閑話:月の女神は微笑まない
「この先どこか、行きたいところはある?」
エディと共に旅立ったその日、彼はわたしにそう尋ねた。海に近いコンウィの町を避けて通る野山側の道を、西へと歩き出した頃だ。
わたしはそれに、いいえ、と答えた。どうせ家を離れたのだから、父の歩んだ軌跡の欠片を、母の暮らした何処かの町を、この目で確かめるつもりでいた。けれどそれは、明確な目的地を決めて目指すべき旅ではない。
ウェールズの最後の英雄、オワイン・グリンドゥールは、このウェールズ中の西から東、北から南までの至るところを駆け抜けた筈なのだから。
「わたしの目的は、あなたと同道する旅の途中で拾って行くわ。そういうあなたこそ、結局、どの町を経由してどこを目指すつもりなの?」
そう端的に締め括って、同じような問いを返す。彼はそれに、先ほど教えた通りだよ、と答えた。
『グウィネズに向かって、アングルシー島へ行ってみるのもいいかもしれないね。カーディガン経由でカーマーゼンに向かってもいい』
ほんの少し前に彼の口から告げられた先行きを思い出す。あの言葉は、ふらふらと気の向くままに答えたものだと思っていたけれど、どうやらそうでもないようだった。
彼はもう一度、それらすべての地域の名前を挙げて、一応の目的を指し示した。
「アングルシー島はロマンスの宝庫だよ。民俗叙事詩に、有史以前のメンヒルや巨石群。それから争いと抗い。征服による荒廃と再生の歴史が色濃く残る島なのだとか。――ローマ人、ヴァイキング、アングロ・サクソンにノルマン人。勝っては奪い、また奪われ続けた土地は、それでも今なお美しい風景を残しているらしい。
私はそれを、じかに見てみたい。土地の風に触れ、土を踏み、そうしていつか、自分の歌に乗せてみたいんだ」
エディの熱弁する姿は正直、意外だった。彼は彼自身の在り方については己の思ったように行動する節があるが、吟遊詩人としての己に誇りを見出しているかというと、それは少し違う気がしていたから。
思っていたよりも、彼は吟遊詩人という己の肩書きと真摯に向き合っているらしい。――ウェールズ語はてんでなっていないけれど。
「そうね。ウェールズを識り、ウェールズの詩を語るなら、それはあなたに必要なことなのでしょうね」
イングランド人が吟遊詩人であることはやはり心中複雑だけれど、わたし達のことを知ろうとしてくれることは素直に嬉しかったので、彼の訴えに同調する。彼はいくらか緊張のほぐれた顔で頷いた。
「うん。いつまでも与えられた詩だけを唄っていても、錆び付いてしまうだけだと気づかされたから」
「では、カーマーゼンへはどうして?」
「それは……」
ごく自然な流れで尋ねたのに、それを聞くと、彼はわたしを一瞥してへらりと笑った。気の抜ける表情だけれど、何かを誤魔化そうとしているのは明白だ。
追及することもできたけれど、わたしはひとつ息を吐いて手にしていた籠を足元に置いた。
「いいわ。地図は持っているのよね? わたしにも見せてちょうだい。これからわたし達が向かう先を知りたいの」
「あぁ、うん。少し待って」
彼はほっとした様子で外套の下の鞄――とは名ばかりのずだ袋を漁ると、羊皮紙の巻物を取り出した。擦り切れかけた地図は、ウェールズ全域の町や村と川の流域を記したものだった。
コンウィの近くのあの山や村から出たことのないわたしには、その正確性は測れなかったけれど。
「ここから西に向かうと、バンガーという村があるんだ。メナイ海峡を挟んですぐ、アングルシー島に渡れる。これまで歩いてきた感覚なら、多分、一日か二日で着くよ」
バンガー。バンゴール。確か、この国で最も古い大聖堂がある村だ。大聖堂の前身は修道院であったから、その存在と名前だけは知っていた。
どこに在るかは知らなかったけれど、地図を見せられ指を差されれば、半端な知識と位置関係が頭の中で結びつく。
「それならこのまま、山の麓に沿ってスノードン山を迂回する道を通りましょう」
こうして、わたし達の旅が始まった。
▽ ▲ ▽
常日頃から、薬草の採取のために野山を歩き回っていてよかった、と心の底から思う。それが、一日中歩き詰めての感想だった。
一見、遠くまで見渡せるなだらかな道に見えたスノードン山の麓は、歩いても歩いても距離が縮まらない錯覚に陥った。
コンウィから海岸沿いを通る道は、道とも言い難く舗装されていないので、崖のようになっている箇所も少なくない。これまで住んでいた山以上に、足元には気を配って歩かなければならなかった。
途中、いくつか川が野辺を遮っていて、その都度迂回する必要があったことと、薬にできそうな野草や薬草を見つけて何度か足を止めたので、夕刻を迎える頃になってようやく、遠目に小さな村の明かりを確認できた。
彼はさすがにこれまでも旅をしていただけあって、涼しい顔で歩幅を合わせてくれている。途中、つらいなら手を引こうかと言われたけれど、今のところはつらくないので断った。――たとえつらくても断っていたけれど。
同行することは了承したが、まだそこまで気を許したわけではない。旅に出ることを選んだときに彼の手を取ったのは、ただの決意表明だ。勘違いはしないでいただこうと固く心に決める。
エディの手引きを断ったわたしに、彼は「無理はしないように気をつけて」と笑った。
その言葉は、そっくりそのまま返したいと思う。何せ彼は、その点に関して言うと前科持ちなのだから。
大丈夫だと平気な顔で無理をして、挙げ句に風邪を引いたのは記憶に真新しい。
あのときは充分な薬の材料や食料があったけれど、今はこの右手に引っ掛けた籠半分の薬しかないのだ。どれだけ使ってどれだけ保つかを常に頭の片隅に置いて、逐次補充しながら目的地を目指さなければならない。言うにも行うにも難しいことだ。
そしてわたしの懸念した通り、彼の余裕が続いたのはその日の晩までだった。
▽ ▲ ▽
目の前で膝を抱えて転がる男を見下ろして、わたしは今日一番のため息をつく。何食わぬ顔で山道をすたすたと歩いていくものだなと感心する反面、心配もしていた。
遅かれ早かれ、こうなるだろうとは思っていたのだ。
「あしがいたい」
「そりゃあそうでしょうよ。あなた、病み上がりに一晩じゅう山を駆け回ったのよ。それも泥濘んだ下り坂を。おまけに、明け方になって休んだのは納屋の中だわ。大して眠れていないのに、それでは疲れは取れないわよ」
その上、今日だってこのような時間まで歩き通したのだ。焚き火の明かりでやっと彼の表情が見てとれるほど、辺りが暗くなるまで。
一日か二日で着くと言っていたので、多少無茶をして今日中に村へ着けばいいと思っていたのもある。けれど、日が落ちてから動くのは得策ではない。それで木立の間に岩陰のある場所を探し、薪になりそうな枝を集めてやっと先ほど腰を落ち着けたのだった。
朝、村で交換してもらった押し麦を薄めて焼いたものと、果物を半分ずつ平らげる。空っぽになりかけた皮袋の水筒を揺すって、近くに川が流れていたことを思い出した。「水を汲んでくるわ」と席を立ったわたしを追うように立ち上がったエディが、緩やかな動きで崩れ落ちたのが、先ほどの彼の呻きに至るまでの出来事だ。
ついでに言うと、「あしがいたい」と言った彼の声は、すべての音に濁音が混じるほどの険しさだった。恐らく、やっと腰を下ろして休めると緊張が解けた矢先に彼がまた立ち上がったものだから、身体がついていかなかったのだろう。
わたしは皮袋を手にしたまま立ち尽くす。昨夜、急いで荷物を放り込んだ籠の中には、何の薬草があっただろうか。
「どんなふうに痛むの」
こうしてこのまま転がしておくのでは、明日の朝にまで痛みを引きずるだろう。村は遠目に見えているが、まだまだしばらく歩かなければならない。
ならば、薬師のわたしがすべきことはひとつだ。
「脹ら脛の、筋肉が、萎縮してるみたいだ。腿も痛いけど、あし、あしのうらが」
「強張って引き攣っているのね。攣りかけていた脚を無理矢理うごかしていたから、足の裏にまで負担が掛かったんでしょう。もしかしたら、肉刺もできて潰れているかも」
籠の中を漁ってから、ひとつふたつと小さな壷の栓を開ける。手で煽りながら匂いを嗅いでは蓋をし戻す、を何度か繰り返して、目当てのものをふたつ見つけた。
それから二種類の薬草を取り出して、その内のひとつを少量、小さな土瓶に千切る。ほんの爪の先ほど。残り少ない皮袋の水を土瓶に流すと、それを焚き火に当てて熱した。
「それは?」
「ヒヨスの煎じ薬よ。筋肉を弛緩させる作用があるの。たくさん摂取すると中毒反応で逆に心臓や身体機能が痙攣してしまうから、本当にちょっとね」
ケシのように、身体を切り開くような大きな処置の際に麻酔として用いられるものだ。
酩酊感や浮遊感などの毒性があることには変わらないけれど、筋肉や感覚を弛緩させる薬草はいずれもそういった毒を抱えているので仕方ない。せいぜい常用しないよう気を付けよう。そう考えて、間に合わせだが処方する。
エディの口から、まだまだ苦悶の色濃く滲む呼吸が漏れた。籠の中の手拭いを何重にも折って鍋つかみの代わりにすると、胸の内で数えていた時間通りに焚き火から土瓶を下ろす。その中身を別の乳鉢に空けて、そこに壷の一方から薬匙でケシの実の液から作った粉末をわずかに入れた。
毒を以て毒を制すとはよく言ったもので、常用すると中毒症状を起こすこれが、ヒヨスの毒を解毒してくれるはずなのだ。
仕上げに乳棒で入念に擂り潰して混ぜてから、彼へ寄越す。本当は葉の屑や汚れを濾して取り除くべきなのだが、生憎と慌てて出てきたので、濾過用の器具はあの小屋に置いてきてしまった。蒸留のための陶製フラスコも。
調達するにもほいほいと買える代物ではないし、何より荷物が増えるので、どこかで薬種屋を見つけたら貸してもらって薬を作り溜めしなければ。
彼は片手で自分の脚を揉みほぐしながら、受け取った乳鉢を意を決して呷った。痛みに寄っていた眉間の皺がより深くなる。
「苦い……」
「薬だもの。甘くないのは重々承知でしょう」
「承知してることと、納得していることは、別物だと思うんだ」
「はいはい、いいから靴を脱いで」
痛みに身悶えていたエディは、背中を丸めて横たわったままのろのろと靴紐をほどいた。
体勢のせいでうまく脱げない靴を、反対側から引っ張って手伝う。あちこち肉刺が潰れて硬くなった足の裏に、新たな肉刺の潰れた痕があった。思った通りだ。
そこに先ほど取り出したもうひとつの壷の中の液体を指ひと掬い分塗り込み、ついでに足の裏の肉刺ができていないところをしばらく指圧する。野犬の唸り声のような呻きが、彼の口からこぼれた。
もう少し強くしたら、威嚇するように吠えるだろうか。好奇心で彼の顔へ視線を滑らせると、フードの隙間からエディがこちらを追い縋るように見上げていた。
神様でも悪魔でも妖精でも、なんでもいいから、今すぐこの痛みを止めてくれ。そんな目だ。
気持ちはわからないでもない。わたしも、一日じゅう山の中で薬草を採取したとき、そんな痛みに見舞われたことがあった。まだ山の歩き方を知らなかった幼い頃のことだ。
「タンポポの汁は肉刺や魚の目にいいの。潰れてるからどれくらい効くかはわからないけれど」
「そっか。ありがとう」
「あとはこの葉を靴の底に敷いておくといいわ」
一葉が五肢の羽状に裂けた、ギザギザとした葉を籠の中の束から二枚千切って渡す。花期はもう幾月か先なので、持ち出してきた薬草の束は乾燥した葉だけだ。
「これは……ヨモギか。脚に貼るのではなくて、靴に入れるの?」
「ええ、そう。足の冷えの解消や疲れをほぐす作用もあるけれど、靴に入れるのは、どちらかと言うと効能にあやかったおまじないね。旅人はよく靴底にヨモギを潜ませているそうよ」
以前、山の麓の村に降りたとき、市で出会った名前も知らない旅人がそう教えてくれた。足の痛みがいよいよとなったときは、それを桶に張った湯に浸けて足を温めるのだ。
「お守りみたいなものなのだね。旅人というのは危険と隣り合わせであるぶん、験担ぎが好きなものだから」
それは経験に基づいた持論だろうか。エディもまじないやジンクスといったものに心引かれるのかしら、と考えて、如何にも似合うな、と妙に納得した。
彼の話を聞きながら、自分の分のヨモギの葉を千切る。その場で靴を脱ごうとすると、彼はさりげなく自分の外套のフードを顎の辺りまで引き下ろした。無遠慮に手を引こうとした割に、こんなときばかり律儀なことだ。
そのままぱったりと彼が腕を下ろしてしまったので、飲ませた薬が効きはじめたことを知った。四肢を持ち上げるほどの力が出ないのだろう。
わたしはヨモギを敷いた靴を履きなおしながら、ふと母に語り聞かされた記憶を手繰った。
「ヨモギは遠い北の国の、女神様の植物でもあるのよ」
「女神?」
眠ってはいなかったようで、フードの下からこもった声が聞こえる。
一神教であるキリスト教の浸透したイングランド人にとって、神はイエス・キリストの父たる唯一神だけなのだろう。馴染みの薄い言葉に、エディは不思議そうな響きを含ませた。
ウェールズの国教も、イングランドが介入する遥か以前からキリスト教ではある。けれど、ケルト語圏に端を発するウェールズは、多神教にもあまり抵抗がない。だから初めてこの話を聞いたとき、わたしは彼ほど不思議には感じなかった。
「知らない? 自然のあらゆるものに神様が宿る――あるいはそのものが神様の化身である――とされている国では、神様はひとりではないのよ。男の神様も居れば、女の神様だって居るわ」
「あぁ……故郷の教師から聞き齧っただけだけれど、もっと北の方のスカンディナヴィア諸国やギリシャの方は、そういった神話形態だったかな。近いところではアイルランドの方も。その辺りの神話かな」
「確か、そう」
「グウェンは物識りだね」
「知識が片寄っているだけよ」
薬草や薬に関わることは、すべて母が教えてくれた。嘘か本当かもわからないようなことから、日常で役立つことまで。だから、複雑な算術もイングランドの歴史もほとんどわからない。彼の評価は正当なものではないのだ。
それに、彼が詳しく教えてもらえなかったのは、おそらく敢えて秘されていたのもあるのだろう。
隠されていたとは言え、一神教である国の王子が万にひとつでも多神教を肯定してしまえば、国の在りようが乱れるだろうから。見識を広げるために知識は必要だけれど、それを事細かに教えて興味を持たれても困る。特に、少しの摩擦で火種になりうる訳ありの王子だ。余計な知恵は与えないでおこう、と。そんなところだろうか。
彼が中途半端に知識を与えられたのは、恐らく、彼が父母に望まれて生まれたが故のお目こぼしだったのではなかろうか。幽閉するにしろ放逐するにしろ、望まれぬ子に知識を与えるほど面倒なこともない。
そうは思ったけれど、頭の隅を掠めた憶測は黙っておいた。王子の肩書きを捨てた彼には、不要な提言だろう。
「それで、その女神はどんな神様なの?」
例に漏れず、エディは興味を示したようで続きを促された。呂律が少しもたついている。痛みが引いてきた代わりに、弛緩薬の正しい反応を順当に体現していた。
「月と狩りの女神だそうよ。狩りはとても危険だから、怪我を負ったときに対処できるように、万能の薬草であるヨモギを携えたのね、きっと」
万能、という言葉に目を輝かせた幼い頃を思い出す。あの頃は、薬草を魔法のようだと思っていた。だからだろうか、母はその話の後にこう付け足した。
『万能ということは、つまり、色々な薬を作れると同時に、色々な毒にもなるということよ。美しい月の女神様でありながら、反面、危険な狩りの象徴である側面も持っているのと同じようにね。くれぐれも、扱い方にはよぅく気を付けてね』
今でこそ、薬草はその殆どが、薬効と一緒に毒を持つものであると知っているけれど、当時のわたしには、母の言わんとすることがよくわからなかった。
要は用法と作り手自身の誠実な心持ちを忘れるなということなのだが、薬であるのに毒でもあるという感覚が、整合性が取れなくて気持ちの悪いもののように思えていた。光ばかりを見ていたので、何事も表裏一体だということを知らなかったのだ。
「なんだか、グウェンのような女神だね」
「それはわたしが薬師のくせに毒を持っていると言いたいのかしら?」
確かに、彼への態度はなかなか刺を抜けきれないままだが、そこは承知で旅に誘ったのではなかったか。
彼が見ていないのをいいことに、釈然としない気持ちを全面的に声と顔に出したら、転がったままの彼から「いいや」と否定の声が漏れた。
「月のように真っ白な乙女は、いつでもどこでも万事に備えて頼もしい、ということだよ。脚の痛み、楽になってきた。ありがとう」
「……それは何よりだわ」
賛辞に誤魔化されてしまった気がしないでもないが、そこにからかいのような響きはない。気色ばみかけたところを気が削がれてしまって、わたしは先ほど中断した水汲みに立った。
口は動くだろうから、何かあれば大声を上げてと言い置いて少し手前にあった川へ向かう。
所々にいくらか木が生えているものの、基本的には見晴らしのいいスノードン山の麓だ。火を焚いているから獣は近付いて来ないだろうし、このように展望のきく場所では山賊や盗賊といったよろしくない連中も、身を隠す場所は少ないだろう。
その少ない一角をわたし達が陣取っているので、少なくとも今晩は、いくらか安心して眠れるはずだ。
水を汲んで戻ってくると、わたしの憶測を証明するように、エディの外套の中からは静かな寝息が聞こえていた。
彼の枕代わりにされた鞄のそばに、満たされた皮袋をそっと置く。飲み水として煮立たせるのは明日でもいいだろう。わたしもそろそろ寝る準備をしなければ。
魔除けのためにニガヨモギを焚き火にくべてから、火の燃え移っていない枝を避けていく。ときに弾けるような音を立てながら、だんだん小さくなった火をぼんやりと眺めていると、熾火が燻る燃えさしだけが残った。それを靴底でよく踏んで消す。
途端に、初夏の涼やかな夜気が身を包んだ。夏至をすぎたばかりの空気は、夏の盛りにはまだ少し遠い。それでも、もう何日かすれば夜にも生ぬるい空気と取って代わるのだろう。乾いた草の匂いは、雨季を越えるさなか、青臭さを失いつつある。
これまで棲んでいた山とはまた違った、牧草地のような香ばしい草の匂いがした。
空を見上げる。月の光は薄くて、月光浴にはまだ向かない。満月は一週間以上も前に過ぎてしまったから。
この間の満月は、家の中の薬草をすべて小屋の前に並べて、月の光をよく吸わせた。そうすると、薬草に宿る力が増すと言われているから。ついでに暫く膝を抱えて自分も月の光を浴びたものだ。次の満月の頃には、わたしはどう過ごしているのだろう。
これから先のことに想像がつかない。あの小さな小屋にいた頃ならば、次も、その次も、そのまた更に次の満月の晩も、同じように月光浴をしていただろうと想像できたのに。
傍らの男を見下ろして、首を振った。ひとまずはよほどの問題がない限り、彼と過ごしていることには違いない。
新月に向かってゆっくり痩せ細っていく月明かりを頼りに、外套にしっかりくるまってエディの隣に丸まった。少しでも熱を逃がさないために、野宿は固まって寝るのがいい。この上着のほかは、生成りのぴったりとした長袖のチュニックと、エルダーベリーで染めた薄い藍色の半袖のワンピースだけだったから。
ウェールズ北部の冬は長い。それはこの地が、秋を迎える前に寒くなり、春を迎えてもなかなか温かくならないことを意味する。今は春を越えたとは言え、初夏の夜の肌寒さはひとりで外で眠るには身に堪えた。
背中越しに、彼の肩が揺れた気がする。
「起こしてしまった?」
「んん、いや。そういう体質なんだ」
試しに尋ねてみると、先ほどよりもしっかりとした声が答えた。旅暮しの中で自然と身に付いたのか、少しの物音や震動には敏感なようだ。そういえば熱が出た晩も、わたしが場を立って寝転がろうとした僅かな物音で目を覚ましていた。
一人旅をする分には、それは大いに必要な体質ではあるけれど――。
(薬師としては推奨しないわね)
外套の中で肩を竦めると、「しっかり寝てちょうだい」と背中越しに声を掛ける。「明日も早くに発つのでしょう」
「ん」とただの相づちとも肯定とも取れる声が聞こえた。消え入りそうに紡がれる彼の「おやすみ」は、まだ夢うつつをさまよっているが故なのか。
明日には最初の目的地であるバンゴールに着くだろう。それから渡し舟でアングルシー島に渡って――そういえば、エディはどうしてカーマーゼンに行きたいのだろうか。
結局、理由は聞けなかったなと考えたところで、わたしの記憶は夜の優しい手に浚われた。
DIWEDD
前回最終話あとがきにて「もしかすると気まぐれにその後の小話や続編のようなものを書くこともあるかもしれません」と綴りましたものを、気まぐれに掘り起こして書いてみました。
薬師(薬草魔女)のくせに薬草が最初と発熱のくだり以外あんまり出張って来なかったなということで、今回ちょっと薬師らしいことをさせてみたり。書いてる作者だけが楽しい蛇足です。
薬草の効能については書籍やネットで調べているものの、ズブズブのずぶの素人が書いてるものであること、中世末期の技術や当時のとんでも医学が罷り通っていること、フィクションであることを念頭に置いてお読みください。
よい子も悪い子も決して真似したり毒草を調合しちゃ駄目だぞ!
さて、これを書いている間にちょろっと続編的なものがぼんやり浮かびましたので、いま別口で連載している作品を書き終わったらぼちぼち書いていこうかなと思います。
基本、一章まるまる書き終えて一気に公開する一章完結型になると思うので、完結設定は編集時を除いて外れないと思われます。
また暫く、お付き合い頂けますと幸いです。