表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで  作者: ChaCha


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

93/208

触れる指先と吐息

円の中に、彼女が入ってきた。


それだけで、胸の奥が満ちるのを、エルンストははっきりと自覚した。

息を詰め、覚悟を決め、逃げずにここへ来た――その事実が、何より雄弁だった。


扉が閉まる音が、やけに遠い。


アイナは一歩も引かず、ただこちらを見上げている。

少し早い呼吸。わずかに揺れる肩。

それなのに、瞳だけは逸らさない。


(……来た)


エルンストは、言葉を発しなかった。

言えば、壊れてしまう気がしたからだ。


一歩、距離を詰める。

彼女の髪から、知っている香りがした。


アイナは、胸の奥で思う。


(……あ、エルンストの香りだ)


安心と、熱と、少しの危険。

全部が混ざったその匂いに、思考がゆるやかに溶けていく。


エルンストの手が、ゆっくりと伸びた。


最初に触れたのは、髪だった。

指先が、そっと一房をすくい、耳にかける。


次に、耳の輪郭。

触れるか触れないかの距離をなぞるように、確かめるように。


アイナは、息を止めた。


額に、指が触れる。

そのまま、頬へ。

熱を測るように、逃がさないように。


そして――唇。


直接ではない。

重ねることもしない。


ただ、彼の指が、彼女の唇の輪郭に触れた。


それだけ。


それだけなのに。


「……っ」


アイナは、抑えきれず、熱を含んだ吐息を零した。

声にならない声が、喉の奥で震える。


指が、ゆっくりと動く。

なぞる。

確かめる。


エルンストの瞳は、熱を孕みながらも、どこか必死に抑えていた。


(……ここまでだ)


最後に、彼はその指を、そっと自分の唇に押し当てた。


一瞬。


ほんの一瞬だけ。


その行為が、何より雄弁だった。


アイナの頭が、真っ白になる。


「~~~~っ……」


声にならない悲鳴が、胸の内で跳ねた。

それでも、視線は外せない。


エルンストの瞳が、真っ直ぐ彼女を映している。

欲と理性がせめぎ合い、ぎりぎりで均衡を保っている、その色。


――その時。


「ガタン」


突然、扉が鳴った。


忘れ物を取りに来たらしい騎士科の生徒が、顔を出す。


一瞬で、空気が切り替わった。


エルンストは、何事もなかったかのように一歩引き、落ち着いた声音で言う。


「治癒をありがとう」


アイナも、反射的に応じた。


「いえ。治って、よかったです」


完璧な距離。

完璧な声音。


だが、胸の奥は、まだ熱い。


生徒は何も疑わず、通り過ぎていった。


静寂が戻る。


エルンストは、ほんの少しだけ声を低くした。


「週末……一緒に出掛けられそうか?」


心臓が、跳ねる。


「……はい」


その返事に、彼の口元がわずかに緩んだ。


通りがかった先生の声が、廊下に響く。


「お前たち、次の授業に遅れるぞー」


二人は、同時に深呼吸した。


そして、なぜか――

ほんとうに、なぜか。


顔を見合わせて、笑ってしまった。


緊張と、熱と、ぎりぎりの理性。

全部が可笑しくなって。


「楽しみにしてる」


「……私も」


それだけを残して、二人は別々の方向へ歩き出す。


まだ、恋人ではない。

でも。


触れた指先の感触と、

残った吐息は、確かに心に焼き付いていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ