アイナの日記
帰り道は、いつもと同じだった。
石畳の感触、夕方の空気、学園から寮へ続く道。
ヴィルと並んで歩く距離も、歩幅も、会話の間も。
「無理はするなよ」
その声は、心配の色をしていた。
私は小さく頷く。
「うん」
それだけで十分だと、彼は思ったのだろう。
安心したように、ほんの一瞬だけ肩の力を抜いたのが分かった。
「俺が……俺がそばにいるから。何かあったら言えよ」
言葉は優しい。
でも、その優しさの輪郭が、最近少しだけ重い。
私は曖昧に笑った。
肯定でも否定でもない、いつもの癖の笑顔。
その笑顔を、ヴィルは“安心した証”として受け取った。
そう思い込んだのだと、今なら分かる。
寮の扉の前で立ち止まる。
「おやすみ」
「じゃあ、また明日」
扉をくぐる背中に、彼の視線が残っているのを感じながら、私は何も言わずに中へ入った。
⸻
湯殿から上がると、体の奥に溜まっていた疲れが、遅れてどっと押し寄せてきた。
髪を拭き、寝間着に着替え、机の前に座る。
日記帳を開く。
今日のことを書こうとすると、文字が追いつかない。
まずは、エルンスト。
手信号。
たったそれだけなのに、胸がぎゅっと締まった。
視線が合った瞬間、世界が狭くなって、音が遠のいた。
「後ほど」
「はやく」
「来い」
命令じゃない。
でも、確かに“呼ばれた”。
私が返した合図。
了解。目標。
その瞬間、自分で選んだのだと、はっきり分かった。
誰に強制されたわけでもない。
怖くなかったと言えば嘘になるけれど、それ以上に――行きたかった。
ヴィルから、隠れた。
影に身を寄せて、息を殺して。
見付かるのが、怖かった。
それを、日記に書きながら、手が少し震えた。
どうして怖かったのか。
答えは、書かなくても分かっている。
それから、円の中へ。
エルンストの描いた、あの場所。
彼の立つ位置。
守られていると分かる距離。
自分の意思で、足を踏み入れた。
あの香り。
近すぎる距離。
触れる前の、触れられているみたいな緊張。
指の熱。
唇に触れた、あの一瞬。
重なっていないのに、確かに“触れられた”と感じた。
それが、頭より先に身体に刻まれて、今も消えない。
思い出すだけで、胸の奥がじん、と熱くなる。
そして、今日の合同訓練。
初めて、外側から見た戦場。
全体の流れ。
指示のタイミング。
それぞれの癖。
前線にいる時には見えなかったものが、こんなにもあった。
治癒は、前に出るだけじゃない。
支える位置も、守る順番も、全部が選択だ。
それを、初めて実感した。
……本当に、濃い一日だった。
ペンを置いて、深く息を吐く。
「はぁ……」
今は、いっぱいいっぱい。
頭も、心も、感情も。
それでも。
週末の約束を思い出す。
言葉にされていない約束。
でも、確かに存在している時間。
それを胸に抱いたまま、日記帳を閉じる。
ベッドに横になり、目を閉じる。
今日は、これ以上考えたら溢れてしまう。
だから、眠る。
明日も、きっと忙しい。
でも――
それでいい。
そう思いながら、私は静かに、眠りに落ちていった。




