触れない境界線
午後の訓練場は、乾いた音と張り詰めた空気に満ちていた。
剣が打ち合わされる金属音、掛け声、踏みしめられる地面の振動。
夏季休暇明けとは思えないほど、学園はすでに“現場”の顔をしている。
治癒魔術科は外縁に陣取り、いつでも前へ出られるよう準備を整えていた。
私はいつもの位置から、訓練の流れを追っている。
そして――自然と、視線の先にいるのは。
エルンストだった。
無駄のない動き。
周囲を把握した立ち位置。
前に出すぎず、引きすぎず、常に「守る側」の線を外さない。
(……やっぱり、すごい)
学園で過ごしてきた時間の中で、何度も見てきた姿。
それなのに、今日の彼は少し違って見えた。
教官が一歩引き、声を張る。
「次。エルンスト・トゥルペ、前へ」
空気が、変わる。
ざわりとした気配が一瞬で静まり返る。
彼は前に出て、正式な姿勢で立った。
背筋が伸び、視線は揺れない。
「本日より、騎士科二年の実戦指導補佐を任命する」
短い言葉。
けれど、意味は重かった。
立場。
責任。
“選ばれる側”ではなく、“背負う側”。
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……遠く、なるのかな)
そんな感情が、ふと浮かんでしまった。
その瞬間だった。
エルンストが、こちらを見た。
ほんの一瞬。
でも、確かに、私を探して、見つけて、確認した。
私は反射的に、ほんの小さく頷く。
大丈夫。
ちゃんと、見てる。
それだけで、彼の表情がほんのわずか緩んだ。
――その変化に、胸が熱くなる。
誇らしい。
でも同時に、誰にも見せたくない気持ちが、静かに芽を出す。
訓練が再開されると、周囲から小さな声が漏れ始めた。
「やっぱりね」
「評価されると思ってた」
「指導補佐って、すごくない?」
噂は、すぐに広がる。
学園という場所は、そういうところだ。
隣で、ヴィルが舌打ちした。
「……正式に、目立つ立場になりやがって」
「ヴィル?」
「いや。なんでもない」
そう言いながら、彼の視線はエルンストの背中を鋭く追っている。
その空気に、私は気づかないふりをした。
――気づいているけれど、触れない。
それが、今の私の選択だった。
訓練の合間。
休憩の時間。
気づけば、エルンストは私の視界にいる。
近すぎず、遠すぎず。
誰かが近づこうとすると、彼は自然に一歩前に出る。
何も言わない。
ただ、そこに立つ。
結果として、誰も踏み込めなくなる。
(……これ)
安心している自分に、はっとする。
守られている、というより。
選ばれている、ような錯覚。
でも、それは錯覚だ。
彼は騎士で、私は治癒魔術科の学生。
立場も、役割も、まだ交わらない。
――まだ。
食堂でも、同じだった。
席を探していると、エルンストが短く言う。
「こっち」
それだけ。
それだけなのに、私は迷わずその隣へ向かっていた。
水を置かれ、自然に席が整う。
当たり前のように。
周囲の視線が、一瞬止まった気がした。
(……あ)
そのことに、少し遅れて気づく。
胸の奥で、何かが固まる感覚。
誰にも、触れさせたくない。
誰にも、奪われたくない。
その感情が、はっきりと輪郭を持ち始めていた。
それは恋、という言葉では足りない。
もっと深くて、静かで、逃げ場のないもの。
でも――
私は、まだ言葉にしない。
彼が何を思っているかも、
どこまで踏み込もうとしているのかも、
確信は、しない。
ただ一つ、確かなのは。
エルンストを見ると、心が揺れる。
彼が誰かに触れられる可能性を思うと、胸がざわつく。
そして。
(……奪われたくない)
その気持ちが、もう揺るがないこと。
恋人じゃない。
けれど、誰にも譲る気はない。
触れない境界線の上で、
私たちは確実に、同じ火を抱えていた。
――それだけで、十分だった。




