身体も、心も、限界だ
次の日、私は盛大に寝坊した。
目を開けた瞬間、視界の端に映った時計の針を見て、
脳が一拍遅れて理解する。
――あ、これ、終わったやつだ。
「……っ!!」
飛び起きた反動で、布団が派手に床へ落ちた。
時間がない。
とにかく時間がない。
遅刻したらどうなるかは、もう十分すぎるほど学んでいる。
走り込みが増える。
スクワットが増える。
気合いが増える。
今の私に、それは致命傷だ。
「無理無理無理! 今日だけは無理だから!」
半ば叫びながら制服を引っ掴み、
上から下へ、下から上へ、とにかく着る。
鏡を見る余裕なんてない。
髪の毛? 知らない。
寝癖? 知らない。
今は命の方が大事だ。
「行ってきます!」
誰もいない部屋に向かってそう言い残し、寮を飛び出した。
朝の空気はひんやりとしていて、肺に入るたびに意識がはっきりする。石畳を蹴り、回廊へ向かって全力で走る。
ブートキャンプの日々は伊達じゃない。
正直、毎日死ぬかと思っていたけれど、こういう時だけは感謝したくなる。
「はぁ……はぁ……!」
きつい階段も、脚が悲鳴を上げながらも何とか登り切る。
視界の先に見える回廊の曲がり角。
――ここを曲がれば、教室。
間に合う。
たぶん、間に合う。
そう思った、その瞬間だった。
ドンッ!
「きゃっ!」
勢いよく何かにぶつかり、反射的に声が出た。
身体がよろけ、前に倒れそうになる。
「すまない」
低く、落ち着いた声。
その一言で、時間が止まった気がした。
この声は――。
息を飲んで、ゆっくり顔を上げる。
そこには、よく知っているはずなのに、まだ慣れない存在がいた。
澄んだ薄青の瞳。
朝の光を受けて、少しだけ柔らかく見える表情。
エルンスト。
視線が絡んだ瞬間、胸の奥が跳ねた。
「やぁ。アイナ、おはよう」
何でもない挨拶。
なのに、心臓がうるさい。
「あ……おはよう、ございます?」
なぜか疑問形になった。
自分でも意味がわからない。
エルンストは小さくクスッと笑った。
その表情が、昨日よりも近くて、昨日よりもはっきり見える。
距離が、近い。
近すぎる。
そして、彼は自然な動作で手を伸ばしてきた。
一瞬、何をされるのかわからず、身体が強張る。
指先が、私の髪に触れた。
「寝癖かな?」
柔らかい声音。
指が、ほんの少しだけ、髪を整える。
――触れた。
頭の中が、真っ白になる。
「~~~~っ」
声にならない声が喉で詰まった。
顔が一気に熱くなるのが、自分でもわかる。
やばい。
これは、やばい。
今まで誰かに頭を撫でられたことはある。
ヴィルだって、昔からよくやる。
でも、これは違う。
距離も、仕草も、空気も。
完全に、違う。
始業のベルが、学園中に鳴り響いた。
その音で、ようやく現実に引き戻される。
「あ……あ、ありがとう」
精一杯、平静を装って言う。
「じゃあ、また」
エルンストはそう言って、自然に一歩引いた。
その距離が、さっきよりも遠く感じて、少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に驚く。
彼の背中を見送る暇もなく、私は教室へ駆け込んだ。
――結果。
盛大に、トレーニングは追加された。
「遅刻一歩手前だったな! 気合いが足りん!」
先生の声が響き、容赦なく増えるメニュー。
「は、はいっ!!」
返事だけは立派だが、身体は正直だ。
息は上がり、脚は震え、腕は言うことをきかない。
「はぁ……はぁ……」
床に手をつきながら、必死に呼吸を整える。
頭の中には、さっきの光景が何度も再生される。
ぶつかった瞬間。
絡んだ視線。
髪に触れた指先。
「……色んな意味で……」
疲れた、なんて言葉じゃ足りない。
身体も、心も、限界だ。
それでも。
胸の奥に残る、あの小さな高鳴りだけは、どうしても消えてくれなかった。
距離が、近くなった。
その事実が、今日一番の疲労の原因だったのかもしれない。




