緊急事態
天気は快晴だった。
空は高く、雲は少なく、朝の時点では「今日は無事に終わる」と、誰もが思っていた。
──思っていた、はずだった。
私たちは、今、走っている。
全力で。
息が切れ、肺が悲鳴を上げ、腕と足の重りが骨に食い込む感覚を無視して。
「はぁ……っ、はぁ……!」
背後から伝わってくる地鳴り。
重い、重い、命そのものの振動。
「きゃあ!!」
悲鳴が上がった。
振り返ると、他班の女子生徒が足を取られ、地面に膝をついていた。
泥と落ち葉にまみれ、身体が強ばっている。
考えるより先に、身体が動いた。
「大丈夫!?」
手を伸ばす。
掴む。
引き上げる。
次の瞬間、騎士科の男子がその子を背負い、再び走り出した。
「行け!」
叫ぶ声。
先生方は後方で魔力を放ち、迫るジャイアントベアの群れを分断するように誘導している。
「退路を維持しろ!」
「隊列を崩すな!」
必死な指示が飛び交う。
その時だった。
後方への意識に引っ張られた一瞬。
横──死角。
地面を割るように現れた影。
「──ッ!」
咄嗟に叫ぶ暇もなかった。
A班とB班、その進行ラインに、別個体のジャイアントベアが飛び出してきた。
混乱。
衝突。
その中心に──
「エルンスト!」
ガキン、と重い金属音。
剣が、爪を受け止める。
衝撃を受け流した、その次の瞬間。
世界が、ゆっくりになった。
エルンストの身体が揺れる。
右脇腹。
布が裂け、赤が舞った。
「……っ」
声にならない息。
「エルンスト!!」
叫びながら、私は駆け寄っていた。
指示が飛ぶ。
緊急事態の合図。
各所で治癒陣が展開され、吹き飛ばされた仲間に回復が施されていく。
でも。
私の視界には、彼しか映っていなかった。
「エルンスト……エルンスト!!」
膝をつき、震える手で魔力を流し込む。
治れ。
治れ。
お願いだから。
「治れ!! 気合いだぁーーーー!!!!!」
今まで、限界を越えないように、どこかで抑えていた魔力。
そのすべてを、考えなしに注ぎ込んだ。
世界が白くなる。
「……ぐっ……はぁ……」
エルンストの呼吸が、戻る。
「……ふぅ……」
瞳が、開いた。
私と、目が合う。
一瞬、惚けたような表情。
「……アイナ……」
伸びてきた手が、私の頬に触れた。
その感触で、張り詰めていたものが切れた。
「……っ」
安堵の涙が、ぽとりと彼の頬に落ちる。
「噂には聞いてはいたが……」
苦笑するように、かすれた声。
「……これは……ヤバいな……」
背後で、重い音。
ジャイアントベアが倒れる音だった。
各班の連携、先生方の全力の対応。
怒号と魔力が交錯し、ようやく、場が制圧される。
──死者は、出なかった。
私は、その場にへたり込んだまま、立ち上がれなかった。
腕も、足も、感覚がない。
(……これ、訓練……?)
もう、それどころじゃない。
胸の奥で、ようやく、別のことに気づいた。
(……あ)
忘れていた。
本当に、すっかり。
いちばん大切な、治癒魔術科の心得を。
そう。
──ビンタを。
その事実に気づいた瞬間、
遅れて、頬が熱くなった。
緊急事態は、まだ終わっていなかった。




