地下迷宮と血の図書館
第一節:西棟への潜入
夜九時四十五分。天宮私立学園に門限のブザーが鳴り響く十分前、濃密な霧が三霧山を再び支配し始めた。レンとカイは、寮の自室(304号室)で最終確認をしていた。
「装備はこれだけだ」レンはリュックに入れたものを確認した。強力な懐中電灯二本、教室から持ち出した定規と針金、そして祖母からもらった目の形の銀製ペンダント。ペンダントはレンの胸で、わずかに熱を帯びていた。
「僕の役目は、電子ロックと監視カメラのルーティンを回避すること。そして、もしも何か恐ろしいものが出たら、君の背中に隠れること」カイはそう言いながらも、自作の電子回路を繋げた小型のジャマー(妨害装置)をポケットに忍ばせた。眼鏡の奥の瞳は不安で揺れていたが、彼の指先は確かな技術を示していた。
「それで十分だ、カイ。恐怖を感じない奴より、恐怖を認めながらも前に進める奴の方が信頼できる」レンは、第十三の席で感じたあの冷たい衝撃を思い出す。吉田ユウキは、何かをレンに伝えようとしていた。
二人は息を潜め、東棟の廊下を音を立てずに進んだ。レンが先導し、カイは常に左右を警戒する。夜間の学園は、昼間の厳格な顔とは打って変わって、まるで巨大な生きた怪物の臓腑のようだ。
中庭に出ると、霧が視界を遮り、五メートル先はもう見えない。湿気を含んだ重い空気が喉に張り付く。
西棟、古図書館の建物は、他のどの建物よりも古く、巨大な石造りだった。蔦が深く根を下ろし、廃墟の雰囲気を醸し出している。建物全体から、埃と紙と、そしてレンの異能を刺激する「澱んだ(よどんだ)気配」が放出されていた。
カイが図書館の通用口の電子ロックに手をかける。「最新式のはずだが、僕のこの子にかかればただのパズルだよ」彼は自信ありげに囁き、数秒後、「カチッ」という微かな音と共にロックが解除された。
第二節:地下への回廊
図書館内部は漆黒の闇に包まれていた。懐中電灯の光が、天井まで届く巨大な本棚の列を照らし出す。カビ臭さと、古く乾燥した紙の匂いが鼻をつく。しかし、レンはそれとは別に、微かに血のような鉄の匂いを嗅ぎ取った。
「急ぐぞ」レンは囁いた。
二人は、カイが事前に調べていた通り、一般閲覧室の奥にある、使用されていない資料室へと向かった。
資料室の奥の壁は、巨大な木製の書棚で塞がれている。カイが壁に耳を当て、慎重に調べた。
「ここだ。裏側にヒンジの跡がある。この書棚が扉になっている」
二人がかりで重い書棚を押すと、ゴゴゴゴ... という石と木材が擦れる重々しい音を立てて、隠された通路が現れた。その通路は、階段ではなく、急勾配の暗いスロープだった。
レンが懐中電灯でスロープの下を照らす。空気は一気に冷え込み、湿度が極端に高くなった。そこは、カイが噂で聞いていたワインセラーの雰囲気とは似ても似つかない。硫黄のような、あるいは土葬された墓地のような生々しい匂いが、下方から噴き上がってくる。
「これが...地下墓地の下の心臓、か」レンはメモの言葉を思い出した。
「冗談じゃない。まるでダンジョンだ」カイは眼鏡を押し上げた。
レンが先頭に立ち、スロープを降り始めた。足元は滑りやすく、壁はしっとりと濡れている。レンの心臓が激しく脈打つ。
地下に入ると、レンの「視る力」が激しく反応し始めた。レンの網膜を、幾重もの白い残像が覆い尽くす。それらは、様々な時代の制服を着た生徒たちの影だった。ある者は頭を垂れ、ある者は壁を掻き毟り、そしてある者はレンを指差し、悲鳴を上げている(レンにしか聞こえない)。
「やめろ...」レンは頭を振って幻影を追い払おうとする。「ここはまるで、亡霊たちのたまり場だ」
通路は複雑に入り組み、石造りのアーチが不規則に続いていた。まるで人工的に作られた迷宮だ。このトンネルシステムは、学園の設立よりも遥か昔、この山に住んでいた何者かによって掘られたものに違いない。
第三節:『シオン』の痕跡と古文書
迷路のような通路を十分ほど進んだ時、カイがレンの背中を叩いた。
「レン、右を見て。この石壁、おかしくないか?」
レンが光を向けると、通路の脇の壁に、他の石とは異なる、真鍮のような金属が埋め込まれていることに気づいた。そして、その表面には、レンが教室の机で見た文字が刻まれていた。
『SION』
「これだ...ユウキが残したメッセージだ」
レンが「シオン」の文字に触れると、壁の一部が内側に沈み込み、隠された小部屋が現れた。
その部屋は、かつて儀式に使われたと思われる空間だった。中央には巨大な円形の石の祭壇があり、祭壇の上には、羊皮紙で作られた、古く分厚い書物――禁断の古文書――が無造作に置かれていた。部屋の空気は重く、甘く、血と香水の入り混じったような異様な匂いが充満していた。
レンは祭壇へと歩み寄った。カイは入口付近で動けなくなっている。レンは慎重に古文書を開いた。
古文書の文字は読めない。古代の言語か、魔術的な記号のようだ。しかし、その挿絵はあまりにも生々しい。それは、ローブをまとった人物たちが、円形の祭壇の上で、若い人間の心臓を掲げる儀式の光景だった。
レンの目は、特定のページに釘付けになった。そこには、一つの複雑な紋章が描かれていた。その紋章は、生徒たちの制服のエンブレムと酷似していたが、中心部に「目」のシンボルが付け加えられていた。そして、その紋章の周りには、古代語でこう書かれていた。
「十三番目の贄を捧げよ。霧は糧を欲している」
レンは頭の中で、第十三の席、行方不明のユウキ、そして麗春校長の「エッセンス」という言葉が一つに繋がる音を聞いた。天宮学園は、才能ある生徒を育成する場所ではなく、特定の儀式のために生徒を収穫する場所だったのだ。
その瞬間、レンの眼前に、白い影が再び出現した。吉田ユウキの残像だ。彼は震えながら、祭壇の横、石の床のある一点を指さした。
「レン...見て。あそこだ」
レンはユウキが指さす場所を懐中電灯で照らした。そこには、他の場所よりも新しい石板がはめ込まれており、その石板の隙間から、わずかに赤黒い液体が染み出しているのが見えた。
「心臓...」
レンが石板に手をかけ、押し上げようとした時、ドスンという重い衝撃音が背後の通路から響いた。
「誰か来た!」カイが悲鳴に近い声を上げた。
レンはすぐさま古文書のページを破り取り、ポケットに押し込んだ。逃げなければ。儀式の場を見られたら、命はない。
二人が慌てて出口に戻ろうとした瞬間、通路の闇から、金属と石が擦れる甲高い音が聞こえた。
「見つけたぞ、侵入者。お前たちは、ここにあるべきではない」
低い、感情のない声。レンの懐中電灯の光が、闇の中に立つ人影を捉えた。
それは、昼休み、教室の隅でレンを睨んでいた、あの無愛想で傷のある大河だった。だが、彼の制服の左肩には、生徒の身分を示すものではない、学園の紋章の付いた銀色の腕章が巻かれていた。そして彼の右手には、鈍く光る錆びた鎌が握られていた。
レンは理解した。この男は、生徒ではない。あるいは、生徒という仮面を被った、学園の守り手だ。
「カイ、走れ!」レンは叫び、通路の奥、さらに深い闇へと飛び込んだ。




