第十章 墜落事故
工事再開から三週間目の朝、それは起きた。
「監督! 大変です!」
叫び声を聞いて駆けつけると、建設中の本館三階で、職人たちが集まっていた。
「どうした」
「ミハエルが——ミハエルが落ちた!」
誠司は、人垣を押しのけて前に出た。
床に、一人の若い職人が倒れていた。大工見習いのミハエル——十七歳の少年だ。
意識がある。目を開けている。しかし、顔は青白く、体を動かそうとしない。
「どこから落ちた」
「上からです。足場が——足場が崩れて——」
誠司は上を見上げた。
確かに、三階から四階に上がる足場の一部が崩落している。高さは約三メートル。打ちどころが悪ければ、死んでいてもおかしくない高さだ。
「医者を呼べ! すぐにだ!」
誠司は叫んだ。
「それから、動かすな。背骨を傷めている可能性がある。板を持ってこい。板に載せて運ぶんだ」
職人たちが慌てて動き出した。
誠司は、ミハエルの傍にしゃがみ込んだ。
「ミハエル、分かるか。俺だ、誠司だ」
「……監督……」
ミハエルの声は、かすかだった。
「痛むか。どこが痛い」
「足が……足が動かない……」
誠司の心臓が、冷たくなった。
足が動かない。最悪の場合、脊髄を損傷している可能性がある。
「大丈夫だ。医者がすぐ来る。動くな。絶対に動くな」
「監督……俺……」
「喋るな。力を温存しろ」
やがて、医者が到着した。
魔法を使う治療師だ。彼はミハエルの体に手をかざし、何かを呟いた。
「足に感覚があるか」
「……ない」
治療師の顔が、曇った。
「背骨に損傷がある。今すぐ治療院に運ぶ。完治するかどうかは……分からない」
職人たちが持ってきた板に、ミハエルが慎重に載せられた。
担架のように運ばれていくその後ろ姿を、誠司は見つめていた。
*
その日の作業は、中止になった。
誠司は、職人たち全員を広場に集めた。
「今日、事故が起きた。ミハエルが足場から落ちた」
誠司の声は、静かだった。しかし、その静けさの中に、怒りが込められていた。
「原因は、足場の不備だ。固定が不十分だった部分が、荷重に耐えられず崩落した」
誠司は、崩落した足場の残骸を指さした。
「誰がこの足場を組んだ」
沈黙が続いた。
「答えろ。誰だ」
「……俺です」
一人の職人が、おずおずと手を上げた。
「なぜ固定が不十分だったんだ」
「急いでいたので……先に進まないと、工程に間に合わないと思って……」
「工程のために、安全を犠牲にしたのか」
「……はい」
誠司は、深呼吸をした。
怒りを爆発させたい衝動があった。しかし、それでは何も解決しない。
「俺が悪かった」
誠司は言った。
「何?」
「お前を責めているんじゃない。俺自身を責めているんだ。俺が、安全と工程のバランスを、お前たちに十分に伝えていなかった。『安全は前提条件だ』と言いながら、具体的にどう判断すればいいかを、教えていなかった」
誠司は、職人たちを見渡した。
「工程が遅れそうな時、どうするか。答えは簡単だ。俺に報告しろ。俺が判断する。工程を延ばすか、人員を増やすか、方法を変えるか——判断は俺がする。お前たちは、安全を犠牲にして工程を守ろうとしなくていい」
「でも、監督の負担が——」
「俺の仕事だ」誠司は遮った。「そのために俺がいる。お前たちが安全に働けるよう、環境を整えるのが俺の仕事だ。お前たちの仕事は、与えられた環境の中で、最高の技術を発揮することだ。役割が違う」
職人たちは、黙って聞いていた。
「それから」誠司は続けた。「足場の点検を、毎日やる。朝、作業開始前に、その日使う足場を全て点検する。問題があれば、直すまで作業を始めない」
「毎日ですか」
「毎日だ。手間はかかる。だが、それで事故を一つでも防げるなら、安いものだ」
誠司は、最後に付け加えた。
「ミハエルの回復を祈ってくれ。そして、同じ事故を二度と起こさないように、俺たち全員で取り組もう」
*
その夜、誠司は治療院を訪ねた。
ミハエルは、ベッドに横たわっていた。
「監督……」
「様子はどうだ」
「治療師が、魔法で治療してくれました。でも……足の感覚は、まだ戻りません……」
誠司は、椅子を引き寄せて座った。
「時間がかかるかもしれない。焦るな」
「俺……もう歩けないんでしょうか……」
「分からない。治療師を信じろ。そして、自分の体を信じろ」
ミハエルの目から、涙がこぼれた。
「俺、大工になりたかったんです。親父も大工で、爺ちゃんも大工で……俺も、木を削って、家を建てて……」
「なれる」
誠司は、はっきりと言った。
「必ず歩けるようになる。そしてまた、現場に戻ってこい。お前の腕を、俺は知っている。若いのに、いい仕事をする。お前が戻ってくるのを、待っている」
ミハエルは、涙を拭いた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。まずは、治療に専念しろ」
誠司は立ち上がり、ミハエルの肩を軽く叩いた。
「また来る」
治療院を出た後、誠司は夜空を見上げた。
二つの月が、空に浮かんでいる。
この世界には、月が二つあるのだ。日本にいた頃は、見ることのなかった光景。
「俺は、何のためにここにいるんだ」
誠司は呟いた。
世界を救うために、女神に呼ばれた。
しかし、目の前の若者一人の足すら、救えなかった。
「違う」
誠司は、自分に言い聞かせた。
「救えなかったんじゃない。まだ、終わっていない」
ミハエルは生きている。回復の可能性もある。
そして、今後同じ事故を起こさないための対策を、自分は講じた。
一歩一歩だ。
現場監督の仕事は、劇的な英雄行為ではない。地道な積み重ねだ。問題を一つずつ解決し、少しずつ前に進む。
その先に、世界を救う道があるはずだ。
誠司は、宿に向かって歩き始めた。




