fall out
人生の中でどん底とは言わぬも私たちのこれまでは普通の人々からすれば少し違った見方ができる。それは言うまでもなく家も資金も私たちはあったから……最悪とは言わない。でも、苦しい部分を知っている私や兄上の生活感や心情の動きは絢澄 錦という女性によって引っ掻き回された。私は兄上に迷惑をかけぬようにと生きてきていたのに……そんな私の日常を彼女はあっさりと砕いてしまったのだ。
いろいろな内情がある。その一つであるがこれは本当に私の心うちだけのこと……兄上を好いてしまい、男女のそれの様な心持ちでいた私は本当に狂っていたのだと今だから思う。いいや、今でさえ彼を想っているのかもしれない。それを知ってか知らずか彼は私に冷たく接してきていた。中学生までの彼はまだ幼いところが抜けきらず周囲へ与える影響の様な物である世間体を考えることをしなかった。だから、周囲とは違う堂々たる風格と考え方を持つ……その兄上が私は好きで好きで仕方なかったのだ。でも、そんな禁忌は叶うはずもない。兄上は優しい。優しいから誰とも関わりを持とうとしないのだと私は思う。過去に何があったのか……私は深く知らない。同時に真実も知らないのだ。兄上に聞かされた話では父はどこかにいなくなったと言う。彼はどこかでのたれ死んでいるのだろうと憎しみの強い瞳をしながら私に呟いた。
そんな兄上の何重にも積み重ねられた殻をその笑顔と献身的で可愛らしい瞳で崩したのが彼女だ。本来、実の妹である私がその殻を少しずつ取り除かねばならなかった。なのに……、彼女は、彼女は!
『あなたが私は憎いですよ。錦さん。ですが、ある意味ではこの方がよかったのでしょうね』
私の前で力を強めるための訓練をしている女性がそうだ。本当に愛らしい人で年齢に比さない童顔と平凡な体躯は周囲からモデル体型とか綺麗と見られるとうりの物を持つ私には確かに劣る。けれど、彼はそれがいいのだと思う。彼はあまり、どんなものにおいてもレベルが高すぎる物を望まない。彼の劣等感は本当に強い物だ。兄上は周囲の人間から何かが遅れるとすぐにそれを負の感情に変換してしまうところがある。それは過去に両親と共に体験した何かが未だに彼へ伸し掛っているからなのだと私はもうわかっていた。わかっているのに……助けられない。
本当に無念だ。私では彼のために力を尽くせないことが。何故私ではないのかと何度も自分を、兄上を彼女を呪った。それでも結果的に残るのは荒れた心だけ。それを考えないようにしたのだ。それが私にとっての最良だったからである。どうしろというのだ。兄上とは実の兄妹。結ばれる訳もない。結果的に私は彼女の背を押すことしかできないのである。諦めきれない心を彼女に被せ、彼女が大成させてくれることで浮かばれない部分も残るには残る。しかし、それですべてが砕け散ってなくなってしまうよりは多分にメリットが残るのだから……。
「休憩にしましょう。お二人共お疲れでしょうから一度アリーナを出て昼食にでも……」
「そ、そうだね。お弁当あるから食べようか」
「賛成。俺も腹減ってきたしな」
彼女の料理を初めて食べる。料理といえば兄上の料理は美味しい。彼はそうは見えないけれど幼い頃の私を養ってくれただけありとても家庭的でしっかりした人だ。その分、他の事象の多くのことに物臭さが出てしまっているが本当に彼はいい人だと思う。彼が笑顔に引かれるのは……何故なのだろう。世の中には色々な人がいる。確かに笑顔が好きな人は多いけれど……。彼の笑顔に引かれる方向性はほかの人間から比べると何か異質な物さえ感じられるほどだ。笑うことができない私は彼に好かれるわけがなかった。私に幸せに生きる資格はないのだ。先に彼が幸せになって飛び立ってくれなければ私は自らの幸せを得るに値しないのである。この世界は実益と出費で動いている。今、私が普通に生活できているのは兄上のおかげだ。先に彼が笑顔を見せてくれなければ私はそれを見せることはない。
もう一つ私には欠点がある。この性格だ。私は生ぬるいことが大嫌いなのである。だから、正直に言えば錦さんが大嫌いだ。それでも、本心から嫌いとはどうしても言えなかった。どうしても彼女を嫌いにはなれない。イライラしたり腹が立つことも少なくはないことは言うまでもないことだが……だが……、錦さんの笑顔は嫌いになれない。どんなになよなよした彼女や決断力、甘さを捨てきれなかったり足りなかったりするのに……。口では嫌いと言えるのに……。本心からは彼女を嫌いだと言えないのである。
「美味しい……」
「今日も手が込んでるな」
「為児手さんは何度もお召し上がりに?」
「まぁ、数回。藍緋の奴が食わなくなってから数回もらってる」
「そうなのですか」
彼女は少し苦い顔をしたがすぐに笑顔を作り私や為児手さんへさらにオカズを勧める。どれも美味しい。手作りなのだろう。冷凍食品にあるどうしても残ってしまう何とも言えない感覚は欠片もない。彼女も努力はしているのだ。これが私の昔の姿だったら兄上はどの様な道を歩んだだろう。大きく変わった未来を見ることができたのだと私は思っていた。兄上の感情がリセットされたのはほかでもなく彼女の影響。それは彼をもう一度あの状態にしてしまうだけのトリガーを含んでいたということになる。悔しいけれど……彼女のどこかに兄上を変える物があるのだ。
そこでフラグメンツ・ファイトの話になった。私は兄上が資金を稼ぐ戦場へは登らない。ちなみに、彼は全国区間大会と呼ばれる事実上の国立大会にはいつも出場しない。彼は表に出ることを極端に嫌うたちなのだ。それ自体はいいのだが彼は何故、それをするかという明確な理由を伝えてはくれない。
「そういえばそろそろ新入生歓迎会だな」
「あぁ、親睦会の様な物ですね」
「え? 何それ」
「知らなかったか? 同じ研究室単位で分かれて先輩たちのおごりでの歓迎会らしい」
彼女は私にすがるような目をしてくる。どうしても兄上と顔を合わせたくないらしい。私がいればどうにかなるとでも思っているのだろうか? それはありえない話である。緩和もされないと思われる。兄上が他人の干渉を極端に嫌がり続けるのには大方の予想が私にはあった。しかし、それを今彼女に話してもなんの解決にもならない。結論からいえば兄上は父であった人に母と共に捨てられたのだと思う。私はその時期に母のお腹の中にいたのだろう。兄上が私が初着に包まれた状態でいるのを抱いている写真がちょうどその直後程だからだ。
為児手さんには話してもそこまで大きなことにはならないのだろうが能天気というか極度に物事を考えすぎる彼女にその話をするのは……何とも言い難いが再び波乱を巻き起こしそうな気がするのだ。そのことを考えつつ彼女らの戦闘訓練を私は見続ける。ウンディネはまだまだ大きな実力を秘めている。もともと内向きに構成されていた思念系のエネルギーを外部に解き放つことができればこれまでの高圧水鉄砲にも大きくバリエーションが増えることや防御、打撃、機動において大きく前進できる。
訓練の終了と同時に為児手さんは先輩方からお呼ばれがかかったらしく途中で別れる。ここはフラグメンツ・ファイトの訓練を行うことができる特殊な施設で完全に匿名で利用できた。それに一般人はここには簡単には入れない。入ろうにも資格証とIDがなければ入れないというめんどくささもありファイターさえも利用する人間は少ない。基本的にファイターには数種類が居て、兄上のように実力もありそれを稼ぎにするような上位層、次に出場するだけのためにアカウントを維持している人間、最後に登録はすれど結局出場しない人間くらいだろう。
「錦さんもピアノを嗜まれるのですね」
「うん。お兄ちゃんが音楽好きなんだけど……音痴だから私が習って聞かせてあげてたの」
「お兄様がいらっしゃるんですか? さぞかし良かったのでしょうね。兄妹仲が」
「お兄ちゃんのことは大好きだよ。それに、今も好き。でも、私はこんなこと言うと怒られちゃうかもしれないけど優しい藍緋くんがお兄ちゃんだったらなぁって時たま思ってた」
威風堂々の演奏後に歩いている。会話の途中に私の顔が露骨に歪んだところを彼女は逃さずに捉えていた。そこで地雷を踏んだことに彼女は気づいたのだろう。申し訳なさそうな顔をする。腹はたったが彼女には悪気もないし、彼女の感想に勝手にマイナス思考を重ねたのは私だ。兄上は兄妹というよりも父親だった。私は本当の父の顔を知らないために兄上が父であるという様な無意識の認識がある。
彼の怖い所はいくら私を表面上突き放しても絶対に見捨てないところだ。鉄仮面とか外郭とか殻とか……。そんな認識をされる心の壁を相手にも作らせ、自分の心の変化を許さない。それが兄上の使っていた手法。変容しやすい感情という物を変えないためには外側に厚いからをかぶることが一番効率的だからだ。非干渉的な区間を作ればそこはその人だけの空間になり疎遠になる。何においても束縛を嫌い、人との関わりを絶とうとするのだからこれが普通だろう。
それを今の彼女には言うべきではない。いったところで解決にはならないし、それが結果で彼女が再び暴走するのが目に見えている。今はなんとしてでも彼女に幸せを作る鍵をうまく錠へと差し込んでもらわねばならないと考えていた。最近の兄上の挙動は数段の輪をかけて危険だ。言うまでもなくフラグメンツ・ファイトの装甲は人体にも適応が可能である。彼がそんなことをせずとも彼がほかのファイターがしでかしたトラブルを解決しに動いてしまう可能性は否めない。彼の本質が優しく、抱擁的であるがためにそう言った弱者や彼に関わりを持って何らかの状態異常を孕んだ人間を救おうと努力してしまう。それが彼なのだ。まったく、そう考えればかなり理不尽ではないだろうか? 自身がどうしようも無い根底の資質を抑えられないがために周りの人間が傷つくのだから。
「今日はありがとう。なんか、少しわかった気がする」
「それは何よりです。他にも聞きたいことがあればなんでも聞いてください。私はほとんどあの音楽室か屋内競泳上の横にある高飛び込みのプールにいますので」
前向きに生きる。それが今の私にできる唯一。先程まではかなり感情的になりすぎたが私とてモラルや規範を簡単に破ろうとか無視をしている訳ではない。最低限破ってはいけない事象に関しては破らないし、物事を戦略的に行うときは誰でもリスクとメリットを考えるだろう。メリット-リスク=実益だと私は考えているためにその中で考えられる最高の実益を考えてしまう。それに、錦さんは大学生だ。私でも結婚できてしまう年齢であるにも関わらずそれを策に組み込まないのはどうかと思う。
余談が過ぎましたね。私は基本的にあのドームが嫌いで仕方ない。フラグメンツ・ファイトの表面理念はとても綺麗であまりに公衆向けの綺麗事にピッタリすぎるそれだった。結局は世の中は金で動いている。フラグメンツ・ファイトのファイターの中には違法な賭博をしている者も少なくはない。それに大きな金の関わるところには必然的に大きな悪徳者の動きもチラリと覗かれるのだ。時たまそれを潰している人間のニュースを聞くこともある。それが本当に怖いのだ。結局はこのナノマシンという極小機械とナノトランス高速擬似神経伝達機構……この二つは戦争に投下されることを示唆されこの格闘娯楽へと移行された。それが結局は大衆へと不安を広げているのだ。人間の心は纏まるという概念が希薄である。ある程度まではまとまりはするも大きくなりすぎるとそれは新たな派生物によって淘汰されたり弱体化しかねない。この混沌を止めるには今の兄上のようにするしかないとさえ心の中で考えてしまうのだ。
「久しぶりに練習でもしに行きますか」
それに、兄上にも伝えられているから私はよく知っている。この体はもう人間のそれではない。ナノトランスシステムは人間の体と身代わり人形であるナノトランスをリンクさせてある程度の緩和はされるも痛覚や嗅覚、触覚、味覚、温感、気配などの人間を持つ潜在的機能を機械へと擬似的に移送する物である。その過程でアプリケーションであるナノマシン集合基盤と難しい日本語を使って表される携帯端末のキューブが大きく関係した。キューブはその使用者に応じて変化をするものである。音楽を愛する人にはその人間の好む音楽を自動でお気に入り編成し、また、スポーツの好きな人間であればタイムや回数、距離の自動計測、体の健康状態などの機能を発揮し、職業であればナースコールをいつでもどこでもキャッチできたり消防官の命の安全を確保したり、警官の補佐をして指名手配犯の視覚的捜索を自動で行うなどなど便利ではある。それが……、私たちには自身の体で起こっているのだ。
『胸がキツい……また水着を買い替えなくてはいけないのか?』
肉体の変異のメカニズムは多方の部分で兄上の考えるとおりだと私も推察している。ナノトランスシステムの基盤はコアであるナノトランスと思われがちだが実はそうではない。ファイターとナノトランスの実働基部であるドールをつないでいるのは他でもない、キューブなのだ。私たちファイターの中には極まれに本当にキューブとの相性が良い人間がいる。特に第一次生産時に生産されたプロトタイプや過去に精神に異常をきたしてキューブによるセラピー治療を受けた人間などが含まれるがそれらにはキューブが内部侵食を起こしている人間さえ確認されているのだ。だが、それは一般人へ公表されていない。
「いつもそこにいますよね? 何か用があるのですか?」
「え、あ、いや。そうじゃなくて……君の飛び込みが綺麗でさ。僕、栄養科の人間なんだ。となりの棟の。たまに見えてて近くで見たいなって思って……」
なよなよした私よりも身長の高い男性が観客席のところからこちらを見ていた。髪はゆるい天然パーマの様な縮れ質で目も大きくくっきりした瞳の人物、何より細身なのが何とも頼りない。しかし、なぜか彼は許せた。そんな私にも変化が訪れているのだろうか。
私たちの体にはキューブが流入している。それは言うまでもなく体のキューブ化だ。だが、それ以上に進行が進まないのはキューブはキューブ、人間は人間であるという区別がキューブ自体に備わっているからだと兄上は言う。ナノマシンの集合体のキューブはドールへと私たちのパルスや現在のフィジカルバランスを転送、更新、相互伝心するパイプの役目をする。それは専用の機材に私たちが入り仮死状態にした上で行われ、キューブは先ほども伝えたとおり変容媒体だ。これでわかっただろう。フラグメンツ・ファイトにおいて必要とされるのは装甲や自身の肉体的な総合ステータスではない。何をするために何を考え、何を求めるかだ。そして、能動意識はキューブに伝えられ装甲を形成する。変化に富んだ人間の精神を利用したシステムはまだ、未完成なのだ。人間も機械も完璧ではない。変わって行く。キューブと共に私たちの体は……『化物』のそれへと。
「こちらに降りてくればいいですよ。今日はあまり高いところからは飛ばないので」
「い、いいの?」
「何を遠慮などしているんですか? そんなに舐めるように見ないでください。どうせ見るなら近い方が時間も短くしっかり見れますし」
何を言っているのだろう。体がいうことを聞かない。なにがなんだかもう、わからないのだ。それから数本飛び込んだところで彼が腕時計を気にしだした。栄養科といえばスポーツ選抜クラスと同じくらい入学基準の厳しい高等部のクラスだ。きっと講義も厳しいのだと思う。スポーツ特待で入った私は講義を受ける必要がない。必然的に飛び込みでの結果を問われるが私は既に去年の国体で優勝しているためにあまり気にすることもなかった。この学園はこういうところなのだ。一般教養を付けるのは自由だが基本的に皆スポーツに打ち込む。それに基礎学力は中学生の時に詰めているためかあまり困らないのだ。スイムキャップをとって私は髪を溶きながら彼に近づいて行く。
「何かこの後に予定でも?」
「違うよ。こんな時間までみんな練習してるんだなぁって」
「そういえば、お互い名前を聞いていませんでしんたね」
「あ、そうだね。僕は斑輪 稜太郎。よろしく」
「私は藍緋 璃梨ともうします。以後、お見知りおきを」
何をしているのだろう。でも、私はこの人といると無性に温かみを強く受け取れる様な気さえしていた。自分のことなのにどうして良い解らないなどと言うことは始めてだった。心が浮つく。もう、わけがわからない。何度でも言う。何をどうしてどうなったか……私にはわからないのだ。この体は今、他の何かに支配されているようにさえ感じている。それに、彼は直後として思い出したように唐突なその場の別れを告げてくる。どうやら補習講義があるらしい。プラスチック製の薄い整理ファイルを小脇に抱えると足早に出入り口まで歩いて行く。
どうしようも無い寂しさ。兄上へ私の気持ちが通じないと始めて理解した時の物と同じこの悪寒に近い寒気。もう、二度と感じることは無いと思ったのに体はいうことを聞かない。私は気づかぬ間に彼の上着を小さく掴んでいた。ハッと我に帰り赤面している私など自分ではなかった。いつもの威風堂々とした私はどこへ消えた? どうしてこうなった? 何故、私はこのようになっている?
「ま、また、来てくださいね?」
「うん。もちろん」
「では、お待ちしてます」
ガラスに映る自分の女々しい姿に嫌気がさす。それでも、錦さんのときと同じだ。それを頭から否定しておきながら根底からの否定ができない。どうしてなのだろう。前にもあったけれどそれは短かった。一人でいると不安でどうしようもなくて、満たされない。こういうときはどうすればいいのだろう。相談できる人なんていない。錦さんは兄上のことで手一杯だし為児手さんはこういう類のことにどう考えても疎いだろう。錦さんの場合は緊急措置だったのだと考えても……。
ベッドに突っ伏してこんなことを考える自分すら初めての体験。もどかしい、切ない、体が熱い。もう、色々なところがおかしかった。食事は普通に食べられる。でも、満たされない。もともと飛び込みは滞空時間を長くすることや空気抵抗を減らすためにボクサーの減量程のものではなくとも日々の食生活で体重を一定域に保とうとする。兄上は競泳をするには痩せすぎであったが女性の私は生物的な観点から脂肪がつきやすい。それを避けるためにあまり油の強いものは取らないようにしている。それが満たされないとこれほどまでに荒れるのかと考えてしまうほどに私の食生活は荒れた。
「璃梨ちゃん? 最近どうかした?」
「い、いえ、特には」
「……」
時たま食事をご一緒するようになった錦さんと会話をしながら私は箸を進める。いつもは学食メニューの中で一番カロリーの低い野菜天蕎麦定食をオーダーする。しかし、なぜか今日はヒレカツ定食を頼んでいる。もう、心ここにあらずとはこのことと言わんばかりの自分のほうけぶりに呆れすら来ていた。日記にはここ数日連日彼の名前……『稜太郎さん』と記されている。しかも、今日は来ただの来なかっただのとそういう内容ばかり。恥ずかしい。
錦さんには同性ということもありそういうことを過敏に受け取られやすいらしい。それでも隠し通す必要があった。前にもいったが兄上が幸せにならねばそれまでの幸せを吸って生きて来た私はそれを得るに値しない。誰になんと言われようとも彼に先に幸せになってもらわねば気が済まないのである。錦さんのお弁当は本当に美味しそうでいつもご相伴に預かるのであるがここ最近は少し控えている。気の迷いのせいで学食でカロリーの高い物ばかりをオーダーしてしまっていたためにキロ単位での増量をしてしまっていたからだ。ストレスとか心労とは恐ろしい。私自身、私の心がこんなにもろかったのかと初めて気づいた。私のアビスはこれまで気丈に張ってきたことで構成されている攻撃特化の装甲を持つ。兄上のオウガ程脆くはないがこのカラダと心の脆さはやはり兄弟だから似る物なのだろうか。兄上は気づいていないのだろうか? 自身の心に隙ができ、錦さんがその原因であることに。……気づいたから彼は錦さんを拒絶したのだろうとは思う。けれどやはり彼の挙動はここ数日が特におかしい。何かあったのだろうか。
「璃梨ちゃん……。こんなこと言うのはいけないかなぁって思ったんだけど……太った?」
「ひぐっ……」
もともと私たちの家族は皆がやせ型だったらしいために脂肪がつくと露骨すぎるくらいにわかる。それだから私はいつも食生活には気をつけていたし別に誰から見られるともないのだけれど美容と今のビジュアル維持を徹底していた。するからには完璧がいい。それが私の理念とか考えだ。すると、食堂の中で稜太郎さんと目が合う。彼はすぐさまこちらに歩いて来た。ついでに言えば私は赤面を一時的に隠してポーカーフェイスを繕う準備をするために一瞬下を向き、錦さんは構わず童顔の顔に似合って仕方がない頬袋にオカズを詰め込み杉で噛みにくそうに……なお一生懸命噛み砕いている。
なんと間の悪い……。錦さんのとなりに座ると彼は私に話しかけて来た。今日は来てくれるということだった。でも、正直なところ今日は練習に行きたくなかったのだ。ストレスというか一人で勝手に悶々としてしまい荒れた食事が原因のぜい肉を燃焼させるためにジムに行きたかった。でも、彼が来てくれるとなるとそうも言ってられない。それにいくらアビスの力で体の成分をある程度移動可能だとは言っても急にそんな露骨なことをすれば私が『化物』です。と明示している様なもので……。
さらに不覚だったのはいつもの能面を崩され、どう考えても赤面している私の態度の変化に錦さんが気づいたようなのだ。その関係から既に食事は終わっていたために彼女は席を外し、私に気を使っているのである。恥ずかしい。顔から火が出る。男性とは意外と鈍いものでなかなか気づかない。兄上がいい例である。同性の感受性が高いのは言うまでもないが異性の感受性はあまりわからなかったりする。ただ、相手に対しての探求欲や兄妹仲の良い人々は例外的に異性の心情変化に敏感だったりもするが……。
「今日はいけそうだから行っていいかな?」
「は、はい。問題ないです」
「……」
「じゃぁ、いつもの時間くらいに行くよ。藍緋さんは気にせず練習頑張っててね」
「……」
「分かりました。来た時に声をかけてください」
「……あ、そうだ。私、実習あったんだ。先行くね。璃梨ちゃん」
落ちる……落ちる落ちる……。これまでの私ではなくなって行く。変化は怖い訳ではない。それでも変化において何も感じない訳ではない。結果からいえば私は落ちている。ふわふわとした感覚によっているのだ。これだけはどうにも私は回避できそうもない。兄上の真似をしてこれまでのことを有耶無耶にしながら辛いこと悲しいことを忘れて来ていたのだ。それが通用しない。ぶつからなければ始まらない……。落ちることは怖くない。むしろ望むところだ。
それが私が望んできたこと。自らの意思で考え動く、兄上という私の理想に縛られない本当の私の感情を解き放つことだ。本来であればこれまで私自身が縛ったことなのだが……。もう、緊縛をしている必要もなく時間と共に彼は落ちていくだろう。私のように錦さんの放つ暖かな空気によって侵食されるに違いない。彼も変わらなくてはいけない。人間であるからにはいくら彼でも、子供ではいられない。だだをこねて温室に包まれていることなどはありえないのだと思う。荒波に揉まれて、環境の変化に耐え、外敵の攻撃を凌ぎ私たちは強くなる。いつまでも仮想現実に縛られてはいけない。
「遼太郎さん」
「なんだい?」
「私と共に戦いませんか?」
「え? 僕にマネージャーとか無理だよ!! だってなんにも知らないし」
体が勝手に動く。アビスが私の根底で望むそれを意図的に実行しているのだ。結果、私は彼を抱きしめることを望んでいる。これがキューブ侵食の実態だ。それでも、私の意思には変わりない。これがどんなに間接的なパイプを挟もうとも私の意思で動いているのだ。
「フフ……。今は誰もいませんよね?」
「え、あ、あ、藍緋さん?」
私のキューブはピアスだ。キューブは色々な物に変容させることができる。アビスの機能を先に言うとアビスはとても強力な再生能力と生命維持が特異化した力だ。だから、私は兄上とは違うベクトルで死を遠ざけている。兄上はブラッディー・オウガの無機的な力で体を構築し、人間離れした筋力や再生能力、循環能力を得ているが弊害として、彼の体は一部しか強化できない上にどんなに望んでも強化できない部分が存在している。さらに彼の場合は強化されるごとに生物から遠ざかるのだ。私の場合は有機的なもので再生や再構築に一定の時間を有するし痛みや相応のダメージもあるが兄上程リスキーではない。人間としてはやはり化物級の回復や体に与える影響はあるも彼のように人間的な機能に弱体化を訴えることやこれ以上の肉体強化は行えない。それだからどんなに大きな怪我をしても私は瞬時とまではいかないけれど結果的に回復できてしまう。ただ、心は変化する。私の心は暖かな物をくれる彼に惹かれていった。もう、帰れない。元の私にはもう帰ることはできいないのだ。一度変化した私を戻すのは容易ではない。それを彼は持っていたのだから……信じてみようと思う。
「あ、アビス……」
「こちらが私の本姿……」
彼が動かない……。早まりすぎたか? やはり、私などは誰も受け入れてくれないのか?
「わかった」
「そ、それは……」
「君が望むのなら。僕は君と居るよ。きっと、これも何かの縁だからね」
心を開くことは大切だ。クールダウンという意味で高ぶらせすぎた孤高の心を落とすことも……とても、大切なのだ。落ちるところまで落ちて、外れるのもまた一興ではないだろうか?