初めてのイブはふたりのキスを
「おはよ」
「おはよう」
朝八時過ぎ。
教室内は登校してくる生徒で徐々に賑わってくる。
「柑奈、おはよう!」
自分の席に着いたばかりの柑奈に、そう声をかけたのは、クラスメートの征史だった。
「征史、おはよ」
柑奈はスクバから教科書やノートを取り出しながら答える。
「なあ、柑奈。今日の英文解釈の宿題、見せてくれよ」
「またあ? いいけど、それじゃ今度の期末もまた赤点よ」
「わかってるよ。明日からちゃんとやるって」
「その台詞、聞き飽きた」
そう溜息をつきながらも、柑奈は征史にノートを渡す。
「サンキュ!」
征史と柑奈は同じ中学出身。同じ高校に入ったのは二人だけで、同じクラスの上、机が隣同士になり仲が良くなった。今では互いに名前呼びをしている。
それは、一学期の半ば、中間テスト前のことだった。
試験前ということで部活も休みだったが、征史は一人、サッカー部の自主トレをしていた。
グラウンドを走り、サッカーゴールに向かって一人黙々とシュートの練習をする征史の姿を柑奈は校庭の片隅でずっと見ていた。
ただ、ひたすら見つめていた。
馬鹿がつくほどサッカーが好きで、サッカーしか興味がないような征史のことを……。
「ねえ、征史」
「何」
宿題を丸写しするのに余念がない征史の傍らで、柑奈が何気なく征史に話しかける。
「冬休みもサッカー部の練習?」
「当たり前じゃん。今年は『冬の国立』行きをあと一歩で逃したんだ。俺、一年だけどレギュラーなんだぜ。来年こそ絶対、全国大会に行くんだ」
征史がペンを動かす手を止めて、熱く語る。
その隣で柑奈が浮かない顔をしていることに征史は気づかなかった。
師走の日が過ぎるのは早い。
あっという間に期末考査も終わり、冬休みに入った。
柑奈が征史の試験勉強を手伝ったおかげもあり、征史は一学期とは違い、一科目も赤点を取ることなく、冬休みの補習を免れた。そして、サッカーの部活に専念している。
「柑奈。ごろごろしてるなら、家のこと手伝うか、勉強なさい」
柑奈の母が掃除機をかけながら、リビングのソファに寝転がっている柑奈に言う。
「まったく。冬休みだっていうのに何ふさぎこんでるの」
「……お母さん。今夜、台所使っていい?」
柑奈はソファから身を起こしながら、徐に呟いた。
「あら、今年も作るのね?」
「うん。今から材料、買い出しに行ってくるね!」
そう言うと柑奈はダッフルコートを羽織り、冬のイルミネーション輝く街中へと出かけていった。
そうして迎えたクリスマスイブ。
「柑奈?」
「征史」
征史は驚いて目を丸くしている。
「お袋から聞いてびっくりしたぜ。女の子が俺の帰りを部屋で待ってるって。柑奈だったのかよ」
そう声をかけた征史に、部屋の中央の炬燵に入っていた柑奈は俯きがちに言った。
「征史に。渡したい物があって」
「俺に?」
「これ……」
「この箱が何?」
「開けてみて」
柑奈の視線の先にある物は、炬燵の上に置かれた四角い箱。
征史がやや訝しむように箱の蓋を取ると
「うわぁ……!」
思わず征史が声を上げた。
箱の中身は、白い生クリームのクリスマスケーキ。
それは、大粒の赤いあまおう苺でふんだんに彩られ、中央に乗った愛嬌あるサンタクロースがちょこんと上を見上げている。
「クリスマスに。征史と一緒にケーキ食べたいなって、思って」
「これひょっとして。柑奈の手作り?」
「うん……。小さい頃からお菓子作りが好きで、毎年、ケーキ焼いてるの」
恥ずかしそうに柑奈は言った。
その時。
コンコンと部屋のドアを叩く音がした。
「お袋?」
征史が振り返ると、征史の母親が木製トレーにコーヒーカップとお皿、ケーキナイフを乗せて運んできて言った。
「ケーキを頂くんでしょう? お茶を持ってきたわよ」
征史の母親は炬燵の上にトレーを置くと言った。
「まったく。サッカーばっかりだと思ってたあんたに、こんな可愛いお嬢さんが訪ねてくるなんてね」
「ば、馬鹿! そんなんじゃ」
「何、照れてんの」
動じない母親に征史はぷいと横を向く。
「柑奈さん。ごゆっくりね」
含み笑いしながら母親はそう言い残し、そそくさと部屋を出て行った。
後にはまたふたりきりになった柑奈と征史。
ややぎこちなく、征史は言った。
「とりま、お茶飲もう」
「そうね。あ、私が注ぐ」
そう栞奈は言うと、ポットから珈琲をカップへと注いだ。珈琲は淹れ立てで、香ばしい香りが漂う。
なんとなく二人は無口なまま、珈琲を啜っていた。
しかし、ふと気づいたように
「あれ? このサンタクロース、サッカーボール持ってる」
と、征史が言った。
よく見ると、マジパンのサンタは、右手にはプレゼントを入れている大きな袋を肩に担ぎ、左手にはサッカーボールを手にしている。
「う、うん……。変かな、やっぱり」
「可愛いよ」
征史が笑んだ。
「こんなよくできたケーキ、食べていいの?」
「食べてくれるの?」
「柑奈の手作りのクリスマスケーキなんて最高じゃん」
破顔一笑。
いつもの征史の笑顔を見て、ようやく柑奈の顔がほころんだ。
「あ、でも」
「でも何?」
「これ、柑奈からのクリスマスプレゼントだろ? 俺、柑奈に何も用意してない」
征史は、そう眉をひそめる。
「柑奈、何か欲しいものある? 何でも、て言ったら語弊があるかもしれないけどプレゼントするよ」
「何でも……?」
「ああ。ご期待に添えられる限り」
その征史の言葉に栞奈は小首を傾げたが
「私……」
柑奈は途切れそうなか細い声で、恥ずかしげに呟いた。
「私、征史に。欲しいものがあるの」
「何? 言ってみて」
柑奈は暫し逡巡していたが、思い切ったように口を開いた。
「……私。征史のキスが欲しい……」
そう言いながら、柑奈は両手で口元を覆う。
「私の。ファーストキス……。征史から欲しい」
「柑奈」
征史は一瞬、言葉を失った。
真っ赤になり俯く柑奈。
ふたりの躰が固まる。
しかし、征史はふうっとひと息を吐いた。
柑奈が微かに震える。
「いいの……?」
征史の声に柑奈は躊躇いがちに頷く。
緊張したようにぎこちなく、けれど優しく征史は栞奈を抱き寄せた。
次の瞬間。
ゆっくりと征史の唇が柑奈の唇に、触れた。
それはそれは、ソフトな優しいキスだった。
二人が聖なる初めてのキスを交わしたその夜は。
白い粉雪が舞うホワイトクリスマスイブのこと。
しんしんと静かに、初めてのふたりのイブの夜が更けていった──────