なんということでしょう
トゥルペ侯爵邸の食堂は、夕陽の名残を金色の縁取りみたいに抱えていた。
窓辺の花瓶には季節の花。
白いクロスは皺ひとつなく、銀のカトラリーが静かに光っている。
目の前の料理は、豪華だった。
スープは澄んでいるのに香りが深く、
魚はふわりと箸……
じゃない、フォークが沈むたび湯気が甘い。
なのに、私は。
「……なんということでしょう……」
椅子に座っているだけなのに、全身が重い。
まぶたが落ちてくる。
眠い。とても眠い。
食欲はあるのに、胃が先に
「今日は無理」と言っている。
隣――
当然のように隣にいるエルンが、
私の様子を見て目を細めた。
「無理するな。食べられる分だけでいい」
「……うん。でも、これ、すごく美味しい……」
悔しい。
美味しいのに、勝てない。
眠気とだるさという、最も面倒な敵に。
私がスプーンを持ったまま固まっていると、エルンは自然に私の手元へ寄ってきて、皿の位置を少し近づけてくれた。
やさしい。やさしいが、最近この人は、やさしさを盾にして私を逃がさない。
そして私は――気づいてしまったのだ。
逃げる以前に、もう逃げ道がない。
だって。
私は、正式な妻になっていた。
「……エルン」
声に出すと、彼の瞳が嬉しそうに熱を帯びる。
名前を呼ぶだけで反応する男。
それが私の夫(仮)ではなく、夫(確)になったのだと思うと、なんだか現実感が追いつかない。
「ん?」
「私さ……いつの間に、妻になったの……?」
問いは、穏やかだった。
だって怒る体力がない。
眠いし、だるいし、椅子から落ちそうだし。
エルンは、少しだけ口角を上げた。
あの、悪い顔だ。
青い髪の奥で、淡い青の瞳が楽しそうに光る。
「“いつの間にか”じゃない。君が署名した」
「え?」
「君が、俺を見て『はい』って言った日。あのあと」
あのあと、という言い方がずるい。
花が揺れて、風が甘くて、世界がやけに静かで――
そして、私の思考が溶けていった、あの日の“あのあと”。
「……いや、署名は……してない、はず……」
「した」
即答。
揺るがない。
「学園を休むための書類に、紛れさせた」
「混ぜたの!?!?」
声が裏返った。
私の横で、エルンの肩が揺れる。
「君、あの夜は……いや、やめておこう。君が倒れる」
「やめてください!私の想像力が死にます!!」
「大丈夫。もう死なせない」
さらっと言うのが怖い。
いや、甘い。
甘いけど怖い。
「俺は最初から、そのつもりだった。曖昧にしたくなかった」
そう言う彼の指が、私の耳たぶ――
淡い青色のピアスに触れた。
野外訓練で無くすのが怖くて宝箱にしまっていたあれとは別の、今の私が普段つけている方。
指先が触れるだけで、
体温がそこに宿るみたいで、変な鼓動が増える。
「……そういえば」
私は思い出す。
ピアスをくれたあの日。
エルンが遅れてきたこと。
「ねえ。あの日遅れてきたの、ほんとに“何してたの”?」
エルンは一瞬だけ視線を逸らした。
ほんの少し。呼吸の間。
それから、いつもの顔で言う。
「報告と準備」
「準備?」
「トゥルペ侯爵家に状況報告。書類の確認。手続きの段取り。ネルケ辺境伯領への礼状。俺が君の家に入るための整理」
言葉が、するすると出る。
仕事ができる男のそれだ。
しかも内容が、ぜんぶ私の人生を囲い込むためのやつ。
「……やってること、こわ……」
「安心しろ。全部、正面からだ」
「婚姻届を混ぜたのに!?」
「正面から、君のサインをもらった。混ぜただけだ」
詭弁がうまい。
悔しい。
でも――胸が、ぎゅっとなる。
この人は、逃げないのだ。
待つだけで足りないと骨身に染みて理解して、
今度は“やるべきこと”をやってきた。
私が、弱って動けない時ですら。
いや、弱って動けない時こそ。
「君が迷う時間を、俺は奪いたくない。
だけど、君がすり減っていくのは見たくない」
淡い青の瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「だから、決めた。
俺が先に整える。
君が安心して、俺に戻れるように」
……ずるい。
そんなの、好きになるしかないじゃないか。
私はスプーンを置いて、息を吐いた。
「……ねえ、エルン。私、ほんとに妻?」
「本当に」
「戸籍……じゃない、家の記録的に?」
「正式に受理された」
「え、いつ?」
「君が“学園を休む書類”に、眠そうな顔で署名した翌日」
私は天井を見上げた。
完璧にやられた。
「……なんということでしょう……」
エルンが満足そうに頷く。
「君の口癖、可愛い」
「可愛くない!重大事件!」
「重大だ。だから急いだ」
急いだ理由が重い。
そして、その“重大事件”の余波は、ちゃんと周囲にも届いていたらしい。
ディナーの後、エルンが私に渡したのは一通の手紙だった。
封筒の紙がしっかりしている。
筆圧が強い。
文字が、父のそれ。
ネルケ辺境伯――お父さまから。
私は封を切って、読み始める。
『アイナ。
夏季休暇に婿と帰ってくるのを楽しみにしている。
追伸:身体は鍛えすぎるな。ほどほどに筋肉を愛せ。
追伸2:トゥルペ家の食堂で倒れたら、侯爵家の床が抜ける可能性がある。気をつけろ。
追伸3:メリア(母)が、祝杯の準備をしている。逃げるな。』
「逃げるな、って書いてある……」
「君の父君、俺のことを理解している」
理解されすぎているのも問題だと思う。
さらに問題なのは――
すでに両家の顔合わせが、ものすごい勢いで済んでしまっていることだ。
私は記憶を掘り起こす。
侯爵邸の広い応接間。
にっこにこのエルンストの両親。
そして王宮騎士団勤務の兄――ハインツ様。
初対面の瞬間、私の顔を見て。
「……弟、よくやった」
握手がやたら強かった。
賞賛の圧がすごかった。
何を褒めたのか、私は聞かないことにした。
聞いたら死ぬ。
その横で弟のヨハンくんが、私のことをじっと見て、
目をきらきらさせて言ったのだ。
「ぼくも、ちゆまほうつかいになる!」
「えっ」
「だって、おねえさま、つよそう!あと、やさしそう!」
可愛い。尊い。
だが待ってほしい。
治癒魔術科は優しさだけで入るとバケツと親友になる。
「……やめといた方がいいかも」
私が言う前に、エルンがヨハンくんの頭を撫でた。
「やるなら、覚悟して来い」
教育がスパルタ。
結局、その場で私は笑うしかなかった。
笑うしかない速度で、家族になってしまったから。
そして更に、エルンはいつの間にか――
ネルケ辺境伯領の“次期当主”みたいな立場になっていた。
言い方がおかしい。
でも現実が、もっとおかしい。
婿に入る準備を整え、書類を整え、両家を繋ぎ、私を抱き寄せ、逃げ道を消し――
それを全部、涼しい顔でやる男。
私はソファに沈み込み、額を押さえた。
「……エルン、怖い……」
「怖がらせたいわけじゃない」
すぐ隣に座られ、肩に体温が落ちる。
彼の香りが近い。
落ち着く、のに、心臓がうるさい。
「ただ、君を失う可能性を、俺は許せない」
低い声。
静かな断定。
「君が俺の名前を呼べば、俺は戻れる。
――あの感覚を、もう手放したくない」
私は、口を開く前に深呼吸した。
怖いのに、嬉しい。
困るのに、甘い。
逃げたいのに、もう逃げたくない。
「……エルン」
「ん」
「私、ちゃんと……妻、やれるかな」
エルンの目が柔らかくなる。
それから、当たり前みたいに言った。
「やるんじゃない。君は、もう俺の妻だ」
「言い切った……」
「言い切る。君が不安になる余地を減らす」
そう言って、彼は私の額に軽く口づけた。
呼吸みたいに自然に。
キスが日常語になっている男は、ほんとうに厄介だ。
私は、観念して笑った。
「……じゃあ、夏季休暇、帰ろうね」
「当然」
「お父さま、祝杯って……逃げるなって……」
「逃げるな」
「エルンまで!?」
エルンが笑う。
ああ、これだ。
私が好きな、私のエルン。
そして私は、もう一度手紙を見た。
“婿と帰ってくるのを楽しみにしている”。
……ほんとに、妻になってしまったんだ。
胸の奥が、ふわっと熱くなる。
怖いのに、幸せ。
息ができる。
「……なんということでしょう」
私の呟きに、エルンが嬉しそうに囁いた。
「その言葉、これからも俺に聞かせて」
逃げ道はない。
でも、ここは不思議と苦しくない。
だって、捕まえた手が――やさしいから。




