第四章 危険予知
排水路の完成まで、あと二日という時点だった。
朝、誠司は現場に向かう前に、作業員たちを集めた。
「今日の作業内容を確認する」
誠司は、地面に描いた図を指しながら説明した。
「排水路の掘削は、あと百歩ほどで完了する。今日中に掘り終え、明日は側壁の補強と、排水口の設置を行う。質問はあるか」
土工のリーダーが手を上げた。
「監督、一つ確認があります」
「何だ」
「今日掘る区間、地面が少し湿っています。昨日の雨のせいかもしれませんが……」
「見せてくれ」
誠司は、リーダーと共に問題の区間に向かった。
確かに、地面が湿っている。水を吸った土は、通常よりも柔らかくなる。掘りやすくなる一方で、崩れやすくもなる。
「土留めを設置する」誠司は言った。「この区間は、土が崩れる危険がある。板で側面を支えながら掘り進める」
「分かりました」
「それから——」
誠司は、作業員たち全員に向き直った。
「今日は、もう一つやることがある」
「何ですか」
「KY活動だ」
「……KY?」
作業員たちは、首を傾げた。
「危険予知活動だ」誠司は説明した。「作業を始める前に、今日どんな危険があるかを全員で考える。そして、その危険を防ぐためにどうするかを決める」
「そんなことをして、意味があるんですか」
土工の一人が言った。
「ある」誠司は断言した。「俺が前にいた現場では、これをやることで事故が大幅に減った。やるとやらないでは、結果が全然違う」
作業員たちは、半信半疑の顔をしていた。
誠司は構わず続けた。
「今日の作業で、どんな危険があると思う? 思いついたことを言ってくれ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、土工の若者が恐る恐る口を開いた。
「……土が崩れるかもしれない、ですか」
「そうだ。それが一つ目だ」誠司は頷いた。「他には?」
「道具で怪我をするかもしれない」
「それも危険だな。他には?」
「足を滑らせて溝に落ちる……とか?」
「いい指摘だ」
誠司は、出てきた危険を一つ一つ整理した。
「土の崩落、道具による怪我、転倒・転落。この三つが、今日の主な危険だ。では、それぞれどう対策する?」
「土の崩落は、土留めで防ぐ」
「道具は、使わない時は決まった場所に置く」
「足元に気をつけて歩く」
「よし」誠司は頷いた。「それを全員で意識して作業する。何か危ないと思ったら、すぐに声を出して知らせる。『危ない!』でいい。恥ずかしいと思うな。声を出すことで、事故が防げる」
作業員たちは、誠司の言葉を聞きながら、徐々に真剣な顔になっていった。
「では、作業開始だ。安全第一で行こう」
作業員たちは、それぞれの持ち場に散っていった。
誠司は、彼らの背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
この世界には、安全管理の概念がほとんどない。作業中に怪我をするのは「当たり前」と思われている。ひどい場合は、「怪我をするのは腕が悪いから」と自己責任にされる。
それは、誠司には受け入れられない考え方だった。
建設現場は危険な場所だ。だからこそ、危険を予測し、対策を講じ、事故を防ぐ仕組みが必要だ。それが、近代の安全管理の基本であり、誠司がこれまで叩き込まれてきた思想だった。
*
その日の午後、事件は起きた。
誠司が現場を巡回していると、悲鳴が聞こえた。
駆けつけると、土工の一人が溝の中で倒れていた。
「どうした!」
「土が崩れて……!」
見ると、溝の側面が崩落し、倒れた土工の足を埋めていた。
「動くな! 無理に引き抜こうとするな!」
誠司は叫びながら、溝に飛び降りた。
「スコップを持ってこい! 慎重に土を掻き出すんだ!」
他の作業員たちが、道具を持って駆け寄ってきた。
誠司は、埋まった足の周りの土を、少しずつ取り除いていった。
「大丈夫か? 痛むか?」
「少し……でも、動けない……」
「動くな。今、出してやる」
数分後、土工の足が解放された。
「立てるか?」
「……はい、何とか」
土工は、誠司の手を借りて立ち上がった。足を引きずっているが、骨は折れていないようだ。
「お前」誠司は、近くにいた別の土工に言った。「こいつを医者のところに連れて行け。念のため、診てもらえ」
「分かりました」
二人が去った後、誠司は崩落した側面を見つめた。
土留めは設置していたはずだ。しかし、その板が、土の圧力に負けて外れていた。
「誰だ、この土留めを設置したのは」
誠司の声は、低く、冷たかった。
作業員たちは、互いに顔を見合わせた。
「……俺です」
一人の土工が、恐る恐る名乗り出た。
「板の固定は、どうやった」
「普通に、土に刺しただけですが……」
「それだけか? 杭は打ったか? 補強は?」
「……いえ」
誠司は、深く息を吐いた。
怒りを爆発させたい衝動があった。しかし、それは生産的ではない。
「集まれ」
誠司は、全員を呼び集めた。
「今、事故が起きた。幸い、大事には至らなかった。だが、一歩間違えば、足の骨が折れていたかもしれない。下手をすれば、土に埋まって死んでいたかもしれない」
作業員たちの顔が、青ざめた。
「土留めの設置方法を、もう一度説明する。よく聞け」
誠司は、板を手に取り、実演しながら説明した。
「まず、板を土に刺す。これだけでは不十分だ。土の圧力がかかれば、板は外れる。だから——」
誠司は、杭を取り出した。
「板の後ろに杭を打つ。杭が板を支える。さらに、板と板の間に横木を渡して連結する。こうすれば、一枚の板が外れても、全体が崩れない」
作業員たちは、誠司の手元を真剣に見つめていた。
「分かったか?」
「はい」
「では、既に設置した土留めを、全部確認しろ。不十分なものは、今すぐやり直せ」
作業員たちは、慌てて散っていった。
誠司は、一人残って、崩落した箇所を見つめていた。
「……俺の責任だな」
呟きが、口から漏れた。
説明が不十分だった。土留めの設置方法を、口で言っただけで、実演しなかった。作業員たちが正しく理解しているかを、確認しなかった。
事故は、自分のミスが招いたものだ。
誠司は、拳を握りしめた。
同じ失敗は、二度としない。
そう、自分に言い聞かせた。
*
夕方、作業が終わった後、バルドが誠司のところに来た。
「聞いたぞ。事故があったそうだな」
「ああ」
「怪我人は」
「足を痛めた程度だ。大事には至らなかった」
「そうか」
バルドは、誠司の隣に腰を下ろした。
「お前、自分を責めているな」
「……分かるか」
「分かる。俺も、若い頃に似たような経験がある」
誠司は、バルドの顔を見た。
「お前も?」
「ああ。俺が棟梁になりたての頃だ。石切り場で事故があった。俺の弟子が、落石で腕を潰された」
「……」
「あの時は、俺も自分を責めた。俺がもっと注意していれば、防げた事故だったからな」
バルドは、遠くを見るような目をしていた。
「だが、自分を責めるだけでは、何も変わらない。大事なのは、同じ事故を二度と起こさないことだ。そのために、何ができるかを考える。それが、棟梁の仕事だ」
「……そうだな」
誠司は、小さく頷いた。
「お前の話を聞いたぞ」バルドは言った。「事故の後、土留めの正しいやり方を、全員に教え直したそうだな」
「ああ。俺の説明が不十分だった」
「それでいい。失敗から学んで、次に活かす。それができる奴は、信用できる」
バルドは立ち上がり、誠司の肩を叩いた。
「一週間の約束、守れそうか?」
「……守る。明日には、排水路が完成する」
「楽しみにしているぞ」
バルドは、そう言って去っていった。
誠司は、夕暮れの空を見上げた。
オレンジ色に染まった空。この世界の夕暮れは、東京の夕暮れよりも、ずっと広く、美しかった。
明日、排水路が完成する。
最初の約束を果たす時が、近づいていた。




