自由の尊重という鎖
食堂を出てから、胸の奥に残ったものが、ずっと消えない。
音ではない。
痛みとも違う。
ただ、確かに“欠けた”という感覚。
――言われなかった。
その事実が、思考より先に感情を掻き乱していた。
廊下を歩きながら、何度も思い返す。
昼食の席。
彼女の伏せられた視線。
何かを言おうとして、飲み込んだ気配。
ヴィルの声。
あの、自然すぎる距離。
……ああ。
やっと、理解した。
俺は、待っていたのだ。
彼女の口から出るはずだった言葉を。
週末。
約束。
一緒に過ごす時間。
それを、俺ではなく、
“幼馴染”の前で言うことを、彼女がためらった理由を。
(……怖かったのか)
俺が、ではない。
状況が。
関係が。
壊れるかもしれない未来が。
理解はできる。
理解は、できるが――
納得は、できない。
足が止まる。
誰もいない回廊の端で、拳を握り締めた。
……どれだけ、抑えていると思っている。
触れない距離。
踏み込まない言葉。
選択を、彼女に委ねるという名の自制。
そのすべては、彼女を尊重しているつもりだった。
だが同時に、それは――
俺自身を、縛る行為でもあった。
(……甘かったか)
彼女は、優しい。
人を傷つけることを、極端に恐れる。
だからこそ、
“誰かを選ぶ”という行為そのものに、躊躇する。
それを分かっていながら、
俺は“待つ”ことを選んだ。
――結果が、これだ。
ヴィルの存在が、頭をよぎる。
あの男は、選ばせない。
幼馴染という立場で、逃げ道を塞ぎ、
安心という名の檻で、彼女を囲う。
それは、暴力ではない。
だが――
最も厄介な、支配だ。
(……奪われる)
その予感が、はっきりと輪郭を持った瞬間、
背中を冷たいものが走った。
俺は、何をしている。
騎士として?
立場として?
彼女の自由を尊重するため?
――違う。
それらは、すべて言い訳だ。
本当は。
俺は、怖かった。
拒まれるのが。
彼女の口から、「違う」と言われるのが。
だから、“選ばせる”という形に逃げた。
だが――
今日、彼女は選べなかった。
それは、俺が作った状況でもある。
息を吐く。
深く。
何度も。
胸の奥で、感情が渦を巻く。
焦燥。
嫉妬。
苛立ち。
独占欲。
……そして、確信。
(俺は……)
彼女を、失いたくない。
それだけではない。
“誰かのものになる可能性”すら、耐えられない。
優しくする?
待つ?
尊重する?
――それで、彼女が遠ざかるなら。
それは、本当に正しい選択なのか。
拳を開く。
指先が、微かに震えていた。
思い出すのは、
円の中へ、迷いながらも自分の意思で踏み込んできた彼女の姿。
熱を帯びた吐息。
指先に伝わった、確かな反応。
……あれは、嘘じゃない。
彼女は、俺を拒んでいない。
ただ、“踏み出せなかった”だけだ。
なら。
次は、俺の番だ。
待つのではなく、
奪うのでもなく、
――逃げ場を、作らない。
選択肢は与える。
だが、距離は曖昧にしない。
触れる。
示す。
伝える。
「俺は、ここにいる」
「お前を選んでいる」
「逃がさない」
言葉にしなくても、
行動で、空気で、存在で。
……それでも、まだ。
完全に踏み越えるには、
ほんの少しだけ、理性が残っている。
だがそれは、
いつまで持つだろうか。
(……危ないな)
自嘲気味に、息を吐いた。
俺にとって、彼女は――
あまりにも、危険な存在だ。
愛している。
すでに、疑いようもなく。
だからこそ。
次に、彼女が言葉を飲み込んだら。
次に、ヴィルの影に怯えたら。
その時、俺は――
“待つ”ことを、やめるかもしれない。
それを、誰よりもよく理解しているのは、
他でもない、俺自身だった。
エルンスト視点




