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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
ヒラエスの森の魔女
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7.恵みの雨は薬師を連れて




 駆けて、駆けて、駆けて、月が真ん中を越えて沈み始める頃までときに歩き、ときに勇み足になりながら足を動かし続けた。


 身体が熱くなって、汗がこめかみから頬を伝っても、安息の場所を目指して森を駆け抜けた。


 麓の村に着いたのは、村で唯一の酒場もしんと静まり返る、真夜中と明け方の間くらいだったように思う。


 わたしはいつも市で見てまわる村の中の様子を思い出しながら、できる限り一番すみにある、人目につきにくい納屋に隠れることにした。


「厩舎の近くだけど我慢してね。ここなら、予備の飼い葉や厩舎に敷く藁が保管されているから寒さを凌げるもの」


「よかった。案内してくれてありがとう。私ひとりでは土地勘がないから、上手く逃げられるか危ないところだったよ」


「夜明けになったら酒場へ行きましょう。多少は薬を持ってきたから、それと交換で食べ物を分けてもらえないか聞いてみるわ」


 胸に手を当てて呼吸を整えながら、積まれた藁の上にふらふらと倒れ込んだ。足が棒のようになっている。足の裏は痺れて地面を踏んでいる感覚がなくなっていたし、頭はまだぐらぐらと揺れているような気分だった。


 額の汗を拭った男が隣に腰を下ろす。彼はわたしの上に自分の外套を掛けると、その上から藁を掛けてくれた。


「グウェンはすごいね。旅をしていたわけでもないのに、もう起きてからのことを考えてる」


「あなたが行き当たりばったりすぎるのよ」


 身体を横たえた途端に疲れと睡魔が襲ってきて、わたしは目を閉じながらなんとか答えた。


「それにわたしだって……これからどうしようか、なんて……」


「これから……」


 次第に言葉はもにょもにょと寝言のような調子になっていく。今のわたし、きちんと会話は成り立っているかしら?


 意識が落ちてしまう前に、わたしはひとつ、どうしてもさっき聞けなかったことを一生懸命口にした。


「ね、……あなた……どうしてわたしに、ひみつをはなしてくれたの」


 もぞりと隣で藁が動いた気がする。耳から入る情報も曖昧で、すべての感覚が間もなく閉じようとしていた。


 わたしの隣で、彼が身じろいだ。


「こうなってしまったのも、私のせいだったから。ほとんど、グウェンを巻き込んでしまったようなものだからね」


 ボソボソと、聞こえる声が急に小さくなった。いいえ、わたしの拾い上げる力がとうとう閉ざされてしまったのかもしれない。


「――だけどそれはただのきっかけで……」


 最後の彼の言葉を受け取れないまま、わたしの意識はぷつんと糸を切るように、数える間もなく途切れてしまった。




 ▽ ▲ ▽




 いつの時代も(グウィント)は吹く。(ノス)は明けて、(ボレ)()く。


 それはどんな苦境の中にあっても、命が生まれ、死ぬことと同じように等しく巡り巡ってくるものだ。


 鶏が鳴く前に藁の下から抜け出したわたしたちは、まだ開いていない酒場の裏口から準備中のご主人に声をかけた。


 酔いを軽くする薬と引き換えに、いくつかの果物と、押し麦を挽いて水に溶かして焼いたものをわけてもらう。つい三日前に市で取引をしたばかりなので、最初は渋っていたご主人だったけれど、暫くこの地を離れるかもしれないと伝えると保存の効く食糧を多めに持たせてくれた。


 それを酒場の裏手で少しだけ(かじ)って、村の外れへと向かった。


「あなたはこれからどこへ行くの?」


 わたしが問うと、彼は首を捻って、さほど深刻そうでもない唸りをあげた。


「うぅん、そうだね。グウィネズに向かって、アングルシー島へ行ってみるのもいいかもしれないね。カーディガン経由でカーマーゼンに向かってもいい」


 いずれもコンウィから西や南西の方角にある都市だ。これからも気の向くままに歩き続け、その道々で、彼はあの美しいケルズダントを唄い、その日その日を生きていくのだろう。


「やっぱり行き当たりばったりなのね」


「王の息子が吟遊詩人になったり、英雄の娘が薬師になったりするのだもの。人生なんてそんなものだよ」


 酒場のご主人から分けてもらった食料をだいじに鞄へ詰めながら、彼は被っていた外套を下ろした。


 色素の薄い榛色の髪が、昇りはじめた陽の光に透けて輝いて見える。まるで秋風になびく金色の麦穂のようだ。


 いつかそれを、わたしたちは別々の場所で眺めながら、まだ穂先の青かった夏の思い出を振り返るのだろう。


ありがとう(ディオルフ)。結局、きみへ恩を返すことはできなかったけれど、この三日と少しはとても、とても楽しかった」


「あなた、ウェールズ語(カムライグ)を話せたのね」


ハープ(テリン)をくれた恩人が、これだけは覚えておいてって教えてくれたんだ。私も、この言葉は好きだよ」


「そう。……わたしも、苛々したこともあったけれど、けっこう悪くなかったわ。生きるということの意味を、思い出せる程度には」


 別れの言葉が出なくて、ただひたすらに、彼が背を向ける瞬間を待った。彼が歩き出したら、そうしたらわたしも反対方向へ向かって歩きだそう。


 あの山の中の小屋に戻れない以上、行く宛はまだないけれど。父の足跡を巡るのもいいかもしれないし、母の住んでいた町を探すのもいいかもしれない。


 そんなよそ事で、心の中を満たそうとした。


 わたしに入り込んでいた影が、西へ向かってするすると抜け出していくものの代わりに。


 良くも悪くも、このエディという人は、わたしの無感動になりかけていた心を柔らかくふやかしていったのだ。


 変な感傷を覚える前に、別の道を歩き出すべきだった。


 だというのに、


「――きみも一緒に来ないかい?」


 男は背中を向けることもなく、まっすぐにこちらを見下ろしてそんな自分勝手なことを言う。


 馬鹿ね。一緒に居たって、彼にぶつけたのは、大半八つ当たりかお小言だったのに。あなたはそんなものをこの先も聞いていたいと言うの?


(……いいえ)


 伏せようとしたふたつの目をしっかり開いて、わたしはいま自分ができる精一杯で微笑みかけた。


さよならよ(フーイルヴォゥル)


 彼はあらかじめ答えを知っていたように、眉ひとつ崩さなかった。


「わたしは多分、イングランド人(あなた)を一生許せない。わたしがわたしである限り、あなたを一生憎み続けるわ」


「構わないよ」


「……なんですって?」


 驚くのはわたしの方だった。そのような答えが返ってくるとは思わなくて、一瞬、返す言葉が遅れてしまった。


 それを好機とばかり、切実さを含ませて乞う声が明けの空気に染み渡る。


「一生、私を憎み続けて構わない。それでも私は、きみと一緒にいきたい」


「無理よ」


「何故?」


「そこに愛がないから。愛がなくちゃ、人は駄目になってしまうわ」


 たったひとり、唯一わたしを愛してくれた母が亡くなって、わたしがわたしの生きる意味に迷いかけていたこれまでのように。


 まして彼を、巡る明日にささやかな幸せを見出だせる人を、愛してくれない者のそばに置いておいてはいけないのだ。


「私はきっと、きみを愛しているよ。親のようには愛せないかもしれないけれど。夫婦のような愛ではないかもしれないけれど。……それでは駄目かな」


 臆面もなく彼は言う。いつも否定されるたびにあっさりと引き下がった男は、どうしてこのようなときばかり強情なのだろう。


 昨日だってそうだ。信じて、と告げた彼の言葉に、わたしは抗えなかった。今度こそは違えてはならない。


「駄目よ。愛は消耗品なの。一方通行ではいつか枯れてしまうものだから」


 わたしは彼を愛していないのだと、暗に突き付けたつもりだった。だと言うのに、彼は茶色の瞳で眩しげに微笑んでいる。


 わたしの拒絶をも、けれど彼は些末(さまつ)なことと呑み込んでしまった。


「それなら、愛して」


 男の答えは、いつもわたしへ味わったこともない衝撃を投げて寄越す。


「憎しみを抱えたまま、私を愛してくれないか」


 この籠に入っているジャムの瓶で頭を殴られたところで、これほどの痛みは与えられないだろう。


「ひどいことを言うのね」


「そうだね。けれど、あり得ないことはない。過ぎる愛が強烈な憎しみに変わるなら、積もり続けた憎しみが、いつか愛に変わることもあるかもしれないだろう」


「そんなもの、わからないわ」


 やはりこんなときまで、あの奇妙なずれがわたしの心をざわつかせた。噛み合っているようで噛み合っていない、馬車の車輪が石畳に跳ねるようないびつな感覚。


「そう、わからない。だから、試してみればいい」


 彼も同じものを感じているようには、とても見えなかった。それどころか、違うものを見ていることに、喜びすら見出だしている。


 そうだ。最初から彼は、そうだった。わたしがすることの何にでも目を輝かせ、知らないことを知ることは楽しいことだと言っていたではないか。


「私と共においで。この広い祖国を一緒に巡ろう」


 男が語る。夢を描いた大きな天幕を広げるように。見上げればそこに、満点の星と月と太陽があり、手を伸ばせばそのどれにも指が触れるかのように。


 彼の祖国(イングランド)であり、わたしの祖国(カムリ)でもあるこの地を。野の、山の、荒れ地の広がるどこまでも先へ、自由に。


 それは、なんて――。


「……幸せなのかしら」


 巡らせていた考えの欠片が思わずぽつりと口から漏れる。「うん?」と首を傾げる男に、わたしは取り繕うように問いかけた。


「あなたの隣に、幸せはあるのかしら」


「うん……、それも私にはわからない。けれど、少なくとも私にとって、きみが側に居れば不幸も苦悩も結構楽しめそうな気がするんだ」


「ある日憎しみが振り切れて、寝首を欠くかもしれなくても?」


「きみはそんなことをしないよ。命を尊ぶ人だもの。けれどきみの気持ちを変えられなかったのならそれも仕方ない。一ペニーの価値にもならないこの首で良ければ、きみに喜んで差し出そう」


「ずるいわ。そうまで言われたら、拒む理由がなくなっていく」


 一歩、彼が足を踏み出した。西のまだ見ぬ地へ向かう方角ではなく、こちらのほうへ。


 グウェン、とわたしを呼ぶ声がする。久しく聞いていなかったのに、ここ数日、忘れかけていた自分の名前を何度も何度も呼んだ声だ。


 わたしは籠を両手で握りしめて、足元に居るはずのノスを見下ろした。


 そこに彼女は居なかった。


 どこに行ったのかと見回すと、ずっと背後でことの成り行きを見守るように行儀よく座っている。


 ミァオ、とノスがひと声だけ鳴いた。甘えるような色はなかった。思い返せば彼女に甘えられたことなど、ただの一度もなかったけれど。


 もう一度、共に行こうと言った男を振り返る。彼は手を差し出したまま、やはりじっと下される決断を待っていた。


 去っていく(ノス)のことを恋しく思って、しばらく考え込んでいた。けれどどれほど考えたところで、答えは既に出ているのだろう。


 歩みはじめたこの足が、言葉より先に本能で示す。


 わたしはわたしのヒラエスを胸に、エディのまっさらな手をとった。




 DIWEDD(おしまい)




ここまで読了ありがとうございました。


こちらの作品は元々、2年ほど前に参加させて頂いた企画『とこしえの夏唄』に提出するつもりで構想した作品でした。

結局文字数オーバーどころか想定の6倍近くの文字数になってしまい、1ページ目終わり辺りまで書いたところで別の作品を構想・提出したわけですが…(笑)

ひとつ前の作品『極彩のシナスタジア』がそれです。

夏設定や「山の中の隔離された空間」などの設定はその名残ですね。


本当はもっとコンパクトに短編サイズのお話になる予定でしたが、ウェールズ(カムリ)という地、そこにまつわる文化や歴史を調べる内に詰め込みたいものが増えて行き、最終的に中編サイズになってしまいました。

「ヒラエス」ではありませんが、その地の歴史、文化、そして住まう人々の在りようは名状し難いものがあります。

少しでも読者様に「カムリ」や「カムライグ」という存在が残れば()()()()()()、というものです。


さてさて本作を公開したところ、「続きはどこにありますか!!」と嬉しいお言葉をいただきましたので、もしかすると気まぐれにその後の小話や続編のようなものを書くこともあるかもしれません。

もしお見かけされましたら、また少しだけお付き合いいただけると嬉しいです。

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