第百八十三話 いったい誰なんだ?
「はぁ……」
「やる気出ねぇ~」
「癒しが……癒しが足りねぇよ~」
「エマちゃ~ん、カンバ~ック」
宣伝部のオフィスには陰鬱な空気が流れていた。
社員達は冴えない顔を浮かべていて、あちこちでため息が零れている。
何故そんな事になっているかと言えば、一か月前まで宣伝部に所属していたエマ・スミスが長期夏季休暇後に突然アメリカ支部に転勤してしまったからだ。
「もう一か月も経っているというのに、皆さん切り替えができないみたいですね」
「まぁねー、それだけエマの存在が皆にとって大きかったってことなのかな」
隣のデスクにいる楓さんの言葉に対し、自分が感じたことを伝える。
エマはいつも明るく元気で話も上手く、宣伝部の空気を華やかにしていた。それにTHEアメリカン美人な彼女は、こう言ってはアレだが目の保養になるし、男性社員からは絶大な人気を誇っていた。
ただ彼女は外見や性格だけではなく仕事に関しても優秀で、俺もそうだが女性社員にも頼られていた。他にもオシャレや流行などにも詳しく、エマは男性社員だけではなく女性社員からも人気の的だったんだ。
明るくて愛想も良く、美人で仕事ができるといった非の打ち所がないほどの完璧人間。
宣伝部の華は間違いなくエマで、彼女を中心に回っていたと言っても過言ではない。
そんなエマが突然居なくなってしまったのなら、社員達が切り替えできないのも無理はないだろう。
正直言うと俺だって、エマが居ないオフィスはどこか寂しくて物足りなさを感じているからな。
「でも、どうしてアメリカ支部に戻ることになったんだろうな。しかもこんな急にさ」
それが皆が抱いている一番の疑問だ。
エマは俺と楓さんがそれぞれ違う部署から異動したのと同じ時期に、アメリカ支部からウチの社員との交換出張として転勤してきた。
出張だから長期と考えても三か月ぐらいとして、エマが来た時期は夏前だったから時期的に戻っても不思議ではない。
だけどエマと交換出張した社員はアメリカ支部から戻ってきていないようだし、そもそも急過ぎる。普通、人事に関しては事前に社員達に知らせておくのが普通だろう。
なのに転勤を知らぬまま別れの挨拶もできずに居なくなってしまったし、転勤になった理由も分かっていない。日下部部長に聞いても分からないと返ってきたし。
な~んか腑に落ちないんだよな~と思っていると、隣にいる楓さんが銀縁眼鏡をクイッと上げて小声で言ってくる。
「エマさんの事で士郎さんにお話したい事があるんです」
「そうなの? どんな話?」
「ここでは話にくいので、仕事終わりに付き合ってもらっていいですか」
「分かった。じゃあ灯里に連絡しておくよ」
「私からも連絡しておきます」
楓さんから誘われたので、灯里に『今日は楓さんとご飯食べてくるから夜飯は要らないよ』といった内容のメッセージを送る。するとすぐに『了解! じゃあメムメムとどこか食べに行ってくるね!』と返信がきた。
メムメムと二人でご飯か……あんまり想像できないな。でも灯里とメムメムは基本家でずっと一緒だし、気まずいという事にはならないだろう。というか、あの二人って普段どんな話をしているんだろうな。
「ほらほら皆、エマ君はもう居ないんだからいつまでも怠けてないで仕事しよ」
「「は~い」」
パンッと手を叩きながら注意する日下部部長に、社員達は落ち込んだまま仕事に取り掛かったのだった。
◇◆◇
「あれ、いつものバーじゃないんだ」
「はい。誰にも聞かれたくないので今回は個室がある場所にしました」
仕事が終わって楓さんに連れて来られたのは、大手居酒屋チェーン店だった。てっきり楓さん行きつけのバーに行くと思っていたんだが、そこでは駄目らしい。
俺達は店に入ると、従業員に案内されて個室に入る。よっこいしょと座ってネクタイを緩めた。
「いや~それにしても暑いね」
「九月といっても残暑ですから」
外はまだ蒸し暑く、額から噴き出る汗をハンカチで拭う。
サラリーマンにとって夏は天敵だよなぁ。夏用スーツでも暑いものは暑い。本当はもっと軽い服装が良いんだけど、それは駄目だしなぁ。個室に付いているクーラーの冷風に幸せを感じてしまうよ。
暑い暑いと呻いている俺とは違い、楓さんは何ともないようだった。
だけど彼女もほんのり汗をかいているのか、シャツの胸元の部分が若干湿っている。それが何だか蠱惑的で、俺としては目に毒だった。
失礼だからできるだけ見ないように注意しよう……。
密かに心掛けていると、店員さんが注文を聞いてくる。
「お飲み物は何にしますか~」
「じゃあお茶で」
「私も同じで」
「あれ、お酒は飲まなくていいの?」
「後で飲みますから」
お酒大好きな楓さんがお茶を頼むなんて珍しいから尋ねてみると、後で飲むとのことらしい。大事な話をする前にアルコールを入れないという考えなのだろう。
店員さんにお茶と軽く食べられるものを頼むと、すぐにお茶だけ持ってきてくれた。
「それじゃあとりあえず、乾杯しようか」
「はい」
話があると言っても、やっぱり社会人が一番最初にやるべき事といったら乾杯だよな。
俺と楓さんはグラスを持ってカチンと音を鳴らすと、同時にお茶を飲む。
「あ~生き返る~」
「美味しいですが……やっぱり生にしておくべきでした」
「はは……」
お茶を飲んで少し後悔している楓さんを見て微笑んでしまう。
そうだよな、最初の一杯目はお酒が良いよな。特にこの夏の時期はビールが美味いんだ。だからお茶では物足りない彼女の気持ちは十分わかる。
「では、さっそく本題を話しましょうか」
「うん、エマのことだったよね?」
確認すると、楓さんは「はい」と頷いて、
「エマさんが急に転勤したことが気になったので、少し調べてみたんです」
「へー流石楓さんだな、それで何かわかった?」
「はい。以前から交流があったアメリカ支部の同僚にエマさんについて聞いてみたんです。そしたら、驚くべきことが分かりました」
「えっどんな?」
「実はエマさん、この一か月の間に一度も出社していないようなんです」
「ええ!?」
楓さんから聞いた情報に驚愕する。
一か月も出社していないってどういう事なんだ? ずっと休みを取っているのか……でも休みを取るにしても一か月は長いよな。
う~んと唸っていると、楓さんが話を続けてくる。
「それを聞いた私は同僚にエマさんについて調べてもらいました。そしたら、“明るく元気で金髪美人のエマ・スミス”なんて女性社員は一度も見たことがないと言ったんです」
「えっ!?」
「それどころか、どの部署の社員に聞いてもそんな女性社員は知らないと同僚は言われたようです。つまり、“エマ・スミスという人間は最初から会社に居なかった”という事になります」
「ちょ、ちょっと待って! それっておかしくないか? だってエマはアメリカ支部から転勤してきたんだろ? なのにアメリカ支部の人達が誰もエマを知らないってあり得ないと思うんだけど……」
楓さんの話に疑問を抱いた俺は慌てて尋ねる。
すると彼女は「それが……」と怪訝そうな表情を浮かべてこう言ってきた。
「同僚が調べたことによると、社員名簿だけにはエマ・スミスの名前が記載されていたようなんです。なので事実上、エマ・スミスという人間は確かにアメリカ支部に在籍している事になっています。但し、誰もそんな人間に見覚えはないみたいですが」
「嘘だろ……じゃあ俺達がこの数か月一緒に働いてきたエマは、いったい誰なんだ?」
「……わかりません」
楓さんの話を聞いた俺は訳がわからず混乱していた。
アメリカ支部から出張してきたエマが、何故アメリカ支部の社員の誰からも認知されていないのか。社員名簿に名前があるから在籍していることに間違いはないんだろうけど、どうしてアメリカ支部では働いていないのか。
いったい何がどうなっているんだと困惑していると、楓さんが真剣な表情を浮かべて口を開いた。
「以前私が士郎さんに、エマさんは政治絡みで転勤してきたと言ったことがありましたよね」
「うん……覚えてるよ。エマが転勤してきた日に言ってたよね、エマがスパイなんじゃないかって……」
「そうです。今回の一件で彼女について調べた私は、やはりそうではないかと疑っています。都合の良い名簿だけの社員。メムメムさんが現れた時期に丁度転勤してきたこと。余りに条件が重なり過ぎていますから」
「でもさ、それにしては本当に何もなかったよ。楓さんに注意されてから俺も多少警戒していたけど、エマは全然メムメムについて聞いてこなかったんだ。自分から会わせて欲しいってこととか、そもそもメムメムの話題すら出さなかった。
急にアメリカ支部に転勤するまで一度もね。エマがスパイなら、それって不自然じゃないか?」
もしエマが政治絡みのスパイだと言うのなら、どうにかメムメムと接触してこようとするんじゃないだろうか。しかしエマは、一度たりともそんな素振りはしなかった。
仮にエマがスパイだとして、スパイの役目を果たしていないまま転勤することなんてあるのだろうか?
そんな疑問が浮かんでいると、楓さんも腑に落ちないといった風にグラスを弄って、
「そこが私も疑問なんです。わざわざ名簿だけの存在しないエマ・スミスを使ってまで士郎さんに接触してきたのに、これまで何も行動を起こさずに帰ってしまいましたからね」
「だよね……。はぁ、なんなんだろうな~エマって……」
「わかりません。調べようにも彼女は消えてしまいましたから……真相は闇の中です」
二人でため息を吐く。
エマが本当の社員じゃない事は分かったけど、結局のところエマが何者なのかってのは分からないままなんだよな
まぁ幾ら考えたって答えを知れる訳じゃないし、とりあえずエマについては脇に置いておくしかない。
「生で~す」
「ありがとうございます」
重要な話が終わったのか、楓さんはお酒を頼んでグビグビと飲む。相変わらず飲みっぷりが良いな~と思っていると、珍しくモジモジしながら尋ねてきた。
「ところで話は変わりますが、士郎さんって何か欲しい物とかありますか」
本当にガラッと話の内容が変わったな……。
不意に楓さんから聞かれた俺は、腕を組みながらう~んと考えて、
「欲しい物か~あんまり無いんだよな~。買わなきゃいけない趣味とか特に無いし、物欲とかもあまり無い方だしね」
「なら小物とかどうですか? 財布や腕時計とか……ほら、士郎さんって腕時計着けていませんよね」
「腕時計か~確かに着けてないな~。就活の時は安物を着けていたけど、製造部に居た頃は邪魔だったから着けてないしね。
あ~でも、今は宣伝部だしこの前みたいな広告とか人前に出る仕事があったら、社会人としてそれなりの物を着けないといけないのかもなぁ」
「あっ、でしたらこの中でどれがお好みですか?」
腕時計も必要になってくるかもと言ったら、楓さんが身を乗り出してスマホの画面を見せてくる。見せてもらうと、腕時計メーカーのホームページだった。
「う~ん、これなんかシンプルでいいかもね」
「そ、そうですか」
画面をスクロールして商品を見ていくと、良い感じの腕時計があった。それを伝えると、楓さんはどこか嬉しそうにしている。
それが気になった俺は彼女に尋ねてみた。
「でもどうして急に欲しい物なんか聞いてきたんだ?」
「えっ!? いや、なんでもないです! 気にしないでください」
「そ、そう……?」
意図が分からないけど、まぁいいか。これくらいの話は誰だってするしな。
俺は深く考えず、それからも酒を飲みながら楓さんに聞かれることに答えていったのだった。