この美しき世界に絶望を
遥か昔―、この世界に異界より魔王が来訪した。
友好関係を結ぼうとした人類に対し、魔王率いる軍勢は流される血をもってそれに応えた。
突如来訪した彼らは、その強大な力をかさに人間を蹂躙し、世界のほとんどを侵略するまでに至る。
一時は人類滅亡かとも思われた絶望の淵で、人々は必死に天に祈りをささげた。
そして、ある日1人の青年に奇跡が起きた。
神の祝福を受けた青年は、迫りくる魔王の軍勢に果敢に立ち向かい、奪われた多くの土地を次々に奪い返していく。
破竹の勢いで、たった1人でも戦場に立つ、その勇猛果敢な姿を見て、人々は希望と共に一様に彼をこう呼んだ。
勇者 と。
「おれも、そんな男になりたいと思っている」
以上、この世界の住人なら3歳児でも知っている、神話の一説である。
子供なら目を輝かせてその話を聞くが、年を経るにつれ昔の英雄より、今日の生活の方にばかり目が向かい、いつしか忘れてしまうお伽話だ。
マクシムという青年は、子どものころからその話が大好きで、今は亡き親に何度も寝る前に話聞かせてもらったものだ。
だから1年ほど前にあった魔物暴走を食い止めた功績で国から『勇者』の称号を貰った時は、数日眠れなかったと耳にタコが出来るほど聞かされている。
王都で仕官する道もあった中、彼は村に住み続ける事を願い、親と同じ冒険者として育ちの故郷カルタサへと戻ってきたのは、彼が親と子教に恩を感じている以上に、その場所が好きだったからだ。
未だに子供心を忘れぬ、目をキラキラさせた青年を、たった1人の旅のお供が冷ややかに見つめる。
「はいはい、その話は千回は聞いたわ」
彼女はユーナ。
2人は同郷の出身で、かつて乗せられていた馬車を魔物に襲われていたところを、冒険者だった養父母に助けられ、揃って引き取られた経歴を持つ。
マクシムは優しき養父母と同じ冒険者となる道を志したが、彼女は隙あらば教会へ通い、神父様の覚えもよかった。
そんな彼女が1年前、魔物暴走から復興途上にあった故郷の村に『聖女』という称号を以って舞い戻ってきたときは、マクシムはまるで夢でも見ているような気分だった。
このことは、マクシム以外誰にも打ち明けていないらしい。
今は村唯一の教会で、修道女をしている。
ハラザ教は、亡き勇者を救世主のように崇める、大陸の多くの国々で信仰されている宗教の一つ、その聖女となれば。
だからユーナも別に、勇者を貶めるつもりで、適当な返事をした訳ではないのだろう。
だが彼女の態度に不満を持ったらしいマクシムは、歩を止め、彼女に向き直った。
「な、何よ…」
「そこを動くなよ」
マクシムは無言で、背負っていた親の形見でもあるバスタードソードを抜きユーナへとその切っ先を向ける。
只ならぬ気配から、一連の行動が冗談でないと嫌でも分からせられる。
ユーナは半歩後ずさり、冷や汗を流しながらも、それでも願いにも似た言葉を口にした。
「じょ、冗談よね…?」
「ふ―っ!」
彼の持つバスタードソードは狙いたがわず、『ひっ』と頭をかばう彼女の横をすり抜け、後ろのオウギグモという魔物の頭を、正確につぶした。
どうやらユーナを後ろから狙っていたのを、マクシムが気付いたおかげで命拾いしたようだ。
命拾いはしたが、違う意味で本当に死ぬかと思ったユーナは、寿命が10年は縮む思いをした。
「危なかったな」
「あ、あぶないでしょ馬鹿―――!」
ユーナはこの言葉足らずの自称勇者志望に対し、杖で殴りかかった。
勘違いとはいえ、こっちは死ぬかと思ったのだ。
一発殴らないと気が済まない。
しかし冒険者を両親に持つ彼の身体能力は伊達ではなく、ユーナのへろへろ殴打は危なげなくあっさりかわされてしまう。
それが一層、ユーナの感情を逆なでた。
「~~~っ! 一発殴らせなさいよ!! このっこの!!!」
「やめてくれユーナっ、どうしてそんなに怒っているんだ!?」
身体能力に差のあることに加え、2人には頭1つ分ほどの体格差がある。
危なげないとは言いつつ、彼女がつんのめって転んだりしないようマクシムは、殴打を受けるたびに避けるため一歩ずつ森の中を後ずさった。
大体5歩ほど後ずさったところで、彼は地面の石にけつまずき、受け身も取れず尻を強打する。
なんとか痛みを堪えた彼の頭上に、勝ち誇ったユーナの杖が迫る。
さすがに脳天にアレを食らえば、間違いなく痛い。
「わわっ、まいった! ユーナ参った、俺の負けだ許してくれ!!」
「―ふんっ!」
マクシムに尻もちをつかせたことで、少しは気が済んだのだろう。
ユーナは構えた杖を彼に振り下ろすことなく、静かに下した。
世界を救う事を夢見る青年の頭は、こうして少女の八つ当たりから守られたのである。
よっこいしょとジジ臭い声を出しながら、マクシムと尻に着いた土を払いつつ立ち上がった。
「冒険中は勘弁してくれ、さっきみたいに魔物が飛び出してきたら、すぐに対処できないだろう?」
「…出たなら、危ないとかそこを離れろとか、なんか言ってちょうだいよね」
「声を出したら、魔物に気付かれて危ないのは知っているだろうに」
神話の話には、続きがある。
魔王は倒され魔族たちの権勢は瓦解したが、その残党はいまだ世界中に生き残っている。
その一種が、魔物である。
マクシムが今さっき倒したオウギグモも、魔物の一種だ。
奴らは普通の生き物と違い、食用には出来ず、遺体も暫くすれば霞のように消えてしまう。
そんな魔物もただ一か所、活用できる部分がある。
マクシムは魔物の体が消え去ってしまう前に、腰に差したダガーでオウギグモをさばき、その体内から赤黒い艶のある石を取り出した。
これこそ冒険者の収入源にもなっている、魔石だ。
「…個体の大きさの割に、小さいな」
「そんなもんでしょ」
まだ腹の虫がおさまらないのか、ユーナは仏頂面でマクシムに返した。
面倒くさいなとマクシムは思ったが、これからの任務のことを考えると、街でいる時のように放っておくわけにもいかない。
「機嫌を直してくれよユーナ、もう勇者伝説の話はしないからさ」
人心の機微に疎いマクシムは、飄々とした様子でユーナに謝った。
ちなみにこのやり取りも、これまでに数えきれないぐらいしている。
彼はいつまでも、彼のままだった。
というか彼女自身、その事で怒っているわけではないのだが…
「ん、今何か言ったか?」
「な・ん・で・も・あ・り・ま・せ・ん!」
心の声が漏れていたらしい。
彼女は照れ隠しに咳払いして、佇まいを正した。
「私だって任務のことは分かっているわよ、魔王教の一派を騙る連中がこの近くに潜んでいるっていうんだもの。 調査任務は不可欠よ」
「ああ、あんな奴らに、俺達の村には一歩たりとも踏ませるものか!」
マクシムは自慢のバスタードソードを縦に一閃し、背中に仕舞う。
勇者が魔王を討伐した後。
魔物が世界中に取り残されるのと同時に、人の中にもその力や思想に同調し、人類を裏切った一派が残された。
魔王教
それは大陸中の国から危険視され、勇者の偉業を称えるハラザ教と敵対する闇の組織。
古くは魔王の大陸侵攻にも手を貸し、その後も多くの国々の滅亡や戦争、内紛にも関係するとされるテロリスト集団だ。
その活動は、凡そ組織だったものというより独立した、連携のない事件などが多い。
それでも彼らが危険視されるのは事件を起こす迷惑な犯罪集団だから、というだけではない。
彼らは何かにつけ世界を呪い、あるいは世界に破滅をもたらさんと考えている。
そしてその最たるは、彼らの呼び名にもなっている者の再臨。
魔王の復活を、悲願としているのだ―
「余韻に浸るのは良いけど、そろそろ行ったほうが良いんじゃない? まだ森に入って1マイルも進んでいないのに、日が暮れちゃうわよ?」
「悪い悪い、すぐ行くよ!」
今回の調査任務は、マクシムたちの住む村を管轄する伯爵様からの指名依頼だ。
先の魔王教団の連中が、つい最近この村近くの廃城を占拠したらしいとの情報があったのだ。
そこへ魔王教がらみなら自分が付いていくほうが有利と、なかば強引に付いて来たのが彼女だ。
なのにすっかり彼女に音頭を取られている彼は、間違いなく将来、女房の尻に敷かれるタイプである。
将来の勇者(予定)はそんな事に気付く素振りもなく、聖女と共に、森の奥深くへと進んだ。
◇ ◇ ◇
世界の滅亡を企む魔王教団。
その一派が、マクシムらの住むカルタサ村近郊に流れてきたのは2日前のこと。
なんでも隣国で街の結界魔法を破壊しようとして失敗し、からがら一部の者たちが国境を超えたようだ。
大昔は魔王大戦最前線となり、防衛のため建てられた廃城も、今や魔王を崇める者たちの根城とはなんの因果か。
国境地帯という事で安易に兵士を送り込むことも出来ず、そこへ近くに住んでいた『勇者』に白羽の矢が立ったというわけだ。
ユーナは、その天に多少不満があった。
「でもどうなのかしら。 今のところは何の害もないのだし、放っておいてもいいと思うのだけど」
「そうもいかない。なんせ指名依頼だからな」
マクシムたちを指名した、この周囲一帯を領する伯爵様の依頼。
とはいえ『依頼』なので、いくら相手が貴族様であろうとも断ることはできる。
できるが―断ってから後で変に目を付けられても困る。
親に貴族の怖さを散々聞かされていたマクシムは、この依頼をける事は出来ないと思っていた。
いや、それ以上に断る気もなかった。
伯爵様の件を抜きにしても、魔王教の連中は後ろ暗い話ばかり聞く。
そんな奴らが近くにいるとなれば、カルタサ村の人々はおちおち枕を高くして眠れないだろう。
事態解決はともかく、彼らの人数や構成、思惑などは知っていて損はない。
そのための『調査依頼』だった。
―とはいえ。
「まあ、廃城の中なんて迷路みたいなものだから、隠し通路を使えば見つからないだろう。ユーナが思ってるほど危険はないさ」
「とかなんとか言って、1人で対処できそうだったら突撃しそうで怖いのよね」
ユーナの鋭い突っ込みに、マクシムは乾いた笑みを浮かべた。
軽口のつもりだったが、本当にそうするつもりだったらしい。
ユーナは冗談半分から一転、真剣な面持ちで彼にくぎを刺した。
「もう、ダメだからね! 魔王教徒は1人でも厄介なの、魔族と契約してその力を自分の体に宿したり、そのものを呼び出したりするんだから!!」
「わ、分ったよ…言う通りにするから」
あまりちゃんと分かって居なそうな返答に、ユーナはもう一度くぎを刺したくなったが、それは城に潜り込んでからでもいいだろうと自重した。
廃城の内部は地図があり、ところどころ経年などで壊れているものの、マクシムたちは特に迷うことなく内部への潜入に成功した。
しかし使われなくなって久しいというのに、各所に足跡やゴミが散見される。
間違いなく、マクシムたちのほかにも誰かが城内に居る。
「―」
1階の探索を終え、2階へ続く階段に差し掛かった時だった。
階段の先から、初めて音が聞こえる。
調査依頼はマクシムらのほかは受けていないはずだから、必然的に音の正体は絞られてくる。
ユーナが、小声でマクシムの名前を呼んだ。
「しー! なんだ?」
「今から貴方に、偏光の魔法を掛けるわ。効果はしばらく続くけど、攻撃とかしたら一発で解けるから調査だけしたらすぐ戻って来てね!」
つまるところ、光魔法の応用でマクシムの姿を外から見えにくくするというモノだった。
さんざん心配されている彼だが、べつに自分が戦闘狂だなどと思ったことはない。
それに相手は、悪名高く危険な魔王教団の一味。
対してこちらは、ユーナと2人。
依頼のこともあるのだし、1人で突っ走り様なマネをするつもりは無かった。
「じゃあ―頼む」
「疾く光よ、かの者を避け通れ歪光!」
小声でユーナが詠唱した瞬間、目の前に居た筈のマクシムは煙のように消えてしまった。
しかしそれは、あくまで見えないだけ。
魔力の力で彼の周りだけ光を捻じ曲げ、あたかも透明になってしまったように人の目が錯覚するのだ。
盤石とはいえないが、これで見つかる確率はぐっと減るはず―
ユーナは自分にも偏光魔法を掛け、彼の後ろを少し距離を離してついていく。
これで何かあった時も、まとめて全滅という事は無くなる。
何もない廃城の何もない空間をチラチラ見て、しきりに後方を気にしるマクシムが小声で声をかける。
「付いてきてるかユーナ」
「ちゃんと居るからさっさと進みなさい! 私の魔法は見えないだけで、音はばっちり聞こえるんだからね!」
「誰だ!?」
これでは姿を消して意味がない、そう注意した直後に彼女の声をかき消す程大きな声が、通路中に響きわたる。
現れたのは紫色のローブを着込んだ2人組だった。
ローブのせいで顔や体形はうかがえないが、声などからして男性らしい。
「…? おかしいな、声が聞こえた気がしたんだが」
「気のせいか?」
男たちは首をかしげながら、出てきた部屋へ戻っていく。
なんとかマクシムたちの存在は、バレずに済んだらしい。
一瞬目が合ったときには、お互いにもうダメかと思ったが。
しかしおかげで魔法の有効性は証明されたし、依頼対象も見つけることが出来た。
マクシムたちも男たちが入っていった部屋に忍び足で入り、中の様子をうかがう。
どうやら、彼ら以外にも仲間が居たようだ。
「誰かいたのか?」
「いいえ、聞き違いのようでした」
「警戒はしておけよ。 俺達が捕まったら、せっかくここまで逃げおおせたのが水の泡だ」
姿は見えないはずだが、マクシムとユーナは自然といすの後ろへと身を隠す。
万が一魔法が解けても、これでバレにくくはなるはずだ。
部屋の中に居るのは、全部で8人。
全員がローブを着込んでおり、年のころや性別は判然としない。
声からして、うち3人は男性のようだが。
彼らはマクシムたちの存在に気付くことなく、会話を続ける。
「しかし、商都で奴隷の調達が出来なかったのは残念です」
「ああ、一奴隷商館にあんな警備がされているのは予想外だった。計画にない欲を出したのがまずかったんだろう、贄も混乱で半分ほど逃がしてしまったが、とにかく今居るだけでも、魔王教団本部へ送り届けるのだ」
「「「偉大なる魔王様、復活のために!!」」」
リーダー格らしい男が鬨の声を上げるのに合わせ、7人が声をそろえる。
話がさっぱり見えてこない。
困惑を深めるマクシムの裾を、くいくいっとユーナが引っ張った。
「マクシム、そろそろ出ましょう? 相手の人数も分かった事だし、捕らえられている人たちがいるのなら、その事も含めて早く報告したほうが良いわ」
「そうだな」
ユーナが小声で提案するのに合わせ、マクシムも小声で返事をする。
彼女の言う通り、8人ならマクシム1人でも対応できそうだが贄と呼ばれる人々が囚われているとなると、手に余る。
受けたのはあくまで『調査依頼だ』と自分に言い聞かせ、静かに部屋を出ようと―
「ところでソーニャ、奴隷どもの拷問はどうした? いくら最底辺の奴らでも、肝心な時に負の感情を吐き出してくれなきゃ、意味ないんだからな」
「ぬかりない、奴らは我が夢の中で快楽と恐怖を味わいながら悶え苦しんでいるはず…儀式の際には最高純度の絶望を吐き出してくれるだろう」
リーダー格らしい男の横に控えていた、ローブ姿のもう1人―声や名前からして女性だったようだ―が、凍り付くような声音でそう言い放つ。
その瞬間、マクシムの体は石のように動かなくなった。
「どうしたのマクシム、早く行こうよ」
「…悪いユーナ、ちょっと見過ごせなくなったわ」
「え、ちょっ…!」
言うが早いか、マクシムは脱兎のごとく飛び出すとまずは、リーダー格らしき男の後頭部を剣の柄で思い切り殴打した。
ぐはっ、という呻き声だけを出し男を昏倒させる。
同時に傍にいたソーニャと呼ばれた女性の首筋にも手刀をお見舞いし、意識を刈り取った。
残り5人。
マクシムの存在が知れ、ユーナに掛けてもらった偏光の魔法が解け、彼の姿が鮮明に浮かび上がる。
残った魔王教徒たちは「いつから!」とか「おのれ!」とか悪態をつきながら、マクシムへ一斉に切りかかる。
しかし魔物暴走で突進してきたラッシュボア100匹に比べれば、大したことはない。
正面の1人をバスタードソードの重量で叩き潰し、返す剣で右隣の奴の腹を叩き壁際に吹き飛ばす。
衝撃で骨もいくつか逝ったかもしれない、のこり4人。
うち2人が、背後の斜め両サイドから肉薄していたので、剣の柄で1人はみぞおちを殴りつけ昏倒。
もう1人の攻撃は避けようがなかったので、逆に右手を差し出して防御、肉に少し食い込んだところで膂力に任せて、別方向から来ていた敵に向けて放り投げ意識を刈り取った。
のこるは1人。
「―ふんっ!」
「がは…っ」
声がしたほうを向くと、そこではユーナが最期の1人を杖で殴打している姿が映った。
同時に偏光の魔法が解け、彼女も姿を現す。
後頭部を殴られた魔王教徒は、ゆっくりと膝から崩れ床に倒れ伏した。
「…相変らず、ユーナは魔法で攻撃しないんだな」
魔法を使わず物理で敵1人を無力化した聖女に対し、マクシムはいつもの調子で笑みを浮かべた。
彼女は当然でしょ、とすまし顔でマクシムに胸を張った。
「って、あなたケガしてるじゃない! だから無理しないでって言ったのに!」
「ああ、かすり傷だよ」
「ダメ! マクシムは私の回復魔法じゃないと治りが悪いでしょう? 治療させなさい!!」
有無を言わさぬ彼女の気迫に押されかけたが、さすがに今の状態でゆっくり治療されているわけには行かない。
昏倒させただけの魔王教徒が、いつ起きだすか分からないからだ。
治療の前に、ザイル用のロープを適当な長さで切り、地面に転がる彼らの両手足を縛っていく。
その後で、ようやくマクシムは素直に彼女の治療魔法を受けた。
星空のように黒く綺麗な、彼女独自の治療魔法が彼の腕の大きな傷を癒していく。
村に居る治療師の白い回復だと、なぜだかケガは治るものの激しく痛むのだが、彼女のそれは暖かく、戦いの後だというのに心安らいだ。
それから2人は急いで村へ戻り報告、明日には伯爵様の私兵が、廃城へ向かうことが決まった。
これでマクシムたちの調査依頼は完了である。
また明日から、村は平和な日常を取り戻すだろう。
帰り際。
「ユーナもウチに寄ってかないか? 一昨日倒したハイイログマの肉が残ってるんだけど」
「悪いけどパス、すぐに教会で神父様にも報告しないといけないのよ、またね」
「そうか、じゃあ何時でも遊びに来いよ」
マクシムの誘いには答えず、ユーナはただ、ヒラヒラと手を振って別れた。
―その夜、カルタサ村近郊の廃城にて―
縛られた魔王教徒たちは、軒並み意識を覚醒させていたが、拘束の魔法もかけられているのか縄はほどけなかった。
あのガキが、転がすだけで野放しにするとも思えない。
恐らく明日には、この国の兵士が乗り込んで敵自分たちを捕縛するだろう。
その前に脱出しなければ、と彼らは焦燥感を駆り立てる。
そこへ、夜だというにもかかわらず来訪者があった。
すわ、もう兵士が来たかと構えた面々だったが、すぐにそれが1人の少女であることに気が付く。
彼女は一番入り口近くに居た男のフードを払うと、その髪を鷲掴み絶対零度の声音で問うた。
「どうして寝ているの? なぜこんな所に貴方たちは居るの? どうして教団の教えに背いたの? どうして―」
彼女のどうして、がとめどなく続く。
その男は答える暇もないまま、ただ恐怖にその瞳を歪ませていく。
月明かりに照らされた空色の髪を持つ、その魔王教徒が誰なのかを理解させられた。
「聖女様、どうかお許しください! 我らは偉大なる魔王様復活のため、その儀式を盤石なものとするために贄を集めようと―」
彼は何かを言い終える前に、まるで糸が切れた人形のようにドッと床に倒れ伏した。
先ほどマクシムに昏倒させられたのとは違う。
白目をむき口から泡を吹きながら、絶命していた。
「もう良いわ。 お前たちのような低俗で肝心な事も見通せない者たちが、偉大なる魔王様復活に関わるのすらおこがましい」
彼女がそう言い放つと同時に、月明かりで照らされていた室内が、まるで塗りつぶされていくように黒い霧でおおわれる。
しかしそれも一瞬で、再び月明かりが戻ると、そこには死屍累々と倒れ伏した、魔王教徒たちの亡骸だけが転がっていた。
ただ1人残った少女は感慨にふける事もなく、窓の外を見やり、遠くに見える村を見下した。
そこに居る、カギとなる人物を思い描いて―
どうしたら、貴方は絶望してくれるのかしら?
マクシムたちが、魔王教徒の居座る城に乗り込んでから3日が過ぎた。
翌日まではマクシムとユーナ共に労われ、村人達から賞賛を受けていたが、もう彼らを賞賛する者はない。
それどころか、腫れ物を扱うがごとく避けられ、挨拶をしても目を合わせてもらえず、そそくさと行ってしまう。
「ここの村人たちは恩知らずね、あれほど賞賛をしていたのに、大した手の平の返しようじゃない」
「…俺は気にしてない」
ユーナに村の治療師から買った治療薬を傷口にかけてもらいながら、マクシムは日課の狩りに向かう。
彼らが称賛を受けていた同じ日、近くにいた伯爵様の私兵がいち早く、状況確認のため城の中へと入ったらしい。
そこで彼らが見たのは死体となって横たわる魔王教徒と、夢から覚めずに壊れた人形のように、うわごとを繰り返す奴隷の姿だった。
術者が死んだことで夢の魔法から抜け出せず、精神干渉になる事から解呪も出来ない。
さらに、魔王教徒を殺めたのは状況からマクシムであるとされ、調査を超える勝手な行動に伯爵は激怒した。
こうならぬ為に、あくまで調査を依頼したというのに貴様は―と。
「でも私たちが魔王教徒たちをどうにかしなければ、この村だってどうなっていたか知れないのよ。 そもそもマクシムは誰も―」
「そうだ、俺はだれも殺してはいない」
ユーナはマクシムの言葉に肯定してうなづいた。
彼とて、そうした魔法の存在や危険性は熟知している。
だからそうならないよう、彼らを殺さないように立ちまわったはずなのに、という疑問はあった。
なぜ彼らは死んでしまったのだろう?
1人2人なら、打ち所が悪くてという事もあろうが、全員ともなると他の要因も疑いたくなる。
「そうよマクシム、なのにマクシムを伯爵は罰するし、村人たちも口すらきいてくれないし…酷いと思わない!?」
「おれは、賞賛されたくて『勇者』になったわけじゃないし、『冒険者』を続けているんでもない」
憤るユーナに対して、彼は厳かにそう告げた。
物語の中の勇者だってそうだったのだと、自分に言い聞かせる。
彼は世界を救い称賛されたが、なにも最初からそうだったわけじゃない。
物語の初めは誰も彼に同調してくれず、どうせ死ぬ、これ以上魔王に楯突くのはやめてくれ、せめて最期は安らかに送らせてくれ、と懇願した。
彼に同調する人が現れたのは、物語最初の戦いで勝ってからの事。
彼に賞賛を送る者が増えだしたのは、大陸の半分を奪還したころ。
組織だって彼と共に剣を持ち、魔王に楯突くものが出始めたのは、戦いも終盤に差し掛かる頃だった。
彼はそれでも、戦場に立ち続けたのだ。
何が彼をそこまで駆り立て、魔王に立ち向かえたのか。
それがほんの少し、マクシムには分かった気がした。
「俺は、誰かに認められたいから依頼を受けたんじゃない。それに、俺は1人じゃない」
「え?」
マクシムは晴れやかな笑顔で、いつもそばにいるユーナに向き直った。
そこには、一切の憂いも感じられない。
「君がいるじゃないかユーナ、誰も話を信じてくれなくたって君は信じてくれる。誰も声をかけてくれなくなっても君は気にかけてくれる、それで十分さ!」
その眩しい限りの笑顔を前にして、ユーナは彼こそ勇者だと思った。
そして同時に思った、あぁだから―だから、彼はけして絶望してくれなかったのかと。
「どうしたんだ、ユーナ?」
突然黙ったユーナをいぶかしみ、マクシムが首をかしげる。
そんなどこまでも希望を持ち続ける勇者に、世界にけして希望を見いだせない聖女は恨めし気な視線を送った。
「ああ、どうしてその眩しさを、幼いころの私に少しでも向けてくれなかったのかしら? どうして人を皆、善良だと思えるのかしら。 どうして人の悪意にも気づかずのうのうと生きていられるのかしら」
「ゆ、ユーナ?」
どうして、が彼女の心中で何百回、何千回と繰り返される。
それでも彼女が、これまで抱いた『どうして』の数にはけして及ばない。
何度も世の理不尽を呪った、何度も打ちひしがれても叩き続ける人を呪った、そして何度試してもなりたい自分になれない、己を呪った。
豹変した聖女に、勇者は異常を感じた。
なおも彼女は、胸の内を吐露し、長年抱いていた『何故』を口にする。
「貴方さえいなければ、私は比べられずに済んだの? 最初の馬車の時に貴方か私が死んでいればよかったの? あの親が脳筋で無ければ、異常な実力主義者でなければ、私は貴方みたいに幸せでいられてあのかしら?」
「一体どうしたんだユーナ、おかしいぞ! いつものユーナに戻ってくれよ、俺を優しく癒してくれるいつものユーナに」
いつも彼の横で笑顔を向けていた彼女が、今は背筋も凍るほど冷たい視線を向けてくる。
その美しいエメラルドブルーの瞳には、いつもの感情は微塵も感じられない。
優しい彼女はそこにおらず、ただ世界の理不尽に打ちのめされ、世界を呪った奴隷のような目をした少女がそこに居た。
「優しい? まさか本当に、あの黒魔法が、本当に回復魔法だとまだ思っていたの?」
「黒魔法…?」
黒魔法は回復や癒しとは真逆の、攻撃や呪いの魔法として知られる。
マクシムは耳を疑った、もし彼女のいう事が本当なら、ずっと彼女は彼に呪いをかけていたことになる。
どうして、より何故という感情が勝る。
なぜ自分は、呪いをかけられていたのに、それを癒しなどと思ったのか。
それは彼女も、最初は分からなかったそうだ。
「あの脳筋どもは戦う技術を持つあなたばかり可愛がって、私は何度も殴られたわ。逃げ込んだ教会ですら待って居たのは、言葉だけの虚言と奉仕という名の無為の強制。 どうして私が何もしてくれない村のために、こんな事をしないといけないのかって何度も神を呪ったわ」
そうして、彼女はマクシムを妬んだという。
いつもいつも親の期待に添い、明るく元気がある姿を。
村人たちにも可愛がられ、妬んでいる自分すらも好きでいてくれる彼を―
「黒魔法を使えたのは、本当に偶然。 それが黒魔法だという事を知ったのも、逃げるように村を出て聖都に着いた後だったわ」
「そ、そうだよ! ユーナは聖女なんだろう、聖女は癒しの魔法が使えて当然じゃないか!」
それは神話にも出てくる、勇者の最初の仲間だった女性がルーツだ。
魔王の軍勢相手に最終的に勝ったとはいえ、彼とて無傷だったわけじゃない。
何度もケガをし、何度も死にかけた。
その傷をいやし、彼の旅の支えともなったのが聖女であり、一般的に知られているハラザ教の聖女の手本だ。
彼女は言いすがるマクシムを憐憫の目で見て、それから口角を上げた。
「ねぇ私、いつハラザ教の聖女だと言ったかしら?」
「え…?」
マクシムは、思ってもみない彼女の疑問に、思わず言葉を失う。
聖女と言えばハラザ教、それが大陸の常識なのだから―
ユーナはゆっくりとした動作で彼の前に腰を折り、そして服の中に隠していたドクロマークの入ったおどろおどろしいロザリオを、まじまじと見せつけた。
それは、3日前にマクシムが倒した魔王教団の者たちも首にかけていた物と同じだ。
「それは…魔王教の…!」
表情が抜け落ちていく彼の姿を見て、ユーナは実に嬉しそうに笑顔を作った。
しかし恐ろしいほどに、その目は笑っていない。
その歪な光景が、より彼の焦燥感を掻き立てる。
これ以上は、聞いちゃいけない。
この場を離れようとするマクシムを、しかし彼女は放さなかった。
「どうして呪いの魔法が、あなたには癒しになるか聞かせてあげる。 それはね、貴方が魔王になる資質を持つ者だからよ」
「お、俺は勇者だ! 魔王なんかじゃない、放せ!!」
彼女を振りほどこうともがくマクシムだったが、何故か力が入らない。
こんな時に限って、依頼の時に疲労が出たというのか。
その疑問にも、彼女が答えた。
「フフ、一時的にでも弱体化しているんですもの、そう簡単には振りほどかせはしないわ! 言ったでしょう、貴方の魂の魔力は闇に寄っていると。 人の治療に使われる治療薬は魔物にとっては劇薬と一緒なのよ!」
「嫌だ、放せ!!」
全ては夢だと、夢から覚めればまたいつもの日常が始まると。
そう願ってやまない彼の思いと裏腹に、付いた傷と脱力感が訴えかけてくる。
これはけして、夢ではないと―
「ねぇマクシム、私は貴方が嫌いよ」
「―!」
マクシムの支えだったものが、壊れる音がした。
「いつも私の比較対象になって、いつも私を苦しめた貴方を私はけして許さない。 だから一緒に堕ちましょう、このくだらない世界を破滅させるために、この理不尽の連鎖を断ち切るための旅に出ましょう」
自分すらも覆う強大な負の感情を立ち昇らせ始める勇者を前に、聖女は最後に願った。
どうか、この最期まで理不尽だった世界が、恐怖と絶望に沈みますように、と。
―1か月後、大陸中央に位置していた一つの国が崩壊した。
尋常でない魔物が国中に現れ、魔物暴走となって都市を、大地を呑み込み徐々に周囲も同じ末路をたどっていった。
それはさながら、神話の逆を行く恐怖と絶望の連鎖であった。
彼らは呪った、今まで崇めていた神を、そして世界の理不尽を。
そして再び現れた混沌の中心、魔王という存在そのものを。