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悪役令嬢が自ら破滅フラグを踏んでまわった末路

 

「断罪イベントまであと二年。……全部自分で踏み抜いて『消化済み』にしよう」


 私――公爵令嬢ネミーがその完璧な作戦を思いついたのは、王立学園の入学式が終わった直後のことだった。


 前世の記憶を取り戻したのはほんの一瞬の出来事。

 鏡に映るやけにキリッとした吊り目と金髪を見た瞬間に理解したのだ。


 ここは前世でプレイしていた乙女ゲームの世界!

 そして私はヒロインである聖女アレシア様をいじめ抜いた挙句、婚約者であるフリン王子に婚約破棄を突きつけられて国外追放という名の事実上の野垂れ死にコース確定の悪役令嬢だった!


 ……なんてこった。

 誰か嘘だと言ってほしい。


 いや、落ち着け。

 まだ時間はある。


 ヒロインのアレシア様は来年転入してくる予定。

 そしてゲームのシナリオ通りなら断罪イベントが起きるのは二年後のパーティーだ。

 それまでにヒロインをいじめなければいい。アレシア様と仲良くすればいい。

 そうすれば、断罪は回避できるはず──。


 ──と普通ならそう考えるだろう。

 だが私は気づいてしまったのだ。

 この世界の『強制力』という厄介な可能性に。


 例えばの話だ。

 私が「いじめないぞ!」と固く決意したとする。


 でも、もしも誰かに嵌められて濡れ衣を着せられたら?

 あるいは不可抗力でぶつかってしまい、それを「突き飛ばした」と誤解されたら?

 最悪の場合、私の意志とは無関係に体が勝手に「おのれ泥棒猫が!」と叫んでいるかもしれない。


 一度発生したフラグを折るのは難しい。

 ならばどうするか。


 私は自室のベッドの上で穴が開くほど天井を見つめ、湯だった頭で考え続けた。

 そして一つの結論に達したのである!


 イベントが発生するのは仕方ない。

 ならばヒロインが来る前にイベントを私が一人で消化してしまえばいいのではないか?


 ゲームのシステム的に考えてみよう。

 一度発生したイベントには大抵の場合『クールタイム』が存在する。

 もしくは一度クリアすれば『消化済み』のフラグが立ち、同じイベントは二度と起きない。


 つまりヒロインであるアレシア様に対して行うはずの嫌がらせイベントを私が単独で行い、被害者も加害者も私一人で完結させる。

 そうすれば世界は「お、このイベントはもう終わったな」と認識し、本番であるアレシア様との接触時には何も起きない平和な時空が流れるはず!


 名付けて『自爆によるフラグ消化作戦』!


 我ながら完璧な論理だ。

 天才かもしれない。


 私はガバッとベッドから起き上がると、拳を握りしめた。

 善は急げだ。



 ◇



 翌日。

 植物観察の授業は教室での講義ではなく、実際に庭園を散策しながら行われる。


 本来のシナリオであればここで最初の『嫌がらせイベント』が発生する。

 池のほとりで珍しい睡蓮を観察しようとしたアレシア様を背後から忍び寄った私が突き落とすのだ。

 そしてずぶ濡れになったアレシア様をフリン王子が助け出し、私に冷ややかな視線を向ける……という最悪なイベントである。


 現在、フリン王子との仲は可もなく不可もなくといったところ。

 政略結婚とはいえ幼い頃から交流はある。


 だが最近の彼はどこかよそよそしい。

 きっと私の内面にある『悪役令嬢としての素質』を本能的に感じ取っているのかもしれない。


 だが、今日でその運命も変わる!


 私はクラスメイトたちが散らばって観察を始める中、一直線に運命の池へと向かった。


 私は池のふちに立つと深呼吸をした。

 周囲にはフリン王子を含めて数名の生徒がいる。

 目撃者は十分だ。



 さあ、世界の強制力よ、見るがいい!

 私が突き落とすのはヒロインではない。

 私自身だ!



 私はためらうことなく地面を蹴った。

 突き落とすどころか自ら飛び込むストロングスタイル。


「むんっ!」


 気合の声とともに、私は宙を舞った。


 バッシャァァァン!!


 盛大な水しぶきが上がって冷たい水が全身を包み込む。

 制服が水を吸って重くなるがそんなことは些細な問題だ。

 私は水面から顔を出して濡れた髪をかき上げた。


「ぷはっ!」


 やった。

 やってやったぞ。

 これで『池落下イベント』は消化済みだ。

 システムログにはきっと【イベント『池の波紋』】と表示されているに違いない。

 アレシア様が来る前に終わらせてしまえば彼女が落ちることはない。

 完全勝利である。


 達成感に浸っていると、岸の方から慌ただしい足音が近づいてきた。


「ネミー!?どうした、大丈夫か!?」


 聞き覚えのある声。

 顔を上げると血相を変えたフリン王子の姿があった。

 美しい銀髪をなびかせて私を見つめている。


「フリン様……」

「今、助ける!」


 彼は躊躇うことなく制服のまま池に飛び込んできた。

 バシャバシャと水音を立てて私のもとへ泳いでくると、力強い腕で私の体を抱き寄せる。


「怪我はないか?何があったんだ」

「あ、いえ。足が滑りまして……」


 至近距離で見る婚約者の顔は破壊力が凄まじい。

 水に濡れた銀髪から雫が滴り、心配そうに私を見つめる瞳に思わず心臓が跳ねる。

 普通ならここで甘い雰囲気になる場面かもしれない。


 だが現実はそう甘くない。

 私たち二人がずぶ濡れで池に浸かっているという異様な光景に、周囲の生徒たちが凍りついていたのだ。


「……え、何あれ?」

「公爵令嬢が飛び込んだ?」

「王子まで?」


 ざわざわと困惑の声が広がる。


 当然だ。

 植物観察の授業中に、高位貴族の二人が水浴びをしているのだから。

 誰かが「大丈夫ですか!」と声を上げるべき場面だが、相手は公爵令嬢と王子である。


 迂闊に声をかけて、もしこれが『高貴な方々の高尚な遊び』だった場合不敬に当たるかもしれない──そんな貴族特有の深読みと忖度が変な空気を作り出していた。


 その時だった。

 静まり返った空気の中で一人の男子生徒がボソリと呟いた。


「……もしかして、あれが流行りの着衣水泳か?」


 え?


「そうか……!公爵令嬢ともあろう方が足を滑らせるわけがない。これは万が一の水難事故に備えた最先端の『護身教養』の実演なのでは!?」


 待って、どういう解釈?

 しかし、その斜め上の解釈は混乱する生徒たちの心に火をつけたようだった。

 別の令嬢がハッとした顔で声を上げる。


「きっとそうですわ!流行に敏感なネミー様があえて制服のまま水に親しむ姿勢。これこそが次世代の貴族の嗜み!」

「遅れてなるものか!」

「私も参ります!」


 ザブーン!

 バッシャーン!


 次々と生徒たちが池に飛び込み始めた。

 まるで集団催眠にかかったかのような光景だ。


 瞬く間に、静かだった池は市民プールのような大混雑状態と化した。


「な、なんだこれは……」


 私を支えていたフリン王子が呆然と周囲を見回す。

 私も口をあんぐりと開けていた。

 あまりの光景に私はフリン王子と顔を見合わせた。


 数秒の沈黙の後。

 最初に吹き出したのはフリン王子のほうだった。


「ぷっ……くくくっ」

「え?」

「はははっ!なんだこれは!みんなして服のまま泳いで!」


 彼は肩を震わせて声を上げて笑い出した。

 いつもすました顔で冷たい印象のあった彼が涙を流して笑っている。

 その無邪気な笑顔につられて私もなんだかおかしくなってきた。


「ふふっ……もう、めちゃくちゃです」

「ああ、全くだ。君のせいで授業が台無しだ」


 そう言いながらも、彼の声には非難の色はなく、むしろ楽しげな響きがあった。


 騒ぎを聞きつけて飛んできた貴族社会への忖度MAXの担当教師。

 この状況を見てこう宣言したことで事態は収拾した。


「貴族たるもの、いかなる環境下でも生存できる能力が必要……水を泳ぐ能力もまた重要!本日のカリキュラムは急遽『実践的水泳演習』に変更します!」


 いや、無理があるでしょう先生。


 こうして、本来ならヒロインへのいじめが発生して好感度が下がるはずだった『植物観察』の授業は謎の集団水泳大会へと姿を変え、幕を閉じたのであった。



 ◇



「ネミー、一緒に食事に行こう」


 植物観察の授業以来、フリン王子は妙に私に絡んでくる。

 登校すれば校門で待ち構えているし、移動教室も一緒。

 こうして昼食に誘われるのもこれで三日連続。


 理由は明白である。

 私が何をしでかすか分からないからだ。


 きっと彼は、私が池に飛び込んだのを奇行と捉えているに違いない。

 だからこそお目付け役として私の監視を強めているのだ。

 もしかしたら純粋に植物観察の授業を楽しみにしていたのに、私のせいで水泳になってしまったことを根に持っている可能性もある。


「……はい、ご一緒します」


 私は微笑みを貼り付けつつ内心で溜息をついた。

 監視されていると動きにくい。だが、断れば怪しまれる。


 私は大人しく彼の後ろについて歩き出した。

 食堂へと続く中央階段に差し掛かる。


 その階段を見下ろした瞬間、私の脳裏に電流が走った。


 ──あ。ここだ。

 この階段はアレシア様が私に突き落とされる場所だ!


 ゲームのシナリオでは中盤。

 フリン王子と二人で親しげに談笑して階段を降りてくるアレシア様を見て、嫉妬に狂った私が背後から突き飛ばすシーンである。


 今はまだアレシア様はいないが、次いつこの階段を通るか分からない。

 もしその時、世界の『強制力』が働いて私の手が勝手に背中を押してしまったら?


 今だ。今すぐこのフラグを踏まないと!


 このイベントの要点は「階段での転落」だ。

 しかし、この長い階段を最上段から転げ落ちるのはさすがに痛い。打ち所が悪ければ大怪我もありえる。


 私はチラリと足元を見た。

 ……軽く数段踏み外して、尻もちをつく程度でフラグ消化できないかな?


「あっ──」


 そんなことを考えて歩いていると、本当に足がもつれてしまった。

 視界がぐるりと回る。

 尻もちをつくはずだった体が、重力に引かれて完全に宙に投げ出された。

 これは、だめだ。

 スローモーションのように流れる景色の中で、私は死を覚悟した。


「ネミーッ!!!」


 恐る恐る目を開けると、そこには苦痛に顔を歪めたフリン王子の顔があった。

 彼はすごい反応速度で私の手を掴み、落下しようとする私を抱きとめたのだ。


「殿下!?」

「ネミー!怪我はないか!?」


 彼は顔面蒼白で私の肩を掴んだ。必死な形相だった。


「私は大丈夫です」


 無事だとわかった瞬間、彼の表情がくしゃりと歪んだ。


 激昂と安堵がないまぜになったような顔で、彼は私を力任せに抱き寄せた。


「不注意が過ぎるぞ!……いや、本当に君が無事で良かった」


 ぎゅう、と。

 抱きしめられる腕の力が痛いくらいに強い。


 彼の心臓の音が私の胸に直接響いてくるほどに近い。

 ドクン、ドクン、と早鐘を打つ鼓動が彼の恐怖を物語っていた。


「……っ」


 ドキリ、と。

 私の心臓もまた大きく跳ねた。


 これはだめだ。

 目の前がクラクラする。

 顔が熱い。

 心臓がうるさい。


 これはフラグ消化のはずだった。ただの作業のはずだった。

「怪我してイベントクリア、はい終了」の予定だったのに。

 なんで私、こんなに動揺しているの?


「ご、ごめんなさい……!」


 声が裏返ってしまった。

 私は混乱のあまり彼の胸板を押し返そうとする。

 その抵抗に気づいたのか彼がハッとして身を離した。


「すまない。こちらこそ言い過ぎた」


 彼が気まずそうに視線を逸らす。


 その腕の温もりが離れていった瞬間。

 少しだけ──ほんの少しだけ──寂しいと思ってしまった自分に気づいて、私はその感情に全力で目を逸らした。


 何を考えているのよ、私は!

 相手は私を断罪する予定の王子様。

 これはただの吊り橋!

 必死に自分に言い聞かせた。



 しかし、悲劇はこれで終わらなかった。

 食堂へ向かう生徒たちが一部始終を目撃していたのである。


「見まして!?フリン殿下がネミー様を抱きしめていましたわ!」

「『君が無事で良かった』って熱烈な愛の告白じゃ!?」

「抱きしめて離さなかったわよね!?」


 瞬く間に「フリン王子が公爵令嬢に熱烈な愛を語っていた」という尾ひれのついた噂が広まってしまった。


 私は必死に否定した。「足が滑っただけです!」「殿下は慈悲深いだけです!」と。

 だが、なぜかフリン王子は否定しなかった。


「彼女は目が離せないからな」


 と、意味深に言うだけだった。


 結果として、あの階段は高貴な二人が愛をささやいた「愛の階段」と呼ばれるようになった。

 今では休み時間になるたびに生徒たちが告白のために集まるパワースポットと化してしまったのである。


 なんでこうなるの!?



 ◇



「今日も一緒に食事をしよう」


 最近、フリン王子の監視が厳しくなっている。

 池に飛び込み、階段から転げ落ちた問題児の監視。

 当然の措置だろう。


 王家としても婚約者が事故死しては寝覚めが悪い。

 食堂で向かい合って座ると、彼はまるで小姑のように口を出してくる。


「ネミー、そのスープは熱いから気をつけろ。火傷するぞ」

「はい……」

「ネミー、ナイフの持ち方が危ない。手元が狂ったらどうする」

「これくらい大丈夫ですわ」

「ダメだ。君は階段もない平らな場所で転びそうになるじゃないか」

「うっ……」


 ……うるさいな、オカンか!


 心の中で毒づきながらも、私はパンを口に運ぶ。


 でも。

 うるさいのに、嫌じゃない自分がいる。

 私が食べるのをじっと見守る視線に妙な安心感を覚えてしまうのだ。

 そこで、ハッと気づく。


 もしかして……作中の悪役令嬢ネミーはこうやって王子への愛を募らせていったの?


 幼い頃からこうして構われ、心配され、優しくされたからこそ彼を独占したくなった。

 だから近づくアレシア様に嫉妬し、意地悪をしたのではないか?


 だとするとまずい。非常にまずい。

 今の私は着実に「フリン王子を愛する悪役令嬢」のルートをなぞっている。

 このままでは嫉妬に狂って、本当にアレシア様をいじめてしまうかもしれない。


 早く破滅フラグを踏み切らなくては。

 私はフリン王子の眼を盗んでフラグを踏む算段を立てるのだった。



 ◇



 数日後の午後。

 私は選択科目である『天文学』の教室にいた。


 この授業はフリン王子は履修していない。絶好のチャンスだ。


 そして、この授業には重要なフラグがある。

 本来のシナリオでは同じ授業を受けることになったアレシア様の教科書を、私がビリビリに引き裂くことになっているのだ。


 このフラグを私が踏み抜く!


 私は周囲を見回した。

 教師は黒板に星の軌道を書き込み、熱心に説明している。

 生徒たちもノートを取るのに忙しい。

 私は自分の教科書を手に取った。


 破くのが自分の教科書であれば誰にも文句は言われない。

 ただ破くだけではインパクトが弱いので、悪役令嬢らしく感情を込める必要がある。


「うううううぅぅ!!」


 私は唸り声を上げ、教科書のページを鷲掴みにした。


 ビリビリビリッ!!


 静かな教室に、紙が裂ける音が響き渡る。


 やりきった。

 これで「教科書引き裂きイベント」も消化済みだ。


 顔を上げると教室中の視線が私に集中していた。

 教師はチョークを持ったまま固まり、生徒たちはポカンと口を開けている。


 当然だ。

 授業中に突然公爵令嬢が奇声を上げて教科書を破壊したのだから。


 さあ、怒られるか、変人扱いされるか。どっちだ。

 私は身構えた。


 しかし、一拍の後。

 予想外の反応が返ってきた。


 ビリッ!

 ビリビリッ!


 隣の席の生徒が教科書を破いたのだ。


 それだけではない。

 ビリビリビリッ!バリッ!

 周囲の生徒たちも一斉に同じページを破り始めたのである。


「なんだ!? 君たち、一体何を……!」


 教師が慌てふためくと真面目そうな男子生徒が冷淡に言い放った。


「先生、分かりませんか?ネミー様があのページを破られたのです」

「それがどうしたと言うんだ!」

「つまり、この記述は事実と異なるということです!」


 は?


「そうだそうだ!」

「公爵家のネミー様が憤りを持って破り捨てたんだ!」

「この教科書は嘘を教えているに違いない!」


「今やっているここ。『太陽は我々の周りをまわっている』って記述は本当に正しいのですか!?」


 教室中が湧き上がる。

 待って、待って。なんでそうなるの?


 先生は脂汗を流して狼狽している。


「馬鹿なことを言うな!そんなことは古来よりの常識であり、聖典にも記されている真理だぞ!」


 全然授業に集中していなかった私は、そのやり取りを聞いている最中に、ふと前世の知識が口をついて出てしまった。


「あ、確かにそこは間違ってるかも……」


 先生がギギギ、と首を回して私を見る。


「……間違っている、だと?」

「え?あ、その……」


「ネミー嬢は太陽が動いているのではなく、我々のほうが動いていると言うのか!?」


 先生の目が血走っている。


「だが、だとすると星々の動きの矛盾が……逆行現象が……まさか、いや、しかし……」


 先生は猛烈な勢いで黒板に向かい、殴り書きを始めた。

 天動説の複雑怪奇な円運動を消し、中心に太陽を据えて、惑星の軌道を描き直していく。


「……計算が合う」


 カタン、とチョークが床に落ちた。


「な、なんてことだ……!」

「先生?」


「私は! 私は今、宇宙の真理に触れたのかもしれん!」


 先生は叫ぶと、教科書も出席簿も放り出して教室を走り去ってしまった。




 ……その後。

 教室を飛び出した先生は数日後に新たな学説を発表した。

 

 ──『地動説』。

 「実は我々の方が太陽の周りをまわっている」という衝撃的な学説は瞬く間に学会で話題を呼んだ。

 当初は異端だと批判されたが、あらゆる研究者が事実確認と計算を行った結果「こちらのほうが天体の動きを矛盾なく説明できる」と判断されたのだ。


 こうして、この世界に新たな常識が生まれた。



 ◇



「一緒に食事に行かないか?」


 昼休み。

 教室に現れたフリン王子が当然のように私を誘ってくる。

 この数ヶ月、一通り思いつく限りの破滅フラグは踏み抜いたはずだ。

 しかし、ここにきて私は計算外の致命的な大問題が発生していることに気づいてしまった。


 ――フリン王子のことが、気になって仕方がないのだ。


 もう、最近は意識しないわけにはいかなかった。

 最初は「監視役」だと思っていた。

 私が奇行に走らないように見張っているのだと。

 けれど、最近の彼は監視というよりも明らかに優しい笑みを浮かべて話しかけてくることが多い。


「今日の髪飾りは似合っているな」

「昨日の課題は難しかっただろう?手伝おうか」

「君の食べる姿を見ているとなんだか幸せな気持ちになる」


 そんな甘い言葉を、呼吸をするように投げかけてくる。

 その笑みを見るたびに私の心臓は早鐘を打って顔が熱くなる。



 はっきり言おう。

 私は、フリン王子が好きになってしまった。


 いや、無理もないだろう。

 元々が国一番の美形だ。

 そんなハイスペック男子に毎日構われ、守られ、心配される生活を送っていて好きにならないほうが無理というものだ。


 誰か「仕方ないよ」と言ってほしい。

「ドンマイ、乙女だもの」と慰めてほしい。


 けれど、これは非常にまずい事態だ。

 なぜなら私が彼を好きになればなるほど、私は「フリン王子を独占したい」と願うようになってしまう。


 誰にも渡したくない。


 彼が他の女性──特に、来年入学してくるヒロインの聖女アレシア様に微笑みかけるところなんて、想像するだけで胸が張り裂けそうになる。


 ……そう。

 これこそが悪役令嬢ネミーが断罪される最大の要因『嫉妬』だ。


 このままでは私は愛ゆえに聖女様に嫌がらせをする女になり、シナリオ通りに断罪されてしまう。

 フラグを折るために頑張ってきたのに、根本の感情がフラグを再建しようとしているなんて……


 だから私は決断した。

 これ以上、彼に近づいてはいけない。

 心の距離を置くのだ。

 物理的にも、心理的にも。


「……申し訳ありません、フリン様」


 私はスカートを握りしめて震える声で告げた。


「今日は一人で食べるので大丈夫です!いえ、これからはずっと一人で食べます!」


 私はそれだけ言い捨てると、逃げるように教室を飛び出した。


「な、どうしたんだネミー!」


 すぐにフリン王子の焦った声が聞こえた。

 足音が迫ってくる。


 速い。

 さすがは文武両道の王子だ。

 運動不足の私が勝てるわけがない。


 廊下の角を曲がったところで、ガシッと腕を掴まれた。


「待ってくれ!なぜ逃げるんだ!」

「離してください!」

「嫌だ!理由を聞くまでは離さない!」


 彼は強引に私を引き止め、壁際に追い込んだ。

 至近距離にある彼の顔は不安と焦燥に歪んでいる。


 そんな顔をさせたいわけじゃないのに。


「どうした、何かあったのか?僕が何か気に障ることをしたなら謝る。だから……」


 必死な彼の声を聞いていると、張り詰めていた糸がプツンと切れてしまった。

 目頭が熱くなり、視界が滲む。


「……っ」

「ネミー?」


 私は堪えきれずに大粒の涙を溢れさせてしまった。


 違うんです。

 貴方は何も悪くないんです。

 悪いのは貴方を好きになってしまった私なんです。



「私が……私がフリン王子に近づくと、皆が不幸になるのです!」



 私は涙ながらに叫んでしまった。

 そう、私が彼のそばにいれば、聖女様をいじめ、学園の空気を悪くし、最終的には断罪イベントで王子にも迷惑をかける。

 バッドエンド一直線だ。

 私が身を引くのが一番のハッピーエンドなのだ。


 私の悲痛な叫びを聞いたフリン王子は、ハッとしたように目を見開いた。

 そしてなぜか少し痛いような、苦渋に満ちた顔をする。


「やはり、聡明な君のことだ。気づいていたか……」


 ……んん?

 何の話だろう?

 混乱して涙が止まりかけている私をフリン王子は優しく、けれど力強く抱きしめた。


「……え?」

「すまない。君に心配をかけて」


 温かい。

 彼の胸から伝わる体温と鼓動が、私の思考を溶かしていく。

 心臓がバクバクとうるさい。これは私の音?それとも彼の音?

 思考がまとまらない。


 そんな私をよそに王子は耳元で囁いた。


「大丈夫だ。全て終わったから」


 終わった。

 ……何が?


 何が終わったのかはさっぱり分からない。

 でも、彼の声には絶対的な安心感があった。


 もう、この気持ちを偽る必要はないのだろうか……?

 彼が「大丈夫」だと言うなら、この世界の強制力すらも、もう存在しないのかもしれない。


 彼の腕の中にいると、断罪だのゲームだの、そんなことはどうでもよくなってくるから不思議だ。


「……フリン様」

「うん」



「……お慕いしています」



 言ってしまった。


 涙でぐしゃぐしゃの顔で、なんとも締まらない告白だったと思う。

 けれどフリン王子は世界で一番美しいものを見るような目で微笑んでくれた。



「僕も、君が好きだ。何があっても、君を守るから」



 そう言って、彼は私の涙を指で拭い、そっと唇を重ねた。

 初めての口づけはしょっぱい涙の味と、甘い幸福の味がした。


 ゲームのシナリオがどうなるのか。聖女様が現れたらどうなるのか。

 不安はある。

 でも、この人の腕の中にいればなんとかなる気がした。

 私は思考を放棄して、フリン王子の体温に身を委ねたのであった。



 ◇



 それから、一年が経った。


 ――結論から言おう。

 アレシア嬢は転入してこなかった。


 ……え? なんで?


 本来なら彼女はこの春に転入生として現れ、学園を乙女ゲームの舞台へと変えるはずだった。

 しかし、入学式の日に彼女の姿はどこにもなかった。


 もしかしたら私の持っていた前世の記憶や知識は、ただの妄想が生んだ夢だったのだろうか?


 真実は闇の中だ。

 けれど、一つだけ確かなことがある。


「ネミー、次はどの授業だ?教室まで送ろう」

「フリン様、過保護すぎます」

「いや、君は階段を落ちる可能性があるからな」

「うぐっ……」


 私は今、断罪されることなく、大好きな人と共に幸せな学園生活を送っている。


 廊下を並んで歩く私たちの姿を、周囲の生徒が「今日もアツアツですわね」と噂しているのが聞こえるが、もう気にならない。


 私は隣を歩く婚約者を見上げて満面の笑みを向けた。


「フリン様、今日のお昼は新作のパンが出るそうです!」

「そうか。では急がないとな。売り切れる前に君の分を確保しないと」

「ふふ、頼もしいです!」


 ――悪役令嬢の末路としては悪くない。悪くない、どころじゃない。最高だ。




 ◇ フリン王子視点 ◇



「フリン。これは国のためだ。……公爵令嬢ネミーを悪役に仕立て上げろ」


 父王からその言葉を聞かされた時、僕は耳を疑った。

 王務室の重苦しい空気の中で必死に反論した。


「お待ちください!ネミーは僕の婚約者です。何の罪もない彼女に濡れ衣を着せて断罪するなど……そこに正義はあるのですか!?」

「正義などという甘い言葉で国は守れん」


 父王は苦渋に満ちた顔で首を横に振った。


 この国の国教である教会。

 その権力は今や王家をも凌駕しつつある。

 その教会が新たな「聖女」として認定したのが幼馴染のアレシアだった。

 そして教会は聖女の伴侶として、この国唯一の王子である僕を強く求めてきたのだ。


 だが僕には既にネミーという婚約者がいる。

 相手は筆頭公爵家だ。

 理由もなく破棄などできない。


 だからこそ、教会と王家の一部勢力は画策したのだ。

 ネミーを「聖女をいじめる稀代の悪女」に仕立て上げ、その罪を以て婚約を破棄し、聖女アレシアと僕を結ばせる。


 ――そんな、あまりにも惨いシナリオを。


「逆らえば教会は信徒を扇動してこの国を内側から崩壊させるだろう。……すまない、フリン。これは国民を守るための王命だ」


 僕は拳を握りしめ、無力感に打ちしがれた。

 たった一人の少女すら守れないで何が王子か。何が国を守る、だ。


 だが僕一人ではどうすることもできない強大な流れがそこにはあった。




 僕は重い足取りで学園に向かった。

 心の中は鉛を飲み込んだように重いが、周囲に悟らせてはならない。


 今日の授業は植物観察だ。

 陽光が降り注ぐ美しい庭園。

 だが、僕の目には全てが灰色に見えた。


 遠くに見えるネミーの姿。彼女はいつも通り凛と立っている。


 すまない、ネミー。

 僕は君を守れないかもしれない。


 自責の念に駆られていた、その時だった。


「むんっ!」


 聞き慣れない気合の声と共にネミーが宙を舞った。

 え?

 彼女はためらうことなく、池に向かってダイブしたのだ。


 バッシャァァァン!!


 盛大な水しぶきが上がる。

 思考が停止した。


 入水自殺!?

 いや、あれほど見事な跳躍で!?


「ネミー!?」


 僕は反射的に走り出していた。

 王命も何もかも全て頭から吹き飛んだ。

 とにかく彼女を助けなければ。


 僕は制服のまま池に飛び込み、ずぶ濡れの彼女を抱きとめた。


「どうした、大丈夫か!?」


 彼女はキョトンとしていた。


 周囲の生徒たちが凍りつく。

 重苦しい沈黙。

 皆が意図を理解できず動けないでいる、その時。


「……着衣水泳か!」

「さすがはネミー様!最先端の教養ですわ!」


 ドボン!

 ザブーン!


 一人の生徒の勘違いを皮切りに、次々と生徒たちが池に飛び込み始めたのだ。

 瞬く間に優雅な庭園は喧騒に包まれた。


「な、なんだこれは……」


 あまりの光景に僕は呆然とした。

 そして僕の腕の中にいるネミーと目が合った。

 彼女もまた、信じられないものを見るような顔をしていた。

 二人してずぶ濡れで泥だらけで。


「ぷっ……くくくっ」


 笑いがこみ上げてきた。

 王命だの、教会の陰謀だの、そんな重苦しいものが馬鹿らしくなるほど目の前の光景はシュールで生命力に溢れていた。


「はははっ!なんだこれは!みんなして服のまま泳いで!」


 僕は腹を抱えて笑った。少し涙も出てきた。


 そして確信した。

 ああ、この子と一緒にいると面白い。やっぱり放っておけない。

 こんな女性を大人の都合で悪役に仕立て上げる?


 ──ふざけるな。


 僕の腹は決まった。

 不正義を許してなるものか。

 何としても彼女を守り抜く。

 この池の騒動は僕に忘れていた「抗う気力」を思い出させてくれたのだ。




 それからというもの、僕は彼女に張り付くようになった。

 表向きは婚約者としての体裁を整えるため。だが本音を言えば、あの池での彼女の笑顔が頭から離れなかったのだ。


 そしてある日。

 食堂へ続く大階段で彼女がつまずき、宙に投げ出された時。

 僕は心臓が止まる思いで駆け出し、彼女を空中で抱きとめた。


「不注意が過ぎるぞ!……いや、君が無事で良かった」


 腕の中に感じる彼女の体温に、安堵で震えが止まらなかった。

 失いたくない。絶対に。

 その思いが溢れ出てしまい、僕は衆目も気にせず彼女を強く抱きしめてしまった。


 その様子を目撃した生徒たちの間で、瞬く間に噂が広まった。


『フリン王子とネミー様は熱烈に愛し合っている』

『あの階段は二人の愛の聖地、その名も「愛の階段」だ』


 側近が慌てて火消しに走ろうとしたが、僕はそれを手で制した。


「いや、否定するな。そのままでいい」


 僕は考えたのだ。

 もし僕たちが「冷え切った関係」であれば、ネミーを悪役に仕立てて婚約破棄するのは容易だ。

「やはり」と民衆は納得するだろう。

 だが「深く愛し合っている」と周知されていればどうだ?


 「あの仲睦まじい二人が?」と疑惑の声が上がるだろう。


 ――噂は武器になる。良くも、悪くも。




 そしてある日、潮目が変わった。

 それは僕の想像を絶する形でもたらされた。


 選択授業の天文学。

 僕はその場にいなかったが、報告を聞いて椅子から転げ落ちそうになった。

 ネミーが授業中に教科書を破り捨て「太陽が回っているのではない、我々が回っているのだ!」と主張したというのだ。


 最初は彼女の乱心かと思った。

 だが彼女の言葉に触発された教師が計算を行い、その正しさを証明してしまった。


 『地動説』。

 それは、長年信じられてきた常識を覆す発見だった。

 そして何より、それは教会にとって致命的な一撃だった。

 教会の聖典には「神が作った大地は不動であり、太陽がその恵みを与えるために周回している」とはっきり記されている。

 もし地動説が正しければ聖典の記述は誤りとなり、教会の権威は地に落ちる。


「……すごい」


 僕は震えた。

 彼女の行動が教会の教義を根本から揺るがした。

 彼女はたった一人で、僕や父王ですら太刀打ちできなかった巨大な権力を打ち倒そうとしている。


「今だ。今しかない」


 教会は慌ててこの学説を揉み消そうとしていた。


 僕は裏で動いた。

 王家の隠し資金を投入して学者たちを支援し、他国の研究機関にも論文を送らせた。


 もはや議論は止められない。

「大地は動いている」──その事実は火のごとく広まった。


 結果、教会の権威は急速に失墜した。

「聖典に嘘が書いてある」「神の言葉は絶対ではなかったのか」という疑念は王家への政治介入を跳ね除けるのに十分な盾となった。


 父王もこの好機を逃さなかった。

 聖女との縁談は教会の影響力低下とともに、自然消滅的に白紙に戻された。

 僕はネミーとの婚約を継続することになった。


 僕の婚約者は自らの聡明さと行動力で、破滅の未来を覆したのだ。

 ……僕にはもったいない女性だとすら、思えてきた。




 数日後。

 僕は教会本部での最終的な縁談白紙の手続きを終え、回廊を歩いていた。

 そこで待ち構えていたかのようにアレシアが声をかけてきた。


「フリン……」


 彼女は美しい聖女の衣を纏っていたが、その表情は暗く沈んでいた。


「久しぶりだね、アレシア」

「縁談、なくなっちゃったね」

「ああ。今の情勢では仕方ない」


 彼女は一歩、僕に近づいた。


「私……幼いころから、あなたのことが好きだった。聖女に選ばれた時、これでやっとあなたと結ばれるんだって神様に感謝したの。……どうしても、私たちは結ばれないのかな?」


 その瞳には涙が溜まっていた。

 昔の僕なら、その涙に心を痛めたかもしれない。

 だが、今の僕には違和感しかなかった。


 ――彼女自身が、僕と結ばれたいと思っていた?


「……まさか、君が」

「え?」


「君は僕と結ばれるために、ネミーを悪役に仕立て上げ、陥れる計画を進めていたのか?」


 アレシアの視線が泳いだ。

 その反応が全てを物語っていた。


「君はそれを望んでいたのか?」


「……だって!」


 彼女は叫んだ。



「そうでもしなければ、私たちが結ばれる未来なんてないじゃない!」



 開き直ったその言葉に複雑な心境となる。

 彼女は、恋のために正義を捨てたのだ。


「……アレシア」


 僕は静かに告げた。


「君の気持ちは分かった。だが、だからと言って一人の無実の女性を悪役に仕立て、その未来を閉ざそうとした君の行いは不正義だ。そして、それを許容する教会の在り方も僕には相容れない」


「フリン……」


 僕は彼女に背を向けた。


「さようなら、アレシア。二度と会うことはないだろう」


 石畳を踏みしめて歩き出す。

 背後からは、アレシアが崩れ落ち、すすり泣く声が聞こえた。

 胸は痛む。


 だが、振り返ることはしなかった。



 ◇



 それから十年後。王が退位し、フリンが新たな国王として即位した。

 若きフリン王が真っ先に行った改革。それは、教会という国教の御旗を下ろすことだった。

 影響力を失った宗教を国教と崇めることに、利益を見いだせなくなったのだろうというのが大方の見方だった。


 だが、その真意を知る者は少なかった。 








【教会の歴史書より抜粋】

 地動説の台頭により権威と財力を失って教会は急速に衰退した。しかし、聖女アレシアの指導の下、組織は大きく変貌を遂げる。財力を失った教会で彼女は清貧を掲げ、孤児院の運営など弱者に寄り添う活動に尽力した。その姿は経典の正当性を超えて人々の心を打ち、教会は権威ではなく「人として正しい行い」によって愛される場所へと再生した。


 国内外で聖女として慕われるアレシアは語る。「かつて私は許されない過ちを犯した。だが過去の過ちがあったからこそ真の信仰と自身の在り方に向き合えた」と。


 権力を手放して愛を育む道を選んだ彼女の姿は、真の聖女として人々の記憶に刻まれている。

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― 新着の感想 ―
めでたしめでたし。 あとは末永く幸せに、倦怠期を乗り越えて欲しいですね。 フリン王の不倫なんてシャレになりませんので
まず、一緒に池に飛び込んだり、教科書をよくもわからず破き始める周りの皆さんのが怖ぇのよw
ぶっ飛び過ぎてて呆気に取られつつもこのノリが嫌いじゃないのが悔しい……! 前倒しでフラグ消化すればクールタイムが発生して世界の強制力が働かないだろうって……その考え、なんの根拠も無さすぎる!!にも関わ…
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