巡回
(ったく、仕方ねーだろうが……)
確かに俺が消防士になってからこの28年間、奇跡的に1度も火災が起きたことはない。
理由としては、そもそもこの街が過疎地で、火や油をよく使う飲食店も殆ど無いから。
駅前だって焼き肉屋が一件あるだけだ。
(まあ、気持ちは分からなくもねーけどさ)
自販機でコーヒーのホットを購入し、詰め所に戻る。
パキリ、と蓋を開けると、暖かい黒の液体を胃の中に流し込んだ。
舌の上に苦みだけが残る。
「……マズいな」
ギシ、と倚子にもたれると、俺はまた物思いにふけった。
アインシュタインのヤツの気持ちも分かる。
俺だって、この職業にある種の期待を持って働き始めたクチだ。
そんな一番イキってる時期に、火災現場を経験したことがない隊長がいると知ったら、卒倒するだろう。
だが、何年もやっていると段々怖くなる。
毎年、何人かの消防士は火災現場で亡くなる。
その通達を受けるたび、俺はこの部署で良かったとつくづく思う。
「給料泥棒ですよ」
そんなセリフがアインシュタインの口から出たことがあった。
だが、よく考えろ。
他の奴らより楽して給料を貰ってる風に見えるかもだが、明日には死ぬかも知れないんだ。
命をかけているってことを考えたら、月40万の手取りでも俺は安いと思う。
「お子ちゃまなんだよ、アイツは。 はな垂れ小僧の癖しやがって」
ギイ、ギイ、と背もたれに体を預けていると、いつの間にか3時を回っていた。
ハゲとアインシュタインが戻って来る。
「隊長、ランニング終わりました。 巡回、行かなくていんすか?」
ハゲに言われて、俺は慌てて立ち上がった。
「お前に言われなくてもこれから行くよ」
隣のアインシュタインは一言も喋ろうとしない。
それが俺の気持ちを逆なでしたが、ぐっ、と言葉を飲み込む。
俺が若手の時代だったら、隊長に黙りは喧嘩を売っているのと同じだ。
お疲れ様です! の一言くらい、常識だろうが。
「……」
何か言ってやりたいが、今のご時世、そういうのはパワハラだ。
本社でも散々、教育をやらされた。
俺は怒りを一旦静め、平静を装って言葉を吐いた。
「……昨日回り切れなかったとこ回ってくるから、何かあったら連絡頼む」
「ッス」
外の冷たい風に当たれば、怒りも自然と収まるものだ。
巡回は消防士の日常業務で、火災の多い冬のシーズンに家を一件一件回って火の用心を促す。
17時が定時の為、ある程度回ったら一旦詰め所に引き返し、ハゲ、アインシュタインの2人は帰宅。
俺は泊まり勤務の為、今日は詰め所にいなきゃならない。
「っし、このアパートからだな」