籠城して1ヶ月半
鏡の前で、アイナは自分の身体をじっと見つめた。
……豚ではなくなった。
むしろ、締まっている。
無駄が削げ落ち、筋肉の線がしなやかに浮かぶ。
過酷な護身術と、毎日の特訓の成果は、正直すぎるほど身体に出ていた。
「よし」
小さく拳を握る。
ここで手を抜いたら、すべてが台無しだ。
籠城生活はまだ終わっていない。
今日も、訓練所。
木床の冷たさが、素足に伝わる。
外は猛吹雪。世界は相変わらず白に閉ざされている。
「いくぞ」
そう言ったヴィルの声は、軽い。
だが、動きは容赦がなかった。
次の瞬間、視界が回転する。
「うわっ!?」
「ほら、甘い」
床に叩きつけられそうになるのを、必死に耐える。
転がり、体勢を立て直し、また向かっていく。
絡み合う腕。
ぶつかる体重。
息がかかるほど近い距離。
「っ、く……!」
「いい踏み込みだ」
褒めているのか、煽っているのか分からない声。
気づけば、また組み敷かれていた。
背中に床の感触。
視界いっぱいに、ヴィルの顔。
「……またか」
「油断したな」
馬乗り。
両手首を押さえられる。
「ギブアップする?」
「……しない」
悔しさで歯を食いしばる。
力を込めると、ヴィルの口元が、わずかに歪んだ。
楽しそうだ。
それが、少しだけ引っかかる。
「その顔だ」
「……なに?」
「最近、いい顔するようになった」
息が近い。
近すぎる。
一瞬、時間が止まったみたいに、空気が張りつめる。
アイナが身じろぎすると、ヴィルの腕に力がこもった。
逃がさない、と言わんばかりに。
「……なぁ」
低く落ちた声。
「俺がいない時のこと、ちゃんと考えてるか?」
胸の奥が、ぞわりとした。
「……なにそれ」
「冗談」
そう言いながら、すぐに身体を離す。
何事もなかったように立ち上がり、手を差し出す。
「ほら、立て」
アイナはその手を取る。
いつものこと。
幼馴染の距離。
なのに。
(今の、なに……?)
一瞬だけ、違う何かを見た気がした。
濁った水の底みたいな、重たい感情。
首を振って、考えを追い払う。
その時だった。
外から、ざわめきが聞こえた。
「……なんか、騒がしくない?」
「確かに」
訓練所の扉を開けると、宿の廊下がいつもより慌ただしい。
宿泊客たちが窓際に集まり、外を指さしている。
「見ろよ、あれ」
「でっかい魔術陣だ……!」
窓の外。
雪原の向こうで、淡い光が脈打っていた。
巨大な魔術陣。
雪を蒸発させ、道を拓くように、ゆっくりと広がっている。
「……すご」
「道、作ってる?」
宿泊客の声が重なる。
「どうしても行きたい温泉宿があるって、高貴な方が言い出したらしい」
「この吹雪の中で?」
「だから魔術師総出だとさ」
アイナは、ふーん、と気の抜けた声を出した。
「貴族様って、わがままだねー」
「命がけで温泉……」
他人事だ。
完全に。
その横で。
ヴィルだけが、動かなかった。
窓の外を見つめる視線が、異様に鋭い。
眉が寄り、口元が、きゅっと結ばれている。
(……?)
「ヴィル?」
呼びかけても、すぐには反応しない。
数秒遅れて、ようやくこちらを見る。
「……なんでもない」
嘘だ、と分かる声音。
もう一度、窓の外を見る。
魔術陣の光が、さらに強くなる。
ヴィルの喉が、ごくりと鳴った。
(まさか……)
(嘘だろ……)
胸の奥で、何か黒いものが、ゆっくりと蠢く。
ここは、籠城状態の温泉宿。
雪に閉ざされ、外界から切り離された場所。
――安全な、囲い。
そこへ、強引に道を拓いてくる存在。
「……来るなよ」
誰にも聞こえないほど、小さな声。
ヴィルは、無意識に一歩、アイナの前へ出ていた。
庇うように。
塞ぐように。
アイナは気づかない。
窓の外の光に、ただ感心しているだけだ。
「でもさ」
「なに?」
「こんな天候で来るとか、すごい執念だよね」
笑いながら言ったその言葉が、
ヴィルの胸に、鋭く突き刺さった。
――執念。
そうだ。
その言葉が、一番近い。
「……そうだな」
答えながら、ヴィルは思う。
ここまで来るほどの執念を持つ相手を、
自分は、まだ過小評価していたのかもしれない。
囲っているつもりだった。
守っているつもりだった。
だが――
外から、奪いに来る存在がいるなら。
(……簡単には、渡さない)
ヴィルの視線が、静かにアイナへ戻る。
その目に、微かに、濁った熱が宿っていた。
籠城して1ヶ月半。
雪は、溶け始めている。
それが意味するものを、
まだ、アイナだけが知らなかった。




