恋人の部屋
馬車が目的地へ近づくにつれて、窓の外の音が遠のいていった。
蹄のリズム、街のざわめき、夕暮れの気配
――すべてが、厚い扉の向こうに置き去りにされる。
エルンストは、アイナを腕の中に引き寄せたまま離さなかった。
抱き締める強さは決して乱暴ではない。
何度も、確かめるように口付けを重ね。
吐息が絡み、与えられる甘さに酔わされていた。
アイナの首元に顔を埋め息を吸い、彼女の香りを胸いっぱいに取り込んでいるのが伝わってくる。
「……ここにいる」
囁きは、独り言のようで、
それでもはっきりと熱を帯びていた。
アイナは、されるがままに身を預ける。
緊張で強張っていたはずの肩が、いつの間にか解けていた。
彼の胸に触れる頬、伝わる体温、心臓の音。
重ねられる口付けと絡む熱を帯びた吐息。
それらが、すべて「現実」だと教えてくる。
馬車が止まる。
外から、控えめなノック。
扉が開かれ、冷たい空気が一瞬だけ流れ込んだ。
けれどすぐに、エルンストの手がそれを遮るように、アイナの指を取る。
降り立った先にあったのは、堂々とした門。
刻まれた家紋は、見慣れないはずなのに、なぜか彼そのものに見えた。
――トゥルぺ侯爵邸。
「……すご……」
思わず零れた声は、完全に観光客だった。
自分の家も決して質素ではないはずなのに、ここは別格だ。光の使い方、空間の余裕、漂う静けさ
――すべてが「選ばれた家」の空気をまとっている。
エルンストは微笑んだだけで、説明はしなかった。
代わりに、使用人たちへ最小限の合図を送る。
言葉すら必要ない。
察した者たちは、音もなく散っていった。
長い廊下。
柔らかな絨毯。
連れられた部屋へ入る。
そして、扉の前で立ち止まり、鍵の音。
――カチリ。
その小さな音が、やけに大きく響いた。
「……今、鍵……」
言いかけた唇を、エルンストの指がそっと止める。
「俺の部屋だ」
低く、逃げ場を塞ぐような声。
けれど、そこに恐怖はない。
あるのは、揺るぎない意志だけ。
部屋に入ると、外界の気配が完全に断たれた。
厚いカーテン、落ち着いた色合い、磨き上げられた調度。
すべてが整いすぎていて、逆に息が詰まりそうになる。
「……おあずけした君を、今もらいたい」
その言葉に、記憶が一気に引き戻される。
夏季休暇。
触れそうで触れなかった距離。
抑え込まれていた視線と、指先。
理解するより先に、抱き締められた。
ぎゅっと。
逃がさない強さで。
額が触れ、吐息が混じる。
エルンストの瞳は、冗談も迷いもない、まっすぐな色をしていた。
「……護身術、発動……?」
冗談めかして言ったはずの声は、かすれていた。
「ふっ……今日は、ナシだ」
短く、楽しそうな笑み。
その直後、再び距離が詰まる。
唇が触れ、呼吸が重なる。
彼の体温が、じわりと伝わってきて、思考が遅れていく。
身に纏っていた布が脱がされていく
そっとベッドへ身体を委ねた
彼が自身の服を脱ぎ
ベルトを緩めている姿を火照った思考回路でみていた。
何がどうなっているのか、整理する前に、
アイナの意識は、彼の腕の中で、ふわりと白く滲んだ。
最後に感じたのは、
耳元で囁かれた、確かな声。
「……大丈夫だ。全部、俺が受け止める」
そして世界は、静かに、扉の向こうへ溶けていった。




