贅肉と全力で戦ってた彼女
訓練所の外へ出た瞬間、冷え切った空気が肺を裂いた。
雪はもうやんでいた。
空は痛いほど澄み、白く閉ざされていた世界が、ようやく呼吸を取り戻したみたいに静まっている。
けれど。
俺の内側だけは、まるで違った。
――完全に、狩りの感覚だった。
扉を蹴破った瞬間に焼きついた光景が、まだ目の奥に残っている。
床に押さえ込まれ、荒い息を吐いていた彼女。
その上にいた、ヴィル。
理屈は一瞬で理解した。
護身術の訓練だったのだと。
事故でもなければ、ましてや淫らな意味などないと。
そんなことは、分かっていた。
……分かっていたが、どうでもよかった。
胸の奥で、何かが低く唸っていた。
怒りではない。
焦りでもない。
縄張りを踏み荒らされた獣じみた衝動が、
喉の奥で低く鳴った。
――近すぎる。
――触れすぎている。
――俺の手の届く場所にいるはずの女に。
喉の奥が、きり、と軋んだ。
けれど次の瞬間。
彼女が、俺を見た。
弾けるように。
何の計算もなく。
取り繕いもせず、逃げも隠れもしないまま。
「エルンストがいるーーー!」
……ああ。
この顔だ。
二ヶ月ものあいだ、
脳裏に焼きついて離れなかった表情。
誰に向けるでもなく、
ただ俺を見つけたときだけ、無防備に咲く顔。
その一言で、
獣じみた衝動は消えないまま、静かに形を変えた。
――奪われていたわけじゃない。
――彼女は、ただ無防備なまま生きている。
それがどれほど危ういことか、
本人だけが、何も知らない。
ヴィルが彼女の腕を引き、立たせる。
支えるためだと分かっている。
訓練の流れでそうなっただけだと、頭では理解している。
理解しているからこそ、
余計に許せなかった。
「離せ」
低く、短く落とした声は、
自分でも驚くほど冷えていた。
命令だった。
彼女の手を取る。
そのまま訓練所の外へ出る。
彼女は抵抗しない。
疑いもしない。
俺に引かれるまま、当たり前のようについてくる。
その事実が、
胸の奥で静かに熱を持つ。
――選ばれている。
言葉にしなくても、
確かにそこにあるものだった。
足をもつれさせた彼女を抱き留めた瞬間、
腕の中の熱がはっきりと伝わってきた。
細い。
熱い。
疲れている。
弱っている。
消耗している。
それでも、決して折れてはいない。
「何をしていた」
問いは責めるためのものではなかった。
確認だ。
ただ、知りたかった。
彼女は一瞬だけ視線をさまよわせて、
それから噛みそうな舌で、ぽつりと答えた。
「……贅肉と、戦ってた……」
…………。
思考が、一拍遅れた。
贅肉。
戦う。
本気で。
訓練所に籠もり、
雪に閉ざされ、
逃げ場も、甘える相手もない場所で。
彼女は泣きつくことも、
拗ねることも、
誰かの手を待つこともせず。
自分の意思で、
自分の身体を鍛えることを選んだ。
その事実が、じわじわと胸の深いところへ沁みていく。
――なるほど。
囲われていたわけじゃない。
守られて甘えていたわけでもない。
誰かに命じられたからでもない。
雪の中で、
ひとりで、
彼女は自分を動かしていた。
……やはり。
檻に入れて飼えるような相手じゃない。
閉じ込めて安心できるような、
そんな生きものではない。
だが。
だからといって、
放っておける存在でもなかった。
獲物ではない。
けれど、逃がすつもりもない。
「……相変わらずだな」
そう言うと、
彼女はふっと笑った。
力の抜けた、
無防備で、
油断しきった笑顔。
その喉元に、
自分の牙が届く距離だと、
理解しているのは俺だけだ。
もし今、少しでも理性を緩めれば、
噛みついてしまえるほど近い。
けれど――だからこそ。
彼女を縛りたいわけじゃない。
捕らえて飾りたいわけでもない。
どこへ行こうと、
迷おうと、
遠回りしようと。
そのたびに先回りして、
迎えに行くために。
雪を溶かしてでも。
道を拓いてでも。
魔術師団を動かしてでも。
城を空にしてでも。
彼女がいる場所へ、
必ず、俺が行く。
逃げてもいい。
迷ってもいい。
その全部を含めて、
追いかけるのは俺だ。
誰よりも先に見つけて、
誰よりも先に手を伸ばして、
誰よりも確かに、この手の届く場所へ連れ帰る。
今、目の前にいる彼女を前にして。
俺の理性は、
かろうじて形を保っているだけだった。




