表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

02

 ここはどこだろう?

 小さな足跡は、いまだとどまることなく雪の上を進み続けている。

 なのに狐の姿が見えなくなってから随分と久しい。

 俺はいったいどこにいるんだ?

 俺はいつの間にか、見えない狐を追いかけて『ひたすらに』どこかの藪の中を歩き続けていた。

 これは道なのか?

 すごく、疲れた。

 でも逆に、寒さを感じなくなっている。暑くて逆に、コートの下に汗がにじんでいた。

 道の上は雪と枯葉が敷き詰められ、ところどころに土が浮かんでいる。

 藪と藪を塗って歩くが、歩けど歩けど道らしい道は見えてこない。

 それでも歩いていると、俺に隣り合う形の小川の向こうに壁のように深い樹の群生地があった。

 雪の被っている熊笹や、お互いに絡み合っている深い緑の木々。

 その少し向こうには、見たことも無い何かの古い建物が見えた。

 建物……というか、何かの神社か何かなんだろうか?

 いつの間にか俺の傘に降る雪が少なくなっていた。上を見上げてみると一本のとても大きな樹が俺の真上に、一面に広がる木々の壁と同じ葉を広げていた。

『冬でも、まだ葉っぱがはえている樹があるんだ……』

 そう思って俺は、また自分の足元に目を落とした。

 途切れ途切れの雪と、たくさんの枯葉。目の前にはもう、キツネの足跡は見えなかった。

 名も知らない林の中に、俺一人だけ。

 さっきまでの心の勢いが、なぜか一瞬で消え去ってしまった。

 急に、寂しさが戻ってきた。

「……」

 どうしよう。俺はもしかしたら、とんでもない事をしているのかもしれない。

 さっきまで汗ばんで暑かったコートが、急に寒く感じてくる。

「ど、どうしよう?」

 思い切って自分の心を言葉に出した。

 なぜかさっき以上に、孤独が心に響いた気がした。

 後に戻るか? いや、もう後ろはどこから続いているのか分からない。

 前に進むか? でも、どこに進めばいいんだろう?

 傘を持って立ち往生してしまう、俺と黒い傘。

「フォークナイト!」

 突然、小川の向こうから声が聞こえてきた。

 明るい、女の子のような、声?

「……インターセプト ジャックナイフ」

 今度は、静かな女の子の声が聞こえてきた。声の場所は樹の壁の向こう……建物の近くみたいだった。

「……む。ハウスポインティング!」

「スクイーズポーン」

 二人の女の子の声がする。しかも二人はどうやら、何かで激しく戦ってるようだった。

 こんな林の奥深くで、二人はいったい何を戦っているんだろう?

 ボーっと俺が樹の壁の向こうを見ていると、一瞬声が止まった。

「……チェーック!」

「えっ?」

 こんな場所で発せられる聞きなれた単語とギャップに、俺は思わず声を上げてしまった。

 ここは林の中だぞ? しかもすごく寒い雪の中。変な神社があって、大きな樹が生えていてい……そんな中で、誰かがチェスをしている?

 そんなバカな!

 俺はもう一度声を探ろうと耳を済ませたが、少女達の声はもう聞こえなくなっていた。

 確かに「チェック」と聞こえた。

 だけど声の聞こえる場所があまりにも変だ。

 キツネを追いかけて雪道をさまよっていたら、不思議な神社で少女達の声が聞こえる? これは、どこのファンタジー物語の話だ?

 俺は自分の耳と頭を疑った。

 そうだ、さっきのチェスの最後の試合みたいじゃないか。

 あり得ない幻想みたいな事が、目の前で起こっている感覚。だけど今さっきは確かに、「声が」聞こえた。

 あり得ないけど、目の前で起こっている……いや、起こっているような雰囲気だけ?

 ……よし!

 ここは徹底的に、俺も現実を見てやろうじゃないか。

 俺の脳みそは腐っていても、目と耳は絶対に腐っていない!

 ……はずだ。

 この現実世界に非現実があるだって?

 あるわけがない。今から自分で自分に、現実世界をしっかり証明してやる。

 小川沿いにはうまい具合に古木が横倒しになる形で生えていたので、俺はシューズの金具をうまく木に食い込ませながら川の対岸に渡ってみた。

 木の根に覆われた古い神社に、しめ縄と名無しの神木。

 地面に隙間なく張り巡らされた樹の根っこに、辺り一面を浸す水溜り。

 薄くモヤのかかる神木と周りに広がる薄暗い樹の海の上では、本当に二人の少女がチェス盤を睨んでいた。

 遠めに見てよく分からないが、木の根でできた山を、盤を置く台とイスにして使っているみたいだ。

『嘘だろ? 樹の海? その上で、真冬に二人の少女が野外チェス?』

 現実世界じゃ絶対にありえなさそうな世界だ、だけど目の前には、それが極当たり前とでも言うように俺の知らない空間が広がっていた。

『ここ、どこの異世界だよ!』

 それでも少ししゃがんで根っこの隙間から水面に手を浸すと、グローブ越しにも透き通った水の冷たさが伝わってきた。

 朝いつも感じている凍てつく水道水と、水の冷たさは何も変わらない。

 茶色い砂地に、淀みがまったくない水が縦横無尽に広がっている。水面から根にかけて赤茶色に垂れた古苔が生い茂り、コケの上には更に枯れたシダがいくつも覆いかぶさっていた。

 霞がそこかしこに浮かび、シダやさまざまな名の知らない草の根っこがあちこちに転がっている。

『むしろこの古神社も、それらの草木の一部としてこの世界に取り込まれてる?』

 いやいやいや、さすがにそれはちょっとありえないだろ。いくらなんでも世界が壮大すぎる。

 俺の目には壮大すぎる黒い根の海に、逆に消えてなくなりそうなほど小さく雪の瀬が積もっていた。

 小さな雪の粒が木の枝から下に落ち、落ちた雪がまた木の根に積もった雪を落とす。

 大きな雪の塊が海に降り注ぐたびに、樹の下に広がる水面に大きな波紋が広がった。

 なんでこんな所にこんなところが?

 なんでこんな場所にこんなものが?

 脇道を進みすぎて、いや……どこをどんな風に進んだって、こんな『ファンタジー』『ナンセンス』の塊が堂々目の前に現れるわけがない!!

なのに、今目の前に起こっているこれをすべて『嘘だ!』で切り捨てるには、俺が見ているこの異世界はあまりにも大きすぎる存在だった。

 どうしてこんな世界があるのか、俺には分からない。だけど確かにこの不思議な世界は、俺の目の前に広がっている。

 これがただの妄想だとか、幻覚だとか、催眠術だとか、そんなチャチなもんじゃ断じてない。

 ……なのに。

 歩けば木の根が俺の脚をぶつし、少しでも根の道を踏み外せばシューズのつま先が水に浸かる。

 この世界は、やっぱり俺の気のせいじゃないらしかった。

 雪と氷と苔で歩きにくい根の道を歩き続け、やっとの思いで俺は少女たちの座るチェス台の場所に着いた。

 見れば少女たちの服装も、とても現実離れした格好だった。

 まず片方の少女は、薄地で肩の露出している、真っ白なドレスのような服を着ている。

 右耳だけに真珠のようなイヤリングをつけ、同じように右腕だけに白いアームストールをはめていて。

 所々に流れるような服飾は施してあるが、それでも質素な服は全部純白に近い色を使っていた。

 そして同じようにこの少女の髪の毛はやはり白かったが、今度は服とは違う、透き通るような白さをしていた。

 小さな風が流れるたびに、少女の長い髪はフワリフワリと小さく揺れる。

 まるでどこかの天使のように見えた。

 もう一方の少女は逆に、黒い色で服を調えていた。

 白い少女と同じつくりの薄地の質素な服に、最小限にとどめた飾り。左腕に黒いアームストールをはめ、左耳に黒真珠をつけている。

 髪の毛は黒く艶があり、白い少女とは逆に、重くしっとりと濡れているようにも見えた。

 大理石で作られているように磨かれたチェス盤は、上から覗いた俺が映るくらいに綺麗に磨かれている。そんな盤の上には彼女らと同じように、白と黒のお互いの駒が並んでいた。

 ただ何か……俺が見た事もやった事もない独特の戦いが、盤上では繰り広げられていた。

「ルーク スティンガーよ!」

 白い少女が少し乱暴そうに声を出しながら、一つの白い駒を動かした。

 戦局を中央から一気にひっくり返そうとする、大きくて乱暴な手だ。

 白い少女が自分の白い駒を動かし終わるまでの間、黒い少女は両手を前にそろえたまま微塵の動きも見せなかった。

 たまに小さな白い息を口元から吐き出すだけの黒い少女に対して、白い少女は小さく「うーん」と声を出しながら口元に自分の指先をかざしている。

 今度は、黒い少女が動いた。

 その指先は白い少女の駒と全く関係無さそうな場所を泳ぎ、そんなに強く無い駒を、何の変哲も無いところに動かしただけだった。

 一見、何の意味も無さそうな手だ。

 盤上の攻勢は、明らかに白い少女の扱う白い駒。黒い駒は防戦一方だった。

『これは、黒が負ける……あれ?』

 俺はこの局面に、どこかで見たことのあるような既知感を覚えた。

『この戦い、どこかで見たことがあるような……?」

 見たことが……いやそうだ。これは、さっきの対戦者の人が使っていた手に似ている。

 もしくはあの時の棋譜を、もう少し荒削りにした感じ……かな?

 と、俺が色々考えていた時、ふたたび白い少女の腕が動いた。

 盤の中央を強引に突破するために、無造作に黒の駒を捕る。

「これで、あたしのポインティングは成功ね!」

 得意げに白い少女が、捕った黒い駒を盤の脇に並べた。捕られた黒の駒は決して多くはなかったが、それでも白は充分に盤の上を暴れまわれていた。

『あれ、おかしいな?』

 何かが……何かがおかしいのだ。

 黒の駒は、見た目は確かに駒の数は白よりも少ない。

 だがすべてが理路整然と並んでいて、どれも駒と駒が効きあって離れていない。

 もしくは、例えばどれか一つの駒をとろう物なら、それこそ逆に駒を取られて形勢が即逆転してしまいそうな。

 黒い少女が一瞬盤を覗く姿勢をとる。

白の駒が、攻めてきた。盤上の動きに偏りが。

その瞬間、黒の少女が手を動かした。

「……まだ」

 コトリと、全く別の場所の黒い駒が動く。

 瞬間、盤の戦況が一転して黒有利に変わった。

 それをまったく意識していないのか、白は黒のキングを責めに攻め続けた。

 戦局は、膠着状態どころか一気に流動的に変化していった。

「はぁー、すごい」

 結局、盤の最後は黒と白の相打ちで終わった。

盤の脇で激しく動く白い駒と攻め手をうまく返す黒の駒の動きに、俺はついつい己の立場を忘れて深く感嘆の息を漏らしてしまう。

「……」

 と、その瞬間白い少女が俺の目を睨んできた。

 ん、俺何か変な事言った? そんな事よりも、今は君の番じゃないか。早く次の手を打ってくれよ。

 実は俺は心の中で、そう思ったとか、思わないとか。

「……」

 白い少女も俺の心の内を察しているのか察して無いのか分からないけど、また静かに盤上に互いの駒を並べて白先手で一手目を……打ちながら、今度はガン見よろしく俺の顔を睨んでくる。

 二手目。三手目……は、ほとんど俺の顔を見ながら手を打っていた。

「あんた、誰?」

 小さな眉毛が、真ん中にきつく寄っている。

「お……僕、ですか?」

 あ、あぶないあぶない。危うくいつもの癖で自分を『俺』って言っちゃうところだった。

 自分を『俺』と呼んでいると、どうしても汚い心の中の言葉がそのまま出てしまう。

 だから意識して自分の事を『僕』と呼んで、相手に対していつも自分を偽っていた。

「そ、あんたのこと。どこから来たの?」

「ぼ、僕は、近くの今智布町から来ました」

「ふーん」

 まるでどうでもいいと言いそうな態度で、白い少女は一個の駒を盤上で動かした。

 駒は、馬の格好をしていた。

 どもりながらも一生懸命応えたのに、何この態度!

 いや待て。

 ホントにこの人、俺たちの世界の人なのか? もしかしたらこの人たちの世界では、場所とか時間とかそういう概念が全然大切にされて無いのかも。

 だったら、俺の答え方がまずかったのかな?

 いやいやいやちょっと待て。

 アレか。本当に俺の目の前には、現在進行形で『宇宙人、未来人、異世界人、超能力者みたいなの』がいる状況なのか?

 俺はそんなヤツらを、どこかで大々的に募集した覚えは無い。

 でも目の前にはその『異世界人っぽいヤツ』が、『異世界風味な所』にいる。俺の目の前に。二人もだ。

 俺はいったいどこのファンタジーの人間だ?

 やめやめ、そんなあり得ない話が俺の目の前に広がるはずないじゃないか。

 どこかの深夜アニメと俺の今の状況、何が違うよ?

 ……いや、絶対に違うけど。むしろ同じでたまるかっ。

 いやいや、『非現実的』と言う意味では、同じ……なのかぁ?

「寒く、ないんですか?」

 まずはお互いに共通である話題を探そう。

 少女達は薄着。今の季節は、冬。普通だったら、彼女達は寒いはずだ。

「ん、寒い?」

「……?」

 白い少女と黒い少女が互いに駒を動かしながら、同時に不思議な顔をして俺の顔を見てきた。

 今気がついた。二人は感情や表情は全然違うけど、顔の全体のつくり自体はそっくりだ。

「今って、何月?」

「え、普通に一月ですけど」

「ホントっ? そういえば、何となく、寒いかも」

 俺が一月だと言った瞬間、白い少女と黒い少女は初めて自分たちが冬に薄着でいる事に気付いたみたいに自分たちの身体をすくめた。

 おーい、二人とも大丈夫ですかー。

 むしろホントに時間とかの考えが無いんですかー。

「あんた、あったかそうな服着てるわねー」

「そりゃ冬ですからねぇ」

「手袋もしてるー」

「寒いですからねぇ」

「靴もかっこいー」

「結構新しいんですよ、これ」

「へぇー(じぃーっ……)」

「……」

「いやー。すごくあったかそうだなぁってねー」

「……エート」

「ふぅーん」

 戸惑う俺に、なんだかうらやましそうな目で俺の服を睨んでくる白い少女。もう一人の黒い少女も肩を抱き寄せながら、やっぱり上目遣いに俺の事を見上げていた。

 俺に、どうしろと?

「だぁ、もう! わかりましたよ貸してあげますよっ!」

「そういえば、雪が降ってるねー」

「傘も貸せばいいんでしょう?」

「指先がかじかんできちゃった……」

「はい、はい……えーえー、何でも貸してあげますョ。はいグローブ」

「やたっ! ありがとう名も知らない旅の人、あなたの事は一生忘れないわっ」

 一生忘れない? んんー? なんだか言葉のあちこちに影が見える気がするが?

 考えながらも俺が自分のコートや手袋を脱いで白い少女に貸すと、少女は半分俺から奪い取るみたいに俺から受け取った。

 受け取ったかと思うとさっさと向こうに座る黒い少女の席に移動し、二人で一つのコートに包まった。一つしかない傘を真ん中に差して、二人で俺の手袋を半分こにしている。

 二人の少女の構図自体は色々いい感じなんだけどさ。何で俺はこんなに寒い思いをしなきゃいけないんだろう?

 白い少女も黒い少女も、コートを羽織るとすごく幸せそうな顔をした。

「あったかー……」

 実際に声に出したのは白い少女だった。

 同時に白い少女は『あんた、早くどっか行きなさいよ』という凄くイヤーな視線も送ってきた。

 うわ、なんて自分勝手な人!

 ……あー、それでか。

 俺は『一生忘れない、名も知らない旅人』ね。なるほど。

 さっさと帰れと? ぜってー帰ってやるものか。

 いや、どっちみち道にも迷っているから、むしろ帰れない?

 さらば、我がカントリーロード!

 吹いて無いけど冷たい冬の風に、俺の涙がチョチョ切れた気がした。

 チョチョ切れついでに、さっきまで白い少女の座っていた場所に自分も据わることにした。

 硬くて少し斜めになっていて形が整ってなくて、なかなかにすわり心地は悪い。

「むー……」

「なんですかー?」

「カエレ」

 今度はド直球で来たな、この人。俺も色々反応に困るぞ。

 白い少女と一緒のコートに入っている黒い少女の方も、俺と同じ感じに無言で困っていた。

「あんた、名前は?」

「僕? ナイトって言います。八跳ナイト、です」

 自分の名前を言いながら俺は、目の前に置いてあるチェス盤の白い駒を動かした。

 途中から少女たちの試合に乱入する形なのか? 純粋に二人と共通の話題を作るという意味で、だけど。

 俺が駒を動かすと、黙ったまま黒い少女が俺に応ずる形で自分の黒い駒をコツンと動かしてくる。

「あんた、ずいぶんとポケットに色々な物が入ってるじゃない」

 黒い少女が駒を動かすのに対し、白い少女は俺のコートのポケットを『勝手に』漁り始めていた。

 どうやら彼女の中では、俺は初対面として扱うほどの相手ではないらしい。

「おっ、何かジュースが入ってるー」

「どーぞ。もう、好きに飲んでください」

「……二つもある!」

「両方どーぞ」

「やたっ! あんた、いい人ねー」

 うう、なけなしのお金で買った俺のジュースが。

 やっぱ、近いうちにバイト始めようかな……?

 何も深く考えずに俺は目の前の白い駒を指していたが、それに対して黒い少女は完璧と言えるくらいのカウンター戦法を使っていた。

「へえ」

 と、興味深く盤だけを覗く。

 そのすぐ隣では、直接見てはいないが白い少女がジュースの一本を黒い少女に手渡し、小さく「ぬるっ!」と言っているようだった。

 盤の上には、たくさんの白い駒と黒い駒が入り乱れている。

 さっき見ていた白い少女の戦い方は一発逆転を狙う大技の連続だったが、今俺がやっている戦法は『負けない戦い方』だった。

 できるだけ同じ価値の駒を素早く交換して、盤上の駒を減らしていく。

「……」

 どんどん盤の上の駒が少なくなる。自分の手駒も少なくなるが、黒の駒も少なくなっていく。

選べる手がどんどん少なくなっていき、すると黒い少女は黙ったまま、ふと俺の目を覗いてきた。

「……?」

 その内……いや、何回見てきただろう。

 ちらっちらっと、少女が俺の顔を覗く。

 俺は何も変な事はしてないつもりだが?

 盤上の駒は、どんどん少なくなって、単調になっていった。

「ナイト、さん?」

「はい?」

 初めて、黒い少女が声を出した。

 初めて聞く声は、凄く静かだった。

「なぜ、こんな戦い方をするんですか?」

「なぜって……これ以外の戦い方があるんですか?」

 盤の上にあったお互いの駒は、ほとんどが盤の外に一列に並べられていた。

 いつもの俺の戦い方。いつもの、単調な試合だった。

「他にも色々戦い方はあるでしょう」

「他の戦法じゃ俺、勝ち方が分からないんで……」

 俺がしゃべった瞬間、なぜか黒い少女はピクリと身体を震わせて反応した。

 上目遣いに俺を覗いたり、また盤を見たり。小さく、俺の言葉を復唱したり。

「新しい戦いを、しないの?」

「負けない戦いしか知らないですし……それに、僕は他の戦い方がよく分からなくって……」

「負けない戦い?」

「こういう様な展開で……」

「負けてるじゃないですか」

 言いながら俺は、また一つ駒を捕っていく。

 黒い少女が、動かなかった。代わりに俺を見上げながら

「負けない戦いっていうのは、こんな風な手を繰り返せば、いつか勝てる戦いなんですか?」

と問いかけてきた。

「勝負はそんなに簡単な物ではないと思うけど?」

「えっ……」

「私は勝ちたい。いつかじゃなくて、絶対って。そう思っています。だから最初から色々、いつからどうやって何をどうするかって、いろいろ考えながら手を打つけど。例えばこんな手を打って、貴方の出方を見る、とか」

 コトリ、と黒の駒が一歩動く。

 黒の大駒……ルークを大きく横にずらす戦法だった。

 俺は、何気なく今目の前にいる少女の顔を見た。

 目の前には一枚のコートに包まれ、一本のジュースを持った一人の黒い少女しかいなかい。

「あれ、さっきの白い人は……」

「チェック、ですよ?」

 少女が動かしたルークが、一方的に俺のキングに手を掛けている。

 しかも、そのさらに別の駒でも俺のキングはチェックをかけられていた。

ダブルチェックだ。これでは、俺のキングは逃げられるマスがほとんとない。

「あ……」

「この局面は、前からずっと避けられたはずなんです。でも負けない戦いばかりを繰り返していると、大切な局面を見落として、盤はいつか取り返しのつかない局面まで追い詰められてしまう。いつも後ろばかり、一方的に逃げてばかりのキングでは、最初からゲームには勝てませんよ? ゲームは、ゲームを始める前から詰んでるんだと思います」

「は、う……」

「それに負けないゲームばかりだと、打つ方も、打たれる方も、あんまり楽しく無いじゃないですか?」

 試合は、今いない白い少女が作っていてくれた勢いのある戦いだったはずなのに。

 いつの間にか試合は、いつもの単調な局面になっていた。

 くやしい。

 いつもだったら「ありがとうございました」の一言を言って終わる試合だけど。

 今日は、ずっと心の中でモヤモヤしている言葉がある。

『……楽しいって、なんだろう?』

 何となく「違う」と思っていた思い。

そういえば、前のあの男の人も言っていた気がする。「今度は、楽しい試合をしよう」って。

 楽しい試合って、どうやるんだ?

「あの……」

 俺は思い切って、目の前にいる少女に聞いてみる事にした。

「勝つ試合って、どういう風にするんですか?」

「え?」

「あ、うんと。一応俺、チェスの大会には出てるんですけど。すごくチェスに詳しいってわけじゃなくって」

「そう、なんですか?」

「たぶん」

 だんだん自信が無くなってくる。

 さっきまでの自分が持っていたあの自信を、自分で全否定するのは、意外と難しいことなんだな。

 素直に思う。

「このゲームはまだチェックメイトまでいってませんけど、よかったら、これからその……勝ち方を、教えてくれませんか?」

「勝ち方?」

 いつの間にか俺は目の前にいる少女に、なぜか頭を下げていた。

 頭を下げながら、俺はふとあることに気がついた。

 そういえば俺は、彼女の名前を知らない。

「そ、そうだ。もしよかったら、名前を……」

「コラーッ!」

 頭を上げながら黒い少女の目を見ようとした瞬間、頭の上から雪の塊が勢いよく飛んできた。

 雪が見事に顔面直撃。コートも何も着ていない俺は、雪の塊が思いっきり服の中に入った。

 うひっ、冷たっ!?

 足元の悪い場所で奇声を上げながら俺は、服に入った雪を懸命に外にかき出そうとした。

 でもいったん中に入った雪は、なかなか服の外には出てくれない。

 奇声を上げながら俺は、なぜか足場の悪い根っこの海の上でピョンピョンと跳ねていた。

 今、いったい何が俺に起きたんだ?

 追い討ちをかけるように俺の上にまた別の雪が飛んできたので、今度はしっかり上を見上げてみた。

 また雪が顔面に直撃。足元が危なすぎて、うまく雪を避けられない。

「こォのスケベ男! あたしの前でその子をナンパしてんじゃないわよーっ!」

 雪を投げていたのは、白い少女だった。缶ジュースを片手に持ちながら、チョコンと小さく枝の上に座っている。

 ぶら下がる脚の右足は靴を履いていたが、なぜか左足は裸足だった。

「ちょ! なんでそこにいるんですか! ってゆーか雪投げないでください!」

「あたしがどこにいようが、何してようが、そんなのあたしの自由でしょっ。ほっ」

 白い少女は自分のスカートを器用に折りながら、枝の上から軽やかに俺の目の前に飛び降りてきた。

「二人のデートなんか、あたしは絶っっっ対に許さないわよっ」

「それは激しく誤解デス!」

「問答無用っ!」

 白い少女が細い体躯で何かの格闘のポーズを決めていると、その脇では黒い少女がクスクスと笑っていた。

「いいですよ。ゲームま、続きはまたいつか。ゲームは、いろんな人とたくさん戦って、たくさん負けて、悩んで、考えていくのが、きっと一番早く勝てるようになる唯一の方法だと思いますから」

 黒い少女は楽しげに俺と白い少女を見比べている。

 いや待て! ここでこの人と、リアルファイトしろと!?

 無理!

 そんな事、俺には絶っっっ対できませんっ!!

「あんたが雪を投げられたのは何で?」

「俺がスケベだったからです」

「あたしが寒い思いをしてたのは?」

「俺がコートを貸さなかったからですっ」

「雪が降ってるのはー?」

「俺のせいですっ……!」

「ポストが赤いのはー」

「ええもう俺がこの世にいるからですよっ!」

 なんでそこでポストが出てくるんだーっ。

 むしろ俺に『生まれてすいません』って言えってかっ?

 色々理不尽な理由でなぜか平謝りさせられて、やっと俺は白い少女の暴打を免れる事ができた。

 結局白い少女はまた、俺のコートの中に黒い少女と一緒に入っている。

 でもなんで俺、逆に謝っているんだろう?

 謝られるのが当たり前とでも言うような顔で俺に問う少女に色々抵抗を感じつつも、結局俺は最後まで謝りきってしまった。

 俺の表情は、最後には妙な笑顔になっていた。

 あー。もしかして、これが世に聞く乙女の心ってヤツですか?

 んー不思……知るくァっ!

 敢えてここで心のリフレッシュターイムっ。

 逆に俺から二人に質問してみよう。俺はもう空気なんて読まないぞ!

「ところで。二人はなんて名前なんですか?」

「ん? 名前って、なに?」

 不意に名前をたずねる言葉を出した俺に、白い少女は笑顔で疑問の表情を返してきた。

「は? いやだから、自分の名前の事、ですけど」

「自分の名前?」

「あう? いや、えーっと。俺が、二人を呼ぶときの名前です」

「……あ、あーあーあー。あたしたちの呼び名ね。うん、呼び名。……呼び名?」

 不意に白い少女の笑顔が難しい顔に変わり、腕を組んで何かを真剣に考えだした。

 おいおい、ここでいきなりシンキングタイム突入ですか? いや、なぜそこで何かを考え始めるんだろう?

 コートの中で腕を組んで首を傾げている白い少女と、やっぱり同じように軽く首を傾げている黒い少女。どうやら二人とも、素直に自分の名前を名乗ってくれなそうだ。

 俺はこの後、どうすればいい?

「分っかりました。じゃあ、好きなものは?」

「好きな、もの?」

 今度は黒い少女が傾けた頭をまっすぐにしながら、俺の言葉に反応した。

 でもやっぱり、なかなか答えてくれない。

 なにこの変な逆クイズ。

『あなたは誰ですか?』

『私は○○です』

『ファイナルアンサー?』

『ファイナルアンサー』

『おめでとうございます! 賞金一千万円です!』

 ……じゃないんだからさ。これじゃクイズ番組の司会者のミノさんも泣くぞ?

「分っかりました。答えられないんだったら、それはそれで……」

「んー待った! あたしは答えられるわよっ」

「……はい、どうぞ答えてください」

 自信たっぷりに『自分の名前』と『好きなもの』を答えようと、白い少女が俺に待ったのポーズをしてきた。

 なんでこんな他愛もない質問に自信満々な顔で色々考えてくれるのか。

 思わず俺はゲンナリしてしまう。

「あたしは、ここにいる。それはオッケーよね?」

「はい。あなたは、ここにいます」

「あたしはこの世界に、あたししかいない。これもオッケーよね?」

「はい。あなたは、あなたしかいません」

「だったら、あたしはあたしよねっ。そうよ、あたしを誰かと区別するための名前なんて、あたしには関係ないんだわっ!」

「……いえ。僕は、僕があなたを呼ぶときの、名前が知りたいんです」

 純粋に思ったことを、俺は素直に口に出した。

「むー。いいじゃん別に名前なんて」

 いいわけねーだろコラ。

 俺の素直な言葉に、自信満々だった白い少女は今度はかわいくスネた顔をしてくれた。

 ……かわいくねーよチクショー。

 これから仲良くなるかも知れない二人組を、「ただの名無し二人組」として捉えるのは、俺には無理だ。

もしこれからこの二人と付き合っていくとしたら、俺は実際どうやって付き合っていけばいいんだ。

「あ、私分かったかも」

 名無しは困る! ……と、頭の中でもう一人の自分と問答を繰り広げていると、ふと今度は黒い少女の方が自分の缶ジュースを眺めながら何かひらめいた風にこちらを振り向いた。

「私は、きっとイチゴが好き」

「え? ……。あ、あの、きっと、ですか?」

 黒い少女が手に持っているジュースには、ピンク色のイチゴの絵が描かれてた。

 これは偶然の出来事なのか、それとも何かの必然なのか?

「あなたはもしかして、グラタンが好きなんじゃない?」

 突然、黒い少女の瞳がいたずらっぽい目になった。

「ナイトさんは、実は苦い物が苦手なの。小さい頃に何かあって、それで隣の町から今の町に引っ越したの。今のチェスはきっと中学の頃に始めたんじゃない?」

 んんっ!? ちょっと待って、何をこの人は言っているんだ!?

 いやその前に、何でこの人は俺の事をそんなに知っているんだ!?

 黒い少女は俺が戸惑うのを知ってか知らずか、スラスラと話を続けた。

「仲のいい友達の子とは本音で話すけど、他の人とは距離を置いてあんまり本音は語らない。ゲームとか漫画が大好きで、きっと部屋にはいっぱい本棚があるんじゃないかな」

「な、なんでそこまで俺の事知ってるんですか?」

「うふふ、見てて何となくそう思っただけ」

「なんで分かったんです?」

「何か外れてた?」

「……いえ、全部正解ですが」

「そう、よかった」

 安心したような笑顔で、黒い少女は小さくイチゴのジュースを飲んだ。

 なんだか、俺の質問をうまくはぐらかされた気がする。色々と納得できない。

「……あぁ!」

 また唐突に、今度は白い少女がぽんと手のひらを打った。

 手に持ったクリームスープがチャプンと小さく鳴った。

「あなた、いちごね」

 何がどういう意味なのか分からないが、白い少女はすぐ隣にいる黒い少女に指を差した。

「えっ?」

「いちごいちご。名前の話よ」

 いちごと自分の名前を命名された黒い少女は、しばらくポカーンとしながら白い少女の顔を見つめていた。

 俺もポカーンと白い少女を見た。でも言っている当の本人は凄く自信ありげだ。

「でもって、あたしはショコラ! どう、それっぽい名前じゃない?」

「えーっと……名前、今付けたんですか?」

「そうよ」

 突っ込みどころ満載なネーミングですね。

 クリーム缶を持ちながらVサインをしている姿に、俺はまた苦笑してしまった。

「なんで自分の名前がショコラなんです?」

「クリームケーキよっ!」

「……?」

「ケーキって言ったら、ショコラよ。なんかそれっぽいじゃない?」

「はぁ……」

 クリームつながりで、ケーキのショコラって事か?

 だったら個人的には、ガトーショコラが良かったかも。

 もっと言えるんなら、是非とも名前は『ガトー』と名乗って欲しかった。

 敢えて理由は言わないけど。

 俺は肩をすくませつつどこからどうやって切り込もうか考えていると、いちご(と命名された黒い少女)がショコラ(と自称した白い少女)に、妙に不思議そうな目を投げかけた。

「あなた、ショコラケーキがすきなの?」

「うん、そうよ」

「なぜあなたは、ショコラケーキが好きなの?」

「なぜって、あたしが何となく好きそうじゃない」

「どうして、好きなものがあるの?」

「知らないわよぉ。いちごだって、イチゴが好きなんでしょ? 何で?」

「……よく、分からないの」

 少し落ち込む姿を見せながらいちごは、目の前に置いたままになっているチェス盤の駒をまた並べ始めた。

 次々に新しいゲームの最初の駒が組み直され、瞬く間に黒の陣が造られる。

 俺もいちごに付き合う形で、白の陣を組み立てることにした。

 ただ少しだけいちごが並べる黒の駒の陣は俺より早く組まれ、数秒の間いちごは俺が陣を組み終わるのを待つ形になった。

「どうして私、ここにいるのかな」

 ふぅと小さく白い息をつくいちごに、ショコラは露骨に嫌な顔をした。

 この二人は、いったい何を話しているんだろう?

 ちょうど駒を並べ終わった俺は、黙って二人の話を聞いてみることにした。

 まず最初は、ショコラの明るく軽い言葉だった。

「まーた変な事考え始めるぅ。アレよ、いちごはちょっと難しく考えすぎよ?」

「じゃあショコラは、何でここにいるの?」

「いるからいるんじゃない? あたしがここに存在するのに、何か理由が必要なの?」

 盤が置かれた木の根の下、水の上から、少しずつ白い霧が湧き出てきた。

 霧がだんだん濃くなってくる。

 そのうち、盤の上に置かれた駒が良く見えなくなってきた。

 真っ白な霧の向こうからは、相変わらずいちごとショコラ二人の影と声が聞こえてくる。

「ショコラ、説得力無い」

「いちごは頭でっかちん」

「……真っ白」

「真っ黒さんー」

 お互いがお互いの事を揶揄する言葉が投げられ、ほぼ同時に二人分の小さな笑い声が聞こえた。

「でも、それでいいのよ」

 笑い声が聞こえるくらいになると、視界を薄く塞ぐ霧はもっと濃くなった。

 そしてついに、二人の影すらも見えななってしまう。

 どこかで雪の崩れ落ちる音がした。

 足下を、気持ち悪いそよ風が走る。

「……」

 誰もいない感覚。

 ついさっきまで感じていた『孤独』を、俺はなぜかまた感じていた。

 いや確かに、俺のすぐ前にはいちごとショコラの二人がいるはずだ。

 俺は二人がここに持ってきてたであろうチェス盤に触れるため、試しに自分の手を少し前にかざしてみた。

 しかし俺の指先は硬いチェスの駒や盤ではなく、変に柔らかくてゴツゴツした『木の根のようなもの』にしか触れてくれなかった。

「あ、あの。いちごさん? まだ、そこにいますよね? ショコラさんもちゃんとそこにいますよね?」

 たまらず俺は、近くにいるはずの二人に声をかけてみた。

 おかしい。何かおかしい。

 二人はそこにいるはずなのに、なんだろうこの孤独感?

 しかし二人の声は俺の問いかけに答えず、なぜかお互いの会話だけを続けた。

「なぜナイトさんは、ここに来たの?」

「そんなことー、考えたって無駄じゃない?」

「いつからここに来るような道を辿ってたの?」

「ずっと前、あの時の選択肢じゃない?」

「なぜ今になって、やっと?」

「回り道は遠い物よ。時間もかかるし、そして苦労する物でもあるわ。最初からそう言う道だったのよ」

「ずっと前から?」

「そ、ずっと前から。あのときの選択が、今になって。いいわよねー」

 時間? 選択? この二人が話しているひとって、いったい誰の事だろう?

 なんだろう。何かが凄く、怖い。

 自分の足元も深い霧が覆い、足元が全く見えない。

 それでも俺はあまりの孤独感に思わずその場を立ち上がり、そろりそろりと少女たちがいた場所に足を向けてしまった。

「こらぁっ」

 突然俺を人影が襲い、おでこの部分をペシッと軽く叩いていった。

「あうっ!?」

 あまりにも唐突の出来事だったので、ビックリした俺はその場で大きく転んでしまった。

 ゴツゴツした木の根の端が俺の身体を打つ。すごく、痛かった。

 なんだ? 誰が俺を叩いた? あれでも、なんだか妙に懐かしいような……?

 いやでも……あれ?

 目の前の人影は俺を叩いた後、今度はそのまま動かなくなった。

 いやむしろ、人にしてはだいぶ影が小さいような?

 俺は身体を返して四つん這いになり、試しに影に近寄ってみることにした。

 影は確かに、生きている何かの影だ。証拠に、かすかに息をしながら動いてる。

 触ってみても大丈夫かな? いや、この影は人なのか?

 俺は試しに、自分の右手で影の頭と思われる場所を少しだけ触ってみる事にした。

 すごく毛深い。いやこれは、人のものじゃない。

 俺が触った「何か」は自分の頭を触られてなぜか、逆に俺の顔に自分の顔を近づけてきた。

 とんがった鼻に、黒く湿った鼻。蒼く爛々と燃える目に、猫のように鋭いヒゲ。紺色の地毛に白い毛が、あごの下から首に向かってまっすぐに生えている。

「う、うっぎぁーっ!?」

 正体不明の獣!?

 訳が分からなくなった俺は、思わず大きな声を出しながら後ろに飛び下がってしまった。

 後ろに飛び跳ねたまま俺はしばらく動けなかったが、逆に時間が経つごとに徐々に霧は晴れてくれた。

 俺は改めて辺りを見渡すと、他にはさっきの二人の影どころか、何かの獣の影も、チェス盤も、何もかもが最初からそこになかった風な空気が広がっていた。

 最初に見た、しめ縄の巻かれた大きな木と、水の張られた不思議な空間。

 最初と違うのは、あちこちに残る雪の上にはキツネの足跡が残されていて、小さく盛り上がった場所には真新しい空き缶が二つ揃って置かれている事だった。

 冬休みの終業式から何も変わってない学校と教室。

 相変わらず教室は、何も面白い事が無さそうな雰囲気をかもし出している。

 なぜか俺はそんな雰囲気を打倒したくなったので、教室の入り口で大きく「シュールストーレング!」と叫びたくなった。

 ビックリするほど我が母校ユートピア! 嗚呼すばらしき我が母校ユートピア

 ソロモンよ! 私は帰ってきたぞーっ!!

 心の中『だけ』でアトミックバズーカを発射しながら、俺はそそくさと自分の机に向かった。

 ……まぁ落ち着こう俺。

 教室の中では走らず、慌てず、騒がない。小学校の時に習っただろ?

 楽しい世界をストレートに口で表現したって、それはたぶん「ああ、なんか楽しそうな人なんだな」って事で白い目で見られてハブられるのがオチだ。

 教室の壁にかけられている時計を見てみたら、まだ始業式の時間まで三十分近くありそうだった。

「ヘイヘーイ、朝からシケた面してんなぁ。どしたー?」

 中身が入ってないカバンを自分の机の上に投げると、隣の席から片肘している角辺が隣の席から声をかけてきた。

「シケてると言えばこの前の俺もそうだったんだが。いつものヒトカラってか? にしても今日は早いんだな、前からこんな早かったっけ?」

「朝からハイテンションだなーお前は。雪が降ってたから、今日は少し早めに家を出たんだよ」

「おう、そういえば傘が無い」

「あー。顔が汚れて力だす気になれね……」

「うわナルシスト!? キメーよ!」

「そりゃどーも。朝から湿気ってますから?」

「うわ、オヤジギャグだ!!」

「しっしっ」

 角辺の今年初のちょっかいを受けつつ、俺は水滴のついた古いウィンドブレーカーを脱いだ。

「にしてもさー、今回はひでー冬休みだったぜ」

「んー? 何かあったの?」

「お前と最後に会った日にな、あのあと俺は、軽く遭難しかけた」

「ほほう興味深い。と同時に、なんだかデンジャラスそうで面白そうなんだが」

「しかもその日の内にコートと傘を無くした」

「災難だなー。だから今日はウィンドブレーカーなんだな」

「そうそう! しかもその後、ずっと風邪ひいて寝込んでた」

「そりゃ確かにヘヴィーかもな。タイムマシンに乗って過去をやり直せたらいいなー」

 本気でガックリしながら話す俺に、角辺は完全に他人事のような目と声で返してきた。

 なんだか俺様のこのビッグな体験を、まるで漫画か何かの風景みたいにして見てやがる。

 ちょっとムカついた。

「そうだ。あの時お前に手袋借りてたじゃん」

「おお、あったな。返してくれるか?」

「わりぃ。色々ゴタゴタしてたら、コートと一緒になくしちまった」

 わざとあっはっはと笑いながら「なくしちまった」の部分を、俺は軽く強調した。

「な、なんだってー!?」

 我ながら見事だったと思う。確信犯成功!

「あっはっはっはーぁ、ごめんごめん。いつかちゃんと稼げたらすぐ返すわ」

「ホントだな!? ちゃんと返せるんだな?」

「任せろ角辺。世の中には美しい日本語という物があってな」

「……またロクでもないのが出てきそうだな」

「『出世払い』って言葉だ。どうだ美しいだろ」

「シネ」

 角辺が見事にあきれた顔をしてくれたので、今朝の「楽しい漫才」ミッションは終了。

「ちょっと干してくるわー」

 文句の言葉が角辺の口から出てくる前に、俺は素早くストーブ前への撤退を開始した。

『しっかしなぁ……』

 教室前のストーブ前の物干し台にたどり着くと、数人の男子と女子が互いにグループを作って雑談をしていた。

「おはよう八跳クン」

「おはようイインチョ」

「やぁ。ナイト君たちは朝から楽しそうだね」

「おっすー、お前らもな」

 楽しそうに会話をしているグループの何人かが、脇を通りかかる俺に声をかけてきてくれた。

 みんな、なんとなく楽しそうだ。

 ストーブに背中を向けていたり、窓際に寄りかかっていたりしながら世間話をしている。

 ハンガーにウィンドブレーカーを干していると、彼らの楽しそうな話題がそれとなく耳に聞こえてきた。

 今日提出する課題の話。明日から始まる試験。

 みんな、今日や明日の話をしていた。

「イインチョは今回の試験、できそうなの?」

「んー。いつも通り、かな」

 ふとイインチョが別の女生徒との話題に途切れていたので、俺はそこに別の話題を突っ込んだ。

「フミノの方は?」

「僕は、ぼちぼち」

 新しくストーブの前に、真面目なメガネをしたイインチョと少し背の小さな男子を巻き込んだ形でグループができた。

「ナイト君は?」

「お……げふん、僕は今年、あんまり勉強できなかったから」

「へぇ。ナイト君らしくないね」

「フミノは駅前留学で休みを明かした感じ?」

「あはは、留学じゃないよー」

「イインチョはどんな休みをしてたの?」

「私? 私は、兄さんが帰ってくる予定だったからしばらく忙しかったけど。あとは机の前だけかなー」

 みんな真面目だ。

「城乃内さんって、お兄さんがいたんですか?」

「歩美濃クンには話してなかったっけ? 私、寮生の学校に通ってる兄さんがいるの」

 俺とは別に、今度は目の前の二人が話し始めた。

 いや待て。城乃内さん改め、イインチョに兄さんがいたってのは俺も初耳だ。

「えっ。イインチョって、兄さんいたんだ?」

「あれ、八跳クンにも話してなかったっけ?」

「全然。むしろ初耳ですよ」

 小さく俺が首を振ると、メガネのイインチョは小さく腕を後ろ組みにして話し始めた。

「私には双子の兄さんがいてね。今は隣の区の高校にいるの」

「へぇー、やっぱりイインチョに似て頭が良い感じな?」

「あはは。私よりずっとずっと頭が良いの、兄さんは。いつも色んな事考えてるしね」

「えー。イインチョより頭良いって、どんな人なんだろう?」

 ちなみにイインチョは、全教科総合で学年二十位より下を取った事が無い。

 対する俺は?

 保健体育は任せてくれ。

「うーん、何だろう。色々、ずっと先のことを考えて準備してる人。あ、あと成績も私より上かな?」

 急にイインチョが楽しそうに、自分の兄について話し始めた。

「今度東京の大学に行くんだって言ってた。私はそこまで遠くに行くのはちょっと不安だからついて行けそうにないけど」

「へぇ、東京?」

「勉強したいことがあるんだって」

 ずいぶんとまじめそうな人だな、イインチョの兄さんは。

 ところでイインチョが話している事を、隣にいるフミノがウンウンうなずいて色々話を聞いていた。

この雰囲気は、もしかして俺は邪魔者だったりするのかな?

「うん。なんだかとっても難しいこと、ロボットを自分で作りたいって、言ってたかな」

「え、何ですかそれ?」

「手作りロボット。地元にも学校は一応あるけど、俺はもっといいものを造りたいんだーって、この前帰ってきた時に言ってた」

 なんだかずいぶんと面白そうだ。

 でも、高校卒業したばっかりでそんな変なもんの作り方を教えてくれる所なんてあるのか?

「あるみたいよ。それに、そんな変なところでもないみたい」

「専門学校、かな。もしかして城之内さんのお兄さんって、そう言うのが得意なんですか?」

「うー、得意……っていうか、『今は物理と数学だけ勉強できればいい』みたいな事言ってたかな。でもロボットって、どうやって造るんだろう?」

「物理と数学?」

「よく分からなかったけど、そういう学校はあるんだって。何か色々パンフレットももらってきてたし」

「早いねえ、まだ俺ら二年生じゃん……」

「早い内から進路が決まってるって事よ。自分のすすみたい道が確かにある。こう、良いことじゃない」

 イインチョがビシッと指を立てる。

 俺はその姿を見ながら、自分の身体とウィンドブレーカーを見比べた。

 自分の進みたい道ね。

 道ってなんだよ、道って。

「城乃内さんのお兄さんは、ずいぶんと先のことを考えてるみたいで」

「うふふ、そうかも。でも男の人って、そう言う事って得意なんじゃないの?」

 それは断じてない。

「僕は受験の事しかまだ考えられてませんねー」

 今度はフミノとイインチョが、お互い楽しそうに話をし始めた。

 二人の話題が今度は受験の話になったので、タイミング良しと感じた俺はその場から黙って撤退する事にした。

 自分の席に戻ると、角辺が相変わらずつまらなさそうに机に片肘をついていた。

「なぁー角辺」

「あー?」

「楽しい事って、今まであった?」

「唐突だなーお前も。あったらこんなにつまらなくしてるかよ」

「んー、確かに……でも何となく俺は、今に納得できてない」

「つまんねーんだと正直に言え」

「何かが宙ぶらりんなのだ」

「進路指導でも受けたら?」

 いや違う。

 確かに俺は今、嘘を言った。でも俺は、嘘を言わざるを得ない状況だ。

 もしここで『あの時あったこと』を話したら、みんな引くだろう。角辺も引く方の人間のはずだ。

「なぁナイトぉ。よく考えたらお前って、遭難しながらコートと傘とグローブをなくしたんだよな?」

「うん?」

「何があった?」

「……うーん?」

「グローブ代としてその時の面白話、聞かせろよ」

 急に角辺が、アクティブに俺の事を聞いてきた。

 あの時の話? いや、話したって信じてくれるわけないし。話すのは微妙かな。

「う、うーん……いつかな」

「話を紛らわすなよー? じゃ、今がその『いつか』だ」

「ええっ。じゃ、出世払いに……」

「ダメだ、許さん」

 今日の角辺は、なんだかいつも以上にアクティブに攻めてくるな。

「旅人の勇者は、冒険に出るとすぐレベルアップするのだよナイト君」

「うん?」

「何かレベルアップしてきたんだろ? オメーのナルシ顔が語ってるぜ」

 角辺はニヤニヤと笑いながら、俺を机の上から見上げてきた。

 ああ、さっきの言葉か。俺はジョークのつもりで言ったんだがなぁ?

 俺は自分で自分の顔を、指先で色々いじってみた。別に何も変ではなかった。

 チャイムと同時に始業式があって、次に大掃除があって、ホームルームがあって課題を提出して……。

 角辺にどうやってあの時の話をしようか悩みながら帰り支度をしていると、隣から本人が唐突に話しかけてきた。

「ちなみにさっきのは、予定通りの釣りでした」

「はぁ!?」

「へへーん。伊達にチェス大会優勝者のお前と張り合ってねーぜ」

「いやいや。今お前何て言った?」

「いやさー、いっつもお前にやられてばっかだからさ。たまには俺もお前をギャフンと言わせたかったのよ」

「それで?」

「ほれほれ、前俺に言ってたよな? 『話しかける時は事前に電報打て』って」

「あー、確かに言ったかも。……でもよく覚えてたな?」

「あとファンタジーやらSFの違いの話もな。二週間準備したぜ。で、これ実はケータイにメモってたんだぜー」

 言いながら角辺は、自分のポケットから一台の携帯電話を取り出して俺に画面を見せてくれた。

「うわぁ、お前って意外と根に持つヤローなんだな。じゃあもしかして、今までの話って……」

「ふふん」

 画面には電子的な文字で『楽しいって何か?』と小さく書かれてる。メモ帳だった。

「全部、つながってます」

「……え、ええーっ! この話かよ! しかもこのタイミングで!?」

「ほれほれ、歩きながら話すぞ」

 角辺はとっくに帰り支度を終えていたのか、携帯電話をポケットにしまってさっさと教室の出口に向かった。

 教室にはまだ沢山の生徒が残っている。

 その中でもイインチョは教室のストーブを消しており、フミノは消えかかっているストーブの近くでイインチョの友達の女生徒に何か怒られていた。

 でもフミノは怒られながら、なんだか嬉しそうだ。その脇ではなぜかイインチョが笑っている。

 女子の白いベストに男子のYシャツがストーブの温かみに照らされている。

 みんな笑顔で、楽しそうで、暖かそうだった。

「おらー、ボケッとしてないで帰るぞーっ」

「お、おう!」

 少しボーっとしながら見回していると、出口の前で振り返っている角辺に急かされた。

 自分たちの教室から下駄箱に向かう間には、いくつかの大きな通用路がある。

 通用路は夏場の間は風とただの運動場へのショートカットコースなのだが、冬場は両脇のシャッターが下ろされ、木の渡り廊下だけが隙間なく敷き詰められた一本の通路へと変貌した。

「……お前さー、何か、去年と雰囲気が違くない?」

 すきま風が寒かった。

「何がー」

「だーかーらー、何かあったのか。それを聞きたいんじゃねーか」

「うん、良いことを聞いてくれた角辺。実は宇宙の航路図にも載っていない小さな辺境の惑星で偉大なるジェダイマスターから宇宙の神……」

「あーはいはい、それSFね。で、ホントは何があったの?」

「別になんも変わってないつもりだけどなー。強いて言うなら、俺は人生初の遭難と貴重な体験したってとこか」

「ふぅん? そんなもんか?」

「んー。それよりもほら、お前の準備してきた話ってのを聞かせろよ」

「あーうん、わかったけどサ、俺が話したら次にお前も話せよ? もう話をはぐらかすなよ?」

「おうさ。そこは任せろ」

 お互い妙なテンポで話は進み、俺たちは何事もない風に第一の通路を無事通過する。

 次は第二の渡り廊下だ。

「実はお前に言われてから、ずーっと考えてたんだよ。まず、お前の言う『楽しい』の方の話な。あれって、『面白い』と同じ意味か?」

「うぇ……まずそこか? あー、確かに何か違うな」

「だろ? じゃあ本とかを読んでて感じるのは、どっちだ?」

「え、んー……『面白い』、かな?」

「色々調べてみたんだぜ。『面白い』って、『誰かに自分がさせられる事』だよな?」

「あん? 何が言いたいんだ?」

「空想物語は本とか映画だから、俺たちは普通に付き合えるんじゃ無いかってな。もしお前がスーパーパワーを手に入れたら、どうする?」

 マントを羽織って青いタイツを着た俺。俺は角辺の言葉から一瞬で、様々なカッコいい俺の状況を頭の中で考え始めた。

「んーそうだな……初心者だから、まずは交通事故でも止めるかな。強盗強姦、スリ万引き、ひとさらい、殺人を止めるのもいいな。ダークヒーローもイケるなら猟奇殺人、世界征服、他のヒーローと戦うのもいいな。うーん、そうだな、時間の流れを変えるのも捨てがたい……」

「……」

 角辺が妙に諦めたような笑顔なのは、とりあえず今は不問にしとこう。

「だが、なんと言っても自分専用の絶対空間、そう、俺の超空間を作ることが一番だ! これはガチ!」

「そーけえ」

 なぜに津軽弁?

 やる気の無い角辺の言葉に心の中で突っ込みながらも、通路奥にあるドアを角辺が開けると、そこには冷たい第二の通用路が待ち構えていた。

「俺だったら、ずっと部屋に引きこもってるかな。自分で自分を混乱させるつもりもない。誰かに迷惑かけるのもイヤじゃん。実は俺、平和主義者なんだ」

 ギシギシと凍てついた渡り廊下が自分たちの足の下で悲鳴を上げる。

「えー、もったいないじゃん。せっかく力を手に入れたのに、それじゃつまんなくねーか?」

「だから、俺は映画を見るんだと思うぜ。スクリーンの向こうに『俺の代わりに大変な目にあってくれ』って願いながらな。映画を見るのは? これが、「面白い」だ。要は第三者視点で物事を見る。そして当事者は辛い思いをする。結果は俺には知らんこと、監督でも、作者でも知ってることだろうさ。そして俺は対価を払い、それ相応の美味しいところだけをいただいて帰る。感動の涙、ってな。入場料を払って。実際に痛い思いや嫌な思いをするのは、スクリーンの向こうのハリウッドだけで良い」

「自分でスーパーミラクルした方が楽しくない?」

「それが、「楽しい」の考えなんだぜ。お前と俺の違いでもある。ここ重要だぜ? 俺は、『楽しい』人生は選びたいとは思わない」

 冷たい風が吹きすさぶ。

角辺が再び校内に通じるアルミのドアノブに手をかざし、錆びたドアノブをグギギッと回した。

「俺は普通の人間さ。平和を愛し、平和な人生を平和に生きてる。学校に通って、勉強して、好きな人がいたらチョロッと話す。そりゃ楽しい人生は送りたいさ。でも今突然そんな事ができるようになったって、せいぜい俺は人様に迷惑を掛けるような事くらいしかできない。凡人の俺が、スーパーパワー何チャラを手に入れられることもなければ、手に入れるチャンスもないし、手に入れたって何が出来るわけでもないし」

「なんか……悲しい人生だよそれは」

「でもそれが普通だろ? 考えてもみろよー、仮にそんなへんてこスーパーパワーがホントにあったとしたら、世界は大迷惑だ。それに実際そんなものはない。あってたまるか。日常世界を司る、絶対のルールは物理と常識だ。普通に大学行って、普通に会社に就職するのが精一杯。それともお前は世界を敵に回す気か? スーパーマンなら世界を敵に回しても何とか立ち回れるかも知れないさ。俺には、そんな自身はない。かといって、こんな日常だけを永遠と繰り返すのにも、やっぱり俺は満足できない。飽きるわな」

「おう。そこは気が合うな。でもちょっとワガママな気もする」

「そこで、お前みたいなヤツが必要とされるわけだ。できるだけ身近にいる、非現実的なヤツ。自分もそうでありたいな、あったらいいなという存在を、自分の欲求を代理として処理してくれる存在、それが」

「むかっ! 俺は非現実な人間ってか?」

「あー、いやいや、へへへ。お前さ、例えば紙とか、スクリーンの向こうにいる人間を見て、それに自分自身を重ねて見て感情を代替処理するのは悪いことだと思うか? 俺みたいな何の特徴も特技もない人間が、平々凡々と社会の歯車を回し続けているその精神的な歪みを、お前じゃないけど映画のスクリーンの向こうにいるスーパーヒーローに、たった一時間四十五分の間だけ、自分を重ねてか弱き乙女を守り通し、ガッツンガッツンと地球破壊活動を繰り返してもらうのは悪いことなのかよ。その一時間四十五分だって、千円ちょろっと払って、それ以上は何も手放さないし手にも入らない。いや必要ともしないし、必要とも思わないんだ。社会の平和のためにな。アンチヒーローのヒーローだ」

「うーむ……」

「でも実際は何も影響は出ない。スクリーンの向こうは一時間千円ちょっとで解決できる。それで世界は守れる。なんかこれってある意味ヒーローのあるべき姿だよな、本物の」

 ドアをバタンと閉じて、俺たちはふたたび寒くない校舎の中に入る。

「日常を非リアルで覆して笑っていられるほど、俺はそんなに反社会的な人間でもない。俺は世界のために平凡であり続ける。俺は、世界を破壊と混乱に陥れないためのアンチスーパーマン、アンチ非現実派のヒーローさ。本物のヒーローは求めない。求められない。最初からな。それが、凡人だから。じゃ、次はナイトの番だ」

「えー。うーん……でも俺の話なんかしたって、お前に鼻で笑われそうだからイヤだ」

「大丈夫だってー、ポップコーンでも食いながら話聞くから」

「ウザッ!! じゃあ金払え、金!!」

「いーつーかーねー。っつかこれはグローブ代だろ?」

「ちっくしょー」

 ドアの向こうはいつもの、真っ暗な学校のいつもの日常が広がっていた。

 真っ暗な校内、二階へと続く四角四面状の階段と吹き抜けの空間、ひび割れの著しい廊下、窓からは雪の光が白く世界を照らしている。

 階段の下には牛乳専用の巨大な……業務用の冷蔵庫がブゥゥンと低いうなり声を上げていた。

「……ふむー、そうだなー」

「面白おかしくよろしくな?」

「……う、ん。よし、じゃあこうしよう、角辺。人はなぜ、非現実的な世界と現実的な世界を無意味に線引きしたがるのか」

「お、ファンタジーとSFの話だな? 面白おかしく、その上で、端的にまとめてくれよ」

「いちいち注文が多いなハゲ。非現実的と現実……ファンタジーとリアル……サイエンスフィクションの違いなんてのはな、実はものすごい些細なものだと俺は思うんだ」

 暗い、電気すら付いていない廊下に俺の声が木霊する。

 吐けば白い息。

 壁にある古くさいスイッチ――ペチッと折るタイプじゃなくて、何か押したり引っこ抜いたりするタイプなんだぜ!――をグイッと押し込むと、すごい高い天井の向こうで水銀灯が僅かに音を鳴らした。

「やるか、やらないか。それだけの違いなんじゃないかな、現実と非弦事実の違いって」

「できねーよいくらやったって」

「例えばだ。今すぐ俺の手の中から火の玉が出たら、これはファンタジーだな?」

「お前が、ファンタジーだ」

「だっかっらー、イチイチ話を折るなっての!」

「それでそれで?」

「うー。でな、もしだ。もしこの先何十年経ってから、魔法のような何かの技術が開発されてみろ。今俺が言った『火の玉はファンタジー』の考えは崩れるわけだ。もしくは『人間は翼がない。だから空を飛べない』の当時の概念は今も変わらずのはずだよな? 人間が空を飛ぶのは夢物語だった。けど今は、俺たちは飛行機に乗って空を飛ぶ。その違いは、時間と、俺たち人間が積み重ねた努力だ」

「できねぇよいくらどんななったって。俺たちの持つ技術で空飛ぶマントは作れねぇ。それこそ机上の空論だぜ」

「それは想像力の欠如だってー。いいか? 今から、人類がどのようにテクノロジーを進歩させていくかは誰にも分からないんだぜ。角辺。非現実と現実、非日常と日常ってのは、実は俺たちが実際にするかしないかの違いだけだと思うんだ。もしくは……今俺たちが、ここや、どこかで選ぶ何かによって、その先の未来が大きく変わる。そしてそんな選んでいった先のどこかに、もしかしたら今の俺らが言う『ファンタジー』みたいな事があるかも知れない。すべては俺たちが選ぶ選択によって決まるんだ。だから非現実は、今は非現実であっても、いつかはそれも現実の一つになるかもしれない。故に二つの違いは、ない」

「寒いっ」

 角辺はぶるぶると震えていた。

「おーまーえーは人の話を聞けっ! いいか、世の中にはな、このスイッチひねると突然目の前に向こう側へと通じる扉が……とか、そんな妙ちくりんな突発の話はねーんだ。全ては時間の経過と用意周到な選択の連続でー……」

「……あったらいーなーあるわけねーよ。常識の話、そんな簡単に世の中が非日常になってもらっちゃー困るぜ」

「それは選び続けた先と結果だろう?」

「フン、それは屁理屈だぜ。あ、言っとくけどこの電気点けたのはお前だからな?」

「消してきて」

「ヤダ」

 いつも通りのお願いに、角辺は首元のボタンを閉じながらゆっくりと首を振った。

「いいかー角辺? じつは、このスイッチだけは特別に、スイッチを入れるか入れないかだけで見えない秘密の通路が開く、不思議なスイッチなのだよ!」

「な、なんだってー」

「まあそんな冗談はさておき、そんな簡単にスクリーンの向こう側には行けないわな。待ってたって宇宙人や未来人が迎えに来てくれるわけでも無し。じゃあどうすればいいと思う?」

「どうするって、俺はどうもしないよ。『それが世界の選択だー』って言うんなら、だったら俺は別に何もしなくていいじゃないか。宇宙人や未来人や異世界人超能力者が来てみろ、俺は百トンハンマーで丁重に星に帰ってもらうね。世界平和のために!」

「ちっげーよバカ! その選択を、いくつもいくつも繰り返していくんだ。細かい選択を、間違えないように、慎重に選んでいくんだ。そうすりゃいつかその内、自分はいつかの自分が思い描いていた日常とはほど遠い世界に行くことが出来る。日常として!」

「そーですねー。あーポップコーン食いてぇー」

「むー。まあいいや。試しにスイッチ落としてみ? ほれほれ、夢と魔法のファンタジー世界に通じる秘密通路が目の前に……」

「ったくめんどくせーなーそんな言われて俺がスイッチを押すワケね……」

 と、角辺が言い終わるか終わらないかの内に、突然天井の上でポンッと小さな音がして、次いで水銀灯の光が突然切れた。

「……?」

 見ればスイッチボックスから白い煙が吹いている。

「……な、何かした?」

「電球が切れたのかな? っつか俺、スイッチ触ってないよな?」

「触ってないよ。つか何にもしてないじゃん」

 古すぎるからスイッチがショートしたか。

 俺は慌てて煙を上がるスイッチのコックを引っ張り電源を落と……そうとして、あることに気が付いた。

「うわ、なんだこれー!?」

 見ればスイッチボックスの内側は、かなり汚かった。

 ゴチャゴチャとケーブルのような物と一緒に、ゴミ屑、綿屑、ほかにもワヤワヤと中に詰まっている。

 これじゃいつかショートするわな。

「何だー?」

「お、おいおいあんま触んなよ、なんか俺たちが何か悪いことしたことになるじゃん」

「いや触ってないけどさ、何これ木の根っこじゃん? なんでこんな所に?」

 ボックスの中には大量のゴミと共に、細い木か植物の根っこのようなものが、まるでゴミを土の代わりにしているかのようにしてボックスの中に縦横無尽に根を張っていた。

 足下を見ればなぜか、廊下のひび割れ、壁の隙間にも同じような木の根っこが走っている。

 この建物は、得体の知れない謎の植物によって侵食されつつあるのか?

「こっ、これはまさに非日常! みろ角辺! 学校がゴミのようだ!!」

「バカな事言ってねぇで逃げるぞ!」

「えーなんでー?」

「俺は、濡れ衣を着て停学になったり始末書を書かされるのは御免なんだ」

「し、しかしこれはまさに非日常ッ!!」

「現実的に考えてくれよー、俺はー、始末書はイヤだぜ! じゃ、後はよろしく!」

 そう言うと角辺は我先にと下駄箱まで走っていってしまった。

 が、その時俺はこの場に思いとどまって、何かそこに角辺に俺の考えを伝えられるヒントが眠っているような気がして、ふと改めて考えてみた。

 楽しいとか、楽しくないとか、日常とか、非日常とか、そんなものの区別はどこから生じるのだろう?

 例えばここで立ち止まろうが、立ち止まるまいが、もしくはスイッチを付けようが消そうが、どうせ直近にある答えは「俺たちのいつも通り」が待っている。

 小さな寄り道をしたって、特に答えと結果が変わるはずがない。

 じゃあ何をすれば良いのだろう?

 ここから学校の下駄箱に向かわずに、廊下を右に曲がった変な所に行くか?

あるのはいつもの暗い道と、誰もいない体育館、職員室くらいな物だろうな。

あるいは、今目の前に広がっている風景の中に、この先のいつかに繋がる、何かが、隠されているとか。

不思議で、変な道にたどりつくヒントが、隠されているとか。

分岐って何だよ。あんな世界は、普通どうやったって行けないだろうに。

角辺はすでに左の廊下を曲がって行ってしまった。

『もしかしてああいう曲がり道って言うのは、人として超えちゃいけない一線、とかなんとか言うものなのかな?』

あるいは

『もっと面白い可能性を探そう』

とか。前に誰かに聞いたような言葉だが。

負けることには意味がある。負け続けても諦めないその先には、きっと何かが……ある、のか?

まあ……いっか。

俺はいつも通りに角辺を追いかけ廊下を左に曲がり、下駄箱へと歩こうとし……ふと後ろを振り返ってもう一度その闇の向こうを覗いて見る。

ついさっきまで自分が立っていた廊下は、よく見れば全体的に、得体の知れない植物に侵食されているようにも見えた。

『っつかボロすぎるだろウチの学校』

いつもと変わらない学校の風景。

でも今日はなぜか廊下の向こう側に、いつもとは違うように見える暗い何かの世界が広がっているようにも見えた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ