俺の縄張り
ネルケ辺境伯領。
ここは、俺とアイナが育った場所だ。
朝霧がまだ低く漂う街道を、馬車がゆっくりと進んでいく。
見慣れた石畳。
風に混じる土と草の匂い。
遠くで聞こえる、訓練場の剣がぶつかる乾いた音。
――帰ってきた。
学園とは違う。
ここでは、アイナは「治癒魔術科の生徒」じゃない。
誰かに見つめられる存在でも、評価される存在でもない。
ただの、俺の幼馴染だ。
エルンストはいない。
あの視線も、あの声も、ここには届かない。
アイナは馬車の窓から身を乗り出し、懐かしそうに景色を見ている。
子供の頃と同じ仕草。
変わらない笑顔。
……変わったのは、俺の方だ。
学園で、あいつがどんな顔で誰を見ているのか。
誰の声に反応するのか。
俺は、もう知ってしまった。
胸の奥が、じわじわと熱を帯びる。
(ここでは……違う)
ここでは、俺が隣にいる。
俺が守る。
俺が手を伸ばせる距離に、アイナはいる。
誰にも邪魔されない。
誰にも奪わせない。
幼い頃、剣を握れなかった俺に、親父は言った。
「この領地は、お前の縄張りだ」
守れ、と。
――今なら、わかる。
守るというのは、
遠くから見ていることじゃない。
譲ることでもない。
腕の中に収めることだ。
アイナが、ふとこちらを向いて笑った。
「ねえ、ヴィル。やっぱりここ、落ち着くね」
ああ、と頷きながら、俺は視線を逸らす。
この顔を、長く見ていたら……抑えが利かなくなる。
(この夏で……)
心の中で、言葉が形になる。
まだ声にはしない。
けれど、確かに芽生えている。
この夏で、
アイナを――。
馬車は、ゆっくりとネルケ辺境伯領へ入っていった。
ヴィル視点




