触れる指先と吐息
円の中に、彼女が入ってきた。
それだけで、胸の奥が満ちるのを、エルンストははっきりと自覚した。
息を詰め、覚悟を決め、逃げずにここへ来た――その事実が、何より雄弁だった。
扉が閉まる音が、やけに遠い。
アイナは一歩も引かず、ただこちらを見上げている。
少し早い呼吸。わずかに揺れる肩。
それなのに、瞳だけは逸らさない。
(……来た)
エルンストは、言葉を発しなかった。
言えば、壊れてしまう気がしたからだ。
一歩、距離を詰める。
彼女の髪から、知っている香りがした。
アイナは、胸の奥で思う。
(……あ、エルンストの香りだ)
安心と、熱と、少しの危険。
全部が混ざったその匂いに、思考がゆるやかに溶けていく。
エルンストの手が、ゆっくりと伸びた。
最初に触れたのは、髪だった。
指先が、そっと一房をすくい、耳にかける。
次に、耳の輪郭。
触れるか触れないかの距離をなぞるように、確かめるように。
アイナは、息を止めた。
額に、指が触れる。
そのまま、頬へ。
熱を測るように、逃がさないように。
そして――唇。
直接ではない。
重ねることもしない。
ただ、彼の指が、彼女の唇の輪郭に触れた。
それだけ。
それだけなのに。
「……っ」
アイナは、抑えきれず、熱を含んだ吐息を零した。
声にならない声が、喉の奥で震える。
指が、ゆっくりと動く。
なぞる。
確かめる。
エルンストの瞳は、熱を孕みながらも、どこか必死に抑えていた。
(……ここまでだ)
最後に、彼はその指を、そっと自分の唇に押し当てた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
その行為が、何より雄弁だった。
アイナの頭が、真っ白になる。
「~~~~っ……」
声にならない悲鳴が、胸の内で跳ねた。
それでも、視線は外せない。
エルンストの瞳が、真っ直ぐ彼女を映している。
欲と理性がせめぎ合い、ぎりぎりで均衡を保っている、その色。
――その時。
「ガタン」
突然、扉が鳴った。
忘れ物を取りに来たらしい騎士科の生徒が、顔を出す。
一瞬で、空気が切り替わった。
エルンストは、何事もなかったかのように一歩引き、落ち着いた声音で言う。
「治癒をありがとう」
アイナも、反射的に応じた。
「いえ。治って、よかったです」
完璧な距離。
完璧な声音。
だが、胸の奥は、まだ熱い。
生徒は何も疑わず、通り過ぎていった。
静寂が戻る。
エルンストは、ほんの少しだけ声を低くした。
「週末……一緒に出掛けられそうか?」
心臓が、跳ねる。
「……はい」
その返事に、彼の口元がわずかに緩んだ。
通りがかった先生の声が、廊下に響く。
「お前たち、次の授業に遅れるぞー」
二人は、同時に深呼吸した。
そして、なぜか――
ほんとうに、なぜか。
顔を見合わせて、笑ってしまった。
緊張と、熱と、ぎりぎりの理性。
全部が可笑しくなって。
「楽しみにしてる」
「……私も」
それだけを残して、二人は別々の方向へ歩き出す。
まだ、恋人ではない。
でも。
触れた指先の感触と、
残った吐息は、確かに心に焼き付いていた。




