あれは俺じゃない
アイナは、もう耐えきれなかった。
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
息を吸っても、うまく肺に入らない。
ふたりきりで。
ふたりきりでって――
あれだけ勇気を出して誘ったのに。
さっきまで。
本当に、さっきまで。
そこにいたのは、エルンストだった。
指に熱を宿して、
目を細めて、
私の名前を呼ぶ、あの人。
なのに。
ガボゼで見た光景は、
まるで別人だった。
ヒロインが絡んだ瞬間、
彼は一瞬で“切り替わった”。
違う。
あれは、エルンストじゃない。
エルンストの身体を使って、
別の何かが動いている。
世界が、彼を押し流していく。
それが、はっきりと分かってしまったから。
――怖い。
もう、見ていられなかった。
私は、走った。
振り返らなかった。
振り返れなかった。
どうせ。
どうせ、モブはヒロインには勝てない。
世界は、ヒロインのために用意されている。
イベントは、彼女のもとに流れ込む。
私は、そこに立ってはいけない存在だ。
背後から、必死な足音が迫る。
「アイナ!!」
声が、割れる。
エルンストが、追いかけてきた。
必死で。
息も整わないまま。
「違うんだ!!」
その声に、足が止まる。
「違うんだ! あれは……あれは……!」
言葉が、続かない。
彼は、そこで崩れ落ちた。
がくり、と。
地面に膝をつき、
片手で胸元を掴む。
呼吸が荒い。
肩が震えている。
まるで、
自分の身体を内側から引き裂かれているみたいに。
「俺の……名を……」
掠れた声。
「はや……く……」
その瞬間。
アイナは、すべてを理解した。
彼は、抗っている。
世界の“強制力”に。
エルンストは、
自分が自分でなくなるのを、
必死で食い止めようとしている。
「エルンスト!」
駆け寄り、膝をつく。
「エルンスト! エルンスト!」
彼の肩を、両手で掴む。
焦りと恐怖で、指先が震える。
エルンストの視線が、揺れる。
焦点が合わない。
「……エルン」
その一言で。
ぱぁっと、
彼の瞳に熱が戻った。
深い青が、息を吹き返す。
呼吸が、少しずつ整う。
アイナを、確かに“見る”。
「……ああ……」
喉から、安堵の息が零れた。
「アイナ……」
震える手が、彼女の手首を掴む。
離すまいとするように。
「違うんだ……」
声が、かすれる。
「あれは……俺じゃない……」
苦しそうに、眉を歪める。
「俺は……あんなふうに……」
言葉が、途切れる。
自分でも、理解しきれていない。
説明できない。
でも、確信だけがある。
「……俺は、君を……」
そこで、彼は言葉を呑み込んだ。
怖かったのだ。
この先を口にしたら、
また“何か”に奪われる気がして。
アイナは、そっと彼の手を包んだ。
「大丈夫」
静かに、でも確かに。
「今は、エルンだよ」
彼の肩が、びくりと揺れる。
「……ああ……」
顔を伏せ、
深く、深く息を吐く。
戻ってきた。
完全じゃない。
不安は、まだそこにある。
けれど――
今、確かに。
ここにいるのは、
私のエルンストだった。
世界がどう動こうと。
イベントがどう組まれていようと。
名前を呼べば、戻ってくる。
その事実だけが、
今の二人を繋ぎ止めていた。




