった。
死神に首筋をゾロリと撫でられたような、そんな得も言われぬ不安が、墨を落としたように黒々と広がった。
七瀬愛梨が居ない筈は、ない。
一緒にトイレに入ってきたし、先に廊下へ出ているのなら扉の開く音がする筈だ。
その音もなしに、居なくなるなんて有り得ない。
どんなに気をつけても扉の開く音はするし、それ以前に、そっと出て行く必要だってない。
だから、絶対に居る筈なんだ。
……じゃあ、何故?
どうして、返事がないんだろう?
「七瀬、さん?」
もう一度、そっと呼びかけてみる。
「………………………………………………………………」
返事は、ない。
心臓をギュッと締め付けるような不安が黒々と成長して鎌首をもたげ、宮月美弥を襲った。
宮月美弥は窒息してしまいそうな重苦しい緊張に、もう声も出せず、トイレの扉を黙って睨みつけた。
ザリッ、とノイズが走る。
――この扉を開けてはならない。
うるさい。
――この扉を開けたら、きっと取り返しがつかなくなる。
本能が、耳に痛いほど警告した。
冷や水を浴びたような凍える恐怖に歯の根が噛み合わず、カチカチと音を打ち鳴らす。
うるさいッ。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ。
ザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリと走るノイズを振り払おうと、トイレの扉に手を掛ける。
扉に掛けた手は、自分の手じゃないかのように感覚がなくて、石のように強張っていた。
つぅっ、と背中を冷たい汗が伝い落ちた。
それらを誤魔化そうと、睨むように瞳へ力を込めて、歯を強く食いしばる。
耳に痛い警告音を無視して――震える手で、そっと押し開ける。
「…………ひっ」
「ソレ」を見た瞬間、宮月美弥の喉から、痙攣したような悲鳴が漏れ出した。
酸欠の金魚のようにパクパクと吐息が零れ、ガチガチと歯の打ち合う音が頭蓋まで冷たく振動した。
――ソレは、ズルリと鏡からはみ出していた。
まるで昆虫のような、非人間的な奇怪な動きで両手をバタバタと振り回し、藻掻くように鏡面世界から出ようと暴れていた。
そして、ソレと目が――遭う。
血走った目を、眼球が飛び出るほど限界まで見開いた、双眸と。
「……ぃ、いやぁぁあああぁぁぁあああぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁああぁぁぁっッ!!」
声帯が壊れるほどの絶叫が肺から喉を駆け上がり、口腔内を迸って爆発した。
宮月美弥の、そのただならぬ恐怖の絶叫を聞きつけ、
「どうしたっ!?」
「どしたんっ!?」
江藤敬吾と高槻晶がガラリとトイレの扉を開けて「ソレ」を目にして……二人の口が半開きとなり、次いで信じられないとばかりに目を見開いた、驚愕の相貌を形作った。
誰も動けないし声も発せない……そんな凍ったような時間が、数秒過ぎる。
そして、混乱が爆発した。
「な、なんだよコレッ!? お、お前、なんだよッ!? なんなんだよッ!?」
くわっと目を剥いて、激しいパニックに陥り、いっそ悲鳴のように叫ぶ江藤敬吾。
その後ろでは高槻晶が、言葉にならないとばかりに口をパクパク動かしていた。
「ワタシ、ハ、」
掠れたような、篭ったような声音で、鏡からはみ出した「ソレ」は絶え絶えに言う。
「ワタシハ、ナナセ、アイリ……」
血走った眼球でギョロリと射竦められ、感情のない人形のような動きで鏡から出ようと藻掻きながら――「ソレ」は搾り出すように言った。
宮月美弥の知る七瀬愛梨とは、何もかもが、かけ離れた異常な動作だった。
七瀬愛梨の顔をした、しかし七瀬愛梨では絶対に有り得ない「ソレ」を見て、宮月美弥の背筋にぞっと悪寒が走り、全身の肌が冷たく粟立った。
「あっ、貴女は……貴女は、七瀬さんなんかじゃない……ッ!」
宮月美弥は血を吐くように、いっそ悲鳴のように慟哭する。
宮月美弥の絶叫が、狭い空間に反響するように響き渡ると同時――まるで水面のように無数の波紋を打っていた鏡面が、ピタリと静けさを取り戻した。
――瞬間、ドシャリ、と重たい音を立てて七瀬愛梨の上半身が、トイレの床へ落下する。
下半身はなく、まるで鋭利な刃物で切断されたかのように、真っ白い骨が、真っ赤な筋繊維が、血に濡れた肉が、ピンク色の内蔵が、引き千切れた血管が、切断面からどっと溢れ出して外気に晒され、湯気を上げていた。
床にはぶちまけられたような血だまりが大きく広がり続け、むわっとむせ返るような鉄錆じみた異臭が広がった。
あまりの異常すぎる惨状に、全身が凍えたように総毛立ち、宮月美弥の喉の奥だけで空気が「ひゅっ」と漏れた。
――ぞぉっと絶対零度の悪寒が走り、全身の肌に冷や汗が浮かぶ。
七瀬愛梨の顔をした「ナニカ」が、上半身だけとなって死んでいる――その耐え難くもおぞましい光景に、視線を無理やり引き剥がして鏡を見ると、先程まで水面のように波打っていた鏡面が、本来ある筈の硬質を取り戻したかのように波紋一つ浮かんでいなかった。
……だが、鏡面の表面にはべったりと夥しい血が、帯を引くかのように下へ流れていた。
その光景は、まるで七瀬愛梨の顔をした「ナニカ」が鏡面から上半身を出している間に、鏡が本来ある硬質さを取り戻して現実との境界が断たれ、だから無残に斬り落とされてしまったかのような、そんな鬱々とした想像を容易に彷彿とさせるものだった。
宮月美弥は恐る恐る、七瀬愛梨の姿をした「ソレ」に目を向ける。
死んだように、動かなかった。
そして「ソレ」の血走った瞳と、目が――遭う。
宮月美弥が見ている事に気付くと「ソレ」は突然、床を引っ掻くように暴れ出した。
まるで怨嗟を、憎悪を、殺意をぶつけるかのような凄まじい憎しみに双眸を血走らせ、両腕を無茶苦茶に振り回して宮月美弥へ這い寄ろうと、床に両手を激しく叩きつけるようにして近付き……突然、その場で喉を押さえ、苦しそうに呻いて大量の血塊を口からゴボリ、と吐き出した。
黒い色の混じった、しかし鮮やかで生暖かい血が、宮月美弥の頬に降り掛かった。
宮月美弥は、大きく目を見開いて凍ったように動けない。
喉が痙攣したように小さく震え、もう声すら出せなかった。
下半身のない七瀬愛梨の顔をしたモノが、目の前で血を吐き出しながら凄まじい形相で苦しみ続けている……そんな正気を圧殺するような緊張感がしばし続き………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………やがて。
命の熱が消えたように「ソレ」の動きは緩慢となり、そして今度こそピクリとも動かなくなった。
悪夢じみた光景に目眩と吐き気すら催して、その衝動に耐え切れず、宮月美弥は「げぇげぇ」と胃の中身が空っぽになるまで吐いた。
胃酸すら残らず吐き出して――……そして、宮月美弥の意識は耐えかねたように、そこでぷっつりと途切れた。
暗い、暗い、底なし沼のような深い闇へと呑み込まれていった。
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とりあえず、ここまでです。
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