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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
ヒラエスの森の魔女
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6.反乱者と侵略者




 狭い影に身を押し込み、隣り合って腰を落ち着ける。立てた膝の上に籠を乗せて抱きかかえると、耳の奥にまで破裂しそうな心臓の音が響いてきた。喉の奥から、新鮮な空気を求める衝動が湧き溢れる。


 短い間に沢山のことが起こりすぎて、これからどうするべきなのか、自分でもわからない。ひとまずイングランド軍に捕まらないよう逃げたけれど、それからわたしはどうするべきなのだろうか。……どうしたいのだろうか。


 青闇の中にぼんやりと溶け込む、隣の男をそっと盗み見た。彼もまた、深く息を吸っては吐いて、心臓を落ち着けているようだった。


 しばらくはそうして、互いに口を噤んでいた。握りしめた手の中で、カサリと乾いた音がする。


 色褪せてすり切れた羊皮紙が、嫌に存在を主張した。


「それ」


 ようやく呼吸が落ち着いた頃、エディがこちらを見ずに口を開いた。落ち着き始めた心臓が、また大きく暴れだす。


「その手紙の封印。見たことがある。グウェン、きみはもしかして」


 そこまで言って言い淀むのはずるいわ。最後の核心の一言を、彼は言ってはくれない。そのくせ、気にせずにはいられないというふうに、彼はわたしの手元にある書簡をちらちらと見ていた。


 一度露見した秘密を、これ以上隠そうとするのは無意味だろう。いくらか迷ったあと、嘆息と共にエディの言葉の先を継いだ。


「ええ。わたしはグウェン。ただのグウェンシアン。――先の、“グリンドゥールの反乱”の蜂起人、オワイン・グリンドゥールの庶子の娘よ」


 夜闇に陰って灰茶色に見える男の瞳が驚きに開かれた。彼の中で、疑惑が確信に変わったようだ。


 グリンドゥールの反乱――まだ記憶に新しいその戦は、ウェールズ(カムリ)全土に様々な爪痕を残した。この地に生きる者ならば、その名前を知らない人は居ないだろう。


 ポウイス王とグウィネズ、デハイバースの――いずれもウェールズが“ウェールズ公国”と呼ばれていた頃、有力であった土地の家系だ――血脈を受け継ぐ生粋のウェールズ人(カムリ)でありながら、元はイングランド王・リチャード二世に仕える家臣だったオワイン・グリンドゥールだったが、次代の王・ヘンリー四世の御世になると、逆臣の汚名を着せられるようになった。


 そこには他の貴族からの失脚を狙った政治的策略だとか、王を廃されたリチャード二世への厳しい処遇に対する怒りだとか、年々重くなっていくウェールズ(カムリ)の重税への不満だとか、そういった様々な要因が複雑に絡み合っていたようだ。詳しくは知らない。どれも口さがない人々の噂話を掻い摘んで繋ぎ合わせたものだから。


 それでオワイン・グリンドゥールは、ヘンリー四世が即位した次の年、自らプリンス・オブ・(ティウィスォグ)ウェールズ(カムリ)を名乗って進軍を始めたのだ。


 彼は厳しくも優しい人柄で、同調する者はウェールズ人に留まらなかったそうだ。ときには剣を交えた相手を、ときには海を渡ったフランスをも虜にし、破竹の勢いでウェールズのほとんどの地域を掌中に納めていった。


 始めの数年は順調だった戦は、けれどフランスの指針が変わり、この反乱から手を引いたことでイングランドとの体勢が逆転し始めた。


 カリスマ性だけでは大局は動かせない。どんなに知略が優れていても、それを圧倒するほどの数の暴力の前では非力なものだ。


 イングランド全域の軍を動かして征討に打って出たヘンリー四世の武力に、ことごとく鎮圧されていった。最後の数年は各地で小競り合いのような戦が続き、いつからかオワイン・グリンドゥールの――父の消息は知れなくなった。


 最後に彼の目撃談が流れてのち、数年後にはオワイン・グリンドゥールを死んだものとして、反乱の終止符が打たれたのだ。


 反乱が始まって十五年。それから更に十年近く。イングランド人を含め、父の遺体を見た者は居ない。だから同胞たちは、イングランドに敗れた現実に打ちのめされながら、いつかまたオワイン・グリンドゥールが現れて、失なわれゆくウェールズの危機を救ってくれることを夢想した。


 母もそのひとりだった。それと同時に、生きていてくれるのならば、自分のもとへ帰ってこなくても構わないと考えていたようだった。


 くしゃりと手にした書簡を握り潰しそうになる。


「わたしが生まれた頃には、既に父は劣勢を強いられていたそうよ。母はわたしがグリンドゥールの落し子だと知れたら、わたしにまで危険が及ぶと思ったのでしょうね。元々住んでいた土地から遠く離れたこの地までやって来て、人里離れたあの小屋を見つけ、隠れ住むことにしたんですって。これは母が旅立つ前、オワイン・グリンドゥールが、唯一母へ宛てた手紙。母は死ぬまで、このたった一通の手紙を拠り所に生きてたわ」


 エディの息を呑む音が聞こえた。果たして、この出来すぎた壮大な嘘のような話を聞いて、彼は一体何を思うのだろうか。


 恐る恐る唇を湿した彼は、次に何を言うべきか、言葉を選んでいるようだった。


「正直、驚いたなどというものではないよ」


「そうでしょうね。わたしだって、この手紙を見るまでは半ば夢物語だと思っていたもの」


「けれど、納得するところもあった。きみがただの村娘と言うには、不自由なく文字を読み、知識を蓄えられたこと。それから頑ななまでのウェールズ人の誇りと、故郷への慕わしさ(ヒラエス)の理由」


 握りしめたわたしの手に、エディの手が重なる。彼はうっすらと皺の寄った書簡を優しく取り上げると、それを母の残した製法書の中ほどに挟んで籠へ戻した。


「だったら、失くさないよう大切にしなければ。その誇りとヒラエスはきみの、きみだけのものなのだろう?」


 喉の奥で嗚咽のようなものが詰まった。まさか、強情に守り続けてきたわたしの在り方を肯定されるとは思わなかったのだ。


 最後に眠りに落ちる前、彼が呟いたことを思えば尚更に。


「あなたには、否定されると思ったわ」


「何故?」


「だってあなた、言ったじゃない。このヒラエス以外には何もないと言ったわたしに、『自分の誇りで自分を縛り付けているようだ』って」


「あれは……すまない。安易に言っていい言葉ではなかったと、今なら余計に思うよ」


 エディの顔には後悔が滲み出ていた。氷柱のような一言を告げた彼は、あのあと、わたしの知らないところでひとり反省していたのだろうか。


 そう思うと、こんな予断を許さない状況だというのにおかしくなった。


「いいの。多分、あなたの言う通りだったから」


 たまらず漏れた苦笑には、エディが信じられないものを見たような顔をする。


「わたしはわたしのウェールズ人である誇りだとか、矜持だとか、ヒラエスに固執するあまり、それを言い訳にしてあの場所に閉じこもっていたのよ。その気になれば、同胞たちの村へ降りることも、どこか別の場所へ旅立つこともできたのにね」


「けれど、グウェンがあの場所にいてくれて良かった。そうでなければ三日前、私はきみに出会えていなかっただろうから」


「こんな減らず口の女に会いたかったの? ……奇特なひと」


「私はイングランド人だからね。ウェールズ人のきみから見たら、きっと奇特なのだろう」


 彼はおっとりと、それでいてどこか得意気に微笑んだ。いつの間にかわたしの顔にも笑みが浮かんでいる。心を固く縛っていた鎖が、二本か三本、ほどけた心地だった。


 ふたりでひとしきり笑ったあとで、ふとエディが思い出したように尋ねる。さっきまでの彼とは打って変わって、真剣みに満ちた硬い声だった。


「どうして、そんなに重要な話を私に教えてくれたの? こんな成りでも、私は確かにイングランド人だ」


 途切れた柔らかな笑いの下から、張り詰めた緊張の糸が顔を出す。そうね、言うなればその糸の上で、綱渡りをするような博打だった。


 あとはわたしの勘ひとつだ。


「あなたが信じてと言ったから」


「そんな感情論で……!」


「もちろん、あなたが誰にもこの秘密を話さないだろうという確信はあったわよ」


 感情論だと言う彼の感情的な様は、なんと滑稽なことだろう。狭い木陰で身を乗り出すようにこちらを向いていた彼は、肩の半分ほど身を引いて咄嗟に返す言葉を失っていた。変ね。重大な秘密を打ち明けたわたしより、彼の方が心配しているようだわ。


「あなたはわたしと一緒に逃げた。それはイングランド軍に見つかりたくないということだわ。流れの吟遊詩人なら、一晩の宿を求めて人の居ないあの家に泊まったと言えばいいだけの話だもの。厳しく注意されたかもしれないけれど、罰せられることはないはずよ。それをわざわざ、こうして息を切らせて苦しい思いをしながら逃げてる」


「たったそれだけでは、説得力に欠けるんじゃ……」


「それだけではないわ。わたし、あなたと出会ったとき、あんな粗末な家で雨宿りするより町へ降りた方が賢明だと言ったでしょう。宿に泊まる金子がなくても、同じイングランド人なら誰かしら泊めてくれる人は居たはずよ。それがわからないあなたではないでしょう」


 それにも関わらず、彼は凍え死ぬかもしれない危険を冒してあの家の軒先で雨宿りしようとした。


 それはやはり、イングランド人にあまり関わるわけにはいかない理由があったということだ。


「だからあなたにわたしの秘密を明かしても、あなたは誰にも話さないだろうと思ったのよ」


「……驚いた。自覚してなかったけれど、どうやら私はきみを見それていたみたいだ」


「そうでしょうとも。グリンドゥールの名前がなければ、わたしはただの薬師で、村娘ですからね」


 エディに称賛されることは、まるで自分が偉い人間になったような気にさせた。


 けれどまだ、胸の奥でもやもやと(つか)えているものもある。


 彼が綺麗な英語を使っていること。


 優雅な所作で食事をすること。


 足はあれほど肉刺の潰れた痕だらけだったのに、彼の手は労働を知らないように滑らかで真っ白だったこと。


 どれも平民の出の人間にはありえないものだ。とくに話す言葉には、どんなに取り繕っても大なり小なり訛りが出る。それがないということは、少なくともある程度の成長を遂げるまで“綺麗な英語”を聞くことができる生活をしていたということだ。


 これまで目を伏せ続けた違和感が、今日の彼の行動でまた少し浮き彫りになった。それらを組み合わせれば、ぼんやりと何かが見えてくるような気がする。


 野生の獣の気配も消え失せた静けさで、キンと硬質な耳鳴りがした。あぁ、まるで本当にあの、メランゲシュの話のようではないか。


 わたしは燻っていた疑問の決定的な一言を彼に突き付けた。


「あなたはわたしを助けてくれた。だからきっと、あなたはわたしの敵じゃない。けれどそれなら、あなたは一体何者なの? どうしてこんなところで、逃げ隠れするように旅をしているの」


 この三日間、わたしが見て見ぬふりをしてきたこと。深入りしたくなくてあえて聞いてこなかったこと。


 そこからもう、目を逸らしてはおけなかった。


 彼は尋ねられることを察していたように、わたしを見据えて静かに目を伏せた。


 そこに驚きの色はなかったけれど、代わりに苦しげな、どうしようもなく哀しい色が広がっていた。


「どうかな……私にきみを害するつもりはないけれど、きみは私を敵だと思うかもしれない」


 どれほどか、長くも短くも思えるだけの時間を黙したあと、エディはまた、謎かけのような曖昧なことを言う。


「やっときみが少し笑ってくれるようになったから、できることなら言いたくなかったな」


 その先の明確な答えを聞きたくて急かそうとする気持ちを、膝の上の籠を抱きしめることで呑み込んだ。


 女のように長いまつげの影が、塑像(そぞう)のような生白い肌に落ちる。わたしと彼の周りだけ、時間に取り残されたように、何もかもが遅く過ぎ去っていくもののように感じた。


「エディは愛称なんだ。本当の名はエドワード。母の名はフランス、ブルターニュ公の未亡人ジョーン・オブ・ナヴァールで、父の名はヘンリー・ボリングブルック――ヘンリー四世と呼ばれた方だよ」


 はっ、と声にならない吐息が漏れる。貴族のような所作だと思っていたけれど、そんなものではなかった。彼は筋金入りだ。


 今度はわたしが驚愕に目を見開く番だった。


「王の、直系のこどもだったの?」


 震える声で尋ねると、エディは膝を抱えってぎゅっと自分で自分の手を握った。


「正しくは前王の、ね。それも公には公表されなかった、“居ないはずのこども”だ」


 エディはそこで話を区切ると、辺りを見回して、まだ兵士の気配が近づいていないことを確かめた。


 いつもはうるさいほどに響いているはずの虫たちまで、今はしんと静まり返って嵐が過ぎるのを待っている。森に分け入り、森を駆け回っていた人間たちという嵐が過ぎるのを。


「きみはどうして逃げ隠れするように旅をしているのか、って聞いたね」


「……っ、ええ」


「少し、私と私の両親の昔話をしてもいいかな」


 律儀に尋ねてはわたしの返事を待つ男が、知らない人のように思えた。


 隙間のないほど近くに居ると言うのに、ひどく遠いところから語りかけられているようだ。


 彼の口調も、所作も、考え方も、おそらく何ひとつ、ほんの数時間前と変わってはいないのに。


「ええ」


 わたしはからからに乾いた口で話の先を促した。




 父上は――ヘンリー四世前王は、一時期、フランスに追放されていたことがあってね。リチャード二世と対立して、一度は王位争いに敗れたんだ。


 その頃に追放先の国で出会ったのが私の母上、ジョーン・オブ・ナヴァールだった。フランス名はジャンヌ・ド・ナヴァールだったかな。父上は母上の当時の夫の領地であるブルターニュに居を構えていたから、そこで母上を見初めたのだそうだよ。


 このとき、私が母上の中に宿ったのだけれど、父上はそれを知らないままにフランスの地を離れられてね。ここで問題が持ち上がった。


 当時はまだブルターニュ公がご存命だったから、母上は腹に宿った私を父上の子として産み落とすことができなかったんだ。


 母上はお腹が目立つ前に病に臥せっていることにして、最小限の信頼できる世話係としか会わないことにした。ブルターニュ公の子とするには、彼は少し……お歳を召していらしたから。実際、ブルターニュ公は私が生まれる前に亡くなってしまったから、私が公のこどもだと言っても信じる人は少なかったと思うよ。母上は私の存在を隠すため、側仕えの侍女の子として私を産み落としたそうだ


 それから間もなく、父上はリチャード二世が遠征に出た隙をついて、奪われた領地と王位を取り返した。王座についた求心力をそのままに、父上はフランス進出をも視野に入れていたようで、母上を王妃として迎えることにしたんだ。父上には前妻とそのこどもが居たけれど、フランスへ追放された時分、奥方は既に亡くなっていたそうだからイングランドの法的に問題はなかった。


 問題があったと言えば、フランスがこれを拒否したことだ。権力の分散や、イングランドによるフランスの征服を危惧したのだろう。結果的に、母上が政治に介入しないこと、母上とブルターニュ公の間のこどもたちをすべてフランスに残していくことで、父上の元に嫁ぐことが許された。


 幸いと言うか、数奇なことにと言うのか、私はブルターニュ公との間の子ではなく、隠されて育てられたから、母上とその侍女と共にイングランドへ渡り――そして父上の子となった。


 とは言え、今まで隠されて育てられてきたので、私の明確な存在は直系の家族以外には伏せられていたのだけれど。


 それでも、何不自由なく暮らしていたんだ。――父上が亡くなり、数年前に城を追われるまでは。




「城を追われた?」


 それまで黙って聞いていたけれど、突然出てきた不穏な言葉にたまらず横槍を入れてしまった。うん、と彼は何でもないことのように頷いて、こちらを気にしたように話を打ち切る。


「大丈夫かい? 話……着いてこられているかな」


「……なんとか」


 正直なところ、頭は人物相関と時系列を整理することでいっぱいだったけれど、彼の話を途中で邪魔することは躊躇われた。


 わたしの様子をちらと伺い見て、彼はまた話を続けた。




 父上と母上は、出会いが政略ではなかったからかな。こういった立場では珍しく、仲睦まじい夫婦だったと思うよ。けれど死の優しく冷たい手は誰の元にも等しく訪れる。グリンドゥールの――きみのお父上の反乱が終結する直前、父上は身罷(みまか)られた。次の王位に就いたのは、父上と前奥方の子で私の異母兄にあたるヘンリー五世陛下だった。現王陛下だね。


 彼の治世になって暫くは、私たちも変わらぬ暮らしをしていたよ。母上も父上の子たちを可愛がっていたからね。現王陛下も母上を実の母のように慕っていたようだし。けれど数年が経つ頃にはフランスとの関係もひどく悪化していて、母上の立場も難しいものになっていたみたいだ。


 そんなある日だった。同じく異母兄であり、現王陛下の弟にあたるベッドフォード公――ジョン兄上が、現王陛下殺害未遂の嫌疑を母上に掛けたんだ。


 そのころ母上は薬草や香辛料による民間療法に凝っていたし、信心深い人だったから日々悪化していくフランスとイングランドとの仲を憂えて祈りのまじないやジンクスのようなものにも手を出していたからね。それを妖術として、魔女と糾弾されたんだよ。


 ほぼ自治国のようなブルターニュの出身とは言え、フランスの出の前王妃だったのも良くなかったのかな。


 現王陛下はその嫌疑を信じなかったけれど、ジョン兄上は苛烈な人で、母上と父上の子である私をも投獄しようとした。“フランスの魔女”の子であり、前王の子でもある私が、イングランドの、つまり、現王陛下やジョン兄上たちの邪魔になると考えたのかもしれない。


 母は投獄される直前に、私の乳母でもあり唯一祖国から伴った侍女へ私を託し、城の外へ逃がすように命じた。最初はスコットランドへ向かって、西回りにウェールズへ。命からがら逃げ出したけれど、その途中で侍女とはぐれてしまって。彼女とはそれっきり。


 金子も持たず、何日も何も口にせずに歩き続けた私はとうとう倒れて動けなくなった。精神的にも肉体的にも疲れが溜まっていたし、命の限界を覚悟したよ。


 そんなとき、私を拾って、食事を分け与えてくれた人が居た。この国の吟遊詩人(バード)だった。


 歌とハープしか持たない彼は、私にそれを教えてくれた。ひとりで生きていくための最低限の知恵と(たとえば生水は腹を下すから煮立たせてからじゃないと飲んではいけないとか、宿に泊まれなかったときに野宿する上での注意点だとか)生きるための手段であるケルズダントを与えてくれた。


 ――それで私は、今こうしてここに在る。




 長い、長い物語を聞いているようだった。身の上を語り終えた男はほっと息をつき、私もまた、どっと押し寄せる疲れに手足が震えた。


 半分とは言え、血の繋がった実の兄弟に命を狙われる心地とは一体どんなものなのだろう。わたしには考えつかない。否、考えたくもない。


「私よりもよほど、あなたの話の方が奇想天外ね」


 やっとのことで絞り出せたのは、そんなしようもない感想だった。口に出したあとで、じわじわと理解する。彼がわたしに「敵だと思うかもしれない」と断った理由を。


 互いに流れる血を思えば、真実、彼はわたしの敵だった。ウェールズ公の血を受け継ぐわたしと、その地を征服したイングランド王の系譜に連なる彼では、どうあっても相容れない。


 ふいに呼吸が苦しくなった。


 せっかく、彼を彼というひとりの人間として受け入れはじめていたのに、ウェールズ(カムリ)とイングランドとしての因縁がどこまでいってもつきまとう。


 それっきりすっかり黙り込んでしまったわたしに、彼は、すまなかったとまた謝った。


「きみに嘘をつきたかったわけじゃないよ。けれどこれは、明かされたところで誰の元にも危険しかもたらさない秘密だった。だから、グウェンが私を警戒していると知りながら、私の身元を明かすことができなかったんだ」


「事実、あなたは嘘はついていないわ。ただ、黙っていただけ」


「けれど、きっときみを傷つけた。何より――私があなたの求める故郷を永久に取り上げた血族だと、知られるのが恐かった」


「あなたがそうしようと思って奪ったわけではない」


 わたしは努めて、平坦な声で返した。彼が安堵したように、ほんの少し表情を緩める。


「グウェン……」


「だけど、ごめんなさい。わたしはあなたを許せそうにないわ。少なくとも、今すぐには」


 あぁ、いけない。言葉尻が震えてしまった。途端に、わたしの頬へ延びかけた彼の手が止まった。


 わたしはその手を追うことも、払い除けることもしなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、考えが渋滞を起こしている。まるで狭い路地に何台もの幌馬車が突っ込んでしまったようだ。自分の意思で身体を動かすことができない。


「あなたが悪いわけじゃない。それはもう、何度も何度も自分に言い聞かせてきたわ。何度も言い聞かせて、何度もあなたと話をして、それでやっと納得できたつもりだったのに」


 ひくっ、と喉がひきつれる。こんなところで泣いてなどいられない。泣くのはずるい。彼に対しても、自分に対しても。


 その一心で、わたしはやっと、自分の指先を動かしてもう片方の手の甲に爪を立てた。痛みで目の前がちかちかする。おかげで涙は引っ込んだようだった。


「つもりは結局、つもりだったのね」


 代わりに自嘲の笑いが込み上げて、湿った地面に手をついた。冷たい苔の感触が、混乱しきった頭を無理矢理に今するべきことへと縫い止める。


「グウェン、待って」


「長話をしすぎたみたいね。そろそろ……」


 行きましょう、と足に力を込めようとしたときだった。


「おい! こっちで何か声がしなかったか?」


 耳馴染みのない男の声と、ガシャガシャと騒がしい軍靴の音が聞こえた。呼吸を整えることで落ち着いていたはずの焦りと恐怖が、一瞬にしてぶり返す。


 山の麓に居たという兵士だ、と直感的に気づいた。そもそも賢明な猟師や村人なら、このような時間に森や山へ入ろうとは思わない。


 死角になっている頭上で、ちらちらと淡い光が明滅する。わたしは自分の口許を押さえて、すぐそばにある男の顔を見上げた。今はもうただのしがない吟遊詩人に戻った顔が、示し合わせたようにこちらを見下ろす。


 わたしは救いを求めるように、籠の中へ無造作に放られたシダの胞子嚢を握りしめた。夏至の真夜中(ミッドサマー・ナイト)に夜なべして摘んだものだ。


 シダには色々と曰くがあるけれど、その中に、これを身に付けていると姿を消すことができるというものがある。


 聖ヨハネの祝日に摘んだ薬草に宿るという魔力も、魔法じみた奇妙な迷信も信じてはいないけれど、もしも運命というものがあるならば、このような場所で引っ立てられるためにこれまで生きてきたわけではないと信じたかった。


 白くなるほど握りしめた手に、彼の温かな手がそっと重なる。


「いや、何も聞こえないぞ」


「そうか? おかしいな。途中まで足跡があったんだが」


(足跡!!)


 なんと迂闊だったのだろう。今でこそ湿っている程度の地面だが、考えてみれば、家を出た頃はまだ道がぬかるんでいた。無我夢中で走っている内に、足跡が残ることなどすっかり頭から追い出してしまっていたのだ。


 兵士の足音が近づいてくる。こちらに降りてこられたら、見つかるまでは一瞬だ。


 耳元で、彼が息を飲む音がした。


 ぱらぱらと、頭上の根っこの隙間から乾いた土が落ちてきたそのときだ。


 ミァアアオ、と甲高い猫の鳴き声が響いた。震わせた肩に、彼の手がかかり、私たちはまさかと顔を見合わせる。


 辺りを見回しても、ノスの姿は見当たらなかった。


「なんだ、猫か? 町じゃなくこんな森に居るなんて珍しいが」


「さっきの声というのも、猫の鳴き声だったんじゃないか?」


「ははっ、違いない。仕方ないな、もう一度足跡の途切れた辺りまで戻ってみるか。まだまだ不安定なご時世だからな。不審者の取り締まりに手は抜けん」


 何人かの兵士が口々に結論付けて、やがて足音が遠ざかる。それと入れ替わるように、わたしの隣へと滑り込んできた小さな温もりがあった。


「ノス……! お前、わたしたちを助けてくれたの?」


 ノスはほとんど影に同化するように目を閉じると、前足を舐め、顔を洗い、一仕事終えたとばかりにプスンと鼻を鳴らした。


「ありがとう、ノス」


「グウェン、安心している場合ではないよ。彼女が撹乱してくれた今のうちに、早く村まで降りないと」


「あ……ええ、そうね。そうだわ」


「色々と思うところがあるかもしれないけれど……まずはお互いの身の安全を考えよう」


 彼の言い分に頷くと、ふっ、と短く息を吐いて立ち上がった。大丈夫。まだ走れる。


 逃亡の道中は夜の帳が隠してくれることを願いながら、わたしはもう一度、彼と共に走り出した。




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