glass……cage
私が彼に恋をしたのは入学式から少し過ぎて友達が出来始めた頃だった。
まだ、友達になり立てで周囲の女の子ですら人間性がわかっていないのに……私は彼に恋をしてしまったのだ。彼の名前は藍緋 修羅君。私たち水産学科の中でも特別な人で彼は中でも一際目を引く人物である。行動はそこまで特出したことをするわけでもないのだけれど彼は襟足だけを長く伸ばしている。それだけでも目を引くし小柄だけど筋肉質で頼もしい感じのする人だ。
最初は私は彼を水族館の中の魚とかイルカとかのように思っていた。なぜなら、彼はいつも同じ場所から見ることができて……それが嬉しかったが……。配属が決まり、各コースの実技や研究基礎が始まるまでの時間を本学の学食の反対側にある開けた道場のような場所で武術の一人稽古をしている彼を見ていた。だから、いつも彼を見るのはガラス越し、こんな檻がなければと思うことも合ったけれどこの通りうじうじしていて奥手な私ではどうにも彼に近づくことができなかった。そんな時だった。彼から声をかけてくれたのは……。
『他、空いてなかったんだ……隣いい?』
私たちの学部、水産学科は本学の近くにはない。だからある程度の面倒くさい過程を踏んで海に近いそこまでいかねばならないのだ。ひとつはスクールバス。もう一つは自家用車か友達の車など。私はもちろんスクールバスだ。そのバスでたまたま本学から配属実習説明日のバスが待つタイミングで話しかけられ私はこれは何かの策略ではないかと考えた程だった。
彼はアクアリウムデザイニングコースと呼ばれる需要は少ないけれどペットショップや園芸系の職業の中では花形の水槽園芸師の技術を学ぶコースに在籍していると話を聞いてわかった。彼は優しかった。これまで勉強しかしてこず、あまり友達も作れない私なんかのつまらない話を親身に聞いてくれる。海の化学は最高だと私は思う。海は生命の母で私たちの共通の祖先である単細胞生物はここから生まれた。その母なる海の組成を研究したいのが私の夢だ。
つまらない話をごめんなさい。でも、彼はそんな話を本当に親身に聞いてくれて……嬉しくて。私は舞い上がっていたのだ。入学から一週間は専門学部の授業は開講されていなかったために皆が余裕に満ちていた。だから、学生寮でできた友達とお喋りしたり遊んだりするのは楽しかったけれど……。なぜか私は物足りなさを感じていた。なんというかうるおいを感じなかったのだ。
『そういえば自己紹介がまだだったね。お互い同じ学部だけど話したことなかったし』
『そうですね。私は絢澄 錦っていいます』
『俺は藍緋 修羅。よろしくね。絢澄さん』
そんなたわいもない会話にもときめいていた自分が恥ずかしかった。大学生にもなって中高生レベルの……しかも恋愛小説や少女漫画のようなご都合主義的な恋愛ドラマを期待してしまう自分に落胆しつつもなぜか嬉しかった。私はこれまで潤いを人生に求めてきた。カラカラに乾いて張りを失った勉強ばかりの人生から抜け出して何か違う自分を見つけたかったのだ。そのきっかけが彼になろうとは今を持っても不思議で仕方ない。
こう言うと失礼かもしれないけれど彼はそこまで美形だとかそういうことではない。でも、なんというか物腰はしっかりしていて優しい人だとは感じた。それに緩急のある人だということも理解している。私の友達は彼のことを勘違いしているので……。彼はけして野蛮な人ではない。相応に人間味があって少々アクが強いし鈍いけれど……優しくて、小さいけどその暖かで包み込むような感性はあたしにとって本当に、この上なく……。出会ってしまってから、私の日記には毎日彼のことが書かれていることに今更気づいた。
そして、今、彼に守られて……彼の傷つく姿を見て、本当に悲しくて、どうしようもなくて……。どうしたら……。
『絢澄!!』
「嫌だよ!! だって、私のせいで……」
敵の狙いが私なのは明らかだった。おそらく、あの機体の中で操っている人はフラグメンツ・ファイトの私の次の対戦相手……。希にあるのだ。あのように野蛮なしそうを持つファイターもいるということなのである。フラグメンツ・ファイトは少しでも自分を変えたくて始めた。でも、これでは私は全く変われなかったむしろ私のそれは悪化をたどる一方で虚しさだけが積もる。
弾丸はやはり私を狙った。その時……やはり、自分の身勝手さを思い知らされる結果となり……どうにもやるせなくなる。結局、私の装甲であるウンディネを開放するには至らず、結果的に彼は……。
『ぐっ……絢澄、深く潜りながら岩陰を……』
「修羅君!!」
彼の右腕が弾丸を受けて吹き飛んだのが私の視界にははっきりと写った。フラグメンツ・ファイトとリアルファイトの大きな違い。それは誰でも安易に想像ができる。生身で戦うかナノトランスシステムを利用した仮想戦闘かである。今回はどう考えてもリアルファイトだ。ナノトランスは個人に一機という割合で管理されそれは国の保管期間が厳重に保管している。
そこで穴になったのがナノトランスシステムを運用する上での鍵の位置に相当する『キューブ』だ。キューブシステムはナノトランスシステムとは本来は別物である。これは使用者の使用頻度や使用するアプリケーションの傾向を考察して成長する擬似機械生命体なのである。知能や欲は人間や既存の生物程高くはないがキューブは生きている。そのキューブは人間をナノトランスの代わりに使うことを許したのだ。管理機関は承諾していなくてもこれは犯罪として可能なのである。
海に投げ出された私は咄嗟に水の中に潜る。キューブシステムは極小機械であるナノマシンの集合体で装甲は基本的に転送されたものである。装甲は機械であるために浮かない。よって、彼の体は浮かないのだ。このままでは彼は死んでしまう。
「プハっ!! 修羅君!!」
私はもう一度水上に戻り大きく息を吸う。一縷の望みでしかない。キューブには救命装置が搭載されていてあとは彼が意識を取り戻してくれればどうにか機体を動かす程度のことができる。私は彼が素人であるということを知ってしまったからにはウンディネの存在を隠さなくてはならない。フラグメンツ・ファイトにおいてこれを隠すのはごく自然のことなのである。それをするためには彼が意識を取り戻しても後ろに周りすぐにウンディネを使って海中を移動しなくてはならないのだ。
それに……まだ、私はためらう部分が大きく残っていた。緊急措置とは言え……こんな形で彼と口……キスをすることになろうとは予想だにしなかったからである。やつの弾丸はこの海底までは届かない。ここは海底40mほどの砂底だ。綺麗な海とは言えど、もうここは青緑色の濁った暗い空間。……私は意を決して彼の口に口づけ、空気を押し込む。その瞬間に……彼の機体は恐ろしい反応をする。
『そんな!! あんな状態じゃ動くことなんて!!』
海底面を蹴り、地上に飛び上がったのだ。プロトタイプの機体ではあんな脚力はない。いいや、それ以前にあんな手傷ではキューブシステムが生命維持を優先してしまい起動できない。もしかすると……彼もフラグメンツ・ファイトの関係者? そんなことはない。だって水属性の装甲や特性を持つファイターに男性はほとんどいないからだ。しかも、その男性は世界ランク数位に含まれる『マーマン』と呼ばれる私と同型の機体なのだ。……カムフラージュ用のダミーホログラムなら話は別であるが……。水中からあんな動きができる機体なんて聞いたことがない。
アメリカから帰国してからはフラグメンツ・ファイトもほとんど出ていなかった。どうして私が参加する気持ちに切り替われたかといえば言うまでもなく彼のためだ。私も変わってもっと気さくでなんでもできるいい女になりたいと願ったのである。そのためにまずは……。
そして、浮き上がった私は惨状を目にした。あんなことはありえない。プロトタイプの機体ではない。彼も……、ファイターなのだ。私を殺しにかかった機体の主は無残に引きちぎられて殺されている。しかも、彼の右腕は普通に存在しているのだ。
「……」
海面に彼の右腕の残骸さえ見つけなければ……なんともなかったのだけれども。
それから私は数時間後に目を覚ました。心配そうな藍緋君の顔が覗き込んでいることに気づくと安心するとともに彼への疑念や言い表せない感情がこみ上げてくる。それに、私は見られてはいけない物を見られたかもしれないという恐怖から体をこわばらせた。
それでも彼は優しかった。両肩に手を置くと彼は真剣に管理当局への連絡と保護を依頼すべきだと進言してくれる。何がどうなったのか……彼は理解していないらしい。記憶に無いという方がいいかもしれない。私は体に異常がないために今日で退院していいと言われ学園から少し離れた病院からバスを使って彼に送られながら学生寮へ帰る。彼は終始無言だった。右手を握ったり閉じたりしながら難しい表情をしている。こういう時にどういう声をかけていいかわからなかった。でも、彼は私が声をかけるとまた優しく話を聞いてくれるのだろう。
『次は千歳学園前……お降りの際はお近くのブザーを押してください。また、乗り越し精算などの御用は添乗員へ……』
「そろそろ着くね。体は大丈夫?」
「え、はい。大丈夫です」
「それなら安心したよ。それから、弁当、うまかった。ありがとね」
ニコリと微笑みながら彼は私へ手を貸して段差があるバス停の急な高さになっているところを飛び越すのを手伝ってくれた。寮の入口には寮母さんや友人、あと、見慣れない女の子がひとり立っている。どこか修羅君nにた雰囲気を持っているが……。私はそんなことを考えているとすぐにその女の子から言葉が藍緋君にかかる。
「兄上……おかえりなさい。ご無事ですか?」
「あ、あにうえ……?」
「妹の璃梨だよ」
「お初にお目にかかります。兄上がお世話……」
「い、いえ、今回は私のほうが!!」
「この子は16だからそんなにかしこまることはないよ」
何事もなかったかのようなこの態度がかなり怖い。しかし、本当に彼が真っ白である場合……本当はそんなことはありえない。現実を見ねばならないことは理解しているのに……どうしてもそちらの方面へと思考を曲げることができないのである。言葉に詰まってしまった。妹さんである璃梨さんはそのまま私を寮の奥まで案内してくれる。場所はよく理解しているつもりなのだが……と思えば少し違う。璃梨さんの部屋が同じ寮の棟だったらしい。私は三階で彼女は二階の高等部の生徒の物だったらしい。手を引かれるがままに中に入れられケーキと紅茶が出てくる。なん何だろう。
璃梨さん……綺麗な人だ。高校生には見えないビジュアルのよさは本当に羨ましい。私のように貧相じゃないことが本当に羨ましい。
「兄上の本当の姿を知りたいですか?」
「はい?」
「誰だって見ていればわかります。特に同性ならばよくわかりますよ。あなたの兄上へ向けている感情などは」
「え゛……」
「知りたいですか?」
「そ、それは」
彼女は分厚いアルバムを持ってくる。そこに写っていたのは彼の幼少期の姿から今に至るまでの姿である。最初に彼と璃梨さんが一緒に移りだしたのは璃梨さんが白い初着を着ている頃から、次は保育園の写真だ。お遊戯会や発表会、卒園式などなどいろいろある。次は小学生の入学や運動会、学芸会、ほかにもいろいろななんやかんやの写真がたくさん出てきて……あれ?
「気づかれましたか?」
「保護者参観日とかご両親に関わる写真が……」
「私たちは親なしなんです。兄の話では父は何かの技師で蒸発したらしく、母は私を出産後に病弱だったことも関連して亡くなりました。今の兄上はどうですか?」
そんなことを聞かれても……写真の彼とは違い少し表情が明るいくらいだが……次に彼の高校の時の写真が始まった。中学生まではあの厳しい目つきだったのに高校になると彼の表情はかなり明るくなっている。
何かあったのだろうか? その瞬間に急に璃梨さんが微笑んで私を見てくる。なんというか……私のことを見て何か嬉しいことがあったかのように見てくる。ケーキにフォークを通して食べる。クールビューティー系の子なのだが、やはり笑顔がすごく似合う。兄弟というのは似るもので彼女も笑っていると本当に可愛い。彼も笑っているときが一番気持ちよさそうなのだ。
「兄上も私も辛い時期はありました。それでも、彼が屈することはなく、必然的に私も強く育つことができました。その、兄上を支える事のできる寛容な女性が現れてくれてホッとしてるんです」
「へ?」
「いったでしょう? もう、兄上には迷惑をかけられないんです。兄上は育ての親でありかけがえのない家族です。そんな人の幸せも考えられないなんて……嫌ではないですか? 私は嫌です。私がここからは一人で歩む……、いずれは私も拠り所を見つけますが。兄上には私が吸ってしまった分の幸せを得て欲しいのです」
美しい兄弟愛を目の当たりにしつつ璃梨さんに気遣われて私は自室に帰る。この寮は基本的に二人べやなのだが特待生やそれに合わせた形に部屋割りされている。私のようにかなり狭い門をくぐれた人間は一人部屋で広い。だが、普通の学生はかなり狭い。それに二人部屋扱い……いい部屋に行きたいなら意地でも何でも這い上がれという実力社会の縮図……なのだ。
璃梨さんはスポーツの路線で有名らしくこの階下にあるスポーツ特待生クラスの特別室に在籍している。私はどっと疲れが出てしまい、白衣を畳んで明日の下準備とお弁当の準備だけをしてベッドに横になった。上を見るとやはりあの時の感触が強く思い出されてしまいなかなか寝つけないから少し困ってしまう。大いにシチュエーションがデンジャラスなことになっていたが……私の意思で彼の唇へ……私のを……。
一人で赤面しているのがありありとわかるほどに暑い。それにベッドに寝ていたこともあり少し先んじたシチュエーションを想像してしまい自己嫌悪に陥る。私のご都合主義は私の心の中でしか動かない。彼はなかなか気づかないタイプだと思うのだ。璃梨さんもそう言っていたからそれは確実である。振り向いてもらえるのはいつになるのやら……。
「名前、呼んじゃった。修羅君……。もっと現実を見なくちゃいけないのに……」
次の日、いつもと同じ時間に起床し、お弁当を作ってから朝の一時を過ごすと大家さんからの訪問が待っていた。大家さんというよりは寮母さんというべきなのだと思うけれど彼女は寮母さんよりも大家さんと呼ばれるほうが肌に合うようでそちらで呼ぶように私たちへいつも言っていた。
内容はやはり昨日のことで機能は関係者の妹ということで気持ちを和らげさせてくれるであろう璃梨さんに任せたと言いながら次はナノトランスシステムの管理当局から保護対象へと認定するとの通知が届いているのを開けずに私のところに持って来てくれたのだ。私がナノトランスシステムを扱い、ウンディネとして選手登録していることを誰も知らなかった。だから大家さんもその口ぶりで話している。大家さんももちろん知らないはずだがこの寮を長く管理する彼女だから見透かされている感は否めない。
彼女は相談事やほかにも悩みがあるなら早めにいうように言ってくれた。今の所は言えることもなにもないのだ。だから仕方ないのだけれど……。
「錦ちゃんも少し溜め込んじゃう所あるから。気をつけてね?」
「はい」
「あ、そうだ。この寮は男連れ込むのは問題ないからね」
「はい!?」
「あのちっこい男子学生。あいつなんでしょ? 錦ちゃんの王子様」
朝の食堂で璃梨さんが伝えたと行っている。高等部は統制を取るために集団行動を学ぶ。そのことから朝食や夕食は食堂で揃って撮るのだ。あとは大学生の希望者だけがその食堂で朝食を撮るけれど私はその組ではない。だから部屋でひとりご飯を食べる。大家さんは寛大なのか無法地帯を作りたいのかは定かではないけれど……。笑いながら彼の話題を振ってくる。赤面している私をさらに誂うように大家さんは言葉で攻めてくるのだが……。私は逃げた。
そして、二人分のお弁当を持ってスクールバスの停車場所に向かう。歩いても数分かからないのですぐについた。そこには……見慣れない人がいてその人は私に横柄な態度で挨拶をするといきなり修羅君の話を切り出してくる。
「はじめましてだな。お前さん、藍緋 修羅のことに関して何か知ってるか?」
「え、あ、いや。学部は同じですが」
「そうか、また聞くことがあるかもしれん。その時はよろしく頼む」
彼は私が次に言葉を告ごうとした瞬間にはもういなかった。不思議な男性で本当になんというか……見たことのあるような、ないような。
そこに藍緋君が現れて疲れたような顔であったために私は少し心配になったが彼の隣に座った。恋心のせいで私の体温は急上昇し、脈もどんどん加速していく。胸はそこまでないけれど手を当てればわかるくらいに紅潮した感情を表現するだけのものを表していた。激しくなる呼吸や速くなっていく鼓動。もう、キスのことを完全に意識している。それを拒否しても嘘と気づかれるレベルのそれだ。なのに、彼は平然としている。
笑顔は私の心をくすぐるようにまた急激な感情加速を加えていった。研究室にはトートバッグを一つ持っていけばいい。母親が懸賞で当てた買い物用のものを貰い、それに白衣と小さな救急箱、財布、教科書類、他の必要なものと……不謹慎だけれど一番大切なお弁当を詰めてきている。私の食べる量は知れている。だけど、彼の食べる量は今持ってわからない。彼と食堂での同席は一度もなかったからだ。
「おはよ」
「お、おはようございます。寝不足ですか?」
「うん。ちょっと調べ物をね」
そこで会話が途切れるけれどこの時間は少し幸せだった。身長は少し彼が大きい程だと思う。多分、彼が5センチ大きいくらいではないかと思う。その彼がいきなりこちら側に体を倒してきた。いいや、寝不足でバスに揺られているとそのまま寝てしまったのだろう。今、このバスに乗っているのは今日の早朝実習のある私のコースと彼のコース、あとは文系の四年生とか就活生が数人だった。よって……ひと目はほとんどない。頭は肩に乗るようにフィットしていてこのぬくもりが私にはとても心地よかった。
このままだと私も寝てしまいそうになる。でも、バスの時間は大体30分だから寝てなんかいられない。本学を経由して次に理系工学科棟の多い工科の密集地を経由。その後、私たちの水産科のところに行く。この先には畜産科と農耕科のキャンパスがあるらしい。
彼の穏やかな寝息を聞いている途中から現実が嘘のように感じられた。彼がフラグメンツ・ファイトのファイターであることは明白だ。しかも、最近の試合に出場していない中でもかなり上位に食い込めるほどの猛者。私などでは相手にできないほどの物だと思う。小さいけれどたくましいこの体が、今は私の華奢だと思われる物にもたれかかり休息を求めてきているのだ。
『璃梨さんの言うように彼がそれだけのことを背負い込んでるなら……私は抱き込んであげたい。こんな私でもできるなら。璃梨さんの望むように修羅君を支えてあげたいな』
バスが着く三分ほど前に彼は急に体を起こす。私は彼の体を寄りかからせるのではなく既に横に倒させていた。周りには人も少ないために膝枕くらいしてもさほど気にはならないと考えたからだ。
ただ、やはり私は赤面し抑えられないはやりと焦りから感情の起伏もおかしくなってきている。それは確かだと思う。感情の反転は即ち正気を意味する。羞恥が反転してしまうとそれはやはり元の平常に戻ったということなのだ。それでも生理現象とか人間としての反射は通常通りに起こるために私の表情や癖もなかなか治りはしない。彼が気遣って謝ってくれているのに私はもじもじして上目で彼を見てしまう。
もともとの奥手で手を出すのにもワンテンポ遅い私の性格といろいろな意味での期待が加わっている結果だ。彼はそれでも優しく接してくれる。それが私には心地よくて……。どうしてもここからは引けない。私の願望が手をひこうとかいうマイナスの考えをすべて消してくれる。だから……。
「璃梨から何か言われた?」
「え?」
「アイツにはかなり迷惑をかけたからなぁ。でも、ずっと俺のそばにいてくれた。どんなに苦しくても……どんなにつらくてもだ。兄妹っていいよな」
「私は一人っ子なのでわかりませんけど。藍緋君も璃梨さんも暖かくて羨ましいです」
彼は一瞬だけ難しい顔をするとすぐにいつもの暖かな表情に戻り私に笑顔をくれる。今日の実習も朝から辛い物だった。そんな時でもやはり彼の真剣で意欲に富んだ瞳を見ることができる。彼の水槽はいつ見ても素晴らしい。センスなども問われる水槽園芸の世界。アクアリウムコーディネートはその人間の個性までもを問われる。彼の個性は技術を絡めた遊び心だ。
魚や魚介類に鮮やかな色を使い水草に濃緑色の繁茂するタイプの水草を使い、背面をカーテンのように縦に生えさせる。彼の水槽はテラリウムに近い。けれど水の流れが滝をモチーフにするものが多くて、見とれてしまう。現在の水槽は背面に流木でくんだベースを作り、そこにウィローモスと呼ばれるコケやシダに近い水草を活着させてカーテンを作る。その流木には細工があり水を通す細い管で水を流す仕掛けになっている。その下には粒の大きなソイルと呼ばれる下砂を敷き、グロッソスティグマと呼ばれる水草を植えてレッドビーシュリンプという赤と白の鮮やかなエビを入れておく、水位は少なくしてあるがとても綺麗だ。なおかつ、ミストを発生させる機械を使っているために潤い、水草も生き生きしている。ライトが相まって本当に美しい。
「きゃわっ!!」
「よっと」
彼に抱きかかえられ全力で赤面していることに気づく。それを隠すためにすぐにお礼を言いつつ頭を垂直に振り下ろした。次は謝罪に言葉を言いながら既に休憩時間となっていることに気づき。今日もお弁当を持って二人で歩いて昨日よりも奥にある綺麗な場所へと向かった。
「あの、お弁当」
「あぁ、悪いね。迷惑ならいいんだけど……」
「全然!! むしろ……嬉しいというか」
「え?」
「な、なんでもないよ!? 私もお料理の練習になるし……それに」
「それに?」
「あ、藍緋君って少し意地悪です」
彼が箸でおかずをつつくのを私はずっと見ていた。本当に嬉しそうに食べてくれるとやはりどうしても嬉しくなり顔が緩む。好きな人が美味しそうに自分の作る料理を食べてくれるのは本当に嬉しいのだ。お父さんとお母さんの気持ちがよくわかる。彼が完食すると手を合わせて私にカラになった弁当箱が帰ってきた。
お礼の言葉とともに朝のシチュエーションをもう一度思い出す出来事が起きてしまいかなり恥ずかしくなっている。でも、彼は意識がなかっただろうから知らないだろうけど……私と彼はキスをしているのだ。体勢を崩してしまい私は彼に覆いかぶさる。でも、小柄なわりに力はあるらしく藍緋君にのけられて残念なような助かったような。彼にその意識がないうちにこのような行為をするのは問題だと思うのだ。それでお互い赤面はするも変容に対して強いというか変化に強い藍緋くんはすぐに切り替えて会話の話題を学部実習の自分の水槽へと動かした。
「……」
「あ、あの」
「よいしょっと」
「ふわっ!? ご、ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんですけど」
「いいよ。絢澄さんが少しドジなのはもう慣れてるし」
「ヒドイですよぉ……。はぁ、でもそうですよね? 気をつけなくちゃ」
「はは。そうだ。絢澄さんは俺の水槽、どう思う?」
私たちはそれから時間が過ぎることを忘れて談笑していた。幸いこの期の実習の登板でない私はこの甘い時間を存分に噛み締めることができている。一時でも彼に関して現実ではなく幻想を見れたことは私の心に大きな安らぎを与えてくれた事は確かなことだ。
この期、私の心は大きく揺れることとなる。それはフラグメンツ・ファイトの地区チャンピオンリーグ総合決勝戦と呼ばれる大きな大会にシフトされ……知ることになったから。私がそうであるように彼もそうなのだと。気持ちは二分化されていく。彼が大好き……でも、彼は私などでは手の届かない存在。こんな子供みたいな今の私ではどうにもついて行けない程、彼は大人で先を見ている。そんなことにも気づけない自分が憎らしくなる。私は所詮、暖かに管理された水の中の住人。水槽の住人。井の中の蛙……。檻の中の住人でしかないのかもしれない。彼は水族館の飼育動物などではなかった。
彼は自由に大洋を泳ぎ回る魚の一人だったから。