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03

『じゃあ君には、とっておきの魔法の言葉を教えてあげるね』

 そもそもこの言葉が気になる原因だ。俺はこの言葉を、いったい誰に聞いたんだろう?

 俺は角辺の待つ正門へ向かうためダッシュで玄関をくぐり抜けると、誰かに悪事を問われないようできるだけ人目をはばかって俺は正門まで続く緩い下り坂を走っていった。

 振り向けば世界には、白い雪原と、黒い二人分の足跡だけ。

 後に引くのは、真っ白な俺の息。

「それでよ、さっきの続きをしようじゃないかナイト君」

「いやいやその前に、お前自分が何したか分かってる?」

「何にもしてねーぜ? 強いて言うなら、俺は学校のボロ設備に肝を冷やされた被害者ってトコかな?」

 角辺は事も無げに、遠くを見ながら呟いた。

「……で? お前が言いたかったのってさっきみたいな事なの?」

「う? あいや違う、アレはまだほんの序文に過ぎない。俺の話はな、壮大な、この世界について語る、宇宙はゼロとゼロの揺れから生じすなわち宇宙は人類のプロローグを……」

「じゃあ本題の方を、端的に、分かりやすくよろしくな。もう一度言う、分かりやすく、端的に、よろしくな?」

「うー、なんて言うかな、何て言えば良いんだろう。実は遭難した森の中で、二人の女の子に会ったんだ」

 悩みながら新雪の上を、家に向かってサクサクと歩いた。

凍り付いた道上にはうっすらと雪の層が降り積もっており、歩けば足裏に雪のダンゴがへばりつく。

 振り返れば角辺は、とても大げさに驚いた顔で俺を見つめていた。

「きた、ファンタジーロード! メンヘル! ……いやメルヘン!」

「……壮大だろ?」

「いつものアホってな」

「ちっげーよ! いや、たぶんそう言われるとは分かってたんだけど、でも何て言うのかな。なんというかこう、キツネにつまされた感じ、と、言いますかなんと言いますか……」

「まさにファンタジーって感じですなー。雪の中に見た幻想ってやつ?」

「それだッ!!!!」

「いや違ぇだろちゅーに、バカ」

 俺が人差し指をさして大げさに肯定したのを、逆に角辺が笑って否定した。

 あれ、立場が逆じゃない?

「お前はあれだなー。いつもいろんな物を見ておられるよーでー。なんだか楽しそうな人生で」

「うーん。いや、そうなんだよなぁ」

「あ、これ皮肉ね?」

「……」

「え、もしかして本当にそんな事があったの?」

「あったとは思うんだけど、実はまだ確信が取れてなくて。……やっぱあれは、遭難した俺が見た幻想か何かだったのかな? みたいなー」

「意味が分からんなー。要は、遭難したお前の欲求不満が幻として見えたって事か? 特に気にすることでもなし、遭難しかけたってのはアレだが。俺たちは男だ、そういう妄想もあるって。それに生きて帰って来れただけでも得じゃねーかー」

「いや、でもそうでもない」

「と言うと?」

 ザクザクと凍てついた道路の雪をスノーシューズが踏んでいく。

 解けてまた凍った氷の上に、雪が層を成して降り積もっている永遠の新雪。

「お前のグローブと、俺のコートをな、実際に俺は無くしちまってるんだよ」

「……そういやそうだったな。何でなんだ? 脱いだのか?」

「その、二人の女の子にあげてきちゃったんだ」

「うそだー!? マジで!? 幻の女の子にー!?」

「夢だったらあげられないじゃん? でも俺はあの子達に物をあげてるんだよ。実害はある。実感もある。逆にありすぎて怖いくらい」

 ふと、俺は雪の上を歩くのを止めた。

「俺は、何をやってたんだろう?」

「ん、だいぶ深刻な話なんだな。よもやお前が女に飢えてるだけの妄想話かと思ってたんだが」

「うん」

「違うって、ことは……」

「……」

「そいやさ。お前確か、この前のチェスの大会でも妙なこと言ってたよなぁ? なんだか、あのときの対戦者の話でどーのこーの、と……んん?」

 ふと、角辺が何かを考え始める。

 顎を引き、半分解けた氷に覗くアスファルトを睨みながら、足下の何かをじっと見つめている。

 と。

「お前、あの時俺と別れた後、実際どこ行ったんだっけ?」

「どこって……どこだろう。変な森」

「森? どこの?」

「知らないよ。気が付いたら変な所だった。なんか……なんだっけな、どっかの国道じゃない?」

「国道? 森を通る国道? そんなのここら辺にあったか?」

「……うーん。ちょっと違うかも。だいぶ細かった気がする」

「うーん? ……そうか、いやそう言うことか。ははあ……分かった。俺、ノータッチ。おっけ、あん時のグローブだけどな、あれ、お前にやる」

 はぁ!?

「え、ええー!? どゆこと!? ってか、そこ気にするところなの!?」

 足を止めたまま後ろを振り返ると、そこには腰に腕を当てて考えている角辺の姿があった。

「ウン。あ、いや違うんだ。いや違くない……あ、いやちょっと待てよ。エート。……俺さ、思うんだよ。いや俺じゃなくてもそうすると思うんだけどさ。うーんそうだな、何て言うかな。そうだなー……俺、お前と、しばらく付き合うのやめてみようと思う」

「……へ?」

 突然の、角辺の友達終了宣言に俺はびっくりしてしまった。

「……って言うとアレだがな。勘違いするなよ? 俺はな、前からこんな風に考えてたんだ。お前を離れて観察してみたい。なんだろ、今回はたぶんそんなだろうとか思ってたんだけど実際そうだったからなー。いやー、お前は前から不思議な奴だと思ってたんだけど、そう言う意味でも、お前、実は結構自分のことセーブしてんだろ」

 ん?

 話の流れがまた急展開する。

 俺は口をあんぐり開けると、わずかに首を斜めに傾けた。

「ごまかすんじゃねーよこの期に及んで。この前のバスの時の話もあったしさ、試しにお前には、お前の思うままに自分の道ってモンを突き進んでもらいたいと思ったのよ。今」

 フムと、まるで本当に何かを考えている風にアゴに手を添える角辺。

 そんな姿が似合う人間だと思ったことはなかったが。

 角辺は、いったい俺を見て何を考えているのだろうか?

 フゥと白い息を吐く。

「つまり?」

「悩み考えさまようお前を遠くから見て、眺めて、俺はほくそ笑んでいると。これは実は、俺にやっと訪れたある種のスーパーヒーローチャンス! やっべ! 俺実は結構頭いい方なんじゃね? あ、これいいかも、今度ためしに二人でチェスの勝負しようぜ!」

「だーかーら、話がよく分からんよ。お前だけ納得されても分からんて、何の話?」

「さっきの映画の話。俺に、突如訪れたスーパーヒーロータイム」

「ほうぅあッ!? なんだってー!?」

「……う、ん。それだけじゃねーけどまあいいや。で、俺は気が付いた。いや分かった。俺は、実はすげー面白い立場なんじゃないかと。お前の話が嘘かどうかはどうでもいい、いや……嘘じゃないんだろうな。たぶん、それは本当の話だ。だから、今回はグローブ代は出世払いならぬ、今払ってもらおうじゃねーかと、ね。俺は思った。お前じゃないけど、今日の俺は結構頭の回転がいい。で……お前には、代金の代わりにお前の道をとことん進んでもらおうと。思ったわけだよ。後で、ちゃーんと俺に話せよ? それが俺のグローブ代になるんだから」

 そう言うと角辺は、体を斜めに向けながら俺の顔をキッと睨んできた。

「ハァ? ってかさ、なんだかそれってすっごい不平等な取引な気がするんだけど」

「んーなんで?」

 鋭い角辺の視線が俺の目を釘刺しにしながら、いくつ目かの真っ白な吐息がフゥーっと世界に揺れる。

 角辺的には緊張の一瞬が解けたのか、角辺の腕が腰からブランと重力に垂れ下がった。

 それでも目と姿勢は斜めに構えたまま、鋭く俺のハートをゲッチューし続ける。

 俺はウィンドブレーカーのポケットに両手を入れたままだった。

「だってさ。俺は一応遭難しかけてんだぜ? もしかしたら病院送りとかの疑惑も『俺の中では』ある。もしくはこれからその……何というか、その時の話の続きをーってやると、たぶんおんなじ様な事になるよね? 俺まだ若いし。命がけとかイヤだし。ってか、お前とかお前とかお前とかお前にキチガイって言われるのはイヤだ」

「そりゃ俺だってそんな事は言わないさ? お前をしばらく離れて観察するって、それだけの話だぜ。たとえで言うならお前の面白人生をスクリーンを介して遠くから見る、ってね」

「それ、される方はマジキツいっす……」

 むしろ角辺はすごい嫌なヤツなんじゃないのか?

「あのグローブなー、結構高かったんだー」

「う……」

「と言うわけで、俺の元が取れるくらいまでは頑張れ」

「い、いつ頃が目安でー?」

 ひっそりと眉毛を寄せながら、何となく感じる嫌な予感に声を震わせた。

「もちろん、エンディングまでに決まってんだろー?」

 予感的中!!

 それは次の春休みあたりなのか!?

 つと角辺がふたたび歩き出し、小さな十字路の真ん中に立って再び俺を振り返ってきた。

 車はない。

 道は真っ白な雪に覆われていつまでも白いモヤが漂っている。

 俺は角辺に指をさされ、ギクッとなってしまった。

「楽しいと面白いの違いもな、俺は面白いをとるつもりだ。世間様に迷惑は掛けられない。俺も痛い思いはしたくない。お前は楽しいを取るんだろ? だったらお前は、スーパーヒーローの道をめざせ。当事者はお前だ。俺はお前のあがく様を、まあちょっと離れて見てる事にするぜ。ここから先は、お前が歩く道だ。そうだろ? 俺は遠くの、俺の世界でお前を待ってるぜ」

 指を突きつけられ、まるで何かを睨むような鋭い目つきの角辺に俺は固まってしまう。

「エート……お前は、なんで一緒に歩かないの?」

「ん……」

「お前ヤな奴だな?」

「いやさ、うん……この話は、実は俺にもちょっときつい話でね。いや……ウーン。お前、ここからはお前の道を行ってみてくれ」

 なにそれ?

 角辺は急にうつむいて暗い顔をすると、ポケットに手を突っ込んだまま足下の雪の塊を蹴った。

「たぶんな、俺、その話の先を知ってる……」

「お前は何を言ってるんだ?」

「……ん。ところでナイト、お前は映画の主人公……よくある主人公達を見て、冷静に観察するならどう思うよ?」

「えっ? いや別にフツー……」

 突然、角辺が新しい話をしてきて俺は驚いた。

 話の脈絡がない。

 脈絡がない……のに、なんだろう、この繋がりみたいなのは?

「普通と思うか? 頭おかしい奴って、思わない?」

「……んんっ?」

「俺だったらあんなキッチーからは離れるわな。だっていつ何時、悪のナンタラに巻き込まれて死ぬかも知れないんだぜ。それとおんなじなんだよ、お前」

 再びポケットに手を突っ込んで、角辺は俺と十字路で対峙する格好になった。

 真ん中には何も無い。

 ただ真っ白な、本当に真っ白な、雪道が縦横に広がるだけ。

 キッと俺を睨む角辺の顔。

 ……が、突然ニイッと笑い出す。

「面白い話は普通の人間には出来ない事だぜ。行ってこい、キッチーっ。俺はお前が帰ってくるのを、待っている。ずっと遠くでな!」

 やっぱり角辺は嫌なヤツだった。

 いかってプンプン!

 怒ってプンプン!!

 と、俺は今一人トボトボと雪しかない真っ白な道を歩いていた。

「んだよあれ! いきなりなんだよ、俺が何かしたってのか?」

ガサッと、氷の張った道の上に積もる薄い新雪の層を蹴っ飛ばす。

スカッと、蹴りがいのない感触が足から伝わってくる。

「なんなんだよ、あれ……」

 よく分からない孤独感に、情けない感覚が合わさって、なんだか複雑な気分になってきた。

 怒りでも、悲しみでもない……なんだろうこの妙な感覚は。

 いつもの道。

 角辺と俺は、今までよく一緒に遊んできた仲だった。

 よく駅前のゲームセンターまで、角辺のゲームを見に行くこともあった。

 金がないから俺はそれで充分だったのだが、まあ代わりに俺は、帰りの古本屋で漫画を買うことが多かった。

「なんでだ?」

 俺は訳が分からない。

 俺はウィンドブレーカーの襟首をまくると、服の隙間から雪が入るのを防いで防寒体勢を取った。

外に露出している頬が、粉雪と風に直にさらされて痛寒い。

 ウィンドブレーカーがばりばりと鳴っている。

いつもの帰り道が、いつも以上に長く感じられた。

「……」

 と、足下に見慣れない足跡があるのを俺は見つけた。

「……?」

 犬のような足跡が点々と、新雪の上に残っている……と思ったら、道の向こうでゴミ捨て場でカラスと格闘している痩せキツネを見つける。

「……ちぇっ。ゴミ漁り二匹が仲良くケンカしてら」

 冬ごもりできない若い奴が餌を求めて人里まで下りてきたか。

 思いながら、ギュッと胸元をきつく締め直してそのすぐ隣を歩く。

 カラスは俺が近づく事を察知したのか、素早くキツネを置いて空へと逃げていったようだった。

 キツネの方は?

「あぐっ、眉毛に氷が……」

 もう片方の影を見る前に、ふとまぶたに強烈な痛みを覚えてその場で軽くかがんでしまう。

 まつげを整えて、ふたたび背筋をまっすぐに……

「……?」

 ふと前を見ると、そこにはなぜかさっきまでカラスと格闘していたキツネの方が、チョコンと俺の方を正視して行儀良く雪の上に座っていた。

「…………」

「んだよ」

「…………」

「なんだよ、俺に追っ払われたいのか? ったくめんどくせぇ。がーっ、がーっ、俺は今気がたってるんだゼ! 俺様は凶暴なんだ! がーっ!」

 キツネは黙って俺のアホみたいな顔を……まるで「本物のアホがいる」とでも言っていそうな顔で黙って見上げていた。

「逃げねぇのな」

「……」

 空を見ても、カラスはもうどこにも見えない。

 ゴミ漁りはもうやめたのだろうか?

「……おいキツネ」

「……」

 キツネは何も答えなかった。

「なんだか、前にもお前に会ったような感じがするな」

「……」

「いや……お前、この前のお前じゃないか?」

「……」

 キツネは、何も答えなかった。

「……」

 ただじっと、俺の目の……目のずっと奥を、何かを探しているかのような目で、じっと見続けているだけ。

 吹雪に銀色の毛がふさふさとゆれる。

 ……ちょっと待てよ?

「やっぱり、お前やっぱりこの前の奴だよな?」

 今目の前で俺の奇行を見つめているキツネは、いつか見た銀ギツネそっくりの、綺麗な銀色の毛をふさふさと生やす大きな奴だった。

 ……さっき見た痩せキツネとは明らかに違う。

 じゃあさっきまでそこにいた奴は?

 周りを見ると俺は、いつの間にか真っ白な、何も無い霧の平原に一人ぽつんと立っていた。

「……へ?」

 ここはどこだ?

 俺は今どこにいる?

 さっきまでは普通に学校帰りの家へと続く道だったはずなのに……

「……」

 ちょろちょろと音が聞こえる。どこかで見たような小川。

 いやどこかで見たような風景。ここは、どこだ?

「……んだよこれ、いつか見たあの幻じゃん」

 俺はまた遭難してるのか?

 町の中で?

 ここはどこだ。あっち側の世界か?

 いつか見た銀ギツネが、ふたたびいつか見たようにとっとと道の先へと歩いて行く。

 俺はそれを追いかけず、しばらく雪の中で尾を振る銀色のそれを見つめている。

 するとキツネは何度も後ろを振り向き、「何をしている?」とでも言いたそうな顔で俺の顔を見てきた。

 足下にはなぜか、雪に半分埋まったような、季節外れの紅い花。

 ちょっと待てよ?

「……こ、これは…………」

 前に進んではまずい。そんな気がもの凄くする。

 やっぱりあのときと一緒だ。これは、たぶん人として踏み込んではいけない世界。

 戻らねば、人としてまずい場所に行ってしまうような。

銀狐は、静かに俺の顔を見ていた。

「俺に、来いと?」

 向こうでは死んだじーちゃんがおーいおーいと手を振っているのだろうかそれはない。

それは、確実に俺の妄想。でもふざけんな!

 キツネは、何も答えなかった。

 ただ黙って、迷っている俺の顔をじっと見つめているだけ。

『来るなら来い。来たくないのなら、来るな』

 そう言っているのだろうか?

 でもここで迷ったら……俺は、帰れるのだろうか。

「俺は……俺は……」

 俺はすでに、取り返しのつかない一歩を前に一歩すすんでいる。

 足はすでに進んでいるんだ。

 でも同時に俺は、いつもの日常に、置いてきてはいけない何かにも固執していた。

 この先には、確かに何かがあるだろう。

それはとても魅力的な何か……と同時に、そう、たしかに何かがある。

そんな気がする。でも何があると?

 遠い昔、忘れちゃいけない何かを、なぜかこの向こうに忘れてきているよう、な……?

「……!!!!」

 ふと白いもやの向こうに、誰かの影を見たような気がした。

 距離感も定かではない、遠いどこかと、遠いいつかの自分が、どこかで、何かをしているような風景。

 記憶。失ったはずの何か。

「お姉ちゃん!?」

 それはいつか……いつか、自分が、何かあったような気がした人の影だった。

 何だろうこれは。これが、俺の手に入れたい何かの、答え?

『じゃあ君には、とっておきの魔法の言葉を教えてあげるね?』

 そうだ思い出した。この言葉は、この人が教えてくれた言葉だ。

 言葉だ、けど……何を教えてもらったのか、その部分をまだ思い出せない。

 僕? 俺? あれ? 俺は? ここは? 何だこれ?

 この記憶、は……何だ???

 両手で頭を抱える。

何かが足りない。俺はその足りない何かを、今、思い出しかけている。

遙か昔に忘れて、諦めて、ずっと黙って迷い続けてきた、問いの答え。

 それとは、いったい何なのだろう?

 だんだん霧が晴れてきた。

まだ、俺は歩いていない。

でも顔を上げると、そこにはいつか見たことのある、大きな木と、社と、何かの光と霧と、水たまりと、見覚えのある小さな少女の顔。

「ん? あれー、あんたなんでここにいんのー?」

 見覚えあるのも当然か。

 あの時俺が、迷いに迷って迷い込んだ、この世に思えない不思議な場所。どこか世から隔絶された感のある小さな神社の裏境内。そして、靄の霞む水辺の木の島。

 そうだ。ここは、俺がこの前立ち入った水辺の場所そのものだった。

「あ、ちょうど良かったわ。あんた、ちょっとあたしとチェスしてきなさいよ」

 根の山にできた小高い島の上から、満面の笑みを浮かべた白い薄着のショコラが、こちらに向かって手をひらひらと振った。

 いつか通ったような展開。激しくデジャヴュ。なのにあまりにも不思議すぎてまた別の衝撃が俺の頭に響く。

 周りを何回見回してみても、ここはやっぱり、いつか来た事のある神社の裏だった。

 濡れたシダが積もった雪に頭を垂れて、足下で複雑に絡み合う根の下からは、外気よりもまだ温かいのか、水面から僅かに白いモヤが立ち上っている。

 後ろを見ると、さっきまで自分が歩いていたであろう道はどこにもなかった。

「ほらほら何してんの? 眠いの?」

「……あれーっ?」

 俺はおもわず大きな声を上げてしまった。

 そういえば、例のあの狐もいない。

「うーるっさいなー。今度は何? カラオケ? 歌う?」

 耳を塞いでやや大げさにうるさがる白の少女。

 いやいや、指摘するところはそこじゃない。

 で、でもさっきの影は?

 キツネは?

 なんだかよく分からないけど俺はいつの間にか変なところに迷い込んでいて……って、俺はそもそも歩いていないぞ? なんで?

それらよく分からない混乱で頭をぐるぐるさせている俺を、根の山の上に座っている白い少女が耳を塞いだまま俺を見つめていた。

 ぱちくりと、瞬きしあう俺と少女の目が合う。

 少女の小さな肩には、いつか自分が貸したコートが羽織られていた。

「あによ?」

「いや……なんだか、よく会うなーと思いまして」

 こんな不思議な状況でね。

「……今度は頬なんてつねって何してるの?」

「いや、もしかしたら夢の中なんじゃないかと思って、念のために」

「? 変なこと言う子ね。それよりもほら、どう? あたしとチェスしない? 今あたし、一人で暇してるトコなの」

 ショコラが自身の前に置く盤をコンコンと叩いたので、俺は自分の頬をつねるのをやめて根の山を登ることにした。

 彼女には、聞きたい事が山ほどある。

 でも、どこからどう聞けばいいのかと。

「そういえば今日は、もう一人の人はいないんですね」

「ん? 誰、もう一人って?」

「い、いやだなー。いちご、とか、言いましたっけ。黒い格好の人ですよ」

「?」

 手際よく盤上の駒を並べていく白い服のショコラ、つられて俺も自分の駒を並べることになった。

「……」

「黒でいい?」

「いや、はあ、まあ」

 いつの間にか俺はチェスを打つ事になっていた。

 でもまあいいさ。

 当惑はしたが、まあこんなだろうとは一応頭の片隅では思っていたので。

俺、意外と適応能力ある方なんだ?

「白がいいの?」

「エート」

 って、わけでもないらしい。

 っつかこんなのによく適応できてたまるかっ!

「はっきりしない子ねー。そんなんじゃ女の子に嫌われるわよー?」

 余計なお世話です。

 白の駒だけがどんどん盤の上に並んでいった。

 黒はまだちりぢりになったまま。

「あの」

「あたし先手ね。んっ」

盤上に駒が整列しあう。で、いきなりの一手目。

「人はー、人の都合なんて考えないでどんどん攻めてくるものよー」

「それはチェスの話じゃないでしょー」

「うんまあね」

 でも今繰り広げられている白の手は、一手目からすでに悪くない動かし方だった。

 というか、良手だ。

 ……でもこれ、俺は逆にどうやって動けば良いんだろう?

「あの」

「待った!」

 初っぱなからいきなり『待った』ですか!?

「ちっがーう、その待ったじゃないの。棋士なら言いたいことは、盤上で示しなさいってコト」

「僕はまだなにもしゃべってませんっ。ってかでも俺……げふん、そうだ。僕は弱いんですよ? だから、たぶんチェスしてもつまんないと思」

「ダマレ」

 しゃべりかけの俺の顔を、白い服のショコラがビッと手のひらで遮ってくる。

 手のひら越しに見てみると、なんだかニンマリしているショコラの白い顔が。

「あんた前にお願いしてたじゃない。ゲームを続けるって。で、あたし達は答えた。その答えが、これよ」

「……」

「分かった? 返事はぁ?」

「……ハイ」

「ん、よろしい! じゃあキミの番だよ」

「……」

 なぜだ。

と思いつつも、俺も自分の手を打つ。

これで、二手目。

 無難に白駒の足を止める手を打とうか。それ以外に、俺は何を打てばいいんだか。

「フム。じゃあ改めて、聞きたい事っていうのは何なのかな? お姉さん何でも答えちゃうわよー?」

 と、言われましても。

 俺は困った風に笑いながら根の山の上であぐらをかいた。

「そう。何か、あたしに聞きたい事があったんじゃなかったっけ」

「いや、まあ、そうなんですけど。でも……」

「どうして分かったんですか、かな?」

 俺が言う言葉を、ショコラはいたずらっぽく、駒を持ったまま上目遣いに俺を見てきた。

コチン、とショコラの手が打たれる。

「だよね? ついでに言うと、それで一個の質問になっちゃうよ?」

 これで、三手目。

 手は攻守両立の無難な手。

「う? あ、いや、じゃあこの質問は辞めます」

「待ったはー、認められませんー、真剣勝負っ! うーん、強いて言えば、あたしの研ぎ澄まされた勘、かな?」

 突っ込みどころ満載だな。なんだよその『研ぎ澄まされた勘』って。野生の勘かよ。

 コチン。手を打つと大理石の盤に小気味良い澄んだ音が鳴り響いた。

 四手目。

 黒と白の二人の局面が、少しずつ複雑な融合戦線へと突入し始めていく。

「質問……ウー、と……」

「聞かれる前に答えちゃうあたし! って言っても大したことじゃないわよ。単なるあんたの考えを先読みしただけ。あ、ついでに今君が聞きたそうにしている事にも答えてあげる。あたし、結構強いからね?」

「ん?」

 五手目。ショコラが攻めの手を打ってきた。

 質問していないのに、二つも三つも聞く前の質問を答えられた気がする。

そしてそれらの問答は、全て正解だった。

その上盤上の展開も早い。守りが追いつかない。

「……どういう事ですか?」

 俺は半無意識に自分の手を打ってしまった。

 六手目。

 これは……手としてはかなり際どい。

「んーふーふー。どういう意味でしょう。これも質問よね? 教えてあげる」

 素早くショコラが手を返した。

 七手目。疑問形は全部質問カウントかよ!

「あ、いや……むぐぐっ」

「答えてあげましょう。そうねえ……キミの思っている事は、最初の一手目からおおよそ全部予想ができちゃうって感じかな。物事には定石ってものがあってね、定石は全部一手目から全部決まってる感じなの。その定石だって長い時間を掛けていろんな人が通ってきた道……考えてきたルートなのよ。貴方の考えも、その何十万個もあ定石の内の一つに過ぎない。君が打つその手は、過去何度も繰り返されてきた手なのね。だからキミの質問は全部ね、みんなね、分かる物なのよ。さあ、あたしにどーんと、この胸に飛び込んで来る気でかかってきなさーいっ」

 ショコラは滑舌よくそう言うと、大げさに、無い胸と白いストールと腕輪をつけた右手と左手を大きく横に広げた。

「……」

 べらべらべらーっと長い台詞のあとのこれは……笑うところなのだろうか。え、相撲?

 それとも貧乳って方? ……自虐?

 俺はゆっくりと両眉を真ん中に寄せた。

「二十手。いや、十五手で、キミを詰みにしてみせられるくらいのー、あたしの強さ」

 と、俺の手が止まった。

 ショコラが次に動かすべく待機していた駒を持ち上げて、ちょいちょいと俺の打ち手を催促してくる。

「さ、早く早く」

「まだボクは自分の手を打ってませんよ!」

「でもこれ動かす気でしょ?」

 ショコラは、今まさに俺が動かそうと思っていた駒を、持った駒の尻でチョンチョンと突いた。

「あたしさっき言ったでしょ? あんたの動きは、全部分かってるって。で、その上であたしに、何聞きたいんだっけ?」

「……」

「ゲームが終わるまでに、質問全部終わるかしら?」

 何とも言っていない内に、ショコラは俺の顔を見てニッコリと微笑む。

 悔しいが、その笑顔は一人の女の子としてとてもかわいく、そして魅力的だった。

 八、九手が素早く互いに進行していく。

 ……もう駒が取られた。

 すでに後がなくなりかけている。

次は、俺の番だった。

「……聞きたい事が、あります。アナタは何者なんですか?」

 漠然としすぎているか? でもこれは、何というか……いや良くない質問だったか。

 俺は渾身の一手を打った。

 澄んだ大理石の音が森に響く。

「んー? もうちょっとちゃんとした質問はないのー」

 そういってショコラはコツンと返しの手を打った。

「でも、まあ、いっか。悪くないかも」

 俺の渾身の一手は、すぐに覆された。

『こ、これは厳しいかもしれない……』

 俺は無意識のうちに苦しい顔をしたが、それを見ていたのかショコラは懐から見覚えのある缶ジュースを取り出すと、ジュースの口を軽く口に含み、クソむかつくかわいい笑顔で俺に微笑んだ。

「あたしが何者か、かー」

 ショコラは意味ありげに、腕を組みながらウンウンと何かを考え始めた。

 小さな体躯に似合わない、クリーム色の俺のコートが風に小さく揺れる。

 俺は自分の盤を見て、腕を組みながらウンウン唸っていた。

「んー、難しい質問ね。じゃあ……幽霊、とか」

 ポツリと、聞き捨てならない言葉が聞こえてくる。

「……はい?」

「それがダメなら、宇宙人」

 今度は俺の頭が上を向いた。

「え」

「何でも良いじゃない。あたしはあたし。これ以上でも以下でもないわよ?」

「それって……答えになって無いじゃないですか」

 っていうか、この人はそういう存在だったのか?

 っていうかまともに質問に答えてもらった覚えがないんだがなー。

「……えっ、まさかそれ本当に」

「んなわけないでしょー。でもまーそんな漠然とした質問じゃ、あたしも何も答えられないかなって、ね?」

 コチンと、ショコラの十一手目が打たれる。

 盤上の俺の駒は既に三個も取られていた。

 詰みは間近か。自分の詰みがもう見えている。こんなに早い展開は初めてだ!

 俺は心の中で頭を抱えた。

「うー……」

「なーんだかなー。なってないわねー。ねえねえ、あんたもしかして、自分はこれから『こうしたい』っていう先読み以前に自分の打ちたい手が分かってないんじゃない?」

「う? 打ちたい手?」

「あんた、これから何をどうしていきたいのか、自分でそれが分かってないんじゃないか、って事。あ、これゲームの話ね?」

 それ以外に何を言いたいってんだこの人は……いや、宇宙人は。

 俺は何の考えもなく次の手を打とうと、自分の黒い駒、馬の頭の格好をしたナイトに手を置いた。

 次の手を打つために駒を動かし盤のマス目に置こうとする……と、視線を感じ、俺はおそるおそる顔を上げてみた。

 美しい金髪の、ショコラさんが、ものすごく怒ったような心外そうな顔で、俺の顔を睨んでいた。

「つまりそう言う事よね。なによそれ」

「え」

「アンタ、ホントにやりたい事ってあるの? ……その手は、いったい次は何の手につながるのかな、っての。あんた何がしたいの?」

 俺は何も言ってないぞ。

「それ、そういう言い訳してる顔、あたし気にくわない。なにそれ。あのねー……あたしがこんなに色々親切に教えてあげてるのに、なんなのそれ。前の反省って、もう無かったことにされてるの? 何も教えてあげないぞ?」

 なんだろうこの先読みの連続は。

 というより何これ、何なの? これは何というか読唇術というか……読心、術?

「その手は違うでしょー、っての! ほらほら、駒が意味なく動くだけ、迷ってるだけ、そんなんじゃー自分の欲しい答えはいつまで経っても手に入れられないわ。欲しい駒、答えは何だっけ? っての!」

 盤を挟んで、白のショコラが腕を組んで俺の顔を睨んでくる。

 眼力が強くて心の何かが焦げてしまいそう、な。いやいやそれは何か違うだろと。

 自分で自分に突っ込む。

 俺は何も答えられなかった。

 それも、災いしたのだろうか。

「むむむーっ」

 見ればショコラさん……いやショコラ様の白い端正な顔がみるみる赤くなっていく。

それもあってどんどん何も言えなくなっていく自分。

彼女は俺に、何をどうしゃべれというのだ!

「……ぅーらーァッ!!!!!!!!」

 と、突然眉毛を逆八の字に曲げていたショコラ様と両腕が激高し、根の台に置いてあった盤を駒ごと高い高い……いや、遙か高い空の向こうまで放り投げた。

 盤の尖った角が、空を切って俺の鼻をかすっていく。

「……!?」

 なんだなんだ、今何が起こったんだ!?

 突然の蛮行……いや、脈絡のない……なに?

 空を見ればそこには、青々と茂るしめ縄の枝と葉、雪。どこにもチェス盤も駒も引っかかっているようには見えない。

 俺はいつまで経っても落ちてこない盤を待って、自分のナイトの駒を持ったままカチンコチンに固まってしまった。

「何なのよその意味の分からない手! それが!? 定石!? フン、笑わせてくれるわね! もしくは他の駒も一緒!! 何にも考えてないんでしょう!! あんたいっつもそう! そうやって自分の手を、いーっつも、何も考えないで棒に捨てる!! 自分の今を先延ばししすぎて何をしたいのか忘れちゃってるんじゃないの!? あんたほんとにゲーム勝つ気あんの!?」

 いつかのごとく、もの凄い早口言葉でべらべらとまくし立ててくる。

 俺はその激しい口ぶりに一瞬ひるんだが、でもすぐにその言われている内容に気が付いて憤慨した。

 それは暴言だ!

 なんだそれいきなり!!

「な、なんなんですかアナタ! いきなり、そそ、そんなことをアナタに言われる覚えなんかありません!!」

「この、ゲームの事!!!」

「はあー!? 嘘でしょそれ! 何言ってるんですかアナタ!! 突然変な事いうと思ったら、ゲームの話ですかそれ! 嘘でしょう!! だってまだ会って二回くらいしかないのに、ぼぼぼ、ボクの事、なんでそんな風に分かってるんですか!!」

「分かるからよ! つまんないのよあんたの手は!! その場その場で行き当たりばったり!そこから読めば全部分かる! そうやって、いつもなーんにも考えないで目先の善し悪しだけで駒を動かす! いつまで自分を騙し続けるのよ、そうやって、自分の今をいつまでも見えないフリしてたらいつの間にか何かが好転すると思ってんの!? 目をふさぎっぱなしにして、どうやってゲームに勝つつもりよ! バカ!! アホ!!! オタンチン!!!!」

「う、うるさいっ!!」

 言ってしまった。俺が一番言いたくなかった言葉。

そしてそれに自分で自分の言葉に気が付き、追い詰められていたのも相まって、俺はかなり取り乱してしまった。

 もう何が何だか……。

「そ、そもそも俺は、貴女とはまだ二度しか会っていません。それにここ以外では貴女はどこでも見かけなかった! なのになぜそこまで俺の事を言い切れるんですか!!」

 俺も久しぶりだがキレている。

 激高して、その場で立ち上がり盤の前の少女に指を指す。

 そして、言ってからはたと自分の言葉にも気が付いた。

 あれ? 今俺、俺って言っちゃった?

「なによ、分かるわよそれくらい! あんたあたしの事なんだと思ってんの? あたしにはね、あんたが考えてることくらい何でも分かるのよ! それくらいずーっと、長ーい時間ずっとここにいるんだから。分からないはずがないわ! それくらいあたしは、あんたにには分からないほど長い時間をここにずっとい、が、ゴニョゴニョモニョ……ッ」

 言いかけて少女は口ごもる。

 何かマズい事でも言いかけたのだろうか。

 立っている俺を睨み上げるみたいにして盤の前にあぐらをかいて、その体勢のまま口に手を当てて何がゴニョゴニョとやっていた。

 片腕は白色のストール、白いスカートであぐらを掻いている白い少女。

その外見だけでも明らかに普通ではないのに、それ以上にまるで、何か自分の思い知らない何かを言いかけ分かりやすくどもる姿は、どう見てもおかしいとしか思えなかった。

 この大きな木もある。

 こんな変な場所も、俺の家の近くにはどこにも無いはずだ。

 ……この人は、いったい何者なんだ?

 何を考えている?

 と同時に、俺も見た目の歳はさほど違わなそうな相手に向かって指をさしていることにハタと気が付いて指を引っ込めた。

 これはこれであまりにも非常識だろと。俺は妙に恥ずかしくなって赤面する。

「とっ、とにかく! あんたは、もう少し自分の打つべき手を考えなさいよってこと。でなきゃいつまでも『遠回りの手』じゃなくって、本当にやりたい事すら忘れてそのまま変なところにゲームが進んじゃうわよ。それにしても……よくまあこの前はあんなにイチゴと打ち合ってあれだけ間が持ったわね。何というか……あんた、何?」

「な、なあーっ!!??」

 けど俺は、別に少女に対して怒りを収めたわけではなかった。

 出したいけど出せない自分の指。怒り。思い。

 ああなんて複雑な気分!

「そうよ! あんたは、自分が本当に打ちたい手を自分で分かってないのよ。周りの空気に勝手に飲まれて、目がピンボケしてるんじゃないの? あんたいつも何見てるのよ。岡目八目ってね。それともなに、どっかの気のフれた人みたいに自分を偽ってるから自分の手が打てないとか、まさかそんな感じじゃないわよね?」

「いぐぐっ……」

 事実その通りだった。

 でもそれは、俺が、俺としていられるための必須の条件でもあった。

どうしても自分を偽らなきゃいけない。自分のしたいように自分を動かせば、それこそ世界の……自分がここにいられなくなってしまう。

 自由の自分? そんなのは普通に生きているこの世界では無理な話だ

 自分を偽らないまま変な所に思考がイってしまえば、それこそ人間は全員自由人になってしまう。

 自由人だらけになってみろ、それは……この世界に住む、皆が、絶対に認めないことだ。

 俺は、俺の生きている世界から弾かれたくない。

 好きで自分を偽ってるわけじゃないのに。

「あんた、いったい何が楽しくて人生生きてるの? いっつも周りにあわせて自分を偽ってるみたいだけど、その『何もしない』根拠って何なのさ? 空気読んで、手を打たないでいたら誰かほめてくれるの? そんなルール、どこにも書いてないのよ? チェスのルールは、そんな変な話じゃないハズよっ」

 スコーン!!!!!!!

 盤が、空から降ってきた。

 次いで駒がバラバラと降ってくる。

 奇跡的にと言うか何というか、駒の配置は、以前とまったく同じ場所にそれぞれ収まっていたが。

 俺はナイトの駒を持ったままだった。

 ……俺に、どうしろと言うんだ!

「目的は、キングをとること。それ以外の勝利条件なんて無い。あいもしない空気を読んで自分の手を誤る。そんなゲームの進め方なんて、それこそナンセンスよ」

「……う、うーうーうーっ」

「って、言ってもねぇー。なーんかあんたに期待しちゃったあたしがバカだったかなー。まあいいわ。一手はしんちょーにね。ルールは確かにある物だけを守る。それだけ。あーあ、なーんでこんな事言ってんだろーあたし」

 ショコラ様は……いや、ショコラがふたたびだらんと力なく木の根に座り直した。

 何だろう。自分からゲームを誘っておいて、突然無茶を言い出して、突然何か悟ったみたいにしてるのに、なんで俺は、こんなに悔しく思うんだろう。

「で。あんたの打ちたい一手って何?」

「むぐ……」

 そう言う物かと、俺は改めて自分のナイトの駒を見直した。

 ナイトはいつもの、馬の形をした騎士のトレードマーク。

 八方を自由自在に動く、騎士道と自由の心。

 ……俺は、何がしたいんだろう?

「ち、ちっくしょう……」

「?」

 ナイトは何も言わなかった。

 当たり前だ。駒は、何もしゃべらないのだ。

 だが盤の上では何かが、俺の心に引っかかる何かを映し出している。

 何か。何かとは何か。

 やるせなさそうな顔で、目の前ではショコラがハアとため息をついた。

 ……そんなもんなのか?

「そんなもん、なのか、な……」

「ん? 何か言った?」

「む……」

 悔しいというか、なんというか。

 自分は自分を偽っているのか?

 黒光りするナイトの駒が、雪の光に照らされてキラリと光る。

「わ、分かりました」

「?」

 俺は手に持っているナイトを、あるマス目に置いた。

 今一度答えを探し直す。

 あのキングは、俺が穫るもの。誰にも触らせない。

 それに俺には、聞きたい事があった。

 例え負けても、でもそれは、まだ、詰み(チェックメイト)ではない。

「……ふむ」

「……」

「聞きたい事、何だったっけ?」

 いろいろある。

 俺は次に白が動くであろう、駒の動きをショコラになりきって考えてみた。

 その上で、答えになりそうな黒の道順が、ある。

 ある気がする。

「勝ちたい。勝つことです」

 ゲームは、打たなければ勝つことはできない。

 それに俺の勝ちとは……今俺がやるべき勝ちとは、ショコラとのゲームで白のキングを詰むことだ。

 それ以外は何も無い。それに。

 なんとなく、このゲームで答えを出せば、何かが分かる気がする。

確証はないけれど、でもそんな気がした。

 ショコラは、黙って俺の手の行方を眺めていた。

「勝てるわけないじゃないー。でも、まいいわよ。ゲームを続けましょ、今何手目?」

「え、エート確か」

「十二手目」

 すぐ横に、興味深そうに俺とショコラの試合を覗き込んでいる黒い少女がしゃべった。

「そうそう確か十二手目でうぎゃーっ!!??」

 黒い少女、いちごが、突然しゃべった。

「どっ、どこどこどこに、どこにいたんですかーっ!!」

「? 私はずっとここにいたけど?」

「……っ!!!!」

 この二人はどうも話の脈絡がおかしい。

 いや、時間とかそういう感覚が二人にはないのか?

 人としておかしいだろこれ!

 ……人?

「とっ、とにかく!! ナイト! 俺はここにナイトを打ちます!! いいですよね!?」

「ふーん」

「な、なんですか」

「いや、うん。なかなかイイんじゃない?」

 ショコラはちろっと俺の顔を見上げると、ふたたび盤上に自身の視線を戻して黙った。

 何か言いたかったのだろうか。

盤上、黒の形勢は、未だ苦しいままだった。

 ふと気が付いたら、俺はほんの少しだけ泣いているようだった。

 気が、付いたら。だからこれは当然、俺以外は誰も知らないこと。

 一生、誰にも言わないでおこうと、俺は思った。

 ゲームはすでに終局に近い状況だった。

 盤上に点在する黒の駒も、あと数手経てばほとんどとられてしまうだろう。

黒劣勢、白有利。勝利の挽回は、たぶんほぼ絶望的。

 盤は、黒のキングを中心に詰め将棋と言うか、ほとんど一方的なチェックメイト一歩手前になっていた。

「ほっほーう」

 でもまだ、諦めない。

一手を誤れば即ゲーム終了だが、チェックメイトではないのだから。

 ショコラは盤を上から覗き、とても興味深そうに指をあごに添えて見下ろしていた。

「……」

 自分の心臓の音がうるさい。

 緊張か。ベトついた手のひらに、自分の爪が鋭く突き刺さる。

「勝ちたい?」

 盤を睨むショコラが、何か意味ありげにぼそっと俺に聞いてきた。

「勝ちたい、です」

「無理だって」

「でも勝つんです」

「んふふー。まあそうよね。私も勝ちたい。じゃあ聞きましょう、どうやって? ……チェック!」

 盤上の駒が、再び動き出した。クイーン、十三手目。

「あなたのキング、逃がさないわよー?」

「……」

 俺は黙って、自分の黒の駒を動かした。

十四手目。まだまだ、まだ、詰み(チェックメイト)にはなっていない。

「むう」

 ショコラが小さく唸る。

 同じく俺も小さく息を漏らす。

 何手先になってもチェックメイトをさせない手、あるいは、完全に不利な状況でも一発大逆転を狙える唯一の手。

選べる手はアレ一つだけだ。

ミスは許されない。綱渡りみたいな手の連続。

 それは、スティールメイト。ゲームで不利な側が狙うチェス界唯一の、引き分け。

「ショコラ、まだまだ詰めが甘いね」

「イチゴうるさい」

 唸っている俺とショコラの脇から、楽しそうなイチゴの茶々が入ってきた。

「チェスはね、攻め手と守り手の掛け合いみたいなものなの。『私はこうしますよー』って片方が言うと、それに対して『私はこうするよ』『じゃあこうしたら?』って言って、質問と答えが順々に回っていって、それがだんだん二人の試合……」

「うるさい」

 ショコラが、ピシッとイチゴの茶々を遮った。

「……」

 黙っていても、クスクスと微かな笑い声が聞こえてくる。

見なくても、盤を横から覗いているイチゴの顔が笑っている……試合を楽しんでいるのが分かった。

 十五手目。白、脇からクイーンを入れて黒のキングの退路を塞いできた。

王手(チェック)!」

「……」

 俺は黒のキングを一つ前に逃がした。

 まだチェックメイトではない。もしくは、何か大反攻的展開が現れそうな雰囲気を醸し出す。

 だがそれは、嘘だ。

「どうしますか?」

「どうもこうも無いわ。ただ私は攻めるのみ、チェック!」

 再び白が攻めてきた。

 クイーンの猛攻か。歩兵のポーンと生け贄の刀を持った血塗れビショップが後に続く。

「まだ終わりません」

 俺はクイーンの攻勢を砕くべく、最後のナイトをクイーンとキングの前に割って入らせた。

 ナイトは苦しそうに剣を構え、来たるべき女王(クイーン)の攻撃に身を固める。

 次の一手でナイトはクイーンに取られるだろう。

クイーンの十王乱舞はすぐ目の前。八艘飛びのナイトは辛そうだった。

『勝機は、クイーンが攻めてきたその時だ!』

 俺には、どんなに不利な状況でも絶対に負けない……ギリギリの引き分けの選択肢、スティールメイトの秘策があった。

 それは、クイーンがナイトを取りチェックをかけてきた時の一瞬の隙。

チェックの瞬間、攻めてきた駒の周辺にある空白地帯が生まれる。

 どの白の駒も利いていなく、かつ次に誰も次にチェックをかけられない唯一絶対の盤の隙間だ。

 そこに自分の駒を入れると、その瞬間、チェスの特殊ルール『スティールメイト』が成立してゲームは強制終了になるのだ。

 ゲームが終了すると、その瞬間、例え白がどんなに有利でも、例え黒がどんなに不利でも、そこでゲームは終わる。勝者のないゲームになる。ゲームはいつまで経っても、終わらない。

 卑怯ではない、これは確かにある本当のルールだ。

『手数、足りてるか?』

 俺は何度も何度も自分の手を読み直した。

 一手でも読みを誤るとスティールメイトは達成できなくなる。

 俺はちらっとショコラの顔色をうかがった。

盤を睨むショコラの顔。こちらの手の内には気づいていなさそうだ。

それにしても……

『この人は、本当にチェスが好きなんだなー』

 盤を見つめるショコラの顔は真剣そのものだった。

俺はショコラの顔を覗きながら、素直にそう思う。

と同時に、自分もなんだかチェスが好きになっているのに気が付いた。

 いつかの俺は、チェスをつまらないものだと決めつけ舐めきっていた。

 つまらなくて、単調で、勝っても負けても間が抜けている、考える事も少ない、将棋なんかよりもよっぽどマイナーなチェスを、俺は心底バカにしていた。

『チェスって、こんなに面白かったっけ』

 いつか誰かに、聞いた言葉。

「もっと楽しい試合(ゲーム)をしよう」の、忘れられないあの言葉。

単調なターンの繰り返し、駒と駒の交換、単調なルーチンワークを繰り返すだけではない、もっと可能性のあるゲームを、自分で探し、自分で追い続けていく。

 見えないキングを追いかけて、あの人は今も盤の上で必死に戦っているのだろうか。

 あの人は、じゃあ今は誰と戦っているのだろう?

 ゲームは一人でできるものじゃない。

 誰かと誰かの問いかけと、回答、それに対する問いと回答、沈黙、駆け引きと驚き、結果。

 ゲームは、一人で問い、一人で答えるだけのものではない。

「……」

 自分の外にある何かの答えを、探そうとも、見ようともしなかった、自分。

 盤の駒を打たず、いつも人の盤を横から覗いて、へたな手を見て笑い、自分はポケットに手を突っ込んで立ち止まっているばかり。

自分は自分の、自分の駒の最善を打とうとしなかった。

『見ているだけの世界と、何かを求める世界、の、違い?』

 ショコラは真剣に盤を見ていた。

 何を考えているのだろう。

 その真剣な目が何かを見て、ふっと皺を寄せて笑い、きょろりとこちらを覗き見上げてくる。

「それ、分かっちゃった、かも」

「!?」

 ショコラはストールの巻かれた腕を伸ばすと、クイーンではなく、ポーンを前に出してきた。

 クイーンは動いていない。もしくは、俺が必死になって読んでいたものとは違う別の手だ。

「げっ!?」

 予想外のポーンが俺のキングを追い立ててきた。

 あわててキングを盤の隅に逃がす。

「んふふ……あたしと引き分けになろうなんて十年早いわよ」

 予想外の局面。

無意味な拮抗状態を保ってしまったがために、俺は無意味に自分の駒を、ナイトを失ってしまった。

「う、むむむ……」

「さあ、どうしようどうしよう!! これで黒の勝機は完全にっ! なー」

「む、うーぐぐぐぐぐっ……」

「ーぁ? ん? んーふふふふー。なーに、なんだかとってもー悔しそうな顔ね? さっきとは違う?」

 元気そうなショコラが、でも非常に元気いっぱいに、両手を挙げて喜びの声をあげた。

「でもーこれで、あたしの勝ちッ! 勝負ありっ!! 優勝っ!!! あたし最強ッ!!!! やたーっ!!!!!」

「むーうううううう……」

「そんな犬みたいに唸ってもだーめっ。勝負の世界はーっ、とてもーっ、残酷ーなーのだーっ」

「でもねえショコラちゃん」

「やったよー! あたし勝ったよー! あーたーしー勝ーっ……な、なによそんなに人の袖引っ張って」

「ショコラちゃん、ナイトさんに何手で勝つつもりだったの?」

「何手って、二十手よ。二十手きっかり、びた一文負けないつもりよ」

「うん、分かった。二十手よね? でもね」

「あによ」

「二十五手、かかってるよ?」

「!?」

 腕を組み、勝ち誇ったように笑っていたショコラの顔が一気に引き締まる。

「うーそだーッ!?」

「ほんとほんと。ほらほら、こうやって数えていったら、ね?」

「……ホントだ。えっ、ちょっと待ってなんでこんな奴に二十五手も?」

 こんな奴、で悪かったですね。

 言ってもいないのに心の中で毒づくと、それが本当に聞こえたかのようにショコラの顔がムッとして俺の顔を睨んだ。

「そ、そうだそうだっ。俺は二十手以上かかってショコラさんに負けたんだ。これは負けじゃない、引き分けだーっ……いや、ですっ! 引き分けですッ! いや、引き分けでしょう!」

「うーむむむむむッ!! なーによぅ! なんだか分かんないけどそんなに言うようになって。でもこんな奴と言えばこんな奴よ。何よ、さっきまで全然勝つ気無かった癖して」

「かっ、勝つ気無かったって、それはいくらなんでも酷すぎですよ! 撤回を求めます!」

「ふざけんなこのバカ! あんたなんかとあたしが、ぬぁーにが引き分けよ! バカ! バカハゲ!!! バカハゲチャビン!!!!」

「ばっ、ばかはげちゃびんーっ!?!?」

「ばーかばーか!!」

 ブチン!

 言われなき一方的な暴言というか、ショコラの幼稚すぎる言葉に俺の何かがはち切れた。

 ベーっとうれしそうに舌を出して俺をバカにするショコラ。コイツに何か一矢報いたいと。

 俺は思い立ち、その場ですくりと立ち上がる。

「……!」

 だが、立ち上がったまま俺は何もしゃべらなかった。

 この俺が、負けた癖に何を言えばいいのかと。

 何を言えばいい?

「わ、分かりましたショコラさん。そうです、もう一度! もう一度勝負しましょう! 今度は絶対負けませんから! いや今度は、勝ちます! 勝ってみせます!」

「フン! なーにが『今度は絶対勝ちます』よ。あんたみたいな弱いヤツと誰がそんなにするかっての。さっきまで勝つ気なんて無かった癖に、がーっ」

「そそそそんなことないですよー。僕はこんなに勝つ気満々で……ほら、ここら辺に、ストレッチパーあワーぁぁぁぁがッ!! とっ、ところで俺…あいや、僕は二人にお聞きしたいことがあるんですってば。」

「はーなーしーをー、聞けっ」

「それを聞けるまでは勝負はやめられませんよっ。お二人はいったい何者なんですか?」

 それはそれとして。

俺はいったい何を言ってるんだ?

「ぬっ?」

 名前も知らない大木の下でチェスばっかりやっている、正体不明の黒と白の美少女。

……と、言えばなんだかどこかで聞いたことも無いではないような感じだが。

 だがなぜかショコラと、いちごも、なんだか困ったような戸惑ったような顔をしてその場で固まっていた。

 一人は腕を組み、口元を横一文字に結び、何か考えて顔色を赤白とせわしなく変化させている。

「それが聞けるまで、俺はゲームを諦められませんよっ」

いちごはどうか……と思うと、笑顔のまま普通に固まっていた。

 何なんだこの二人は?

「そ、そうだ。あんたね、もう負けたんだから、今さら質問なんてできないのよ!あんたはここではね、招かれざる変な人なんだから」

ここ、とは。

「でもそれを聞けるまで、やっぱりゲームはやめられませんよ俺。というか、やっぱりここは普通の場所じゃないんですね?」

 ショコラの言葉に、俺はすかさず疑問に思っていたことをぶつけてみる。

「……」

「ここは、一体どこなんですか? 何もかもが、普通には見えません。ボクは今どこにいるんですか? 貴女たちは、本当は何者なんですか?」

 俺は、丁寧に、漏らすことなく自分の聞きたい言葉を二人にぶつけてみた。

「……聞きたい事って、それ?」

 対してショコラは、だいぶ困ったような顔をして俺の顔をにらみ返していた。

「え。いやまあ、ハイ」

「ふうん?」

 と同時に、半分目を閉じて首を傾ける。

「まあ、いいけど。さっきの約束か。全部一辺には答えられないわねーとか、思ったけど。……よーく考えたら、あんたもう質問って、全部質問し終わってるんじゃない?」

「?」

 コツコツと自分たちの白と黒の駒を盤上に並べ始めるショコラ。

 俺は隣に立っていたイチゴに自分の席を譲ると、また前みたいに、二人の盤を横から見る形に戻った。

「え、ええ? 俺、何か聞いてましたっけ」

「どうですか! とか、いろいろ」

「え」

 予想外というか、予想通りの答えというか。

 ショコラは、そんな非現実的な言葉をさも当たり前のように話し出した。

「だからー、あたしも毎回全力で答えてたけどー。ま、でも二十五手もかかっちゃったしなー」

「えっえええっ……」

「でもあーたーしーはー、約束は守りましたよー?」

 そんな、俺何か聞いてたっけ。

……言った覚えないッスよ。

 なにこの持ち上げてドボン大作戦。

「でもー、何も答えないままっていうのもー、色々かわいそうー、かも、ね?」

 俺は巨大な徒労感に襲われ肩を落としていたが、何か考えがありそうな明るいトーンのショコラに、ハッと首をもたげる。

「だからさ。シュッケツトクベツダイサービスッ!! 一つだけ、質問をゆるしてあげる。その代わり、それ、交換しない?」

「交換?」

「それそれ」

 言うとショコラは、俺の着ているウィンドブレーカーを指さした。

「これ?」

「そ。やっぱりー、冬って寒いじゃない?」

 当たり前だバカヤロー。

「あんたのウィンドブレーカー、それと聞きたい事、一個、交換しましょ」

 そんな貴重な質問一個は、俺は何も持っていません。

 でも。俺のいるこの世界は何もかもが妙だ。

 だからってわけでもないが、どうも俺の選べる選択肢は、この時点ですでに全部決まっていたらしい。

「思ったんだーけどー。あんた、ここの出方って知ってるの?」

「うむっ、な……あ」

 選択の強制。選べない選択肢を二つ提示して、盤を自分に良いように誘導する。

これを、ナイトフォークと言う。

「聞きたい事ー、なーぁんだっけっ?」

 この世界から出たいなら、出方を質問しなきゃならないらしい。

 となると、質問権は一回消費されてしまう。俺の聞きたかった質問はもちろん聞き出せない。

 対価はウィンドブレーカー。

 これはっ、詐欺だっ!!

「こ、この悪魔っ。追いはぎっ、ドロボー……っ」

 さっきまで黙っていたイチゴまでがクスクスと笑い出している。

 二人してこれか。悪徳知能犯二人組めっ。

「ささ、何でも聞いちゃって良いわよー?」

 知能犯だ! いや詐欺だっ!! 泥棒だ!! 説教強盗だ!!

 俺は黙って、ウィンドブレーカーを脱いで目の前にいる少女たちに渡した。

 冬は、凍えるほど寒かった。

 と、今度は足下に何かの気配を感じて振り返る。

「ん、お前はいつかの銀ギツネ?」

「アナタの聞きたい事はー、その人に聞いてみてー。そうすればたぶんこっから出られるからー。……分かったらさっさとカエレ」

「ぐぐぐ……あ、貴女たちはこっから出ないんですか?」

「……」

 ショコラは、黙って笑顔で「しっしっ!」と手のひらを振っていた。

 なるほど。

チックショー、追いはぎなんてくやしくなんてないやいっ!

 俺は腹が立っていたので、別れの挨拶もせず黙って後ろを向いた。

「おーいっ!」

「?」

 ゴンッ! と、後頭部に突然の衝撃。

「あがっ!?」

 怒りながらふたたび振り返るとそこはやっぱり真っ白な霞が広がっていて。

 足下には、いつか見たオッサンの缶コーヒーが転がっている。

「!? あっ、あちちっ……」

 ほっかほかに温まった、湯気さえ出ていそうなほど熱い、オッサンの顔がプリントされた物。

「……ふんッ」

 休憩ついでに俺のぶんってか。

ありがたくなんかねーよチックショー追いはぎ悪魔二人組めっ。

 俺は缶コーヒーをホッカイロ代わりにしながら、霞の彼方に消えそうなキツネの後ろ姿を追いかけた。

 前の通り、だんだん霧が晴れていき世界が再び明るくなっていく。

なんとなく分かってきた。

ここは普通の世界ではない。

たぶんあの二人も普通の存在ではないのだろう。

もしくは今足下にいるこの銀キツネも。

俺はこの世界に迷い込んでいる。何かがあって、入り込んでいる。

その何かの理由は分からないが、きっといくつかある理由の一つは……たぶん、今目の前にいるコイツが握っているんだろう。

物言わぬ不思議の存在の銀狐が。

じっと先を行くキツネの背中を見ていると、今度もやっぱりいつも通りに白い靄が自分の周囲を覆い始め、薄く見えなくなる直前にキツネが後ろを振り返って俺の目を、見つめてくる。

どうせ次の瞬間にはキツネなんかどこにもいなくなってるんだろと思っていたら本当にキツネはどこにも見えなくなっていて、気が付いたらいつの間にか自分の家の前に立っていて、時計を見たら俺の時計は角辺と別れた時から五分も経っておらず。

 はいはいどうせ俺はキッチーですよ。

いつか小説かなんかにして書いて賞に応募してやる!

その内神隠し世界から、でもいつか普通には現実世界に戻れなくなるんだろうなーとか思っていたら。

「……あれ?」

 俺は、得体の知れない妙な感覚を覚えていた。

 前に見たあの花は、あれはよく河川敷に生える彼岸花。

 そしてそれ以上に、俺は頭の中に妙な物を抱えこんでいる事に気が付く。

 いや……気が付いた、ではない。思い出した。

 俺は今、大変なことを思いだしかけている。

 記憶の彼方で、誰かが、小さい頃の俺の頭を撫でてくれた。

 そんな撫でてくれるような人の記憶を、俺の頭は持っていない。

 なのに。

「俺、あの人たちの事、なんか知ってる……ぞ?」

 俺は両親と、三人だけで、ずっと静かに暮らしてきたようなのに……?

 あれ? 誰だろう、この優しそうな、どこかはかなげな、綺麗な女のひ、と……?

 俺は、今までずっと知りたがっていたはずの、自分自身が忘れていた何かを思い出しかけていた。



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