訓練という名の本番
森の空気が、明らかにおかしい。
湿った土と血の匂いが混じり合い、肺の奥に張りつくように残る。
ここが“訓練”だと言われなければ、誰もそうは思わないだろう。
これは――
本番だ。
「前線、左寄り! 距離を詰めすぎるな!」
「治癒魔術師、位置を下げろ! 盾役、前へ!」
怒号が飛び、魔物の咆哮が重なり、地面が震える。
アイナは歯を食いしばり、両手を前に突き出していた。
「……治癒、展開……!」
光が広がる。
だが、それは一瞬でかき消される。
「後方! 抜けたぞ!」
「クソ、数が多い!」
学園での合同訓練とは、まるで違う。
魔術師、弓兵、騎士、治癒魔術師――
それぞれが役割を持ち、同時に動き、同時に判断を誤れば、誰かが死ぬ。
アイナの足元を、黒い影が走った。
「っ……!」
反射的に後ろへ跳ぶ。
その瞬間、横合いから剣が閃き、魔物の首が地面を転がった。
「下がれ!」
エルンストの声だった。
彼は前線に立ちながらも、決して無茶をしない。
周囲を見渡し、治癒の位置を把握し、危険があれば即座に潰す。
――完璧な立ち回り。
だが。
その少し後ろで、ヴィルは静かに状況を見ていた。
(……なるほどな)
視線を巡らせ、隊の流れを読む。
魔物の動線。
治癒魔術師の位置。
エルンストの癖。
(こいつ……治癒がある限り、死なねぇ)
苛立ちが、じわじわと胸に溜まっていく。
エルンストは前に出すぎない。
だが、必ず治癒が届く位置にいる。
傷を負っても、即座に回復が飛ぶ。
(ちっ……)
ヴィルは、わざと一拍、判断を遅らせた。
「右、処理した――」
その声が終わる前に、魔物が一体、別方向へ抜ける。
「しまっ……!」
その魔物は、一直線に――
治癒魔術師団の背後へ向かっていた。
「治癒班! 後ろ――!」
叫びながらも、ヴィルの足は一瞬、止まる。
(……いい位置だ)
だが次の瞬間。
ドンッ、と地を蹴る音。
エルンストが、迷いなく飛び出していた。
「遅い!」
剣が閃き、魔物は叩き伏せられる。
その背中に、即座に治癒の光が重なった。
「……チッ」
ヴィルの奥歯が、きしりと鳴る。
(やっぱり……治癒がある場所じゃ、消えねぇ)
その時。
エルンストが、ふとこちらを見た。
一瞬。
ほんの一瞬だが、確かに視線が交差する。
――冷たい、鋭い瞳。
(……気づいたか?)
ヴィルは、にやりともせず、何も言わない。
ただ、剣を構え直す。
エルンストの胸に、違和感が走った。
(……今のは、偶然か?)
魔物の抜け方。
援護の遅れ。
そして、ヴィルの位置。
致命的ではない。
だが、不自然だ。
(……妙だな)
そう思った瞬間、別方向から魔物が襲いかかる。
「来るぞ!」
考える暇はない。
エルンストは再び前へ出る。
その背を見つめながら、ヴィルは思っていた。
(治癒が届かない場所……)
森の奥。
視界の悪い窪地。
治癒魔術師が入れない距離。
(そこでなら――)
剣を振るう。
魔物を屠る。
その合間に、計算を重ねる。
(……いや)
ふと、別の考えが浮かぶ。
(消すより、早い方法がある)
視線の先。
必死に治癒を展開する、アイナ。
汗に濡れた額。
真剣な瞳。
自分を信じて、背を預けてくる存在。
(……既成事実、か)
喉が、ひくりと鳴る。
誰にも見られず。
逃げ場のない状況で。
守るという名目で、距離を詰める。
(そうすりゃ……)
その時、エルンストが再び振り返った。
二人の視線が、再度、交わる。
今度は、はっきりと。
――敵意と警戒。
エルンストは悟った。
(……こいつ、俺を見ている)
だが、それ以上を考える余裕はない。
戦場は続く。
訓練という名の、本番。
そして――
この戦場で、
それぞれの想いが、確実に歪み始めていた。




