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俺は近くからやつを見ることが多い。基本的に物臭でおっとりとした性格の俺は誰からも強く好まれたり、自分の意思で考えを強く持とうとかそういう強い信念とかいう物を考えたこともなかった。しかし、俺は奴に助けられ、その時からやつとだけは親密に話している。それからは藍緋 修羅と共に多くの友人を作り、俺もかなり交友の幅を広げ、それからもやつを知っていくことになる。
そんなある日俺は気づいた。核心に近いものにたどり着くのはもう少し後になるが俺はやつがフラグメンツ・ファイトのファイターだと知ってしまったのだ。前々からこの地区の大御所であるオウガのことは応援していたし、あまりパッとしない選手の多いこの地区に来たアイツを歓迎し快く思っていた。だが、ファンとしてやつのことを考えていると胸が痛むことも多くあったのだ。なぜなら、俺もフラグメンツ・ファイトの資格だけなら所持している。その上で下調べだけはした。あの装甲は基本的に人間性や体の状態を示す物なのである。そうなれば必然的にオウガの心はズタボロで体調も同じように砕けているのだと思ったからだ。
そのうちに気づいた。癖や他の内容は抜きに俺の周りにも究極の滅私をして生きているアホが近くにいることに……。肌は摂食が疎かなことからボロボロと粉を吹き、色は白いというか青く、生気のないあの横顔はなんとも見るにたえない感さえあった程だ。それから数日して、俺はとある人に相談を持ちかけられた。話したこともなかったことが上乗せされ、俺の見立てでの彼女の不審者ぶりは本当に凄まじかったと思う。なかなかあそこまでなれる人物はいないと思うのだ。男なれば確実に職質物の行為だが……。
『ねぇ、俺に用があるの?』
『ふぅぇ!? わはぃ!!』
『そんなに驚かれてもなぁ……。俺というよりは俺のルームメイトに用があるんでしょ?』
顔を真っ赤にさせているところを確認して俺は彼女と話を始めた。俺の学科は漁業資源の養殖を研究したりそれに関する何やかんやの革新的発明を考える部署だ。俺はヒラメ担当。生簀は基本的に誰かが常駐しなくてはいけない。殆どは学芸員さんや院生の皆さんが卒業過程実習や業務で見ているが大学や高校生もそれに携わるものは単位をある程度加算されるために参加している。俺も基本は趣味でそこの魚を愛でているが単位はガッツリ稼いでいた。
少し立ち話をして長くなりそうなためにアポをとりその後に俺は絢澄 錦さん達が所属するマリンサイエンスコースに顔を出す。今日は藍緋が実地実習なのだとか……。だから、今日に話を聞いておきたいと言っている。何と言おうかかなり平和な人だ。藍緋の現状を深く知らないらしい。まぁ、それも仕方無いか。彼女は彼女の前歴があるらしく先輩達が口々に藍緋が居なくて大丈夫か? と呟いている。実際に危なっかしいところはたまたま目撃したがいつも程ではないのだとか。
「来たけど……」
「あ! ごめんなさい! もう少しだけ待ってください!」
「了解。外に居るから声をかけてくれるかな?」
「はい!」
本当に彼女は抜けているところがある。まぁ、俺には彼女と深い縁はないと思うからあまり関連性は見いだせないけれど。絢澄さんの切りだしは案外早かった。俺はもっと引っ張ると思っていたのだが俺と藍緋の仲がいいことを知るや俺にアドバイスを求めて来たのだ。今時、小・中学生ではないのだから自分で……などとは言えない。どうして良いものか、この小動物を……。話を聞いていると違和感を覚え始めた。ここまでの明確なアピールがあるにも関わらずやつは彼女の想いに気づいていないはずがない。藍緋が何らかの拒絶反応を見せているかと思えばそうでもない。何というか、双方が小学生レベルでは話しにならない。藍緋の場合は考えられない訳ではないと思われる。だが……、あいつにも屈折したところがあることも俺は知っている。やつは俺とルームメイトになってから一度も親の話をしない。嫌煙するようにだ。
「やっぱり、藍緋は反応を見せないかな?」
「はい、少しずつは進展してる気はするんですけど」
藍緋は何を考えているのだろうか。そこに絢澄が前々から呼んでいたらしい藍緋に似た少しキツい視線を持つ少女が現れた。髪が濡れていることから部活の後だと思われる。藍緋自身はあまり飾らないことや元々の家の家風から襟足を伸ばさなければならないというところもあり回りからのイメージはそこまでよくはない。奇抜と思われているのだ。それはそれでアイツも受け入れているからどうにも言い難いけれど……。
どうにも引っかかる。そこまで感性的に鈍いとは思えない藍緋がなぜ彼女のアプローチや他からはないからどうにも言えないことの連続だが拒みもせずかと言って気づいていないのだろう。さらに質の悪いことにこれを奴に聞いてしまうと彼女、絢澄以外にアプローチしている人間がいないことから誰かを特定されてしまう。普通は気づくだろう……。女の子が手製の弁当を持ってくるなんてそう簡単な思いじゃしないに違いない。面倒だし、それだけの手間をかけているだろう。本当に鈍いのか、あえて気づかないフリをしているのか。やつの家のことが関連しているとなるとなお厄介になるだろう。
しかし、これを彼女に直接伝えるのもどうかと思う。結果的に彼女にやつの柔らかい部分を露出するのはあまりよくないと思うからだ。藍緋自身がそれを伝えるならばそれでいいのだろうけれども。
「兄上のご友人のお方ですか?」
「やっぱり藍緋の妹か。俺は為児手 令布。水産科の養殖コースだよ」
「お初にお目にかかります。藍緋 璃梨と申します。頑なな兄でさぞご苦労されていましょうがこれからも何卒良き程に」
「そ、それでね? 修羅君のことなんだけど」
「やはり兄上はお気づきになりませんか?」
俺と同じことを告げる妹の璃梨。彼女は達観しているというか璃梨は何を考えているのだろうか? アドバイスをする気はあるのかと甚だこちらの方が疑問となる。なんというか……。
口ぶりからするとやはり大きなものを孕んでいると感じた。その時、いきなり藍緋から璃梨に着信が入る。だが、要件を伝えられるとすぐに返事をして切られてしまったようで璃梨は難しい顔をした。藍緋はあまり会話がうまくない。特に自分の意思を伝えるなどの濃厚な会話が苦手で人間を少し拒絶するような面があると言えるのだ。まぁ、最低限の意思疎通や俺たちのように親密になればかなり安定するがそれ以外には悪印象を与えやすい人物ではある。
璃梨が彼が伝えてきたことをそのまま話してくれて、今日は寮には帰らないと伝えてくれとのことだった。そういえば俺は藍緋の人間性自体は知っているけれどもほかは知らない。俺の主義で人の柔らかいところをつつかないことにしているからそれも当然といえば当然だが。
「少しいいですか? 為児手さん」
「俺はいいけど……」
「あ、気にしないで。私、外した方がいいかな?」
「いえ、少しですから私たちが少し外します」
璃梨は何を伝えて来るのか。よく知らないけれど彼らには何かしらあるのだ。藍緋は普通にナノトランスシステムの保管庫のパスをクリアした。その関係の人間が普通はこんな離れた分野の学部に来ることなどありえないと俺も思う。璃梨はおそらく兄の顔を知っている。だが、遠慮というかなんというかが彼女にも先に働いているのだろう。なんとめんどくさい兄妹だろうか。
「兄上からあなたを訓練し、次の集団戦闘部門下位審査会に使い物になるようにせよ。と仰せつかりました」
「やっぱり君もファイターなんだ」
「はい。私はアビスと申します。あなたは……」
「シャドウ・テイカー」
「二名式の機体……兄上と同じく特殊型に分類されるか、若しくは複数属性保持機体か。まぁ、詮索はいいです。為児手さんは兄上について深く彼女が知ることをどう思いますか?」
俺の話から脈絡も何もなく彼女は俺を二人の話へと引きずりこんだ。この子がやつのことを出すとなるとやはり何か重たい物を孕んでいるに違いない。彼女はその必要条件を俺に最初に提示してきた。確かにそうであればやつが気づかない……正確には生理的に拒絶していて心情や感情として受け入れていないということが理解できる。都合がいいんだか悪いんだか。
藍緋の性格をそこから考察するとやはり何か本心とは違うベールを貼って本心を守っている。何かしらの拒絶がまだ抜けきっていないのだ。これは本当に厄介である。どうにもならない気さえしてしまう。
「わかんないものなのか?」
「えぇ、兄妹だから……と言いますか。私は兄上に遠慮されているのでなんとも。だから、彼女には期待しているんです」
優しいというか遠くにあり望むものを見る渇望の視線に近い物を俺は見た気がする。二人は本当に何か辛い過去を味わって今、ここにいるのだろう。そう考えるとやつのことはなおほおっておけなくなった。俺は奴に助けられたのだ。そのことからやつがなんと言おうと絶対に助けたいのである。
話を終えて絢澄の所に戻る。俺は初歩的なところからはじめることにしたのだ。あいつは朝飯を時たま余っている高校生のおかずや白米を寮母さんたちの計らいで手伝っていることを理由にもらっている。だから、朝飯は確保されているのだ。ただ、あいつは午前五時以前に起床して配膳の準備を手伝うバイトをし、午後の六時以降にはスイミングのスクーリングのバイトをしているのだとか。そこでまずはカリキュラムと学部研究室が同じでほぼ全ての教科を一緒に行っている絢澄と藍緋をさらにくっつけてやるのだ。
「絢澄さん。成績は?」
「全学部総合で三位です」
「なら問題ないか。ことの詰まりを先に言わせてもらう。まずは、藍緋と一緒にいる時間を増やそう」
「はい!?」
「アルバイトを最初に全く同じようにしてもらえるように色々と手を回すから。あとは上手にやってくれ。アイツが気づけないのであればもう絢澄さんがアイツの生活の中に溶け込んで必要不可欠にする必要があるからな」
「え? え……? え! えぇ!!!?」
学生食堂のほうは璃梨が寮母さんを経由して抑えてもらい、スイミングのスクーリングのバイトも同じ学部の奴に裏仲介をしてもらってなんとかこじつける。ここまでしてもやつが気づかないのであればもうそれは何かある。アイツの何かが生理的に拒絶している線が濃厚過ぎるという結論に浮き上がるのだ。そこまでくればあとはどれも強攻策しか残らないけれど絢澄に確認を取ったところ妹さんの方がひどい強攻策を口走ったとかで俺の方が幾分かまともだったと取れる。いいや、彼女の口からは『狂』攻索と聞いた……。
後でその狂攻索とやらを妹の璃梨から聞いておかねばならん。あの子が望むものはおそらく俺も重ねて問題ない未来だと思う。確かに藍緋は笑うことは少ないのだ。その藍緋が笑うというのだから首を突っ込んでしまった人間からすればそれはもう必要事項に等しいものとなるだろう。今はゲームのように聞こえるかもしれないが難攻不落の鈍感男をどうにかして陥落させて絢澄一色に染めてやる必要性があるのだ。もう、今更恩返しとかどうとかではなく藍緋が最低限やつの中で幸せと感じられるようにしなくてはならない。
「為児手君ってもっとホケホケしててゆったりした人だと思ってました」
「君々……、絢澄さん。君にだけは言われたくないよ」
「はへ!? 私そんな風に思われてたんですか!?」
『誰がどう見たってそうだろう』
「な、何ですか……。その今更何をとでも言いた気な目は」
「……」
「ふゃぁぁぁん!! やめてくださぁい!!」
猫にでもなったつもりか? 璃梨は無表情にそんな彼女をあやしながらもっと手っ取り早い方法を公衆の面前であるにも関わらず暴露している。璃梨はそこまでそう言ったことを気にしない性格らしい。そういえば藍緋もそんなところがあった気がする。藍緋は不真面目なだけで頭が悪いとかそういう訳ではないからよけいに質が悪い。アイツの場合はホントにそういうところが鼻につく。だが、そこがあいつの個性であったりするのだ。自分の興味のないものにはとことん興味を示さない。それがアイツ。勉強や芸事に関してもすべてがそれで回っている。さらには本当に必要なことに関していだけ極端に鈍く『馬鹿』がつくほど物事に正直な男……。いいやつには違いない。だが、ヒネクレ者でもある。
本人から直正つ聞いていいるから絢澄や俺は知っている。周りからの評判なども鑑みる結果で妹の見解は的を得た。そうなれば理解者だけで動くのがベストだろう。そして、明日は少し面倒だが俺は友人の家に向かう。鍵を持っているのいはあとから出た俺だ。スペアキーを持っていない藍緋は被右前的に行く場所が限られてくる。まずは妹の璃梨の寮。そして、その上の絢澄の部屋となる。
俺はそこで二人と分かれた。一応、俺も予定が無いわけではない。生活用品の買い出しをして藍緋が帰ってくる時間を見計らいわざとでていくのだ。そこでは璃梨が張っている。
「錦さん。本当に手っ取り早く……」
「だ、だから、それは告白の後の……もっと後の段階だからね?」
「兄上はそうでもしなければ気づかないと思いますよ?」
「そういえば……藍緋君ってなんでこんなに鈍いのかな?」
「それはわかりません。妹とて感情のすべてを把握している訳ではありませんし」
「そ、そうだよね」
スーパーで買い出しをして明日、日曜の食事の分だけを買っておいた。すき焼きだ。魚を扱う店でバイトをする俺は資金はある。しかし、最近はあまり高いものを買う気にはなれずどうしても溜まってしまう資金をどうしようか考えていたのだ。藍緋は前に言ったとおりにこれまでは誰からも施しを受けず周囲の人間との接触をほとんど絶っているような状況だった。だが、先ほど俺は例外である人物と俺は会って会話もした。彼女の何が彼をあそこまで変えたのか……わからない。あの鉄仮面をはがすだけの何かが彼女にはあるのだという結論は実の妹の璃梨すら驚愕したほどの物だ。俺はそこまでの知識がないから知らないけれど、あの妹がいうのだから嘘ではない。
「こんなものか?」
「くそっ!! なんて強さだ! 実力が落ちたなんてただのガセじゃねぇか!!」
既に日曜の昼になっている。あいつは今頃何をしているのだろう。何時に帰宅してもいいように俺はそうそうに引き上げて部屋の戸締りをしてほかのやつの部屋に向かう。できるだけ遠いやつの所に向かった。
アイツがブラッディー・オウガであることを知ってから……俺はもうひとつの疑念を覚えている。アイツには空白の時間もあるはずなのだ。月に一度とかそういうごく限られた時に動けても数時間ではあるも何をやっているか不明な時間帯がある。これまではプライベートなことだということもあり触れなかったが俺はその時間の奴にだんだんと違和感を感じてきた。璃梨によればここに来てからのあいつは昔のように冷たい顔をすることは無いという。だが、俺は一度だけ見たことがあった。アイツが俺を襲ったチンピラを撃退した時だ。その時のあいつの顔を思い出すときは……背筋の先から凍結したようなとても強い寒気に襲われる。この感覚を振り払うことはできない。
「段取りはいいですか?」
「う、うん」
「間違いが起きても臆することなく突き進んでください。主に性的な意味で」
「だ、ダメだったらぁ!!」
「いいではないですか。兄上のことを好いているのでしょう?」
絢澄と璃梨では資質というか人間性が違い過ぎる。藍緋のやろうにはないけれど璃梨には豪傑の才がある。あの子はどうにも恐ろしい人間的な威圧感というか統べる者の風格を持っているように見えるのだ。対する兄は孤高の狼とでも言ったところだろう。心のどこかでは人ごいしい心を持ちつつも表では気丈に張っている。そんなやつなのだ。
そんなやつの裏……。俺の見解だけで理解するとそれは何においても自分の信念を裏切らず、己の力で身内を傷つけることを嫌い、他からの施しを拒む。どうにもひねくれている。こんな性格だから璃梨は初対面の俺にああいった口上の様な挨拶を述べたのだろう。できているのかできてないのかよくわからんやつだ。
「どこのどいつい吹き込まれたかしらんが俺はお前たちごときに倒される程落ちちゃいない。三下以下の屑がでしゃばるな!! 二度と俺の前に現れるなよ……。闘技場以外の場所でのこういった行為は御法度だ。次に仕出かしたら、命は無いと思え!」
そして、藍緋から電話がかかって来る。しかし、俺は無視をする。というか俺は用事があるということを前提に動いているのだ。璃梨もスタンバイしている。
……。だが、予想外の事態に発展した。藍緋は璃梨の部屋には行かず、そのままぶらつくという手段を取ったようだ。璃梨はその中でとある策略を回し始めた。物事を信じやすい性質の絢澄にけしかけたのだ。藍緋は現在、この隣町にいるのだとか。寮母さんに話をつけた絢澄は早速出かけていった。もう、理解できたと俺も思う。兄の修羅が出先から帰れなくなったから迎えに行って欲しいとけしかけたのである。璃梨がいけばいいのにいかない理由はもう謀を浮き彫りにしている。璃梨は明らかにR-18ルートを歩ませたいのだ。彼女の思考はなんといっても古風。女は男を支え、影となり自らを折るという戦時前の様な思考を持っている。ただ、どう考えても璃梨の旦那になる男は尻に敷かれるだろう。あの子も藍緋自身と同じように釣り合いの無い子だ。なかなかに理不尽という言葉が代名詞となりそうな人物である。ここまで当てはまる人間も珍しい。
「あ、藍緋君!!」
「あ、絢澄!?」
「探したよぉ。なんで帰ってこないの? 家出? 為児手君と喧嘩でもしたの?」
「璃梨が迎えに来る……? っ!! そうかそういうことか。済まない、絢澄。璃梨が変に気を効かせたというか、策略を敷いたらしい」
今頃何をしているだろうか。今は同じ学部の連中と鍋を囲んでいる。あのアホを魚のだしにしている。性格上の理由から絢澄さんの名前は伏せておき、藍緋に妹がいた事実を暴露したのだ。まぁ。俺や藍緋の周りには気のいい連中ばかりだからあまり関係無いのではあるが色々と口蓋を駆使して俺は自分のことも伏せている。
まずは俺がシャドウ・テイカーとなったこと次に藍緋兄妹がこの地域で有数の上位層のファイターだったことだ。アビスである璃梨のことはまだわからないにせよ、ブラッディー・オウガは世界ランク八位のマーマンを落としている。それが近くにいると知れば皆が驚くだろう。自慢したい。俺の親友はそう言ったことのできる人物なのだと。だが、これはいけない。口外してはいけないのだ。
『きゃぁ……ホントに来ちゃったよぉ』
「ゴメンネ。うちの妹が変なことして。あの子も俺と関わっていて尚且つ女の子の友達ができて舞い上がってるんだと思う。だから、あの子のことは嫌いにならないであげて欲しい」
「え? 璃梨ちゃんはいい子だよ? 私こそ……、藍緋君のお金でこんなとこまで泊めてもらっちゃって」
「……。絢澄さん……その発言は撤回してくれないと俺の理性が飛ぶよ?」
「あ……。ごめんなさい。でも、素直に嬉しくて。藍緋君がちゃんと私のこと考えてくれたんだぁ……、なんて思うと」
藍緋の人間らしいところを俺はまだ見たことがない。最初に見ることになるのはどう考えても璃梨なのだろうが璃梨は見たことがないという。中学生までの彼にはあの鉄仮面ではなくとても分厚い感情の壁が存在し人間を頑なに否定していたらしい。だから、絢澄が初めての人となるのだ。
璃梨が兄に早く自分という柵から解放されて欲しいと願うのはよくわかる。自分がそうでなかったとしてもそう思うだろう……。そうだとは思わないか? 兄は自分を養うために多くを切り捨てて自分を育て上げてくれた。今の自分があるのは兄のおかげ。だが、自分ではその兄を突き放すことや別れることは容易ではない。さらばどうするか? 自分のほかに兄が大切にするであろう人間を待ち、自分はそれが早い時期に大成することを願うだけ。彼女の場合は色々と強引な策略を用いたが基本の線はぶれていない。幼い時に親を失ったことは璃梨から聞いた。となればその線は確実だと思う。
「藍緋……君?」
「す、済まない……。だけど、理解して欲しいのは俺も男だ。こんなところでそんな風に言われたら理性も飛んじまう」
「え、あの……いいですよ? 藍緋君ならいつ……ってあれ?」
藍緋の過去を少しずつ理解していく上でだんだんと重い何らかのものが見え隠れし始めた。そうなると璃梨は本当に重要な人物……キーパーソンとなる。彼女の有無はこれからの絢澄には大きく関連するだろう。絢澄では藍緋が逃避観念に支配された時に突き放されれば対処できないと思う。そこにクッションとして必要になるからだ。
藍緋に人間的な感情があることは言うまでもないし、絢澄において何か救われているように感じているのも事実なのだ。それだから、璃梨はこれから必要になる。俺はあくまで影だ。バックアップしてその大成を見る。それが俺の役目だ。シャドウ・テイカー。今、理解した。俺のこの影を操る装甲はこうして存在するのだろう。表立つことを嫌い、誰かを支える影。人間が人間として成り立つために影は必要なのだ。光ある所に必ず影は存在し、俺たちを翻弄してしまう。その影として怒涛の如く流れる……人生という楽器を旋律の調律を行うのが俺の役目だということだ。だとしたらあいつら兄妹は何を背負っているのだろう。
言うまでもなく、装甲はその人間の育ちにより形作られ、その性格や体格、資質により異なるものとなる。兄妹とてそうだ。ブラッディー・オウガ。あいつの形態は不安定のそのもの。決まったものを持たないからあのように崩れるボディをしているのだとも思う。だが、藍緋はなにもそれについての弱点を見せない。あいつの何が崩れているのだろうか?
「くそっ……。俺は、何をしているんだ。もぅ、なにも受け入れないと決めたはずだろう……」
絢澄からの結果報告は確かに前進は見られているが璃梨からするとかなり残念な結果だったようだ。そこまで進んだのだから強引に押せばよかったとまで言っている。当の本人の絢澄はホッとしたような残念な様な複雑な顔付きではあるも彼女自身は少し自信をつけたのだろう。暖かな頬の紅潮はあの悄気返って俺たちにアドバイスを求めに来た時とは違った。だが、藍緋に関して俺は少し不安なところを見つけてしまっている。あの日の藍緋は一度部屋を出ているが絢澄が寝たことを確認するとソファで寝たようなのだ。その次の日の朝方のアイツの顔はひどい顔をしていて見ていられなかった。何かに苦悩している様な強い疑迷の表情とあの冷たい視線があったのだ。璃梨には伝えていない。大きなトラブルにしたくないからである。
そして、次の日の藍緋は違った。あのキツくて冷たい視線がやつには戻っていたのだ。月曜日になり講義が始まる日……俺は放心状態で光の失せた目をした絢澄を見つけ、話を聞いている。彼女の手には紐も解かれていない弁当箱が収まり、量からして藍緋に作ってきたのだ。しかし、今日の奴は違った。俺とも最低限の会話しかしないほどに周囲の人間を寄せ付けないのである。その危険なほどに凍りついた眼差しは教授達ですら何かのサインと感じるほどに刺々しいものを持っていたという。璃梨はまだ知らない。高等部以前に男女の寮で隔てられていることやここで関係する高等部と俺たちの属する水産科棟の立地関係で彼らは兄妹であっても出会うことはない。意図的に会わせなくてはあまり合わないとも思う程だ。
「……」
「絢澄さん?」
「私、そんなにウザいですか?」
「藍緋に言われたのか?」
「お弁当……無駄になるの嫌なので食べちゃってください。では、これで!」
彼女は泣きながら走り去る。今日の愛火は何かが違うことは俺も容易に判断できた。本当に何か辛い物を感じさせて露出するほどにやつの悲哀に満ち充ちした感情がなだれ込んでくるとでも比喩できる。何がトリガーなんだ? 絢澄の話ではそれ以上になにもなかったはずだ。彼女は何かした訳ではない。
一度本気で話す必要がある。あいつの過去は今の俺にはどうでもいいのだ。正直腹が立つ。必要としてくれる人間がいるのであろう。お前は何を考えている? そして、何がお前から失われて崩れているのだ? お前は何者なんだ? 藍緋、お前はもっと素直になるべきだこれからはもっと何かに翻弄されることを……許すべきだ。お前が苦悩しているというのならそれがお前の救われる唯一の方法だと俺は思う。それがお前が俺にくれた影の出した結論だ。