モブ令嬢は辞めた
庭園から私室へ向かう回廊は、夜の静けさに包まれていた。
昼間の喧騒が嘘のように、足音だけが石畳に柔らかく響く。
エルンストと並んで歩く、その距離が――近い。
ほんの少し肩が触れれば、すぐに指先が絡めてしまえるほどの間合い。
それなのに、不思議と不安はなかった。
むしろ、当たり前のように、そこにある。
幼馴染のヴィルと歩く時と、似ている。
けれど、決定的に違う。
――心が、踏み込まれている。
彼の存在が、隣にあるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
さっきまでの庭園の光景が、何度も脳裏に蘇る。
魔法灯に照らされた木々。
星を映した水面。
そして、その中で、こちらを見つめていた彼の瞳。
思い出すたびに、心がふわりと浮く。
ふわふわ。
ふわふわ。
エルンストを見上げると、彼は目を細めて、穏やかに笑っていた。
あの、戦場で見せることのない、柔らかな表情。
その笑顔を向けられている事実が、ただ嬉しい。
「明日から、よろしく頼む」
低く、落ち着いた声。
けれど、そこに含まれた温度を、私は確かに感じ取った。
「おやすみなさい、エルンスト」
名前を呼ぶだけで、胸が高鳴る。
もう、前みたいに平然とは言えない。
「おやすみ。アイナ」
その返事が、あまりにも自然で。
まるで、ずっとこうして呼び合ってきたみたいで。
ふわふわ。
ふわふわ。
ふわふわ。
別れ際、振り返ることはできなかった。
きっと、顔が熱かったから。
自室に戻ると、メイドたちが手際よく動き始める。
飾りを外し、ドレスを脱がせ、丁寧に畳んでいく。
湯殿では、化粧を落とされ、髪を整えられ、
その間もずっと、心は現実から少し浮いたままだった。
――どうしてだろう。
こんな気持ち、今まで知らなかった。
ベッド脇の机に座り、日記帳を開く。
習慣のはずの動作が、どこかぎこちない。
ハッとして、気づく。
(……いつの間に、ここに?)
震える指で、ペンを握る。
胸の奥に溜まった感情が、言葉を求めている。
今日の出来事。
庭園。
視線。
触れた手。
口付けの余韻。
逃げ場を探すように書き始めたはずなのに、
最後の行で、手が止まった。
……違う。
もう、誤魔化せない。
私は、はっきりと文字を刻んだ。
――エルンストが、好き。
これは恋だ。
胸が苦しくて、温かくて、独占したくなる、この感情。
誰にも、奪われたくない。
ヒロインにも。
物語にも。
私はもう、背景にいるモブじゃ嫌だ。
震える手で、最後の一文を書き足す。
――モブをやめる。
ペンを置いた瞬間、心がすとんと落ち着いた。
ふわふわしていた気持ちが、覚悟へと変わる。
私は、選ぶ側になる。
エルンストを、欲しいと願う側に。
静かな部屋で、ランプの灯だけが揺れていた。
その光は、これから進む道を、確かに照らしていた。




