04
※
コツ、コツ、コツ……
何とか真っ白な冒険の末に家に帰ってこれた。
でも家に帰っても、いつも通り、家には誰もいない。
今日も両親が帰ってくるのは夜遅いんだろう。
誰もいない廊下の向こうに声をかける。
静かな家の向こうはいつも通り、誰の返事も返ってこなかった。それはいい。
俺はいつもの階段をトントントンと二階に昇っていき、冷たい自室のドアノブを開けていつも通りに、自分の、自分だけの部屋と世界に帰った。
冷たい空気が制服越しに肌を冷やしてくれる。
部屋ではいつもの机の上に置いてあるある小さな置き時計が、コチコチと、針の音を響かせている。
「……」
手荒に、ドサッと通学カバンをベッドの上へと放り投げる。
何もかも、今まであったことをすべて忘れてしまいたい。
置いてある朝起きたままのベッドにボフッと身を落とし込みたくなる欲求を抑え込み、俺はまず雪でシミの出来た服を脱いでハンガーに掛け、冷たい私服に着替えるべくタンスに近寄りながらそのついでに、自室専用として置いてある石油ヒーターのスイッチを入れた。
「……」
タン、タン、タンと、石油のにじむ音と独特の匂いが俺の空間に染みてゆく。
と同時に、俺は今日俺に降りかかった、例のあの妙な風景と記憶とが俺の頭の中にモンモンと広がっていった。
「……ちぇっ、オンボロストーブめ」
しばし静かな時間。
俺は昔、どこで何をしていたのだろう?
その時の記憶が、もしくはない記憶を思い出しかけている焦燥が、ほんの少しだけ、頭の中で頭をもたげていく。
こんなにひねくれた性格の俺が、自分で自分がイヤになることがある俺が、まだまだ純粋だった頃の話だ。
記憶。
記憶?
何かを、何かをしなきゃと思い詰め、追いかけていたような記憶だと?
「はは、失った記憶を突如思い出すとか、どんだけ頭打ってんだよ俺……」
ボールでも追いかけすぎて道で激しく転んだか?
俺が俺に毒づいた。
「聞きたかったのは俺の記憶、ってか? 憶えてないんじゃ何も聞けないじゃねーか、チクショー」
あの詐欺女め。
半身のTシャツを着替えながら、ふと窓の外を覗いた。
あの超大法螺吹きは、俺が勝手に生み出した嘘つき、ただの幻の影だ。
そう、思いたい。
見れば外の風景はいつも通り、暗くて細い、雪に埋もれた裏通りが見える。
「俺……あの人を知ってたんだ。でも誰なんだろう?」
嘘が嘘だった、みたいな。
俺はあの二人を知っている。
でもどこで会った誰なのだろう?
何かその女の人と何をしていたかも思い出せない。
いつからだろう。俺が、俺である当時のことを全部忘れて、今ある雪の降る自室に閉じこもりはじめたのは。
後戻りできない、俺の記憶が、じわりじわりと頭をもたげてくる。
子供の頃の記憶だからか。少し過剰な何かがあったとか。
わしわしと頭の髪の毛をぬぐってから、ふとあるべき昔を思い出してみた。
チッチッチッチッチッチ……ボッ。ストーブに火が点いた。
「俺、何を忘れたのか、忘れてるんだ。いや、忘れていることを忘れていた? は、ははは……」
希望を忘れた、とか? なんというファンタジーロードだ。ははは。だんだん笑えてくる。
笑えないよー。
ヤバイヨヤバイヨ。
オレノ アタマガ マジノふぁんたじぃ ニ ナリカケテルヨ!
「でもさ。俺、ずっと俺の記憶を忘れたまんま生きてきたんだよね」
そうだ。
俺はずっと俺を忘れたまま生きてきたんだ。
「なのに、私生活は何にも、変なことなんてなかったよね?」
なんの弊害もなかった。
という事は、当時の俺が何かしようとしていたことも、特に大事なことではないって事で。
「つまり、忘れてもいいような記憶。忘れて良いような事。何の問題もない。俺、普通じゃね?」
へらへらっと、誰もいない自分の部屋で自分に笑ってみせた。
これで何度目だろう。俺が、俺を偽るために自分に笑って見せているのは。
そうだそうだ。これは世間様の空気とマナーをを読むべき所だ。
「ちぇっ、角辺の言うとおりだ。アンチ現実人間は、部屋に閉じこもるべし!! ……って、とこなのかなー」
普通じゃない奴が世に出たら、世界は混乱を極める。
第一に混乱するのは自分自身。
「……そっか」
でもやっぱり、素直に認めなくちゃならない。
俺、記憶を失ってるんだ。
俺、何を忘れてるんだろう。
忘れているはずの、何か、を、忘れている?
「ふむぅ」
俺は何となしに、脇に放り投げていた携帯電話を覗いてみた。
着信履歴、なし。メールなし。
「……」
あいあむボッチ!
そのままゴロンと横になる。
……腹に、何か大きくて丸いような、何かの物体が食い込んでいた。
手に取ってみると、それはまだほんのり温かみを保っているいつかの缶コーヒーだった。
「……ちぇっ、現実的なファンタジーめ」
コーヒーのオッサンは相変わらず、見えない何かを見つめながら「目が前についているのは、前に進み続けるためだ」みたいなことを無言の目で示している。
いや、実際そうなのかどうかは俺には分からないが、要はそんな感じなのかなと。
……文系の俺は思う。わけで。
思いながら缶のプルタブをギュポッと開けようとして……プルタブが、俺の知っているプルタブじゃない事に若干戸惑った。
「んだよこれ、また古い形の奴だなー。昭和かってんだ」
飲んでみると、やっぱり中身は普通の味だった。
いつか飲んだことのある、大した違いも何も無い缶コーヒー。
「ぬるっ」
男は黙って、缶コーヒー。
本当に現実的な非現実だこと。
俺はいつ、自分のいつもの道を誤ってしまっていたのだろう。
それとも俺は……もしかしたらあの二人組は、その時俺が慕っていた内の誰かだったり……するのだろうか?
俺が意識するずっと前から、俺は、今の道を歩いてきていた?
となると、じゃあ俺はずっと前から俺はこの道を? なぜ?
いやいやその前に……俺、あんな二人が知り合いにいたか?
と同時に、何かモヤモヤとした別のことも思い出しかける。
そうだ。俺には、確かかなり年上の女の人の知り合いがいた。
そして……あれ?
「やべぇ俺変な事思い出しちった」
ハッハッハと一人ベッドの上で笑いながら、腕を顔に被せて目を覆った。
コーヒーがこぼれないように。
その女の人がいったい何者なのか。
「そうだ、俺には確か、初恋の相手がいたんだっけなー」
恥ずかしすぎて誰にも言えない……いや、そもそも忘れていたんだから誰にも言えないようなことだ。
封印していた過去の記憶。それは、俺のめちゃくちゃ恥ずかしい記憶だった。
俺の初恋の相手は、昔近所に住んでいたものすごい年上の女の子だった。
もちろん色々あった……とは思うんだが、残念ながら今の俺は当時のことを何も覚えていない。
ただ漠然と、俺は近所の女の子に恋をしていたんだという記憶しかない。
いやいや。でもそれもだいぶ曖昧だ。
でっ、でもそれでいいじゃないかもうそれ以上恥ずかしいことを思い出すのはやめようぜ?
「でも……そのお姉さんが、あの二人? え? ……二人もいたっけ?」
俺の記憶の中では、お姉さんは確か一人しかいなかった。
もしくは
「なぜあの時のお姉さんが、あんな若い姿で?」
十年たっている昔の記憶なのに、今見てきた二人は、当時の俺の記憶以上にさわやかな少女だった。
可愛さも、たぶんあんな感じではなかったと思う。
もしくは当時からあんなだったのかな? 分からなかっただけで。
もしくは
「あの人、今どこにいるんだろう?」
確証のない、曖昧な記憶。
白い雪の向こうにかすむ俺の中の、何か。
突然、あの人とは会わなくなった。
別れた記憶がない。
そこらへんから、俺の記憶は真っ白な靄に隠れて見えなくなっている?
あのとき何があったんだろう?
もしくは
「あのとき、俺はお姉さんと、何をしていたんだろう?」
俺はお姉さんと一緒に、何をしていたのか。全ては真っ白な靄の向こうに霞んでいて、今の俺はその記憶の風景をほとんど思い出すことができない。
ふっと、息をつきながらコーヒーを飲んでみる。
コーヒーは、苦かった。
「……こんなコーヒー、飲んだことねーよ」
ちっくしょー。
自分が、どんどん現実から遠くなっていく感じがする。
と、ふと横腹の下で何かが一瞬バイブレーションを繰り返した気がして、その物体を持ち上げてみた。
角辺の着信が入っていた。
「くっそ角辺め……ナイスタイミング」
死ね、裏切り者。
俺は若干イライラする気持ちをまったく抑えないまま、素早く番号を入力、発信ボタンを押してみた。
もしかしたら、この腐れ縁のごとき悪友との会話で、何かのヒントが得られるかも知れないと、俺はいつも通り何の根拠もなく思ったからだ。
ガチャリ。通話特有の音が聞こえる。
「つゥーの……!」
「よ、ヒューマン!」
「???」
突然の意味不明の言葉に、俺はあっけにとられてしまった。
「驚いたか?」
「……オイコラ何の用だ」
「なんだーいつにもましてカリカリしてんな。そんなことよりカラオケ行こうぜー、カラオケ!」
「……お前は何かある度にそんなとこにしかさそわねーな。ってかなに、お前俺と付き合うの辞めたんじゃなかったっけか?」
「おーおー、何か色々勘違いしてますな? ははっ、いやいやーいいよいいよー、いつもと立場が逆だぜ、ザマーミヤガレってんだ!」
「ハーイーぃー?」
「ってかお前、ホントに分かってねーの? いい加減気づく頃と思ってたんだがなー。所詮、チェスの大会優勝者でも、地方選だと『こんなもん』ってなやつになっちまうもんなのかね」
「ケンカ売ってんのかお前? シバくぞこら」
「おお怖い。でもよ、俺が売ってるのは別にケンカじゃねーんだ。っつかそろそろ気がつけよ」
「はあ。俺はいったい何に気がつきゃいいんだい」
「……お前なぁー。まあいいや。詳しいことはこっちに来たら教えてやんよ。駅前、いつものゲーセンの隣にあるやつな! あ、あとな」
角辺の携帯電話の向こうが既に町のアーケードなのか、電話越しに聞こえる雑踏がだいぶうるさかった。
その雑踏が、ほんの少しくぐもる。
「ずっと考えてたんだ。その上で、俺はお前の言うこと、嘘とは言ってないかんな。そこ勘違いすんな。ってか、たぶんお前に今起こってることは、たぶん俺にもカンケーある事だと思う。そこら辺も含めて、お前には少し話したいことがあってな」
「何それ?」
「俺は、お前に起こっているそれを、絶対に認められない。俺には俺の都合がある。俺が俺たる、俺の由縁ってやつだ。分かる?」
「分ーかりませーん。ってかお前いつからそんな小難しいこと言うキャラになったんだ?」
「お前に言われたくない。へそ曲がりファンタジーボーイっ」
電話口の角辺の声の向こうから、何かどこかの店の音が聞こえた。
「まー俺だってなー、その……えー、あー、なんだー」
「?」
「……来れば分かるさ。きっと。じゃあ待ってるぜ! 俺の永遠のライバルよっ!!」
角辺からの通話が一方的にとぎれた。
俺はハァ!? と少し怒声を上げながら自分の携帯電話の電源を切る。
いったい何がどうなってるんだ!?
角辺といい、あの二人組の謎の言葉の大群といい。
俺の知らないところでは、いった何がどう動いてるんだよ。
トントントンと床を足先で踏みならす。
解決策は、見えてこない。
「ン何なんだよいったい!!」
くっそ、こうなったらとりあえず直接話を聞いてみるしかないか?
直接本人に問いただしてやる。
意味が分からん!!
世界に広がる数多の謎。それらは、今の俺にはさっぱり解けそうになかった。
※
駅前、バスが何台か止まれるようなロータリーは、俺たちの住む住宅街と違ってだいぶ『賑やか』な場所だった。
とは言っても、町の規模はたかが知れている。
町そのものは俺の足で歩いて廻っても、たぶん廻れるような主要な道は一時間くらいでグルッと回りきれるだろう。
町なんて言うのもおこがましい。村と言え、村と。
「来ーたーぞー!」
俺はそのひなびた村……もとい、町の辺境的中心部にある商店街のさらに隅っこ、小さなカラオケボックスに入って怒鳴った。
「おう、来たなー我が親友よーッ!!」
入るなり俺の怒鳴り声は、俺よりもさらにうるさい大音響が腕を広げて俺を待っていた。
ヘン、白々しい。
「う、うーるせー!!」
「まあまあ文句言うな! あ、ここワンオーダー頼むことになってるんだけど何か飲む?」
「……うーろんちゃーっ!」
「あいよー」
そう言うと角辺は立ち尽くす俺に、テーブルいっぱいに広がったポテチの残骸に隠れたメニューをずずいっと勧めてきた。
いやちげーだろそれ。
「で、何の用なの?」
「何飲む?」
「いやだからウーロン茶」
「そこ、電話はそこね」
「お、お前はぁ……ってか、お前ってギターなんかやってたんだ?」
「うん? 知らなかった?」
暗い、ジュークボックスのCMがキラキラと輝くカラオケボックスの中で、角辺は手持ちのギターをゴンと床に鳴らしながら置いた。
「ギターをやってるこの俺様も有名だが、この超絶ギタリストの俺様も、実は結構有名なんだぜ?」
「へえー。全っ然、そう言うのうといし」
「まあ俺の中では、って注釈が入るんだけど」
「……なんかこの前のを返された気分だ」
「おうっ。お前にはいつもやられっぱなしだからなぁ」
「まあ次会ったらすぐ返してやるがなっ。で、何なのあの電話は?」
「何がって、何が」
「あんだけ俺に色々言っておいて、今度は突然『気が変わりましたー』みたいな話……とかだったら俺は帰るからな?」
「まあまあそう言うな。そう言わずに、とくと俺様のギターテクを聞いてってくれよ」
暗い部屋。
角辺はニヤニヤしながら自分のジュースをガボボッとストローで吸った。
俺も自分の注文を頼むために、部屋の壁にかけてある電話を取って一つ注文することにする。
店員さんは明るく「はい分かりましたー」と言って俺よりも先に電話を切った。
「……ってか、カラオケってこんな風に使うところだったっけ?」
「なんじゃないの? 色々使い方はあるらしいぜ? 例えばこの前俺がやってたヒトカラとか。勉強に使う人間もいるらしい。ホカニモホカニモ……」
「あーもういいもういい。ごめんよ付き合いが悪くて」
「うん、そこはいい。まあ冗談はさておき、俺は本当は俺のギターテクを自慢したくてお前を呼んだわけじゃねーんだ」
「へーへーへー。まあ、いいや。じゃ何?」
「聞きたい事がある」
「さっきはいきなり友達終了宣言したくせに」
「それは違う。友達終了宣言したわけじゃーない」
「じゃ何さ?」
俺は空いてるソファに座ると、正面に角辺の顔を見据える形でぐっと前屈みになりながらその場に落ち着いた。
とりあえず……手元に食べかけのポテチ袋があったので少々中身を失敬する。
「俺だって一人の人間だ。お前みたいな楽しそうな奴が近くにいたらー、そりゃ迷惑にならん形で何か手は出したくなる。そうだろ? あ、迷惑ってのは俺の方ね?」
「う、む……」
ボリボリボリ。
やっぱりなんだかんだ言って、角辺はウザい奴だった。
まあ悪くない奴だとは思ってるんだが。
「だがしかしッ! だーがーしーかーしーだよナイトくんー」
俺が一人平和的な妄想をしていると、そんな俺の心をまったく見越していない角辺クンは上機嫌そうに、手持ちのギターをボロローンとかき鳴らした。
「俺にだって個性はある。お前が何かしら追いかけている間にも、俺にだって俺の事情でやらにゃならん事くらいは出てくる。そうだろ?」
「お、出た出たお得意の謎かけ。俺に何か答えさせたいんだろ」
「うむ。例えばだ。俺にできないこと。できること。お前にはできて、出来ること、そんなものはたくさんある。そうだろ」
「当たり前だ。何を今さら」
「子供のお前にはー、もしかしたら分からないことかもなー? 俺はな、こんな年だが色々……なんちゅーか、大人の悟りというものを感じたよ。この虚無感、ああっ」
おろろーん。……いや、ボロローン。
悲しげなギターの声がボックスの中に響いた。
ジュークボックスの白い画像がチカチカする。
「……何かあったの? お前が言うその悟りって話って、もしかしてそのギターが何か?」
「ウン。まあね」
「何かあったんだ?」
「そりゃあるさ。でなきゃお前をここに」
「……呼ばないと。で、その話を俺に聞いてもらいたいと」
「いやいや俺はそんなことは……」
「言いたかったんじゃないのー?」
「……」
「まあ、飲めよ。今日くらいは現実を忘れようぜ。俺ってば結構大人じゃね?」
そう言って俺はテーブルの上に置いてあった飲みかけのカルピスを角辺に勧めた。
「……フン!」
たぶん、このカルピスは角辺の物なんだろうなァ。
「実はさっきまでさ、俺、歌でこれから食っていこうって思ってたんだ」
「歌!? それ歌手デビュー!? マジで!!??」
「うん、マジデマジデ。マジデジマ。だからここにはよく来させてもらってたんだけどな。でもなー、やめたんだー」
「で……ええっ、なんでそんな、いや……でもなんで?」
「ここの人がサ、めっちゃ歌がうまいんだ。あとギターも。で、俺はここでバイトしながらここの人にギターと歌を教わってたの」
「バイトやってたんだ!?」
「そこかお前が突っ込むところは。まあいいや。だがしかーし!」
角辺が急に、本物の酔っぱらいの様に、カルピスの大瓶を大げさに宙に振った。
「だがしかしだよナイト! 俺は、さっき夢が覚めたんだ。辞めた。『ギターで飯食っていくのは現実的か?』とね。世界に絶望したヨ。そりゃそうだ。奇跡でも起きない限り、俺には無理だと。悟った。悟らにゃいかんわな」
「……」
何があったんだろう。
うるさい室内に角辺の悲鳴が響く。
この世に絶望した、角辺の声。
「俺たちは来年受験だ。俺たちは、現実を見なきゃいかん。夢は一瞬は気持ちいいさ。そして覚める寸前はとても寒い。泣いてもいつかは覚めなきゃならん。だから夢の覚める瞬間は、人はいつも泣いているんだ」
カラオケボックスの中の白CMは、いつまでも同じ内容の公告を流し続けた。
明るいポップソングの繰り返し。同じ笑顔と、同じリズムと、同じビートの繰り返し。
永遠に変わらない、ハイテンポのCMソングだ。
その点角辺の悲鳴は一度きりだった。
しかも……たぶんそれは、悲鳴を上げてる本人もそれが「悲鳴である」と分かっていないのだろう。
俺にもちょっと自信はないが。
「で、でも深いねなかなか」
「どうしてそんな事を考えたのか。この俺様が。気になるだろ?」
じゃかじゃかじゃんッ、と得意げに……かどうかは分からないが、角辺がギターをうるさくかき鳴らした。
俺はふたたび、歌なしの悲鳴の合間に何個目かのポテチを失敬する。
「うん。でもいいと思う。そういうの、俺結構好きよ。俺にはない話だし」
「でもこれ、オメーのポテチを食わすための話じゃないんだがなー」
「そこまで読んで俺をここに呼んだのか」
「フフフ……伊達にチェス大会の優勝者とタメ張ってねーぜ?」
ガバリと角辺が俺の……いや、角辺のポテチを取り返していった。
そういやここは飲食物持ち込み禁止なんじゃないのか?
「あーハイハイ。で、早い話がそのおにーさんの……角辺の師匠にもしかして何かあった?」
「そう。大切な話はそこだよ」
角辺は悲しげにうなずいた。
「で? そのギターテクのお師匠様とバイト、夢の話……と、なると」
ポテチを食べていたからか、ふと、何も無くなった口の中に今度は渇きを覚えてくる。
俺はだんだんウーロン茶が飲みたくなってきた。
俺はおろおろと視点を部屋中に回したが、特に飲めるような物は……角辺の飲みかけのジュースしかない。
「そう言うこと。うまいんだその人。だって俺の師匠だもん。そしてこの店のオーナーの息子でもある。その人が、なぜこんなところでセコセコとバイトなんかをしてるのか? ってな」
「あ、あーあーあーあーあー……」
俺はだいぶ喉が渇いてきて、今度は口を半分開けたままウロウロと視点と顔を動かした。
と、そこへ今度はボックス席のドアからノック音がして、スキンヘッドの大きな店員さんが部屋に入ってきた。
一瞬店員さんが角辺に笑いかけて、そのまま黙ってテーブルにウーロン茶を置いていってくれる。
ニッコリ笑ったその視線の先を見ると、そこには同じように手を振っていた角辺の顔があった。
振り帰ると、もうそこにはお兄さんの顔はどこにもない。
「今の人が、その人です」
「あの人が?」
「いい人だろ。インディーズ崩れなんだってさ」
「へえー」
「インディーズでずっとやってて、それなりにボチボチ売れてたらしいんだ。でもよく聞けよ。あの人は、『元』インディーズなんだ」
「……と、言うことは」
「そう。つまりあの人は今、何も手元に残っていないただの人。そして俺はあの人に言われた。夢なんか捨てて、早めに普通の人生を歩いていた方が、人生よっぽど正しいって。夢なんかない方がいいって」
「……」
「やだねーこういう話。現実的でさ。夢なんか棄てちまったほうが現実的って事さ。そういうもんかね?」
「まあ、うん……」
「できることはできる。できないことはできない。それこそ俺が逆さまになったってできない事はたくさんある。起こりえない事は起こらないわけだ。俺があの人以上にギターテクがうまくなって、ギターで飯を食っていける人間になれるとは思わない。いや分かってる。分かりきってる。やらなくても分かるさそれに」
「……」
「ギターじゃ飯は食えない。だってそうだろ。こんな負けしかない分かりきったゲーム、始める前に諦めるのが大人の選択だ。俺は大人になるんだ」
何とも言えなかった。
夢なんか早く棄てちまえ。でないと、たゆまない現実世界の流れに戻れなくなるぞ。
例えば俺が、さっきまで体験していたことは、それはそれとして受け流して置かないと後々大変なことになる。
例えば進路が決まらなくなったり。もしくは……いや、やめておこう。
千円払って映画を観て、すっきり爽快さあ明日からいつもの俺の人生の続きをしようかって、そんな感じの方が絶対にいい。
実らない無駄を一生懸命、傷つきながら、試行錯誤するのはなんてったってかっこわるい。それは分かる。
それが常識的だというのも分かる。いや、ぜったいそうだ。
「前にお前が言ってたあの話」
と同時に俺は、『でもやってみなきゃ分からないじゃないか』という考えも持ちつつあった。
できるかできないか。やってできなければそれはいつもの日常が待っているだけ。
でもそれができたら、そこからは、今までの俺の日常は少しずつ変わっていけるはずだ。
できるかできないかは、やるかやらないかの違いだけのはずだ。
「うん?」
「角辺が前言ってた話さ。壊れる世界ってのは、自分の世界の事か」
「全部だわな。一時の気の迷いで俺は俺を破滅させられるほどの度胸は俺にはない」
「……」
「やるなら他人を介した別人……スクリーンの向こうの主人公とかな。と言うわけでー」
「フンっ」
「そう、話を本題に戻そう。さすがチェスの大会優勝者、話が早くて助かるぜ」
そう言うと角辺は、唐突に、自分の膝の上に置いていたギターをゴトッとテーブルの上に置き直して俺のまぶたをじっと見つめた。
真っ暗な角辺の世界に、キレるCMの白い光が明滅した。
闇が斜めに切り裂かれる。
「えっ? 何? 何の話?」
「お前の話だよー。強いて言うならグローブ代。俺は、俺の面白話をお前に聞かれてポテチ食われたくはない。ポテチを食うのは俺の方であって、お前はお前の道を勝手に歩いてくれなきゃ困るってんだ。オケー?」
ボリボリと角辺がポテチを食べ始める。
俺はポカンとしてしまうばかり。これ、そういう場所だったのか?
「まあ、うん。まあそんなもんだ。世界は弱肉強食、もしくは……男は、何かを巡って戦い、戦う、ただそれだけのために存在する」
いつもの含み笑いみたいな、何か悟ったような、裏のあるような顔で、角辺はじゅじゅじゅっとジュースをすすった。
「そういやさ。なんでお前って最近こうも俺にいろいろ突っかかってくんの?」
「何かやってる人間はいつも誰かに叩かれてるもんだぜ」
「それがお前?」
「世間様の代わりに俺が、友情プライスも込み込みでやってあげている。感謝しろよー?」
「ちぇっ、嫌な奴だな。似非哲学者め」
「他の奴がやったらたぶんもっと容赦ないと思うがな。でだ、ナイト君。向こうはどんななんだ? 傍観者としては、俺はそこが知りたいんだぜ」
何か色々と妙だ。
俺は角辺に感じる妙を探ろうと、じーっと角辺の顔を覗いて見てみた。
何か……何かがおかしい。
何か話の隅にある妙が……そうだ。角辺は、なぜ俺が、『向こうの世界』に行っている事を知っているのだろう?
言葉には出さず、黙って角辺の瞳の奥を覗き込んでみる。
最初角辺は笑顔だったが、その瞳の奥は何か……いや、角辺の目は最初から笑っていなかった。
「んだよ」
「お前は……なんで、そこまで俺の事を知ってるんだ?」
「えっ……」
「俺はそこまでお前に俺の事を教えていない。なのにお前は、どうも俺の事を知っている。なぜだ? お前何考えてる?」
「な、何も考えてねーべよ」
「嘘だね。その言葉は、何か嘘に感じる」
「その根拠を述べよ」
白い私服を着た俺。
対する黒い学ランの角辺。
暗闇の部屋に、一つの対立軸ができた。
「俺が何を企んでるって?」
「そこまでは言ってない」
「でなきゃーそんな目はできんだろー」
「……」
俺は言われてからハッとした。
自分が、自分で角辺の目を睨んでいるのだ。
でも二人で突然殴り合うとかそういう雰囲気ではない。
あくまでも静かに、互いに互いの出方を探り合っている。
白と黒の、とても静かな戦いだ。
「うー……。なかなか、鋭いな。あー、でもだ」
角辺は俺の質問に小さく汗をかきながら、ふいっと俺を見ていた瞳を脇に寄せた。
別ににらみ合いをしていたわけではないが。でも途端に、そこから角辺の表情が見えなくなる。
「でももし、俺がお前に対して何か考えていたとしても、それを俺がしゃべると思うか?」
「……」
「こう考えてみたらどうだろう。勝負はいつも真剣勝負」
「勝負?」
「そう、勝負さ。俺とお前はライバル同士。例え友達だったとしても、何か一つの『何か』を取り合ってる時は、俺もお前も黙って争いあうのが普通。そうだろ?」
「……」
「で。もしかしたらお前はその奪い合ってる『何か』ってのが分かってないんじゃないかと思って。ってか、そこら辺の話って、お前理解してる?」
そう言うと角辺は笑顔から、急にまじめな顔になった。
ヘラッと肩の力を抜いて、俺の目を斜めに見返してくる。
角辺はいつもそうだ。そうやっていつも、俺の足下を掬おうと何かを冷静に狙ってくる。
「つまり?」
「おいおいもしかしてそこを俺に説明させる気かよ。まあ、いいや。ここは友情プライスといこうか。んー……」
うるさいはずのCM動画が、静かに二人の間を切り裂いた。
テーブルの上には乱雑なゴミが。でも俺たちは、自分の持っている何かを、素早く互いに打ち続けていた。
「そうだな。いや……久しぶりにな、見たんだ。俺も」
「見た?」
見たって、何を?
角辺のラフな表情に皮肉そうな笑顔が覗く。
俺もそんな角辺の顔につられて首を軽くひねった。
どこかでギターが、ボロロンと小さく鳴る。
「お前がー、たぶん今さっきまで会ってたんだろうな。あれとな。実は俺も、むかーし会ってるんだ」
「へ?」
予想外の言葉が、俺の脳を刺激した。
二人組の、あの女の子達……いや、俺の幼なじみのあの人の事か?
黒の角辺が、さながらどこかの吟遊詩人のようにして何かをポロンポロンと弦を弾いた。
足を組んで。黒の角辺が。
白いテーブルに斜めに走る光の明滅。
ここは、黒の世界だ。
「これで二度目になるかな。不思議な話、まるでトトロみたいな話……っつかさ、だんだん気になってきたんだけど、お前って、自分の昔とかあんまり覚えてないの?」
「!?」
こいつ、どこまで俺の事知ってるんだ?!
自分の動機が、自分でも分かるくらいだんだん激しくなってくる。
「んだよ、そんな面白そうな顔すんなよ。お前な、まさかと思うけど、自分が車に轢かれたのくらいは覚えてるよな?」
轢かれた? 何のこと?
「お前を轢いた車はなー、あれな、実は俺のとーちゃんが……」
「えっ、ちょちょっと待って!」
「なに?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺、昔車に轢かれてたんだ!?」
俺はどこかからか、ぶわっと気持ち悪い汗が噴き出てくるのを感じていた。
角辺は、俺が知らない俺の何かを知っている。
なぜ?
俺の疑問と必死の問いに、角辺のギターがピタリと止まった。
「ん、憶えてないの? それこそこっちがビックリ。つーか何、お前ん家ってそういう話はしないんだ?」
「全然っ!」
「フーン? なんだかアレだなー。でもまあ、そういう事なの。実は」
ポカーンとする俺と、そんな俺を前にして角辺は妙に気まずくしている。
ポロロンとギターを鳴らすと、ジュースを口に含み、再び口を開いた。
「……お前って、ウチの家族は知ってる?」
「え? あ、いや、そういえばそういうの、全然知らない」
「ウチな、父ちゃんいないの」
「……」
「理由は言わないぜ。なんかヤだから。そんで色々あってさ、ウチ、両親は離婚してるんだ」
ボロローン、ジャンっ、ぽーろーろーぎゅりぎゅりぎゅりぎゅりーん?
「そこら辺も分からない?」
「……うん」
「うっそー? お前んちって意外とクールなんだなー。そういうのも話さないんだー?」
「う、うー……」
「でもま、ウチも似たようなモンだけどね」
「恨んでる?」
「誰を?」
「俺を。たぶんそれって、俺が轢かれたのと何か関係あるんだよね。ってことは……」
「まさか! それに、その質問は俺からも聞いてみたい。どうよ?」
「だって俺は、事故のことすら憶えてないから……」
「あー、そっか。まあでも、うん、俺は別に気にしてないよ。俺がお前を恨む必要もないし。そこはそれさ」
角辺はソファの上であぐらをかき、ギターの弦をチューニングしながらちょこちょこと耳を弦に近づけて音を微調整した。
パパパッと、闇の中でギターの表面がジュークボックスの光を乱反射させる。
不思議だ。まるでキラキラと輝く不思議なギターのようで。
綺麗だった。闇の中の光のようで。
「ただこうやって、よく分からないけどその事故の関係者と今は友達でいる。紆余曲折を経てるけど、それだけ。そしてまたこうやって、何かを巡って言い合ってる。あの時みたいに。そんな感じ、しない?」
角辺はキュキュキューッとネックを回した。
弦がギューッと音を鳴らし、ギリギリと絞られてゆく。
「そしてそれとは違う形で、当時のとほぼ同じ話を、今、二人で解決しようとしている」
「な、なんの事だよそれ?」
「さっきの話だぜーナイト君。当時、小さな頃の、俺の記憶。一人親はさびしいものだよ? まあそれはいい」
どういう事だ?
何かが複雑に絡み合っている。知りたいことのヒントみたいなものが、絡まった何かの向こうにあるような。
角辺の鋭い目が闇の向こうで輝いた。
俺はそれが怖かった。だが、何かが分かりかけているような。
何だろう。いや……なんだろう?
「ちょっと教えてくれ。俺は、そこら辺の話が全然分からないんだ。さっきの話を、詳しく教えてもらいたい。俺は、お前の知っていることを知らないんだ。どういう事なんだ?」
「だから言ったろー? 久しぶりに、アレを見たって」
「え? アレって?」
どの話だ?
一瞬混乱する。
「キツネ」
「はい?」
キツネって、あの、よく町にいるあのゴミ漁りか?
それとも……俺が最近見ているあの……正体不明の、銀狐のことだろうか。
角辺はふたたびギターを膝の上に抱えると、また前みたいに余裕の構えでギターの弦をかき鳴らし始めた。
「知らないの? ガキの頃はよく地元の語りナントカに繰り返し聞かされてきたけどさ。ほら、なんちゅーか……ここら辺に昔から伝わる古い話さ」
「よ、よく分からないけど、それが何か?」
「……まあ、こんな話をするのも変な事だが……単刀直入に聞こう。お前、それと何か関係持ってんだろ」
「……」
「俺はお前に今起こっていること事、その話を聞きたいんだ。俺はその答えを欲している」
「聞いてどうする」
「どうもしないさ。俺はそのオキツネサマってのが気に食わねえからね。なんかの新興宗教みたいでさ。嫌いなんだ。キボウーだとか、ユメーだとか、そんな最近出てきたみたいな話を、どっかのいろんな宗教とくくりつけたみたいでよ。なんちゅーか、そういうの嫌いなんだ」
「でっ、でも……」
「まあ黙って聞いてくれ。俺にも色々ある。で、その上で。俺には考えがあって、お前には“このまま突き進んでもらいたい”って、言ったのさ」
「……なぜに?」
「そこまでお前に教えるつもりはない。だが……いや、じゃあこうしよう。お前はお前の知りたい何かがあるんだよな? そこをどうも俺は知っているらしいと」
「……」
「だからよ、ちょっと色々交換しないか。俺はお前の欲する何かをやるよ。その代わり、お前にはこの話を、とことん突き進んでもらいたい」
「な、なんだと?」
「さっきまでの俺が話はタダでいいさ。友情プライス。それほど俺はアイツらを憎んでる。ヘイトだぜ! 大っ嫌いなんだぜ!!」
角辺はゴツゴツとギターのボディをゴンっ! と拳でノックした。
いつもの角辺のへらへらしていた顔が、いつになく真剣なまなざしをしている。
俺は……いや、俺も角辺の瞳を見ていた。
「どうする?」
何か訳ありそうににやっと笑うと、角辺はでも何か怒っていそうな顔になりフウと大きく息を吐き、ソファーに深く座り直しながら両手を頭の後ろに組み直し背を反らせた。
「どうする?」
「……いいよ、分かった。じゃあ聞くよ。俺が聞きたいのは、まず、お前の言うその神話みたいな方だ」
「答えるのは一つだけだぜ。もちろん俺も、お前に言うのは一つだけ。ま、いいや。俺の知ってる話は……そうだな。俺の嫌いなそれの正体は、実は仏教でもなんでもない、古いこの地方にあるとある神様の伝説由来なんだとサ」
「……なんだいそれ?」
「知らん。デーダラボッチとか聞いたかもしんない」
「はあー」
なんだか突然うさんくさくなってくる。
でも角辺は上の空で、ソファの上から何か空の向こう、見えない何かを睨んだままアーアーとやる気のない声を出した。
「そうさまるでおとぎ話みたいな話さ。でもな、信じられないだろうが俺は、そいつに会ってるんだ。ずっと前に。もちろん当時は俺も子供だった。だから今よりずっと純粋だった」
「ははっ……もし今より邪悪だったら俺は驚くかなー」
「そりゃーお前もいっしょだろォよ?」
「うん、まあ、ね」
「……まあいいや、そこはまあいい。純粋な俺も、昔はそこら辺のガキと同じように熱心にその伝説ってのを聞いてた時期があった。その程度で夢中になってた時期があった。で、そんな時にあの事件があった」
「事件って?」
「おいおい質問は一つだけだろ。で、その話の中には、小さかったお前がいるんだよ。ここは、どうもお前は覚えてないらしいけど」
「……俺、お前と始めてあったのっていつだ?」
「たぶんお前が忘れてる記憶の中の時期なんだと思うぜ?」
「な、に?」
「でな? 当時まだかわいかった俺様は願ったわけだ。ある願いをかけて、まあその、なんだ、カミサマって奴に……。まあそういう時期があってもいいさ。両親が二人になってくれるようにって、ガキの俺はガキなりにな。そしたらなー現れたんだよ。どっかに」
「……」
「色々ありましたよ。ハイ」
突然、話が急展開しだした。
俺はテーブルの上に身を乗り出す。
だが対極的に、角辺の方は至って冷静な態度だった。
「……そこも憶えてないんだ?」
「全っ然!! 何それ? もしかして俺、その時何かしてた!?」
「お前……ホンっトに何も憶えてないんだな。でもそういう事」
そう言いながら、「あー」とか言葉にならない言葉を口に出しながら、角辺は何か恥ずかしそうに鼻をすする。
「俺の知ってる話はここまで。なんかツマラン話になっちまったな。じゃあ今度は、お前の話を聞きたい」
「う。いや、ウーン。そこで終わりかぁ……」
「お前に今、訪れているはずの話を聞きたい。これは、俺の知らない何かだ。そして俺は、俺なりに、その話の結末を知っている」
「……」
「だからこそ、俺は叫び続けたい。奇跡とか、夢とか魔法とかファンタジーってのは、この世には絶対起きないんだと。お前もそうだった。そう言っていた。なのに最近はどうだ? なんだかよく分からない事をしている。そして同じく、なんだか明るい顔をしている。うらやましいね。だからこそ言いたい。あんまり変な道を辿ってると、俺が言ったみたいに世界を滅ぼすことになるぜ。俺みたいにな。唯一無二の、お前自身のためを思って忠告してやってる」
じゃがじゃんっ、と、またいつかみたいに角辺はギターを掻き鳴らした。
俺は何も答えられなかった。
角辺には答えがある。自分なりの理論と手順を踏んで、ある一つの結果を求めるために一つずつ手を進めていく。
対する俺は?
何がしたい?
ただ現状は「こうある」というものしか、俺は手元にはない。
その手元にある物が、俺は……いや、俺には手に負えるようなものでなく。
非現実が、少しずつ軌道を修正しながら現実味を帯び出し始めている。それに流されていた。
対して俺は、俺のしたい事、手が、よく分かっていなかった。
角辺は日常を認めていた。
かなり斜めな考えではあるが、それが彼なりの、彼の求める答えとして。
「……俺だってうらやましいよ。お前みたいな存在が」
「は?」
角辺はフンッと、鼻息を屋根に向かって吹いた。
「ああいや……なんでもない。で、お前、向こうで何やってんの?」
「……チェス」
突然の話題の変更に、俺は色々不満はあったが敢えて平然と事実を答えた。
「チェス!?」
角辺の反応は予想通り。
驚くわな、普通は。俺も驚いてる。
俺は憮然と、膝の上に両手を置いて顎を手の上に載せて答えた。
「チェスやってる」
ガバリとソファに寄りかかっていた角辺が一気に上半身を起こして俺の目を見てきた。
「なんで向こうでチェスなんかしてるんだ? お前これ結構変な事が起こってるんだぞ? 一世一代とは言わないけど、これ……あいや、俺の話じゃないからあれなんだが。……ホントにチェスなんかやってんの?」
「キツネに変な所連れてかれて、そこで前話した女の子二人組に会ってるんだ。そこで俺は、なぜかチェスをしている。それだけ」
俺はポリポリと頬を掻きながら、俺を凝視している角辺をおそるおそる見返してみた。
「これが聞きたかったの? こんな話が?」
「いや、えっと……え、チェス? なんで今さら?」
「いやなんでって言われても……」
「ふぅん」
角辺は何か、上を向いたり下を向いたり、トントンと何か靴先を床に打ち付けたりフウーッと長いため息を吐いたり……していたが、その内コキコキッと首を曲げて音を鳴らすと、ウンと一息ついて何かの決心をしたようだった。
「まあ、いいや。うん、なんだろ、もっと面白そうな話を期待してたんだが……」
「面白そうな話ってなんだよ」
「異次元をーとか、実は美少女がー、とかいろいろあるじゃん。異世界物は面白いのがおおいんだぜ」
「それこそホントの映画とかじゃねーか」
まあ美少女ならあの二人が……あいや、あの二人をそんなに持ち上げるつもりは無いけど。
……俺は何を言ってるんだ?
「あったらいいなーとは思ってたけど、でも意外と地味だな……」
「お前は……いったいどんなのを想像してたんだ?」
「いやだって神隠しじゃん! だったらなんかこう……なんかこう、俺を楽しませてくれーって感がな、少ない! 少なすぎるんだ! 地味! 現実的! なんだよチェスって!! お前それでもファンタジーボーイかっ!?」
「い、いやいやそれって無茶ぶりじゃね!?」
お前が勝手に俺に命名したあだ名で、俺を勝手に決めつけるなと!
俺は心の中で思いそれを口に出そうとした瞬間。
「ふぅん。でもチェスー、ね。なかなか現実的なファンタジーですこと? でもなんでチェスなんだ?」
「そ、そんな事言われても……」
俺にもそれは分からなかった。
例えば角辺なら、角辺がここでギターを持って俺と対峙するのには意味がある。
角辺がギターを振り回すのには意味がある。奴は、ギターを弾くからだ。
でもなぜ。なぜ、あの少女は俺とチェスをするのだろうか?
考えていると俺はふと頭の中から見えない煙が……いや、それはないか。
「そういやよぉ角辺。お前ギター弾けるんだろ?」
「ん? おお、弾けるぜ。なんか文句あっか?」
「別にそんなケンカ腰にならなくても……いやさ、角辺はどんくらい弾けるのかなって、気になったんだ」
「どれくらいって。何、聞きたい? 俺様のこの天才的なギターテクを?」
「天才的、かつ、才能に満ちあふれすぎて夢を諦めた未来のギタリストの抜け殻の音を、一度くらいは味わってみてもいいかな、ってね!」
「……ちぇっ、嫌味言いやがって」
「ちなみにその子は、チェスはめっちゃくちゃうまかったぞ」
ポロロン、と弦を弾く角辺の目がキラリと光る。
ついでにいつの間にか角辺が押したらしい番号のイントロがジュークボックスから流れ始め、奇天烈な電子音楽がだんだん何かのビートを刻み始めた。
「うまい?」
「うまい」
「ふぅん」
角辺は一瞬ギターの弦をポロポロといじると、何かの意を決したようにウンと大きく息を吸って、はき出して、ギターのボディを構えなおした。
「分かった。歌ってやる。見せてやるよ、俺の、元、夢の証明をな」
「なあ角辺ぇー」
ビートにあわせて、何か言葉にできないような空気を角辺の喉が発し始める。
黒い姿の角辺。
白い私服を着た俺。
「さっきの話だけどさ。夢だってさ、やってみなきゃ後に何が出るかはわからんのだぜ? 一緒に最後まで突っ走ろうぜ」
「お前だけな。現実を見ろ。それに……」
ふっと、角辺が悲しそうな目をする。
「お前うまいんだろ?」
「いいや無理だよ。分かってるんだよ、俺には。全部」
メロディが流れ始め、その後角辺は、よく聞き取れない何かの歌詞を背景の雑音と、ため息と、怒りと共に盛大にはき出し始めた。
※
結局俺は、その後も流れに流されるようにして角辺の怒りのワンマンライブを最後まで聴かさせられるハメになった。
うまいとか下手とかは俺には分からなかった。というか、正直俺の趣味の範囲外だったので理解できなかったと言った方が良い。
その中でも俺は、一つだけ、角辺の歌を聴いていて分かった事がある。
角辺は怒っていた。激しく。何かに対して。
その怒っている対象が誰かなのか、それとも世間に対する何かなのか自分自身なのかは分からなかったが。
でも相当怒っているんだろうな。怒っている対象には、もしかしたら俺も入っているのかも知れない。
……言霊?
俺たちは夜だいぶ遅くなってから、カラオケボックスの閉店時間になったので笑顔の優しいスキンヘッドのお兄さんに店を追い出されて家路につくことになった。
その後角辺に「さっきは何に怒ってたんだ?」と聞くと、角辺はなぜか顔を赤らめてそのままそっぽを向いてしまった。
熱くほてった頬に、冷たくも鋭い風が突き刺さる。
空を見上げると、雪降る町に久しぶりの晴天が訪れていた。
真っ暗な夜。はっきりしない疑問の連続。
一応は成果が。
俺の耳は、帰り際に角辺が「俺だって、お前みたいな話はうらやましーよ。本音は」と、ボツリと呟いていたのを聞いていたのだ。
俺は角辺と駅前で別れて、そのまま自宅のある場所まで道なりに歩くことにした。
歩いてもすぐそこだ。
通りはすでに真っ暗。
途中通りの向こう側に二人分の影があって、よく見ればなんだか見覚えのある……というか、仲良く談笑している塾帰りらしいフミノと委員長たちの影だった。
「ちぇっ、仲良く塾帰りってか」
うらやましーぜ、とは言わないけどー。
これからも二人で、一緒に同じ大学に行くのかね。
「うらやましいぜ……」
変な寄り道して、自分の道を見失ってフラフラしている。ダメ人間だな俺は。
遠くで笑いあう二人分の影。それらが見えなくなってから、俺はボソリと呟やいた。
白い息が、ホウッと暗い雪の景色の中に漂う。
後ろを振り返ってみると、さっきまで一緒にいた角辺はもう見えなかった。
「俺は、何をしてるんだろう?」
帰り道の途中で、なんだかわからなくなって小さく回り道をしたくなる。
といっても表通りから一本ずれた裏道を、家に向かってザクザク歩くだけなのだが。
「……」
自分の道を見失った。
あの時も、こうやって無駄な寄り道さえしなければ。俺は今頃ぬくぬくと、温かい家の中で布団にくるまって漫画でも読んでいたのかも知れない。
歩く度に、溶けかけた硬い雪がガリガリとスノーシューの裏側を削る。
もうそろそろ、家と駅の中間あたりの地点にさしかかる頃だろうか。
「……あれ?」
と、俺はふと今日思い出したばかりの記憶思い出して立ち止まった。
何だろう。何か……これは小さなどこかの児童公園だ。
その隅で、でっかい地球儀の様な物がクルクル回っている。
そこには見覚えのある何人かの子供の影と……見覚えのあるいつかの俺、いつかの風景。ここは……
「これは、俺の記憶、か。そうだ思い出した」
雪に覆われた大きな公園。
とても、大きな公園。大きな公園だと思っていた、とても小さな、児童公園。
その隅に、記憶のそれとはだいぶ違う地球儀が、赤さびた骨組みに雪と氷を絡ませながら小さくたたずんでいる。
ここは、いつか俺が遊んでいた小さな児童公園だった。
「……これが? この風景のもの?」
目の前に、俺の記憶の風景がポツンと隠れていた。
俺は、この小さな公園と失った記憶を、知っている。
「俺は……って事は、俺は前ここら辺に住んでたって事かな」
記憶の中には、思い出せるだけでも何人かの仲のいいやつらとよく遊んでいたらしいイメージが残っていた。
何人かの顔……いやでも、ぜんぜん顔の詳細を思い出せない。
記憶の中はいつもまっ白な、細かい雪が降り積もっている。
泣き虫。
強がり。
恥ずかしがり屋に、他にも他にも。
何人も何人も。本当に仲の良かった人間と、仲は良いけど微妙な関係の奴もいる。
あの女の人もいる。
学校の帰り道、この公園を覗くと、なぜか決まって女の人がいた。
ベンチの上に座って、いつも何か不思議な何かをしている。
白く霞む、曖昧な、どこかの記憶。
「それなーにー?」
と、珍しい何かを膝の上に載せている風景を学校帰りに俺たちは見つけて、みんなでよってたかってその珍しい物をお姉さんの顔と一緒に見上げていた。
それが、チェスだった。
白と黒のチェッカー柄、かっこいい駒を見て、俺もみんなと一緒によってたかって、女の人にいろいろなことを聞いていた。
そうだ。これが……俺と、チェスの、初めての出会いだ。
「そうか」
雪を被る、小さな公園の、小さなベンチの前で俺は静かに呟いた。
最近までずっと、俺は何かの気まぐれでチェスに手を出したのが事のなれそめだと思っていた。
何の変哲もない。つまらない局面の繰り返しだけ。
最近たまたま見つけたチェスの趣味だとばっかり思っていたのに、そんなに前から俺はチェスと出会ってたんだ。
……偶然ではなかったのかも知れない。
何かが。
「俺を、また、この場に引き合わせたのかも」
今、足りなかった何かが揃いかけている。
でも俺の記憶はそこまでで。
「あの人……今はどこで何をしてるんだろう?」
と、言ってから俺はあることに気が付いた。
大切な何か、最後の一つがどうしても思い出せない。
それは絶対に、無くしてはいけないような、何か。
「……いやちょっと待てよ?」
確証は持てていないが。
「あのお姉さんは、……いや、お姉さんの顔は、どんなだったっけ?」
こめかみに指をあてがって考えてみるも……掘れども掘れども、出てくるのは真っ白な、雪のように空白な記憶とモヤだけ。
どこまで掘り進んでも……そこに、あの角辺のニヤニヤ笑いがポンと浮かび上がってきた。
唐突に新しい記憶を思い出す。
「車に……轢かれた?」
それから俺の頭の中には、どんどんと新しい、鮮明なイメージがよみがえってきた。
迫ってくる車の、記憶。
それを低い視線で見ている俺。
そのすぐ横から……誰かの、手が。
「……」
泣いている、俺。
見ればそこには、真っ赤な雪。
大通りだ。
すぐそこの道だ。
思い出して振り返り……何かに気が付いてはっと足をあげた。
下に、何か妙な触感があった。
枯れたように乾いた地を剥き出しにする、太い、大きな木の根っこだった。
「……?」
ここらには木なんて無い……いや、確かにあったかもしれない。
よみがえった記憶を巻き戻して思い返すと、そこにあったのは……大きな、見上げるほどに大きな大木。
その隣には……
「あっ」
記憶が少しずつよみがえり、同時に現実世界の風景も目に入ってきた。
でも……記憶と現実は全てが少しずつ違う。
そこにあったのは、赤くてボロボロの、小さなお社様だった。
「そっか。……そうか。いや、何だろうこれは?」
俺の足が、闇の中で半ば吸い込まれるように古びた社の近くまで進み出ていく。
壊れた鳥居。
開きっぱなしで壊れている観音扉。荒れた中身。切り倒された巨木の跡。
名前すら分からない、小さな御社様。
そっと足下を見ると、どこかで見たような小さな足跡が雪に残っていた。
「俺は……ここを、知っている」
目を閉じて。
目を開ける。
そこにはいつか見たような風景があって。そこは、真っ白なモヤが広がっていて。
でも、ここは俺が知っている世界ではない。
いやでも知っていたんだろう。ここは、世界を統べる盤の隅、盤から弾かれた者だけが集まる世界の盤の上。
見覚えのある世界。見覚えのある巨大な神木。
名前すら分からない大きなお社。その前に並べられた幾何学上の、線たち。大きなチェス盤。
そこには、俺と、いつものあの人が立って。
「やほ」
まるで当たり前のように、何の驚きもなく、白い少女が俺に声を掛けてきた。
「ショコラさん……」
「びっくりした?」
そのすぐ隣には、見覚えのある神官の駒……チェスの駒。
でもその輪郭は、いつか手のひらで見た時のようにははっきりしていなくて。
「さて、ここはどこでしょう?」
「……」
「答えはなし。残念ねー。でもそんなのは、今のあたしにはあんまり興味ないんだけどねー」
ショコラはケラケラと笑いながら、足をぶらぶらさせながらしゃべった。
「いくら何をやったって、本当はあんたはこんな所には来れないはずなのよ。なのにあんたはここに来ることができてる。何でだと思う?」
散らばった駒たちの向こうで、何かあきれたような顔でショコラは俺に話しかけた。
まるで靄に隠れるように、もしくは、まるで本物の幻のようにふわふわと。
「でも、私はここにいる。ずっと、ずっと、ここに居続ける。それしかできなかった」
同じく。暗く、何かを思い詰めたような顔で、いちごの顔が覗いて見える。
「ずーっとね。私達は、ずっとここで、アナタの来るのを待っていた」
「でも、そんなのはあるわけのないいつかの日」
「待っていなかったのかも知れない、わね」
「弾かれた盤の外から、いたずらに、世界を、見つめることしかできなかった」
「私はここにいる。それでいいじゃない。私はどこにいたって、意味のないのだから」
「千日手。勝敗は最初から決していた」
「でもそれも、もう終わり」
「さてと。私は誰でしょう? ここはどこでしょう?」
「……」
ショコラの容赦ない質問と、いちごの沈黙に俺も黙ってうつむく。
俺は、何も答えられなかった。
「これが、俺の無くしている最後の大切な、何か?」
永遠に終わりそうにない二人の問答に、俺はふと自分の疑問をぶつけてみせた。
「なにを忘れてるって?」
「いえ、その……」
駒が揃っていく。
二人分の、チェスの列。
「これそのものは違うと思うわよ。強いて言うなら、ここは、そんなに大切な場所でもないと思うけど?」
「じゃあここはどこですか?」
「知りたい?」
俺が一番知りたいことを、と?
並び続ける互いの駒。ゲームが始まる。
世界を走る、チェスの駒たち。自分も駒の内の一つだ。だが何かが足りなかった。
「自分が欲している、君の望む答えを、知りたい?」
「知りたい。俺は、俺が忘れている、本当の貴女を知りたい!」
「じゃあ私達からも一つ」
見覚えのあるチェス盤が、目の前を進んでいく。
記憶の中の、チェス。
あの人が持っていたチェス盤と同じ物。
二人の問い合いが始まる。
「問いには問いを。貴方は私達に、いったい何を聞きたいのかな?」
俺は、駒を進めた。
そして気が付く。自分の駒の……クイーンの駒が一つ、どうしてもどこにも見あたらないのだ。
※
「私が黒ね」
試合を始める前の緊張感と、なんだか得体の知れない何かに対する緊張感。
手先が有り得ないほど冷えている。寒いというか、冷たい。痛い。
「あ、あの」
「なに?」
「駒が、足りない、んです、けど……」
「……」
ゲームはすでに始まっていた。
駒の動きは規定のまま。ルールはすべて最初から決まっている、その上で。
どの駒をどこに動かすのかは、すべてはまだ展開しきっていない盤の上では自由だった。
『俺は、クイーンをいつ無くしたんだろう?』
答えは未だ、ない。
でもいつかこのチェス盤でゲームをしていた時までは、確か駒は全部揃っていたと思ったけど。
俺は静かに「お願いします」と言うと、盤の中央やや端から、ポーンを二つ前へと進ませた。
「……」
一手目。攻めの中心、クイーンを前に進ませるための道を作る。
すると黒も対抗して、最前列のポーンを動かしてきた。
ポーンを動かしながら、列の後ろにいた黒のビショップがあたまを覗かせ、俺のポーンに牽制をかけてくる手だ。
『うまい!』
一手目から無駄なく、攻めながら、同時に攻撃の手も兼ねた手か。
この駒の動きは……イングリッシュオープニングの定石だ。
コツン、俺はすかさず返しの手をを打った。
定石を若干変化させ、真正面の駒を前進させてみる。後列にあるビショップの駒をうまく隠しながら、前列に攻めのポーンを打った。
すかさず盤上で駒が衝突しあった。白と黒、物を語らぬ駒たちが、少しずつ熱くなっていく。
黒のナイトが跳んできた。
ストレートに、俺の駒に狙いを付けて
「本当はね。私達は、もっとずっと前に、このゲームを終わらせていたはずだったのよ」
「……」
盤の向こうから、弱々しく声が聞こえてくる。
きらめく剣の先が、白ポーンのすぐ鼻の先にかかった。
対抗して俺は白のナイトを前進させた。ポーン同士をチェーンとして絡ませ、黒の侵攻を抑えた。
これが、俺がいつか聞いていた、声
俺を迷わせ、導びき、ずっと封じてきた、夢の中の声。
とても弱々しい、声。
ポーンの砦。ここを中心にして、俺は今後のゲームを進める。
二つ目の、黒の騎士が前進してくる。対抗して、白の騎士を前へ。二つのナイトとナイトが盤上でにらみ合った。
牽制同士の裏側で、俺は自分のポーンが前面に目を光らせているのを確認した。
「いつまでもない明日」
「ずっと止まったままの昨日」
「……」
さらにポーンを前進させ、盤中央の支配をすすめる。中央をうまく支配できれば、後半戦はさらに有利に展開するはず。ばれなければ、ゲームは、簡単には終わらないはずだ。
黒のポーンが、盾を構えながらゆっくり進んできた。
……迷う。なんだろうこれは。
棋譜、dの5。白マスに立つ黒のポーンの横隊。これは……何だ?
対抗して俺はビショップを進ませた。進んできたポーンと、すぐ後ろにいるルークを牽制するために。
牽制だけ? いや違う。すべては、二列目にある隠し駒をカモフラージュするための偽行動だ。
対して黒はポーンを使って、カモフラージュ役の白のビショップの攻め筋を防いできた。
引っかかったか? 対抗してポーンを、ポーンとポーンを絡ませる形で盤の中央に進ませる。
「いつまで続けるつもりなの?」
「あるはずのない明日のために?」
盤の向こうで小さく声が聞こえ、白い指が盤の上に被さってきた。
新しい黒の打ち手。ビショップ、b4。これは、黒の攻めの隊形だ。
攻められたら逆に囲って逃がさないようにする。ポーンをc5へと展開、攻めてきたビショップの包囲網だ。
「……」
e4、別の角度からポーンが攻めてきた。相打ち覚悟で近くのナイトを前進させる。
白、ナイトe5。同、黒ナイト。同、白のポーン。
「くっ……」
さすがに強い。
カモフラージュは完璧のはず。なのに、連続で決めていたポーンの陣営が黒の駒の襲撃で一気に崩れてしまった。
盤上からのプレッシャーがすごい。予想と違う動きだ。
包囲網に隙が生じ、黒ビショップc5でポーンを取られて終わった。
「くそっ。おかしいな……?」
「おかしくなんかないわよ」
「ただ、ゲームを終わらせたくなかっただけ」
そんなはずはないのだが。
盤上で孤立したポーンを使って、俺は決死の覚悟でf6、黒のナイトを討ち取った。
「ずっと、終わらないゲームを続けてきた。終われないゲームを繰り返してきた。勝ちもない、負けもない、でも答えは、最初から全部決まっていた」
「奇跡なんてものは起きない」
「!?」
黒のクイーンが動きだした。
「同、クイーン」
自分の駒がとられ、さっきまで盤上を攻めていた自分のポーンが盤から消えてなくなる。
「な、なに!?」
「足りないのよ。何もかもが。隠しているつもりなんだろうけれど、その手はまだ偽ってるつもりなんだろうけれど」
取られた白の駒は、すでに三つ目になっていた。
対してこちらは駒二つだけしか取れてない。
勝敗を左右する、盤の中央部も支配されつつある。
良いことなし。 盤上の形勢は、敵方の黒がやや優勢だった。
「でもその程度じゃ、ゲームの流れは何も変えられない。変えられなかった」
「いや……けどこっちはナイトを二つ取ったんだ。まだ……まだ、いける!」
白は、まだまだ健在のはずだ。
「キャスリング! ショート!」
「……」
俺は自分自身を……キングの駒を右に二つずらした。
と同時にルークも左にずらす。
一マスずつしか動かせないイングを二マス動かし、ルークを逆側に交差できるチェス独自の特殊ルール。
一手で二手分の駒を動かせる、攻守を兼ねた技だ。
「……チェーン」
黒のポーンが前面に出てきた。
なのに、取れない。
「むぐっ、またその手か……」
じわりじわりと、黒のポーンがナイトを狙ってくる。
俺は苦し紛れに、白のナイトを盤の端まで撤退させた。
「a3、ピン」
「げっ!?」
さらに、今度は黒のビショップが白駒のど真ん前に特攻を仕掛けてきた。
攻撃の手が完全に被る。
「こっ、これは……」
このビショップは取れる。だが、これを取ったら次と次の次に大打撃を被るのは必須。
「う、むむむ」
「取る?」
「……」
「無理。仕方ない。負けのないゲームは、最初から、詰んでいたのよ。だからいつも、こう」
見たことのある手が盤上に打たれ、定石通りに駒が進んでいく。
弱々しい少女の言葉。
言葉がグサッと来たので、俺はふと向こうにあるはずの少女の顔を見た。
そこは、白い靄と影しか見えない、いつか見た風景にそっくりだった。
そこに少女はいるはずなのに、まるで誰もいないような錯覚。
いや……これは本当に錯覚なのか?
……。
俺は再び、視線を盤に戻した。
「む。じゃあ、この駒を……いやダメだ。じゃあこの駒を……も、ダメ。じゃあもしかしてこの駒は……この駒も、動かせない? あれ?」
それでも盤上の形勢は、白がかなり不利な状況だった。
「なのにまだ、貴方は自分の打つべき手を迷ってる。どうして?」
「迷ってるって?」
「……」
「自分の打つべき手を、未だ見定めきれていない。手が迷っている。そのはずなのに、あなたはここまで来れた。それはどうして?」
「……」
靄の向こうから白い腕が伸びてきて、今まさに打たれたばかりのビショップの頭を抑えた。
「でも駒は、確実に、一歩ずつ、前に歩いてきている」
「う、むむむ」
俺は指が盤から遠のいたのを確認してから、マス目中央に位置する、見えない俺の駒を……あるべき駒を、あるべき場所に確かに打った。
打って、出た。
「よ、よし……白、d4クイーン」
「b5、ポーン」
「ぐむッ!?」
可能性を探す。そのために、チェック柄の白と黒の盤の上を、小さな駒が歩き続ける。
お互いに。一手ずつ。
駒の進路を塞ぐ形で、じわじわと黒のポーンが攻めてきた。
白のナイトが、歩兵のポーンによって逆に包囲されてしまう。
「に、逃げ……」
「逃げられない、答え」
次々と黒のポーンが前進してきた。
ナイトが次に逃げられるマスは、もうどこにも残っていない。
「う、ぐぐぐ……」
「逃げても次は、すぐに私のターンがくる。a6、ビショップ」
「ディスカバー!?」
ナイトが逃げるとその隙を狙って、ポーンの後ろから新らしい駒が前進してきた。
長い斜め移動が出来るビショップの駒、同じ列にいる二つ以上の駒を狙う上級の打ち手。
ディスカバー。俗称「ジャック・ナイフ」
「まさかッ!?」
「いい手だったけどね」
白の陣にある大駒のルークが、見事にビショップの一閃によって斜めに刺されていた。
「終わりのない終わり。私はもう……つかれたよ」
余裕、もしくは冷静な声が盤の向こうから聞こえてきた。
という事は、俺が最初からクイーンを出してくることも、予め読んでいたと言うことか!?
「……っ」
「?」
「でも諦める、必要なんか……」
俺は、静かに盤の上で唸った。
「諦める必要なんか、何も無いじゃないですか!」
ただ取り同然にされることが目に見えているルークを一歩引かせた。
キングが……遠ざかる少女の顔がピクリと動く。
「勝てるように手を動かす。なのに、なんで最初から諦めてるんですか! 勝って……勝ってまた笑ってくださいよ! また、いつかみたいに……っ」
盤の向こうを見続ける少女の顔が、ふとほんの少しだけ動いた。
俺の見ている目の前で、黒のキングが悠々とロングキャスリングを遂げていく。
いつでもクイーンを取れるという意思の表れなのだろうか。
でも何かその動きに意味が?
「……」
「……っ」
「勝って、ゲームは、おしまいにできる?」
少女がふたたび、遠い盤の向こうで弱々しく呟いた。
まるでゲームが終わると同時に消えて無くなってしまいそうな雰囲気で。
どうすればいい?
俺はどうすればいいんだ!?
灰色のチェス盤。斜めにチェック柄の走る黒と白のマス目同士。
白と黒の駒。いくつもいくつも、にらみ合い、動きあい、マス目に沿って並んで立つ様々な形の駒たち。
その中でも、マスに収まりきらずに盤中央にあるいびつな駒、クイーン。
沈黙したままの、駒。
……駒。
『駒……待てよ……こいつ、は』
ふと、頭の中に妙案が閃いた。
行き先の無いマス目を、無理矢理駒を進ませる必要はない。ただ盤の脇道から、敵のキングに向かって進んでいける道をたぐり寄せればいい。
今はもう自分の手を隠す必要はない。
俺の目的は、黒のキングを詰むことのはずだ。
詰む……いや、これは俺の答えを導き出すためのただの一歩。
できないはずは?
「ない。行ける、ハズ」
俺は盤の隅で沈黙していた小さな駒、ポーンを前進させた。
「h3、ポーン」
「……」
ポーンが敵ビショップを取る。
一瞬霞の向こうで、静かな雰囲気が出された。
霞の向こうで、影は何を考えているのだろうか。
だが、俺には打つべき手がある。
この、一見足踏みに見える脇からの動きが、膠着している中央と全体、今を打開する最善の策なんだと。
無駄そうに見える回り道は、目的があって、駒と手順が揃っていていれば、全ては最後に繋がって無駄ではなくなる。
そのはずだ。
「同、ポーン」
「ビショップ」
負けない戦いだけでは、これからも今もずっと防戦のまま。ここは、攻める時だ。
「チェック!」
「!」
俺は自分の駒を進めた。
少女へと通じる、侵入経路が開いた。
まだだ。まだ、ゲームは終わらない。
「……」
黙るだけだった少女が、ついに動いた。
まだまだ。俺のターンは、ここから始まる!
「チェック!」
俺は自分の足を一歩前に進ませた。
g1、二度手目のチェック。
「そうだ。ずっと俺を、ここまで導いてくれたのは……だってアナタじゃないですか!」
「……」
俺はふと、少女の頬に小さく涙が流れているのを見た。
さっきと同じ、濃い霧の向こうにある、薄く輪郭のぼやけた一人分の影。
二人で一つの、あの少女。
見間違いとか、幻とかじゃない。
あれはまさに、あの少女自身。そしてこれも、ここも、すべては少女と、俺自身の……
永遠に、勝負の付かないゲーム。
それが今、やっと答えが出はじめている。
今までずっと見失っていた、俺自身の、答え。
「チェックです!」
「……」
盤の上では、何かを考えるように少女の細い腕がゆっくりと左右に振れていた。
迷っているのだろうか。何かに。
打つことのできない自分の手に。
「c6」
俺の打った駒に、少女の手は動かなかった。
駒が一切の動きをやめる。
侵入経路は、保ったまま。
「……」
すかさず俺は俺自身の駒を前に動かした。
「無意味だよ」
「無意味なんかじゃない!」
唯一無二のクイーンを使って、代わりに盤上の駒が新しい展開へと突入した。
今、黒の最終防衛ラインが見えてきた。
鉄壁のルークが二体で黒のキング前を守っていた。
その鉄壁に、ほんの少しだけ隙が生じる。ここが、俺の取るべき手だ。
「ここでビショップを、中央に! チェック!!」
「……」
囮の駒を前面へ。
俺は少女の操る、黒の陣を揺さぶった。
俺は少女の小さな肩を、掴んで、小さく揺さぶった。
「無意味なんかじゃ、ない!」
「……」
e6、ルーク。ついにルークの、横に伸びる二重のガードが解けた。
取られた白のビショップが盤上から離れ、入れ替わりにすぐ隣のマスに別のビショップを置く。
「……」
鉄壁が崩れた。今が攻めどきのチャンス。
「同、ルーク」
「g8、ルーク! チェック!!」
「っ……」
俺はそっと、強く、少女の小さな肩を抱きしめた。
このゲームは、現実から外れて霧の中に迷ういつかの弱い俺と、自分の道を見つけた俺自身との戦い。
「……チェック!」
取られたルークのすぐ脇から、白のナイトを盤に打ち付けるようにして置いた。
勝敗の付かなかった、果てのない引き分け(スティールメイト)の、終わり。
「……メイト。チェックメイトです、これで」
「……」
ゲームは、今終わった。
世界は無言だった。
観客もいない。
タイムキーパーもいない。
漆黒と世界を包む白い霧もない。そんな無の世界の中心で、俺はある一人の少女を抱きしめていた。
「……」
静かな風の音。それに、サワサワと揺れるシダの葉。月の光に解け落ちる、雪の滴。
「負け、ちゃった……」
どこかに置いてきた少女の記憶。
それはとても遠くに、自分の知る盤の向こうに置いてきた、自分自身の大切な駒。
でもこれは、たぶん、ただのチェックメイトではないんだろうな。そんな気がする。
「もっと、早く気が付いてくれれば良かったのに」
最後の一手。自分と、少女の、求めていた答えがついに出た。
柔らかい、今まで一度も嗅いだことのない柔らかな匂い。
ふと前を見るとそこには、満面の笑みを浮かべる、誰かがいた。
泣きながら、笑っている、知っているいつかの少女の顔だった。
「……そうか」
そうだ、思い出した。
あのときの言葉。
車に轢かれて、それをかばわれて、俺は痛いだけなのにすぐ隣ではあの人が血だらけになって倒れていて。
「これが、俺がずっと無くしていた、俺の……」
見失っていた、俺の中にあるべき、俺だけの答え。
痛くて、でも怖くて、何が何だか分からなくて泣くしかできなかった俺に、その人が最後に教えてくれた魔法の言葉。
『じゃあ君には、とっておきの魔法の言葉を教えてあげるね』
いつか聞いた事のある、俺が覚えていた唯一の言葉。
失ってなんかいない。
忘れてなんかいなかった。
「答えは……」
最後に揃った俺の駒を打ち終わり、これでやっと俺はチェックメイトを打つことができた。
いや……ゲームは終わっていない。
むしろまだ始まってもいない。
いままでも、これからも、ずっと打ち続けて終わる事も果てもない、誰かと誰かの答えの問い合い。
たった一つしかない俺の盤に集まる俺だけの駒が、今、やっと全部揃ったのだった。
※
この世に突発的な奇跡は起きない。
もしくは理屈もない、突然現れる「魔法」とか「奇跡の力」は訪れない。
あるのは用意周到な、数多ある変更不能のルールをかいくぐって得た自分の答えだけ。
例えば俺が今ここで「ブリザドっ!!」とか唱えたって、日本に訪れた平年より若干熱い春の訪れは一気にツンドラの雪景色とはならんのだ。
……もし仮に起こせたとしても、それはナントカの「奇跡の魔法」だの「いでよ! ナントカの剣」だのとはならないで、盤上にある既存のルールを守ったその上で出せる、奇跡や魔法と呼ばれる「奇跡や魔法ではない日常の延長線上の話」になるわけで。
「あっちい」
奇跡なんかない。
その上で……俺はいつもの通学路、二年目のくそつまんねぇ道を額に汗かきつつテコテコと歩いている。
ついこの前まで冬だと思っていたのに、こうも暑い春だとどうも萎えるぜ。
「でもまた寒くなるんだろ、明日にゃーよ」
でも今日はなんだか胸がドキドキする。
これは春だからどうのという話ではない。
ちょっと話は長くなるが、実はあの日俺が見えないチェスをした後に、家に帰ってから知らない人から電話を受けたのだった。
ちょうどその時俺は家族と飯を食ってたので電話口には出なかったのだが、話を聞いて俺はかなり動揺した。
まず。最近特に聞いた事のない人の名前を聞いて、俺がその人を知っててビックリしたこと。
記憶の差異? 違う。久しぶりに聞いた人の名前だったからビックリしたからだ。
次にその名前を聞いて、電話口に飛びついて聞いた話にもビックリした。
目が覚めた、と言っていた。それだけ聞いてもビックリだった。
なにがなんでビックリしたかというと、その起きた主が『あのお姉さんだった』から。
十年くらい前、俺をかばって車に轢かれて脳死状態だったあの人が、なぜか年を取らないままずっと寝たきり状態だったあの子が、夜中に突然起きて声を上げたんだという。
電話口の人の声はボロボロと涙を流していた。
俺も少し涙で鼻が詰まりそうだったが、と同時におろおろしているのも感じた。
その人の最初に発した言葉が……というか、人間の名前が、俺だったらしい。
で、今に至る。
家族は驚き喜び焦り慌てつつ、もう何年も連絡のつかない俺の家の番号を探して電話をかけてきた……という、そんな話だった。
俺も驚いた。でも、なんでか納得してしまった。
不思議だなーとは思ったが、特に「脈絡のない奇跡」とも思わない。
奇跡? いやまあそうだろうけど、でもちょっと違うかな。
じゃあ必然か? いやそこまで言われると、これもだいぶ難しいケド。
「よっ! 朝から時化たツラしてんなー。オイ……背中、汗かいてんぞ?」
想定外の衝撃が俺の肩にぶつかってきて、俺は汗を拭き拭き回想を続ける自分の意識が春のずっと向こうに飛ばされた気がしてビックリした。
「あ゛ー顔が濡れて力出す気にナレネ」
「ナルシ!? うわキメーよ!!」
と、今度は後ろからいつかの声が聞こえてくる。
じゃあ犯人は角辺か。
想定外ついでに、ここはちょっと吐血しながら激しく前に倒れてみようか。
「ブフッ!?」
「……なにやってんの?」
「いや何って……人が吐血してやってるんだ、少しくらいは介抱してほしいぜ」
「ただのバカがいる。ああ、そういや今って春なんだっけ」
「お前やっぱヤな奴だな。お前とは友達になりたいとは思わんね」
「それ本気で言ってんの?」
「そこまでお前のこと本気で嫌ってねーよウヘヘヘヘ……あれっ立場逆じゃね?」
いつもの通学路。通学路もだいぶ、我らがボロ学校の正門に近づいてきたので、だんだん白いワイシャツ組とブラウス組の数が増えてきた。
二年を超えて、もう一年経ったら卒業することになる。
いつもの道。俺たちも、そんな数多あるワイシャツ組の中のいくつかだった。
「そういや、角辺はもう進路とか決めてんの?」
「前にも言ったけど、近くの大学に行くつもり。お前は?」
「いーいねーぇ、進路が決まってる奴って」
「つまり、まだ決まってないと。なんだ、チェスやってる人間なんだからそこら辺もぜんぶ決めてるんじゃねーかと思ってたけど」
「それは、偏見の一種だと思うぞ?」
「つまりチェスやってても、何も考えない奴は何も考えてないと」
「人権侵害だー」
「で、どうなの」
「とりあえず今を一生懸命生きる。それだけ。俺はガンバッテルンダヨー」
と、いつものバカを言い合いながら、俺らはいつもの正門に向かって最後のゆるい坂道を歩いていた。
正門前はいつも通り、もの凄い数の白と紺色の大群が門に向かって流れていた。
淀みなく、白と紺の群れが一筋の川を作って流れていく。盛大だね。まるで鮭の遡上シーンみたい。
その中で、少し周りの流れから逸脱してる一つの小さな点が、正門脇にちょこんと立ち止まっていた。
見覚えのある顔。もちろんそれは、たぶん……いや、十年ぶりくらいに会う顔なんだろうけど。
正門に近づくと、その少女の顔もふっと上がって俺たちの顔を捉えて微笑んだ。
若干ぎこちなく。そしてやや堅めに。
「……おおー」
そりゃそうだ。だって普通に考えたら、少女は今二十ウン歳になっていなけりゃいけない年なのだから。
でもその顔姿形は、どう見ても俺たちと大差なかった。もしくは俺より年下にも見えなくもない。
……彼女は、俺たちよりも下の学年、赤色のリボンを付けていた。
新入生の色。
お互いがお互いの顔を見つめ合って、カチンコチンになってしまう。
「この学校に入ることにしたんですかー?」
「あ、ええっと……」
「……」
「……」
俺もだんだん緊張してきた。
でも当たり前なんだ。だって、何十年ぶりの再会なんだもの。
「ま、マイ子さん」
「ナイト……クン?」
「おはようございますですよー」
「そ、そうね」
対して少女の方はカチンコチンなまま。
ムッと口元を結んでいる。
「……」
ちょっとお互いの緊張をほぐすために、俺は敢えて手のひらをヒラヒラさせてその場の空気を和ませてみた。
春うらら。あたたかい雰囲気。
上級生の俺、角辺が、一人の女の子……新入生を、正門前で口説いている。……周囲の視線が痛い。
「……」
「えっと、今日が入学式ですか?」
「うん、まあ……二度目なんだけど」
「お、おいおいお前ら……ってか、なに、知り合いなの?」
「うん、そだよ」
「誰? いや、ってかここでそんな堂々話し込むなよ恥ずかしい」
「あ、ゴメン紹介するよ。この子、あいや、この人、俺の幼なじみの人」
「はじめまして。夢霞マイ子、って言います。一年生ですけど、よろしくおねがいします」
「あ、どうもはじめまして……」
「ちなみに、俺らよりうーんと年上でボファ!?」
角辺に身長の低い女の子の事を紹介していると、突然、腹部やや下目に強い衝撃を受けて俺は前のめりになった。
ローキックか!
ついでに俺は二度目の吐血を敢行することにした。
……。
誰も突っ込んでくれないのね。
「い、いでで……」
「いきなりレディの年の話をする気? 蹴るわよ?」
「け、蹴ってるじゃないですか……」
「お、おいおいお前ら、仲いいのは分かったから少し落ち着、うん? ……なに? お前より年上?」
前のめりになって腹を押さえている俺を脇目に、角辺がしげしげと何か少女の顔を見て、何か考えるようにして首をひねった。
痛ェよちくしょう……っても、角辺は何をそんなに考えてるんだ?
「……あれ?」
顎に指を当てて何か考えていた角辺だった。
カバンを腕に抱えて……その周りを、まだ散りきっていない桜の花びらがハラハラと落ちていく。
「お姉、さん? あれ? もしかしたら俺、君とどこかで、会ってる?」
「そう、かも、しれませんね」
「もしかして、ずっと前にコイツと遊んでた?」
「はい?」
角辺と夢霞……俺のおねーちゃんが、互いに視線を交差させて固まった。
「なに、二人も知り合いだったの?」
「いや……え、でもまさか? だってあの時」
言いかけて角辺がハッとする。
ギロリと俺の目を見てくる。その目はなんだか……
「おいお前」
「なんだよ」
「この前お前と話してたこと、そういや、まだ続きを聞いてなかったな。あれからどうなったんだ?」
「どうって、別に……」
「色々あったんだろ?」
「まあ、その、なきにしもあらずで」
「お前俺の友達だよな?」
「……」
答えに困ってしまった。
改めて角辺にそこら辺を問われてもどう返せばいいのか分からないが。
でも……そういや、この前の話では角辺は……なんだっけ。なんか怒ってたんだよな?
俺は腹部に何かしらの蹴りかパンチが来そうな気がして、何となく腕でガードの体勢を取って足を後ろに引き寄せた。
「な、なんなんだよお前はこの前から。なんか……なんでそんなに俺に怒ったりするの?」
「いや別に、お前に怒ってるんじゃねーよ。お前じゃなくてその、なんだ、お前と……あいや、なんだろう。お前じゃないんだが、なんだー……なんか、気に食わねえんだ」
「何が?」
「いろいろ」
「はぁ?」
「俺は……何か気にいらねぇんだ。お前みたいな、なんでも……いや、その」
「???」
角辺は何か押し黙って口元を抑え込んだ後、周りで自分たちを興味深そうに覗きながら学校の玄関口まで歩いていく群衆を見て、何かモニョモニョと言いにくそうに口を動かした。
「な、なんだよ?」
角辺が何を言うのか、俺はいろいろ気になったが、それは隣にいる夢霞さんもそうらしかった。
気になって気になって、二人でじっと角辺の顔を見てしまう。
で。それが角辺の何かのリミッターを解除してしまったのだろう。
何か覚悟を決めたのか、ドン! と足を踏みならして俺たち二人に人差し指をさしてきた。
「お、俺はッ」
そのすぐ後ろを、いつか見た二人組が楽しく談笑し合いながら素通りしていった。
俺と夢霞さん、そして角辺、三人を取り囲むようにしてできた群衆の群れ。
まるで無関心のような。いや、絶え間ない流れと流れに飲まれた一部の空白。
『普通』の世界から逸脱した、俺たちだけの空間。
「俺は、お前達がッ……」
「……」
「……」
ざわりとも騒がれないこの世界。
桜の花びらが、ふわりと俺たちの周りに舞った。
「社会を回してるのは、俺たちみたいな普通の人間なんだ。お前みたいな……お前らみたいな、普通じゃない奴らが、デカい顔して生きてられるほど、この世界は大きくないんだぜ。お前なんかっ、お前らなんかっ……」
指を指したまま、角辺は何か悔しそうに口元を真一文字に結んでいた。
「ちぇっ、いいさいいさどんどん苦労すればいいさ。痛い目に遭えばいいさ。苦労するのはお前らだ。俺は、お前達みたいな……なんでもできる自由な存在なんて、絶対に認めねェんだ!」
確執というものがある。
人間が二人以上いて、片方が白、片方が黒を選んだ場合、対立はどうしても存在してしまう。
ゲームはいつもそうだ。
代わりに、ゲームはいつも、二人以上いればいつでもできる。
ゲームは終わらない。それにたぶん……ゲームは、ずっと前から現在進行形で進んでいる之だろう。
ある一つの選択肢、そこでどちらかが駒をほんの少し違う動きをさせて、ゲームを有利に進ませた。
そこからゲームは何手も何手も展開し続けて、ある重要な局面にさしかかった時、過去に選んだ些細な選択の違いによって、その局面で選べる選択肢も盤上の配置も全部換わってきてしまう。
例えば盤上で、八マス跳べるナイトの駒に強制二択を迫られた時、それを回避し反撃するためには、事前から少しずつ駒を進ませておくことが重要だったりする。
俺は駒を動かすことができた。
角辺はできなかった。
もしかしたら、ここが角辺と俺の違いなのかも知れない。
黒と白に別れて、戦う、あるいはそれ以上にいくつにもわかれて対峙しあう人間同士。
誰にも破ることはできない、ルールとは残酷なもの。
でももう一つ。
勝敗は、まだまだ最後まで決していない。
チェックメイト?
そんなもの、このゲームにはたぶん存在しないと思う。
長い長い手順を踏んで、あるのかないのか分からない答えを探して進んでゆく。
ゲーム?
これは白と黒にわかれた、自分たちの人生そのものの話。
完
おれたちのたたかいはこれからだっ!
次回○○先生の新作にご期待ください(死)