妻が可愛すぎて抑えが効かない
ネルケ辺境伯寮にて、婿の夏。
夏の朝は、静かだ。
ネルケ辺境伯寮の庭に降りる光はやわらかく、風はまだ冷たさを残している。
鍛錬の時間だが、今日は少しだけ遅らせた。
理由は簡単だ。
――妻が、まだ眠っている。
扉の向こう。
規則正しい寝息。
それだけで胸の奥が緩む。
……おかしいな。
戦場では、眠る味方を起こすことに躊躇はない。
だが今は違う。
起こしたくない。
もう少し、ここにある平和を眺めていたい。
婿として過ごす夏季休暇。
客人ではない。家族だ。
この言葉の重みを、俺は毎朝、噛み締めている。
扉を開けると、淡い光が白いシーツを照らしていた。
彼女は横向きに眠り、髪が頬にかかっている。
整った呼吸。
肩の起伏。
寝起きに甘くなる香り。
……反則だ。
近づく。
指先で、そっと髪を耳にかける。
起きない。
それが嬉しいようで、少し寂しい。
「……朝だ」
小さく声を落とす。
返事はない。
代わりに、シーツを握る指が動いた。
……かわいい。
抑えろ。
ここは義父の城だ。
朝から婿が理性を失ってどうする。
そう思いながら、結局、頬に口付ける。
軽く。
触れるだけ。
――だが、彼女のまつ毛が揺れた。
「……エルン?」
その一音で、俺の世界は決壊する。
「起きたな」
平静を装う声。
内側は、もうだめだ。
彼女がゆっくり身体を起こす。
夏の薄布が動くたび、視線の行き場に困る。
鍛えられたしなやかな線。
無駄のない体幹。
治癒魔術科で生き残ってきた証が、隠しようもなくそこにある。
――美しい。
「今日は、訓練……?」
「軽めだ。無理はさせない」
“無理はさせない”
この言葉を口にするたび、胸のどこかが疼く。
俺は彼女を縛りたいわけじゃない。
だが、守ると言った。守るためなら、日常のすべてに手を伸ばしてしまう。
朝食の席。
ネルケ辺境伯夫妻の視線が、やけに温かい。
いや、温かすぎる。
「よく眠れたか」
「はい」
彼女は丁寧に答える。
その横顔を見て、義父が満足そうに頷く。
「よし。今日は城の訓練場を使え。婿殿、やりすぎるなよ」
……やりすぎる前提なのか。
「心得ています」
即答したが、内心では違う。
抑えが効かない。
最近、それが常識になってきている。
訓練場。
彼女が構える。姿勢は綺麗だ。
重心が低く、無駄がない。
俺が前に立つ。
「来い」
彼女は迷わない。
踏み込み、間合いを詰める。
受け止める。流す。崩す。
――それでも彼女は立つ。
「……強くなったな」
「だって、あなたがいるから」
その返答が、致命的だ。
一瞬の隙。
抱き留める形になる。
「……エルン?」
近い。
近すぎる。
呼吸が触れる。
汗の匂いに、彼女の甘さが混じる。
――だめだ。
「ここは訓練場だ」
言い聞かせるように自分へ。
しかし腕は緩まない。
「昼だ。戻ろう」
結局、逃げるのは俺だった。
昼。
廊下ですれ違う使用人たちが、自然に道を空ける。
“夫婦”という認識が、もう当たり前になっている。
彼女が小さく囁く。
「……察しが良すぎて…恥ずかしい…」
「君は俺の妻。当然だ」
言い切る。
躊躇はない。
午後は書庫。
彼女が机に向かい、書類を読む。真剣な横顔。
俺はその隣で、何度も視線を盗む。
(集中しろ)
集中しようとすると、彼女がペンを置く。
「……見てる?」
「見ている」
正直に答える。
「理由は?」
「可愛いからだ」
当たり前のことを、当たり前に言う。
彼女は赤くなる。
それを見て、さらに抑えが効かなくなる。
夕暮れ。
庭に風が通る。二人で並んで歩く。
「ここ、好き」
彼女が言う。
その“好き”が、胸に落ちる。
「俺もだ」
“ここ”ではない。
“君”だ。
夜。
部屋に戻る。灯りを落とす。
「今日は、どうする?」
彼女が小さく尋ねる。
「どうもしない」
一拍。
「……わけがないだろう」
彼女が笑う。
その笑顔を、俺は何度も守ると決めた。
抱き寄せる。
額に、頬に、唇に。
呼吸を重ねる。
「もう逃がさない」
日常語になった言葉。
脅しではない。宣言だ。
彼女が腕を回す。
「……はい」
それだけで、世界は満ちる。
婿として過ごす夏。
城の石は冷たく、風は涼しい。
だが、俺の腕の中は、いつも温かい。
可愛すぎて、抑えが効かない。
俺は毎日、妻に溺れている。
それが、俺の日常だ。
エルンスト視点




