5.不虞の松明
『もうすぐ薪がなくなりそうね』
食事の支度の最中に、グウェンが独りごちたのが聞こえたので、せめてここを発つ前に些細なことでも恩返しがしたかった。
薬を作るのを手伝いたいと言えば、危険だから駄目だと言う。ならば歌を唄おうかとハープを手にすれば、彼女の矜持を傷つけてしまった。
だからせめて、旅立つ前に雨が上がっているのなら、両腕にいっぱいの薪を彼女のために拾ってこようと思ったのだ。
途中、木の実や果実を見つけられたらなお良い。彼女の与えてくれた優しさに報いる何かを残したかった。
雨をしのぐ屋根を貸してくれた。温かな食事と、熱を払うための薬を分けてくれた。嫌そうな顔をして、それでも私と話をしてくれた。名前を呼んでほしいと言った、私の甘さを受け入れてくれた。
その優しさが、嬉しかった。
流れ者の吟遊詩人を名乗る私に、この地の人々は寛大だけれど、歌を聴いていくばくかの金子や、食事や、すり減った防寒具を与えてくれる代わりに、彼らはほんの僅かの間で過ぎ去って行った。
寂しさは常にあった。この数年で寄り添ってくれた人もいくらか居たけれど、それは自分の生きた証を、私に託すことで刻もうとした人たちだった。
あのハープと、吟遊詩人としての道を与えてくれた人も、そんな中のひとりだ。彼に、私は、返しきれない恩をもらった。
とあるウェールズ人貴族が起こした先の反乱で、妻も子供も亡くした吟遊詩人は、年老いた身体に鞭打ちながらこのウェールズの地を放浪していた。
私を故郷から連れ出した者とはぐれ、路傍で野垂れ死にそうになっていた私を拾い、旅に伴い、ケルズダントを教えてくれた。
彼の紡ぐ歌の意味はわからなかったが、老いてもなお美しい旋律に涙が出たのを覚えている。歌に国境はないのだ、とそのとき初めて実感した。
その彼も、一年か二年、共に旅する内に長く歩けなくなっていた。彼の代わりに拙いながらも歌を唄って、なんとか金子を稼げるようにようになると、間もなく彼は息を引き取った。
本来、吟遊詩人はギルドに属するものだが、ウェールズ人ではない私がそこに属することは躊躇われた。まして彼らとの間に禍根を残すイングランド人だ。ギルド長がそれを許さないだろう。
それで私はどこにも属さず、ひとりで旅を続けてきた。目的はなかった。ただ生きるために、ひとところに留まることはできなかった。
幸い、楽しみを見出だそうと思えば、どんなことにも心踊らせることはできた。
空が曇れば明日の太陽はどれくらい輝くかと想像に期待を膨らませたし、昨日より一ペニー多く稼げれば、今日の夕飯は何を食べよう、と幸せな気持ちになれた。
ただ、独りであることは変わらなかった。胸の隅に抱えた、寂しさの虚も。
たまに思い出したように人恋しいと泣くその虚を宥めすかして、日々を流されるままに生きていた。流されて、この小さな家にたどり着いて、そしてグウェンと出会った。
朝焼けに照らされた日の雪に近い白金の髪の、美しい、けれど湖面のように凪いだ目をした少女。彼女は怒りを押さえ付けるように、『よそ者だなんて呼ばないで』と言った。『その言葉は嫌いよ』と。
静かな瞳の奥に、激情を飼っている人だと思った。それから、私のまだ知らない、計り知れない想いを抱いているようだとも。実際にそうだったことは、昨日今日を共に過ごしてわかったけれど、私はそれよりも前に、彼女が心の虚に入り込んでしまったのをおぼろげながら自覚していた。
目の前で閉ざされた扉が、再び開かれたとき。切羽詰まった声が、雨の中で私の影を探したとき。私は、彼女に心を救われた気がしたのだ。
たとえ彼女にとっては自分の後悔を残さないためだという理由だったとしても、そこには確かに、“なにも持たない私”を案じる感情があった。
与えるためではなく、奪うためでもない。ただ明日の私と彼女が心健やかに生きられるように、彼女は、彼女自身がそれと気づかないままに優しくしてくれた。
彼女と同じように、私も彼女に優しくしたかったけれど、どうやら、私の言葉は彼女の心の奥深くにあった何かを傷つけてしまったらしい。
彼女が眠りに落ちる前、最後に言葉を交わしたとき、彼女の表情が強張ったのは目にあきらかだった。
(今度こそ、嫌われてしまったかな)
私は寝入る彼女の背中を撫でながら、窓に嵌められた板戸から雨音が聞こえなくなるのを待っていた。
隙間から漏れる、カモの青羽根色の空がただでさえ弱々しかった光を更に弱めると、しくしくと草木を濡らしていた雨の音が徐々に小さくなっていく。
やがて静けさが家の中を満たしてしばらく経った頃、私は彼女を起こさないように、藁の詰まったベッドからそっと抜け出した。
室内は薄闇に沈んでいたけれど、ずっと起きていた目はそれに馴染んでいる。私は竈のそばに干された外套を手に取ると、唯一の扉へと手を掛けた。
蚊の鳴くような軋みで目を覚ましたらしいノスが、足元まで来てプスンと鼻を鳴らした。
「大丈夫、挨拶をしない内には出ていかないよ。ただ少し、別れの前の手土産を探してくるだけだから」
きみはご主人を守って待っていて。
グウェンを起こさないように吐息で囁くと、賢い彼女は短く鼻を鳴らして扉の脇に丸まった。堅牢な城の門番のようだ。頼もしいことこの上ない。
扉を開くと、隙間風が一段と強くなった。露でふやけた土の匂いが胸一杯に広がる。
夕暮れの去りかけた、ボリジを敷き詰めたようなマドンナブルーの宵の空が、雨上がりの清々しさを物語っていた。
(星が空に輝く前に戻ってこなければ)
暗くなれば凶暴な獣も徘徊する。何より山の中の小さな家へ、土地勘の無い私が夜中にたどり着くのは無謀に等しい。
閉ざした扉を一瞥して、私は木々の間を足早に踏み出した。
三日三晩の長い雨だったから、薪もすぐには使えないだろう。けれど集めて乾かしておけば、次に彼女が使うとき、拾いに行く手間が省ける。
(少しでも喜んでくれるといいな)
まだ湿った木の枝を拾い上げては腕に抱えながら、私は呑気に、そんなことを考えていた。
呑気すぎたのだ。そう悟ったのは、森の異変にようやく気づいた頃だった。
おかしい、と思ったのは、あまりに静かすぎて耳鳴りがし始めたときのこと。
雨も上がり、日は落ちかけ、気温は涼しく動きやすい。だというのに、まだ完全に日が落ちきる直前の薄明かりを保っているにも関わらず、木々の葉ずれ以外の音が聞こえなかった。
人里から少しばかり離れた緩やかな山中である。小動物の足音や虫の鳴き声、鳥の羽音のひとつも聞こえないのはいくらなんでも尋常ではない。
まるで山に息づくありとあらゆる生き物たちが、異常事態に息を殺してじっと身を潜めているようだった。
嫌な予感がする。けれど何が起こっているのかも知りたい。
ほんのすこし、川沿いを下ってみよう。川向こうは開けているから、近くの木陰からならば麓の様子がよくわかるだろう。
何も見つけられなければ杞憂だと片付けられるし、何かが見つかったならグウェンに知らせた方がいいかもしれない。
彼女はやけに、人に、ことコンウィ城の兵士に見つからないよう用心していたようだったから。
私は集めた薪を小脇で一抱えにすると、できるだけ大きな木陰伝いに川沿いへと駆けた。
雨水をたっぷりと含んだ山道は、登ってきたときよりも脆く、走りづらい。たまに坂で足を取られそうになったけれど、できうる限りの速度で走った。
川下に近づくたびに広くなる川幅は、岸を削り取るようにある一定のところから視界が開ける。そのもっとずっと先には海へ繋がるコンウィ川の本流へと続いているのだが、私は支流の中ほどで足を止めた。
木陰を出ないように遠巻きに、枝葉の合間から川の隔てる向こう側を見下ろす。
背後に世闇が迫る中、眼下の森の開けたところだけが、妙に明るく物々しいざわめきに包まれていた。
ざわめきだ! 山々の、森林じゅうの動物たちではなく、それは何十人もの人間のざわめきだった。
遠目の、それも薄暗い視界ではよくわからないが、二、三〇人は居るかもしれない。いずれも手に手に松明を持って、揃いの鎖帷子のようなものを着込んでいた。同じ意匠の鎧を着ているということは、彼らこそグウェンの危惧していた城の兵士たちに違いない。
驚きに目を見開いたまま、きびすを返して元来た道を駆け戻った。せっかく集めた薪を捨てて少しでも身を軽くし、森の中に分け入った彼らが中腹に至る前にグウェンの元へとひた走る。
(どうしてこんなところに城の兵士が?)
息を乱しながら走り続ける傍らで、ひとつだけ思いついた心当たりにぐっと息を詰めた。
昨日、私が体調を崩したのは、だいぶ遅い時間だった。恐らく夕と夜の境目で、それから彼女は部屋を暖めるために竈の火を焚いて、湯を沸かし、薬を煎じては飲ませてくれた。
額を冷やすのに使って、ぬるくなった水を捨てるのに扉を開けたかもしれない。ほんの短い時間でも、夜の山中に明々と輝く光が見えたなら不審に思う者が居てもおかしくはない。
それとも、板で塞いでいた窓の隙間から、一晩中光が漏れていたのかもしれない。雨を防ぐための板戸だが、外からの薄明かりが室内に入ってくることを思えば、逆の可能性も考えられた。
(そんなつもりではなかったのに……!)
自分の迂闊さに辟易しながら、私は力一杯、夜に沈み始めた山中を駆けた。
▽ ▲ ▽
扉が勢いよく開かれるのと、ノスがけたたましい鳴き声を上げたのはどちらが先だっただろう。
騒音で大きく身体を震わせたわたしは、ベッドから転げ落ちるように飛び起きた。視界は薄闇に包まれていて、一瞬、自分が起きているのか寝ているのかわからなくなる。
けれど程なく、戸口から差し込んでくる月明りで今が夜なのだと理解した。
開け放たれた玄関先には、ここ三日ですっかり見慣れた男が月光を背に立ち尽くしている。肩で息をしているのは、何故だろうか。
「ちょっと、あなた。そんなに乱暴に……」
「グウェン、今すぐ逃げる支度をするんだ!」
悲鳴を上げる扉の代わりに文句を言おうとしたところで、これまでにない剣幕の男の声が響く。ふわふわと地に足の着いていないような、儚く穏やかな顔の彼の姿は、どこにもなかった。
「何? どういうこと?」
目を白黒させている内に、彼は小屋の隅に置いていた自分の荷物を肩に背負う。その上からすっかり乾いた外套を羽織ると、顔をフードで隠しながら口早に捲し立てた。
「城の兵士が山の麓の森まで来ていた。きっと昨日の夜に焚いた竈の火に気づいたんだ。部隊としては少ない人数だけど、それでも何十人か引き連れてる。山の不審な明かりを調べに来たに違いない」
「……なんですって」
絞り出せたのはひどく掠れた声だけだった。真っ白になりそうな頭をどうにか動かして、わたしは薬棚へと駆け寄る。
この小屋で生活を始めて十余年。これほど身の危険を感じたことはなかった。
ここは今や、イングランド人の土地だ。もっと言うならば、あの堅牢な城に住まう、顔も知らないお偉方の。その一角を不法に占拠していたとすれば、どんな罰を受けるかわかったものじゃない。
(それ以上に――)
もうひとつの懸念を思い浮かべて、わたしは傍らに転がっていた籠へ薬棚から必要最低限の荷物を投げ入れた。ヨモギとケシと、シダに胞子嚢。使わずじまいのグーズベリーとラズベリーのジャムの壷に、それから、それから。
(お母さん……)
母が残してくれた薬草と薬の製法書を引っ張り出した。硬い布に滲んだ炭で書かれたレシピを、木の板で挟んで綴じられた製法書。
逃げなければ、逃げなければ。逃げなければ!
そればかりが頭にあったので、上の空で手にした製法書をうっかり取り落としてしまった。
あっ、と叫ぶよりも早く、本の間から一通の書簡が滑り落ちる。ひゅっ、と喉から変な音が出た。
決して誰にも見られてはいけないもの。わたしがここで孤独に生きて、そしていつかはひとりで死ぬのだろうと思っていたその証。
端のすり切れた羊皮紙に、宛名として綴られた母の名前。識字率の低い一介の市民に手紙を寄越したというのもおかしな話だが、重要なのはそこじゃない。その差出人が使った封印だ。
左手に盾を、右手に剣を持ち、馬に跨がった雄々しき人の頭にはウェールズの象徴である竜の装飾が施されている。その人の騎乗する馬の頭にもまた小さな竜が冠され、前足を高く掲げていた。左手の盾には同じように前足を上げて後ろ足で立つ四頭の獅子が――ウェールズ大公の旗印である――彫られているが、この暗がりの中そこまでわかるまい。
けれど見る人が見れば、封印の輪郭だけで差出人が誰かはすぐに知れただろう。
「それは……」
すぐそばで、息を詰める彼の声が聞こえた。
どうやら、彼はわかる人だったらしい。
(見られた……!)
わたしはすばやく製法書と書簡を拾い上げて籠の中へと乱暴に放り込んだ。唇が戦慄く。立ち上がった膝が笑いそうだった。
逃げなければ。頭の中は再びその一言で埋め尽くされて、椅子の上に放っていた自分の外套を手にする。
「ノス!」
黒い貴婦人の名前を呼ぶと、彼女は心得たとばかりにわたしの後ろへついて駆け出した。
逃げなければ。イングランド人の兵士からも――書簡の封印に気づいてしまった彼からも!
転がるように小屋から踏み出したわたしを、しかし、外套を深く被った彼が捕らえた。
「嫌っ!」
「待って、そちらはいけない!」
「……え」
コンウィの鈍色に光る町の方へ駆けて行こうとしたわたしへ、彼は反対方向へと導くように手を引いた。
掴まれた腕は、まだ肌寒いのにじっとりと汗ばんでいる。わたしだけではない。彼もまた緊張しているのだ。
「彼らは川向こうの町側から来ていた。コンウィの町に行くにしても、反対側から迂回して向かった方がいい」
「それ……本当なの?」
仮にも彼はイングランド人だ。森に分け入ったという兵士たちと同じ側の人間。搾取される側ではなく、搾取することを許された側の人だ。
わたしを突き出せば、お手柄だと報償金が貰えるかもしれない。反ウェールズ法の名の元に、たとえ無実であれ裁かれる人種なのだ、わたしたちは。
疑心暗鬼になったわたしは、もう一度繰り返した。
「本当に町の方から来ているの? エディ」
彼は――エディは目を見開いて、それから茶色の瞳でまっすぐわたしを見据えて頷いた。
「きみに誓って本当だよ。信じて」
その言葉と視線と声音だけを、今は信じるしかなかった。
「じゃあ、こちらよ。少し道が急になっているけれど、迂回しながら急げる道があるの」
掴まれた腕をそのままにエディを先導すると、彼はそれに従ってわたしの一歩前を駆け出した。
道行きは月が照らしてくれたけれど、足元は常に不安定だった。転びかけたところを何度かエディに引き上げられて、再び山道を走りだす。
薄っぺらな靴の裏から、ごつごつした石の感触や、大木のうねった根っこや、硬い殻の虫のようなものを踏み潰す感触が次から次へと感じられた。同時にそれらの感触は、どこか遠いところでの出来事のように思えた。
ふたりとも息が上がっていたけれど、わたしたちは足を止めなかった。少なくとも、月が高く上って、目覚めた星々がほんの小指の幅ほど位置を変えるまでは。
結わいていた髪はほつれ、外套の裾も靴も泥だらけになったけれど、無事に山を降りて森を抜けることが最優先だ。
小屋から麓までの道を半分ほど来たところで、わたしは途切れがちな声でエディに告げた。
「森を抜けて、町に向かう、途中に、村が、あるの。ウェールズ人の村よ。納屋か、空き家にでも隠れられれば、兵士も何事もなく、帰るでしょう」
あの十余年を過ごした小屋には、きっともう戻れないけれど。
口にしなかった不安を噛み殺して、わたしはエディが相づちを打つ声を聞いていた。
「もう少し、走れる?」
「走らなくちゃ、生きられないわ!」
喘ぐように告げた言葉に、また少し、エディの走る速度が上がる。死に物狂いとはまさにこのことだ。ハッ、ハッ、と息を継ぐ感覚がどんどん短くなっていき、麓に至る頃には走ると言うよりも早足で歩いているようなていだった。
いつもは何時間も掛けて下りる山を、今日は迂回路を使いながら、その半分ほどで下った。森を抜けるのに、走れば更にその半分ほどだろうか。
引きずるようにして足を踏み出したところで、突然エディがピタリと止まった。
「あそこの土、盛り上がってるところから木の根が張り出して傘みたいになってる。少し、その影で休もう。今のところ人の声や足音も聞こえない」
彼の示した先を見下ろせば、断層がずれて壁のようになった地層から、剥き出しになった根が屋根のように覆う場所があった。
今わたしたちが立っているところから一段低い場所で、木の下に潜り込めば隠れられそうだ。
「でも、休んでいる暇なんて……」
「村まではまだしばらく掛かるんだろう? それなら、休める場所で一度息を整えた方がいいよ。いざというときにまた走れる」
「そう、かしら。……そうね」
この山や森のことはわたしの方が知っているけれど、旅をすることに関しては、少なくともわたしより彼の方が知っているだろう。
そう思い直して、わたしは手を引かれるままに木の根の下へ身を滑り込ませた。