閑話:密書
羊皮紙の上をペン先の走る音が響く。質素な燭台に机上ばかりが照らされた小部屋は、それほどに静まり返っていた。
明かり取りの小窓から差し込む月明かりですら、部屋の全体は照らしきれないほど影の濃い夜のこと。焼いた卵と炙ったチーズを乗せた黒パンを齧りながら、淡い灯りに照らされた文面を目を細めて読み返す。
「こんなもんかね。……さて」
己が見聞きして得た情報と書面の内容におよそ相違が無いことを三度確認して、インクが乾くのを待ってから折り畳んだ。その辺に投げ出していた紐で結わき、溶かした蝋を垂らして結び目ごと封じれば、見た目だけはご立派な報告書の完成だ。
封をする前に紐で結わくのは、もはや長年の癖である。万が一にも途中で何者かの手が加えられたとき、中身を覗かれたかどうかわかるように。
痕を残さず綺麗に封を剥がされたとして、この複雑な結び目を解くには、封を壊すか紐を切らなければ中身を読むことはできないから。
「まだそこに居るんだろう? 使者殿。待たせたな、これが今回の報告書だ」
ひらひらと封書を頭上で振ってやれば、背後で衣擦れの音がする。二、三すり足の音が聞こえて、手の中の封書が抜き取られた。
「確かに。……グレアム殿」
背後の影が籠もった声で呼び掛ける。一回りは年嵩だろう男の声はあまりに平坦で、これは本当に血の通った人間かと疑いたくなるほどだ。
「グラム、だよ。今はまだ、外回り中なんでね」
「では、グラム殿。その外回り、いつまで遊び歩いていらっしゃるおつもりで」
訂正した名前にはさして興味を示す様子もなく、淡々と詰る声に辟易する。もっと棘でも含まれていようものなら、こちらも返す皮肉に張り合いが出ると言うものなのだが。
(まるで御主人様の模造品だな)
あの方はそれこそ、淡々と慈悲をばら撒いたその手で、公正な判断の下あまたの命を合理的に摘み取ることができる鉄面皮をお持ちだが、そこには常に国の未来を案じる為政者の心がある。
背後の男にその有る無しを問われれば俺の知ったこっちゃないが、些細なことで説教じみた横槍を入れる人間が国を率いるような器でないことは明白だ。
冷めゆく感情で乾いた笑いをひとつこぼすと、俺はインクの蓋を閉じて筆記具を片付けにかかった。
「グラム殿」
抑揚のない声が、急かすように再び俺の名を繰り返す。無意識にこぼれそうになった舌打ちを、すんでのところで飲み込んだ。
「遊び歩いてるわけじゃないさ。俺の今の最重要任務は人捜しであって、今回のこれはついでに立ち寄っただけだ。使者殿に咎められる謂れは無いね」
暗に「さっさとそれを持って出てってくれ」と煙たがる気持ちを込めて肩を竦めると、ローブを目深に被った影は暫し沈黙した後、微かな扉の軋みだけを残して部屋を辞した。
こちらを見据えていたのか、睨め付けていたのか、それとも虚空を見ていたのかもわからないが、扉が開く前のほんの数瞬、ピリリとひりつく空気が流れた。それが、密書を運ぶ“王の使者”の唯一見せた人間味だったように思う。
子飼いの密偵風情が、とでも鼻白んでいたのだろうが、そんなもんはお互い様だ。仕事に命を賭ける度合いじゃ、こっちだって引けを取らない。
高貴なお方に密命を受けて仕えるということは、それだけ命の危険と隣り合わせなのだから。
(……まぁ、そうは言っても、今回の任については割合平穏な部類なんだが)
今回の報告書をしたためるにあたって、寄り道ついでに引き受けたのはアングルシー島を管轄する地方領主の偵察だった。
――アングルシー島は元々、数年前に鎮圧されたウェールズの反乱を手伝った、テューダー家が治める土地だった。
反乱の終結後、今は恩赦を与えられ現国王・ヘンリー五世に与したペンリンのグリフィス――グウィリム・アプ・グリフィスが、テューダーから没収した土地のいくらかを治めているが、彼もいっとき、反乱軍に手を貸していた前科がある。いつ手のひらを返してもおかしくはない、不和の芽だ。
故に、聡明なる国王陛下は己が遠征で国を離れているこの折に、国内外各地へ密偵を寄越し、妙な企てが水面下で動いていないか調べさせているのである。
己の父が反逆を仕掛けたのもまた、当時の国王が遠征に出ていた機であったので、念には念をといったところだろう。当代の国王陛下は思慮深く、機を見ることにも長けていながら、情報というものを何よりも重要視していた。
要は用心深いのだ。慈悲の切れ端にすら付け入る隙を見せぬ王は、己の反応ひとつで起こるであろう事象を、常に数手先まで見据えている。
名君と言えば聞こえは良いのだが、己の懐に抱えるもの以外には平然と冷徹になれる存在だ。あれは人の心を半分どこかに捨てて来なければ到達できない域だとも思う。
まだ齢三〇も半ばにして、父の代で荒れた国をまとめ上げる手腕は、下々である俺なんかには計り知れないものだ。
(とりあえず、グウィリム・アプ・グリフィスの方は特にきな臭いことも無かったし、後は本来の任務に本腰を入れますかね)
ぐっと腕を頭上に突っ張り、机仕事で凝り固まった背筋を伸ばす。本来の任務とは言うものの、こちらの方が地方領主に探りを入れるより圧倒的に面倒だ。
地方回りの商人を装えば標的の懐に入り込みやすいし、本物の商人間でのみ回るような情報も思った以上に手に入るもので、グリフィスの周囲を探るのはそう難しいことではなかった。
だが、今現在どこに居るかも知れない探し人の捜索は訳が違う。標的の素性が殆ど知れないならば尚更だ。
二、三年ほど前にスコットランドからウェールズへ逃れたらしいという情報までは入手したが、港を出てからの行方がぷっつりと途絶えていたのが手痛かった。
偽名を名乗っているのは当然として、同行者とはぐれた世間知らずの坊っちゃんなんぞ、すぐに証言が出てくるかと思ったんだが。どこぞで野垂れ死んでいる節もなく、またイングランド人を匿っているなんて情報も出て来ない。
「ひとりでなく、どっかの旅団に隠れているか……もしくは別の同行者が居ると見るべきか」
亡命者が、まさかウェールズからまたイングランドに戻っている筈もなし、どうにも手詰まり感が否めなかった。かと言って、探している人物の素性が素性だ。あまり人手を割ける案件でもない。
そこでウェールズ出身の俺にお鉢が回ってきたことは仕方ないのだが、毎度送る定期報告の内容が『今回も進捗無し』ではさすがに格好も付かんというものだ。これでは遊んでいると詰られても仕方ないかと、今度は自嘲混じりの笑いをこぼす。
せっかく村長の好意でこうして寝床を借りることができたが、このアムルフには物資補給に立ち寄っただけなので、明日は早々に発たなければ。今は一日も早く町村を渡り歩いて、ひとつでも多くの情報が欲しい。
手持ち無沙汰に携帯型のインク壷を弄りながら、俺はふと目を伏せた。水で溶いて液状化した、揺れるインクの振動を指先で感じながら、そう言えばもうひとつ気になることができたのだったと懐から折り畳んだ羊皮紙を取り出す。
報告書に添えようか迷って、結局保留にした案件だ。書面には、昨日くすねたとある書簡の写しが書き取られている。
内容は、さる反乱者が私的に何者かへ宛てた手紙だった。それ自体は反乱そのものに関わりのある内容ではないが、差出人が問題である。
何せこの書簡の送り主は、未だに捕まっていないのだ。ある一定の期間以降の行方は杳として知れぬまま、生死すらも不明なのだから、この書面の扱いに頭を痛めるのも無理は無い。
かの反乱は、既にイングランド側にとって“終わったこと”として片が付いている。行方知れずとなったかの反乱者は、当人の配下が彼の死を認めることで事実上戸籍を抹消された。
たとえばこの書簡が、再び決起することを僅かでも匂わせていたならば迷わず上に報告したろうが、曖昧な情報で陛下を煩わせるのは本意ではない。
今は遠きパリの地にて、シャルル王太子軍を押し留めている大遠征の最中だ。すべてはフランスを獲るための足掛かりであり、フランス内のイングランド軍拠点に関する全権を任せていたクラレンス公が戦死した以上、予断は許さないだろう。
先のモー包囲戦で得た病がまだ快癒しないと聞くし、悩みの種は可能な限り、陛下の眼前から遠ざけておきたかった。
――だからこれは、完全に予定外の椿事なのだ。
旅先で出会った薬師と名乗る娘の、ぼろ布を綴じ合わせたような調薬製法書を覗き見てしまったがための。
最初はほんの出来心だった。ぼんやりした調子で小間物屋に薬を納めに来た娘。出立のための旅支度に小間物屋を訪れていた俺は、前の日に一度だけ会ったその娘が薬師だと言っていたことを思い出し、挨拶程度に声を掛けたのだ。
けれど彼女はこちらに気づく様子もなく、小間物屋のカウンターに荷物を次々と積み上げた。どうやら深刻な考え事でもしているらしい。目が合った店主は肩を竦めて品を数え、やがて奥の倉庫に納品物を仕舞うため引っ込んだ。
俺は彼女に声を掛けることを諦めた。代わりに目を引いた、木の板で綴じられた布の束が気になって、彼女が目を離した隙に少々拝借したのだ。中を覗えば、所狭しと薬の製法が書き付けられているじゃないか。
民間の流れの薬師が、宮廷医でも手を焼く病に対する特効薬を作れるとは思わなかったが、主の症状を緩和できるような薬のひとつも見つかれば儲けものだと思って端切れを捲った。
それが、まさかこんな辺境の村で、過去の亡霊に出会うことになろうとは誰が考えたか。
布切れの束の間から落ちた書簡を見て、ぎょっとした。封蝋に捺された印章が、見覚えのあるものだったから。
嘗て俺の父に宛てられた書簡にも、その印章が刻まれていたのだ。
オワイン・グリンドゥールの、馬に騎乗し、剣と盾を掲げた意匠の印章が。
俺は落とした書簡を拾い上げると、手製らしい製法書を道具入れの革袋に突っ込んで店を後にした。部屋に戻ってからよくよく書簡の内容を読むと、それはグリンドゥールからとある女性への、極めて私的な書簡のようだった。
恋文と言うにはもっと他人行儀で、それでいて文面は思い遣りに満ちている。内容を掻い摘むと、『近くの村へ潜ませていた者から得た情報によると、お前の腹に子が居ると聞いた。もしや私の子ではないか。それならばどうか安全な場所へ匿い、お前と腹の子を守らせてほしい』といったものだった。
下手に出ている言葉の端々からも、相手を気遣っている様子が伺える。愛し合っていたかはともかく、グリンドゥールが相手を尊重していたことは間違いないだろう。
妻にわざわざこのような手紙を送る理由は無いので、愛人か、一夜の過ちの相手か。この書簡を持っていたあの娘は、ここに記されているグリンドゥールの子だったのだろうか。
書簡を送られた相手がどのような返事をしたにせよ、今現在、娘が自由にウェールズの地を出歩いているということは、このグリンドゥールの願いは叶えられなかったということだろう。母親が彼の元に降っていれば、あの反乱のさなかにイングランド軍へ捕らえられていただろうから。
反乱に関わりがあろうがなかろうが、見なかったふりをするには少々厄介な代物だった。
迷った末に、ひとまず製法書を戻しに行ったのだが、みたび訪れた小間物屋には既に薬師の娘は居なかった。これ幸いとばかりに、店主の目を盗んで商品棚のすみに製法書を置くと、すぐに取って返して書簡の書写に取り掛かった。
一見すれば私信の信書だが、もしこれが換字を使って読む類の暗号であったなら、もっと詳しく読み込まなければわからない。写しを残しておけば、報告する上でも重要な物証になるだろう。
筆致を似せて、一字一句違えず写し終わる頃には、空が夕日で染まる時間になっていた。
結局、書簡を彼女に返すことができたのは、それから更に一日経ってのことだった。インクを分けてもらった時に落としたのだと嘯けば、彼女は疑いもせずにそれを信じた。
ああも簡単に騙されるようで、安全に旅などできるものだろうかと少々心配になるほどだ。……まぁ、俺の知ったこっちゃないんだが。
所詮は旅先でほんの少しすれ違っただけの関係である。次に相まみえることがあれば、それは何らかの天啓か、はたまた彼女が反意を疑われて国に追われた時だろう。
彼女自身も、あの書簡が世に出てはならない類のものだと自覚しているようで、やたら中身を読まれていないか気にしていたようだし。
中身を読んだかと問われて、「趣味で他人の手紙を覗くほど落ちぶれちゃいない」と咄嗟に答えた。その言葉に偽りはない。
製法書はともかく、書簡の中身を検めたのは趣味の一環ではないのだから。
詭弁? 大いに結構。好きなだけ罵ってくれればいい。たとえもう一度、書簡を返したあの瞬間をやり直せたとして、俺は同じように答えるだろう。疑わしき人物にこそ、警戒心を抱かせてはならないのだ。
「悪いな。情報を掻き集めて献上するのが仕事なもんでね」
この場には居ない少女に、届かない詫びを呟く。親切の恩を仇で返すようだが、申し訳なく思いこそすれ、そこに罪悪感はない。
「さてと。書簡の写しはその筋の専門家に見てもらうとして、上への報告は結果如何だな。探し人の情報も集めないと、か」
こんな田舎の村じゃ大した情報も出てこないだろうが、行きがけの駄賃だ。そろそろ目撃情報のひとつでも挙げなけりゃ、魔女様にも申し訳が立たない。
明日出立する前に、少し村で聞き込みをしてから出るか。次の定期報告は、南西回りに五日後、ホリーヘッドだ。
あそこにも港があるので、多少人の出入りの情報も集まるだろう。道中の町や村にも寄って手がかりが無いか探りを入れなければ。やることは山ほど残っている。
明日も早くから動き出さなければならないから、今日はもう寝てしまおうか。椅子から立ち上がって、俺は小窓から微かに覗く月を見上げた。
文化がひとつ失われようと、城がひとつ落ちようと、国がひとつ滅びようと、この白い輝きだけはいつも変わらずそこに在る。
そのことにほぅと安堵しながら、俺は靴を脱ぎ捨てて藁の詰まったベッドに転がった。
DIWEDD
本編に割と関係あるけど捩じ込むタイミングを見失ったので閑話にて。
主人公ふたり不在の裏話的な小話でした。
グウェンが調薬レシピを置き忘れてからゴゥワーが小間物屋で見つけるまで、の補足。
母親周りと父親の過去の動向、それからこの人も動きを見せ始めてあちこちでクリフハンガーでした。
4作目でまた少し何か小出しにできればなと予定しております。
3作目『リンディーロンの子守唄』は、あと1本来月辺りに閑話を書いて終了の予定です。
またお付き合い頂けますと嬉しいです。




