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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
嘆きと祈りのクッチ
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1.大聖堂の村




 雨季は完全に明けたようだった。


 露混じりの冷えた風は、海の潮風に浚われて遠く彼方へと去っていく。雲ひとつない青空が、太陽の光を伴って(ひな)びた漁村を長閑な空気に染めていた。


「ここが、バンガーか」


 村の入り口でまばらに並ぶ民家を見渡して、エディが独りごちた。景色を焼き付けるように二、三度、茶色い目を瞬かせている。


 つい数日前までは存在を知りもしなかった彼と、こうして見知らぬ村の入り口に立っているというのは、とても奇妙なことのように思えた。まして、ウェールズ人(カムリ)であるわたしが、よりによって嫌厭していたイングランド人と旅に出ただなんて、おかしな縁もあるものだ。


 棲家を追われて、已むにやまれずと言えば切迫感も出るけれど、彼の手を取ってこの地を巡ることに決めたのは他でもない自分自身だ。それはこの十七年間、山に隠れ住み続けたわたしにとって決して些細とは言えない変化だった。


 わたしは手で作ったひさしの下、できるだけ遠くを眺めるように、そこから見える限りの村の隅々までを眺めた。


 ウェールズ(カムリ)最北端の地、アングルシー島。そこへ渡るために訪れた北西部の村は、小さいながらも生気に満ちた場所だった。


 騒々しさはない。通りに人がひしめいているわけでもない。けれど、わたしの馴染みにしていた村よりも人が多く活気づいているように感じた。


 ちょうど漁が終わって戻ってくる時間なのか、小さな波止場側にちらほらと漁船が見えた。海岸に着いた木舟から、積まれた大きな漁網をふたりがかりで引っ張り出している。あれの中身を、これから村の市で売るのだろう。


 村の中心の方まで行くと、店が軒を連ねる通りが一本、長く尾を引いて北から南へと縦断していた。海を挟んで島へ渡る中継地点であるせいか、小さいながらも、宿に日用雑貨、食料品店など、必要最低限の店が揃っているようだ。


「さて、どうしようか。アングルシー島へ行く前に少し村の中を回ってみるのもいいかもしれないね」


 商店の通りを一瞥してから、隣を歩く男が言った。アングルシー島への道行きは、彼が生業の吟遊詩人(バルズ)として感性を磨くために選んだものだ。


 てっきり、この村はただの通過点なのだろうと思っていたので、わたしは足を止めて聞き返した。


「すぐに渡るのではなかったのね」


「時間に制限のある旅ではないから。食料も心許ないし、少し調達して行った方がいいかな」


 彼の言葉通り、昨日の早朝に物々交換で手に入れた食料は、日持ちするとは言え一日、二日が限界だろう。わたしの商い道具でもある手製の薬や下処理済みの薬草も、咄嗟の判断で持ち出したものばかりだったのでどこかで一度補給が必要だった。


 彼を一瞥してから次の行動を考えるために辺りを見回す。さてどうしたものか思案していると、背の低い屋根の点在するその向こうに、ひときわ存在感を示す建物を見つけて釘付けになった。


 灰を蜂蜜で練ったような、白茶けたベージュの煉瓦造り。アーチ型の嵌め殺しの窓が等間隔に並んだ側廊の壁が、バラ窓のついた三角屋根の入り口と、一番奥の箱型の建物を繋いでいる。屋根の上に立っている十字のモニュメントが、口づてでしか聞いたことのないわたしにその建物の正体を知らしめた。


「グウェン?」


 ほんの一瞬、意識をそちらへ遣っているとエディに呼ばれた。あぁ、そうだったわ、食料調達。


 ……と言っても、わたしは金銭と無縁の生活をしていたから、手持ちの薬を売ってお金を稼ぐところから始めないといけないのだけれど。


 だからこそ、あの建物は今のわたしたちにとってとても都合よく思えた。


「そうね。時間に余裕があるのなら、その前に少し寄ってみたいところがあるの。いいかしら」


「寄ってみたいところ?」


 まさかわたしが寄り道したがるとは思わなかったようで、彼が首を傾げる。目的地を促すような仕草を見るに、特に反対するつもりはないらしい。


 答える代わりに、たったいま気を取られていた建物へ目を向けた。エディが視線の先を追って、矢庭に目を細める。


 小さな漁村にしては不似合いな大聖堂が、厳かに、わたしたちの視線を受け止めて佇んでいた。




 ▽ ▲ ▽




 医者などというものは、この時代、王侯貴族や資産の潤沢な地主、豪商にしか縁のないものだった。庶民は大抵、薬師から薬を買って自力で病を治すか、それすらもできないお金のない人々は、床に臥せってやり過ごすのが普通だけれど、修道院や聖堂のある街であれば、修道士や修道女達が仮設の診療所を設けてくれることもある。


 そういうわけで昔から、修道院の敷地内には、彼らが調薬に用いるための薬草園が備えられていた。


 身近にそういった大きな聖堂や修道院がなかったわたしは、実際にそれを見たことはない。けれど母は違ったようで、きっとわたしを生む前に住んでいた場所で見たのだろう。


 もしも見知らぬ街で困ったらまず聖堂や修道院を探しなさい、と有り難くも、亡くなる前に知識だけはたくさん詰め込んでくれた。聖堂があれば、近くに修道院がある。修道院ならば、間違いなく薬草があるからと。


 いつそんな状況になるのかと眉根を寄せた十余年前のわたしに、今がその時なのだと声を大にして言ってやりたい。


「薬草を補充しておきたいの。道中で少し摘んできたけれど、種類にも偏りがあるし、調薬した薬を売って旅の路銀にするにしても、道中で使うにしても足りないから。施しに縋るのも情けない話だけれど」


「生きる手段に情けないも何もないよ。けれど、薬草だけを譲ってもらうことってできるのかな」


「それはわからないけれど……それならそれで、見るだけでも見てみたいわ。修道院や聖堂の管理する薬草園には、遠い地域や外国の薬草もあると聞いたことがあるから」


 そう説明すると、彼は納得したように二つ返事で頷いた。聖堂に行くのなら、自分もお祈りをしたいからと快い理由までくっつけて。


 十字架を戴く三角錐型の屋根を目指して先行した、彼の背中を追う。わたしは声もなく、未知の好奇に高鳴る胸を押さえて後に続いた。


 生きるための手段であって、自分にはそれしかないから薬を作り続けているのだと思っていたのに、結局は、わたしも薬師の端くれなのだと思い知らされる。


 小さな村は目的地までの距離もそれほど長くなかった。いくつかの通りを進んで角を曲がって、家並を眺めているうちに目当ての建物が目の前まで迫っていた。


 特別高い塀も大きな門もない大聖堂は、何者をも拒むことなくそこに佇んでいる。威圧感はないのに門前で足踏みしてしまうのは、わたしが宗教という意味での神様を信じていないからだろうか。先を歩いていたエディが、扉を開けて中へと促した。


 意を決して一歩足を踏み入れた聖堂内は、一際ひんやりとした空気で満たされていた。その空気の質の違いを、理屈ではなく肌で感じ取る。


 日々清められている場所だからだろうか。確かに側廊の窓から淡く光を取り入れているにも関わらず、肌の粟立つ涼やかな温度が産毛を撫でた。


 二歩、三歩、気付けば足は無意識に、大聖堂の中を行く。布製の薄っぺらい靴底が、冷たい敷石の感触を足の裏へ伝えた。


「ようこそ、旅の方。朝の礼拝の時間は終わっておりますが、祈りを捧げに立ち寄られた信徒の方でしょうか」


 身廊の中ほどまで歩を進めたところで、静かな女性の声に足を止められた。声の主を探して視線を彷徨わせると、講壇の両脇の壁に突き出た翼廊から修道女が姿を現す。質素な黒染めの衣に包まれたすらりと背の高い女性は、声と同じように静寂を守る瞳でこちらを見つめていた。


 茶褐色にも黒褐色にも見える色素の濃い瞳からは、本来修道女が持つであろう慈愛や博愛や、あるいは独善のようなものを読み取ることができない。それを、見る人が見れば拒まれていると感じることもあるだろう。


 わたしは、見極められている、と受け取った。


「こんにちは、シスター。無言で立ち入った無作法をお許しください。旅の途中に大聖堂を見つけたもので、ご挨拶と少しの施しをと思い、立ち寄らせていただきました。

 わたしは信徒ではありませんが、教会の父たる主は高潔に正しく生きる者であれば、何人(なんぴと)にも門を開いてくださると伺いましたので」


 折り目正しい挨拶、というものは苦手だ。元より正規の教育を受けたわけでもない、村娘とさえ言えないような生い立ちである。その上、長いことろくに会話や交流をしてこなかったつけが、今一気に巡ってきているような気がした。


 それでも己の心に嘘をつかず、彼女の深淵のような目に睨め付けられないための言葉を精一杯選んだ結果がこの答えだった。


 わたし自身は信徒ではないけれど、信仰する神様を持たないからと言って、同胞(カムリ)が信奉する概念を否定するつもりもない。この村に立ち寄ったからには挨拶をしたい、というのは本音だ。


 信仰心の篤い人が聞けば、神様を信仰していないと告げただけでも卒倒されることだろう。悪魔や魔女と断罪されることすらあるかもしれない。願わくは、この修道女が四角四面で厳格そうな見た目よりも、心の広い方でありますようにと祈るばかりだ。


 果たして、修道女は小さく瞬いてひとつ頷いた。誰ひとり着席していない椅子の一端を示しながら、祈りの場へと導かれる。


「仰る通り、主は清く正しく生きる子らの前に、等しく慈悲の御手を差し伸べられます。どうぞ、お連れの方もこちらへ」


 促されて、わたしはやっと後からついてくる彼を振り返った。茶色い瞳が曖昧に笑ったことで、己の徒労をまざまざと思い知る。


 勝手にあれやこれやと考えて受け答えをしてしまったが、よくよく考えればキリスト教徒であるだろう彼が居たのだ。一言、彼がお祈りを望んでいたのだと言えば、それで済んだのではないかと今更(本当に今更なことだが)思い至った。


 少しばかり苦いものが唾液に混じって、噛み潰しきれない虚脱感と一緒にそれを飲み込んだ。そ知らぬ顔をして最後列の長椅子の隅に腰掛ける。連れが隣に着くのも待たずに、わたしは胸の前で指を組んで目を閉じた。


 ほんの僅かの間、この村で足を止めることの挨拶と、今日が晴天であることへの感謝、それから、これからの季節も良き薬草が育ちますようと形式張った祈りを述べて顔を上げる。


 旅の道行きが安全であるように、とは願わなかった。そのような一個人の些末事になんて、神様はいちいちかかずらっていられないだろうから。


 顔を上げると、エディはまだ熱心に祈りを捧げていた。敬虔な信徒は何時間でも祈るものだと聞くし、もう少しかかるかもしれない。彼がどれほど敬虔かは知らないけれど、信者の祈りの多くは神への感謝と礼讃で埋め尽くされているそうなので。


 しばらく待ってみたけれど、彼が顔を上げる気配はなかった。これは気が済むまでそっとしておいた方がいいだろう。わたしは先程の修道女を探して辺りを見回した。午前中でもほんのりと薄暗い聖堂内の、やはり翼廊の陰に、彼女が控えて祈りを捧げているのが見えた。


「あの、シスター」


 そっと席を離れて修道女の元へ向かう。彼女はすぐに瞼を押し上げると、側廊へ出て首を傾げた。


 さっきの平坦な物言いで随分と年上のように思えていたけれど、その仕草はどこかあどけなく、もしかすると歳はわたしより少し上か、エディと同じくらいかもしれないと考えを改める。吸い込まれそうな黒褐色の瞳が如何を問うた。


「図々しいことは承知で、ひとつ、お願いがございます」


「どうぞ、なんなりと。我らができることは限られますが、その最大限で、悩める万民への助力は惜しみません」


「ありがとうございます。この近くに、修道院や薬草園はありますか?」


「はい。私ども修道女の所属する修道院が、村からすぐの南の方に」


 お願いの内容を口にする前から閉め出されなくてよかった。やはり、修道院が近くにあるらしい。わたしは腕に引っ掛けたままの籠を下ろして頭を垂れた。


「わたしはここより東の方の村で、薬師の端くれとして生計を立てておりました。諸事情から、先日、家を出て旅を始めたのですが、ろくな備えもなく出てきてしまった為、薬も材料も尽きかけているのです。どうか、お慈悲を頂けますならば、こちらで少し、薬草を分けて頂けないかと思いました次第です。

 ……無理なようでしたら、せめて後学のために薬草園を拝見させていただくだけでも、どうか」


 修道女は是とも否とも言わなかった。姿勢を屈めているので見えないけれど、それでいて真っ直ぐに注がれる視線だけはひしひしと感じる。


 やはり図々しすぎただろうか。そろそろ姿勢を戻して謝罪した方がいいかと頭を上げようとした時だ。


「わかりました。あまり多くを施すことはできませんが、それでもよろしければ」


 思わず、勢いよく頭を上げた。よほど驚いた顔をしていたのか、修道女は不可解そうに何度か瞬いて「薬草が欲しいのですよね」と訝るように確認した。


「あの、ええ、はい」


「それではこちらへ。お連れの方には他の者に言伝を頼みましょう」


「ありがとうございます」


「女子修道院の薬草園へ案内致しますので、少し歩きますよ」


「はい……」


 拍子抜けした口からは、断片的な肯定と礼しか出てこない。もっと、厳重に管理されているものだと思っていたのだ。修道院の薬草園というものは。


「あぁ、ルシル。丁度良かった。こちらへ」


 修道女が、翼廊の奥にちらと見えた小柄な人影へ呼びかける。ルシルと呼ばれた彼女は、小さく肩を震わせたあと、こちらへ振り返っておずおずとやって来た。


 近くで見ると、まだ年端も行かない少女のようだった。やっと十をいくつか過ぎた歳の頃だろうか。シスターとは呼ばれなかったけれど、同じ修道服を着ているので見習いなのだろう。


「なにか、ご用でしょうか、シスター・マーガレット」


「ええ。私は少し、席を外します。戻ってくるまでの間、聖堂内の見回りと、あちらで祈りを捧げる敬虔な信者への言伝を頼みます」


「なにをお伝えいたしますか」


「お連れの方を聖堂の薬草園まで案内してきますので、暫しこちらでお待ちください、と」


「わかりました。お祈りが終わりしだいお伝えします」


 よろしくお願いします、とわたしからも言伝を頼んで、ルシルに頭を下げる。凪いだ瞳のシスター・マーガレットは、わたしが後をついてきていることを確認してから足音をひそめて出入口を出た。




□はみだし与太話【修道院と薬草園】


古代から中世、近世にかけて、修道院では様々なハーブ(薬草・香草)が育てられていたそうです。

当時の修道院や聖堂等では民間の医療施設としての側面も持っており、修道士・修道女は医学・薬草学にも精通していました。

香辛料や食用農産物の種類に乏しかった中世英国の教会では特に多くのハーブが育てられていたと言います。


ところが、中世末期から近世に入り、イングランドがヘンリー八世治世の時代に移ると、国教を英国国教会に統一するため大規模な宗教改革が行われました。

その過程で多くの古い修道院が解体され、これと同時に当時の修道院薬草園で育てられていた多くの種類の薬草が失われたそうです。

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