無防備な愛しい君
風が、やけにやさしい午後だった。
訓練もない。
騒がしい声もない。
学園の中庭は、春の光に満ちていて、すべてが穏やかすぎるほどだった。
だから――
見つけた瞬間、胸が止まった。
いつものベンチ。
そこに、アイナがいた。
背もたれに身体を預け、目を閉じている。
完全に、眠っている。
……無防備にもほどがある。
近づく足音にすら、反応しない。
肩まで伸びたブラウンの髪が、光を受けて柔らかく揺れている。
頬は少し赤く、呼吸は深く、規則正しい。
(……本当に、よく眠れるな)
船上訓練の疲れが、まだ抜けきっていないのだろう。
円を組んで魔力を回し、倒れる寸前まで耐えていた姿が、脳裏をよぎる。
頑張った。
無茶もした。
それでも立って、回して、守った。
その結果が、これだ。
――油断しきった寝顔。
俺は、思わず苦笑した。
(誰が見ていると思っている)
ベンチの周囲を一度、無言で確認する。
人影はない。
問題ない。
そう判断した瞬間、もう身体は動いていた。
そっと、音を立てないように腰を下ろす。
距離は、近い。
近すぎる。
アイナの甘い香りが、ふわりと鼻先をかすめる。
汗をかいた後の、あの反則みたいな匂いではない。
ただ、素の彼女の匂い。
落ち着く。
同時に、理性が削られる。
「……ったく」
小さく呟き、上着を脱いだ。
それを、迷いなく彼女の肩へかける。
その瞬間。
アイナが、無意識に動いた。
上着を引き寄せるように、ぎゅっと掴み、
そのまま、こちらへ倒れ込んでくる。
――柔らかい。
反射的に、抱き留めていた。
腕の中に、すっぽりと収まる体温。
軽い。
細い。
それでいて、確かな重み。
「……」
息が、喉に詰まる。
起きない。
本当に、起きない。
どれだけ俺を信用しているんだ。
いや、信用というより――
もう、身体が覚えているのかもしれない。
俺の腕を。
(……参る)
肩に、彼女の額が触れる。
呼吸が、首元にかかる。
くすぐったい。
抱き寄せるつもりなんてなかった。
ただ、起こさないようにと思っただけだ。
なのに。
腕は、自然と力を込めていた。
(離す気、ないな……俺)
自覚した瞬間、少しだけ可笑しくなる。
独占したい。
囲いたい。
奪うんじゃない。
――守りたい。
眠っている彼女は、世界から切り離されたみたいで。
その世界に入れるのが、自分だけであることが、どうしようもなく嬉しい。
指先で、そっと髪を撫でる。
起きない。
呼吸が、少し深くなるだけ。
「アイナ」
名前を呼ぶ。
反応はない。
それでも、呼びたくなる。
「……俺は、ここにいる」
答えを求めていない言葉。
ただの確認。
胸の奥で、静かに、確信が積み重なる。
奪われる不安も、
霧に包まれた違和感も、
この腕の中では、意味を失う。
ここにいる。
今、ここに。
それでいい。
俺は、ベンチに座ったまま、彼女を抱いた。
春の光の中で、時間が止まったように。
起きるまで。
いや――
起きても、離すかは、分からない。
眠る無防備な君を見て、
俺は今日も、静かに、深く惚れ直していた。
エルンスト視点




